甲羅 こどものころ、小児科の受付のすぐ横に埋め込み式の水槽があってそこには亀が3匹緩慢な様子で動いたり、動かなかったりしていた。
その亀たちを見て僕が「おかあさん、おいしそうな色をしているね」と言ったのは今でも親戚中の酒の肴だ。高校生までは「そんな坊やがこんなに大きくなって」と話の後に続き、社会人になってからは「そろそろ結婚してこどもを作らなきゃね」と続くこともしばしば。むっつりと黙ってやりすごした学生の頃と違い、今の僕はそれに笑って返せるようになった。
「結婚するなら亀を見たときに『おいしそう』っていう女と、って決めてるんで、なかなか」
へらりと笑って言うと、親戚たちはどっと腹を抱えて笑う。僕は困って首を傾げる。それでも四半世紀目にようやく、僕は彼らが毎回同じ話ばかりするのは嫌味や皮肉でないと理解できたのだった。
ぬるい麦茶を傾けながら、大広間のすみで僕の姉や妹や、従姉妹たちが産んだ子どもらがころころ転がりながら駆け抜けて遊んでいるのを眺めた。大人たちの笑い声に眉をしかめながら携帯端末や文庫本に没頭するふりをしたままで。
彼は来ていなかった。
おいしそうな亀。亀の甲羅の深い緑。
幼い僕が深緑をおいしそうだなんて言ったのは、彼のせいだ。
彼の作るジェノベーゼのバジルソースがやたら濃くて、量も多かったせいで僕のちっぽけな脳は、今でも池に浮かぶ蓮の葉にすら『うまそう』だなんて思ってしまう。
ぬるい麦茶がなくなると、どこからか手が伸びてきた。さっきとは違うメーカーの、2Lのペットボトルの緑茶がなみなみとコップに注がれる。僕は軽く会釈する。
冷めたから揚げにはしっかり下味がついていて、そのくせジャンクな風味はしなかった。市販されている素じゃないんだ、もちろん、冷凍食品でもない。これじゃあ文句のひとつも言えやしない。
おいしい、というと緑茶を注いでくれたその人が照れくさそうに笑った。
彼女こそが彼の妻だった。
僕が生涯、嫉妬して羨んでいかねばならない人だった。
・
町の小さな印刷所はそれなりに忙しい。
僕は忙しい、忙しいとよれよれのタオルで顔を拭く年配の先輩たちが昼休憩に出ていくのを見送る。
湯がいたささみとブロッコリー。
スーパーでまとめて買うことにしている安売りのパンは、期限が切れてから三日たっている。
事務室にある大きめのテーブルを使って弁当を開くのは僕と、二人いる事務員だけだ。僕は彼女たちに頼んで、給湯室の冷蔵庫を少しだけ使わせてもらってる。4つパックになったベビーチーズと、瓶のドレッシングを置くわずかなスペース。彼女たちが快く貸してくれているので、僕も彼女たちの頼みをなるべく快く聞く。例えば、今日は納品物が少ないので、ランチに行くチャンスだと目を輝かせて出ていった彼女たちが戻るまでの電話番とか。
アルミ包装を丁寧にはがして、チーズ適当に小さくちぎる。温めたささみとブロッコリーの上に散らし、ドレッシングをまわしかける。一人でもそもそ食べる昼食のメニューは、ここに勤めだしてから変わったことがない。
「それだけなの、お昼?」
僕はへらっと笑い、軽く会釈する。
「こんにちは、麻川さん」
「うん、こんにちは。田上さんたちは?」
「二人でお昼に行きました。今日は納品物、あんまりないんで」
「まーた、君に電話番、押し付けてったのか」
「いや、どうせ俺はここで食うんで」
「そうそう、君いつもそれだよね。足りるの?」
僕の向かいの椅子に麻川さんはどっかり座り込んだ。せいぜい30半ばにしか見えない彼が、実はもうすぐ50なのだと聞いて、驚きに飛び上がったのはつい最近のことである。
麻川さんの髪は黒々として、顔はやつれてもない、隈が浮かんでいるわけでもない。垂れた目元と、右目下のほくろは彼のチャームポイント。でも、僕が一番好きだな、と思うのは高くてしっかりした鼻なのだ。
「あんまり昼に腹一杯食うと、胃もたれするんですよ」
「ふうん、若いのにね。胃痛持ち?」
「そうかもしれません」
「いい胃薬知ってるよ。あと下痢止め」
麻川さんはしばらく鞄をごそごそやったかと思うと、うすっぺらなチャック式のポーチを引っ張り出した。100円均一やホームセンターでまとめ売りされてるチャック式ポーチは僕も家の台所でお世話になっている。たったそれだけのことで胸をときめかせている僕に気付かず、麻川さんはひょうひょうとポーチから色とりどりの薬包を出した。
「僕ね、色でどの薬かわかるようにしてるんだよね」
「へえ。なんかきれいですね」
「こっちの黄色が胃薬で、青が下痢止めね。オレンジは頭痛止め。僕、偏頭痛持ちでさ」
「そうは見えませんけど」
「言うようになったじゃないか。まあいいや」
くれるのだろう、黄色と青がひとつずつ僕に差し出される。僕はまたへらっと笑ってどうもと返す。
「そっちの赤いのは何なんですか?」
「ああ、これ。これね、惚れ薬」
にやりと麻川さんが笑った。
階段をかけあがる音がする。二人分。怒ってるような話し声も、二人がよく使う弁当屋のみそ汁の匂いも。
「こんにちは。あれ、どうしたの、お昼食べに行ったんじゃなかったの?」
「あら、麻川さんこんにちは。お待たせしちゃったのね、ごめんなさい。お昼がね、食べにいったところが臨時休業だったのよぉ」
「本当に、ガックシきちゃう。結局いつものお弁当よ」
麻川さんがするりと立ち上がる。行ってしまう。僕はそれを見ずに、またパンと、ささみとブロッコリーと、チーズとドレッシングに向き合う。
麻川さんの、鼻が好きだ。あの顔の真ん中にどっかりと座り込むように配置された、高くてすっとした形のいい鼻が。
「晴見くん、今度ごはんに行こうよ」
麻川さんがそう言って笑うのを、僕はへらっと笑って流した。事務員の二人が「あら、いいわね」と、「連れてってもらいなさいよ」と口々にはやしたてる。僕も口で「行きたいですね」と言いながら、口内では苦い気持ちを味わっている。
麻川さんはお得意様だ。駅前の個人輸入食料品店の事務員さん。
僕も時々その店に行くけれど、そのことを話したことはない。
・
どこもかしこも、ジェノベーゼにかかるソースが薄くって、僕は今日も泣くに泣けない。
事務員の二人に教えてもらった『今キてるパスタ屋さん』は、たしかに美味しかった。作りたてのジェノベーゼには海老とほうれん草が入って見た目も良く、にんにくの匂いが薄い。要するに女の人向けなのだ。店内は若い女性(年齢のことではなくて、気持ちのことだ。僕はごはんを食べにくるためだけに、化粧をして毛玉のついてないニットを着込んでイヤリングをつける女性は、みんな、若いと思う。)でごった返しで、どの人も爪先が色付いていて、中にはキラキラと光る人や小さな宝石をつけている人もいる。彼女たちがまず持つのはフォークではなくてスマートフォンで、店内はカメラアプリのカシャンとフォークのカチンが交互に鳴り響いている。
僕はスマートフォンも出さず、目の前に女性の連れ合いもなく、いたたまれないような気持ちで、肩を丸くしてジェノベーゼを頼んで、食べた。
ジェノベーゼだけじゃない。僕の頼んだ1300円のパスタランチには、ガラスの器に入ったサラダと小振りのスープマグにたっぷりのオニオンコンソメスープがついたので、これもおいしく、全部平らげた。
それでも足りない。量も、パスタの色も、何もかもが足りなくて、結局通いの喫茶店でコロッケサンドとコーヒーを追加して、一息ついている。
コロッケサンドはぼそぼその生焼け食パンで、スーパーの惣菜と同じ味のコロッケと、多すぎるキャベツの千切りを挟んでいる。ソースが少な過ぎて、これは別々に出されたほうがうまいなといつも思うのについつい頼んでしまう。コーヒーだって、そうおいしいわけじゃない………。
「そんなに潰したらかわいそうじゃないか」
ぼうっとしていたから、突然かけられた声に振り向けなかった。声の主は返事がないのもお構い無しに僕の隣まで来て、僕を追い越していって、向いの席に座った。勝手に。僕の了承もなく。
「なんだ君、しっかり食べてるじゃない」
お昼ごはん、と指を指される。キャベツの千切りが散らばる皿を、彼は呆れたように見ている。睨んでいる。
「……ども」
「どうも。ところで、どう?一緒に食事でも」
「……ははは……。どうぞ」
黒いYシャツを普段着に着る人を、初めて見た。ボタンを2つあけて、首もとをさらして細身のジーパンを履いて、長い髪をくくって、やっぱり50には見えない彼の、鼻は今日もいい形。
「どれがおすすめ?君が今食べてるのはどれ?」
「これはコロッケサンドです」
「じゃ、僕もそれにしよう」
「でも、おすすめはナポリタンです」
「……なんで?」
「ここは……ナポリタンだけは、完全に冷凍食なんです」
麻川さんが、お腹を抱えて笑った。驚いて身を引くウェイターに「コロッケサンドひとつとブレンド!」と注文して、また笑う。僕はせっかく助言したのにとむすくれて、彼の指がお冷やのコップを撫でるのを見てる。おしぼりで丁寧に、指の股まで拭っていくのも。
「ここはよく来るの」
「たまに来ます」
「おいしくないのに?」
「腹は膨れます」
またわっはっは、と彼の声が響いた。僕はいつもよりラフに笑う彼が、休憩時間や半休ではなくて……休日なのだろうと察した。誰だって休みの日は心が軽くなる、口も軽くなる。僕だってそうだ。だから彼がコロッケサンドにかぶりついている時に、言ってしまったのだ。酔って浮かされたわけでもないのに、言わなくてもいいのに。
「泣けるジェノベーゼを探してるんです。失恋したので泣きたくて、ずっとずっと探してるんです」
麻川さんは、まぁまぁいけたよ、と言った。コロッケサンドのことだ。生焼けなのも、ソースが少ないのも、キャベツが多すぎるのも、うちのお袋が作るのとよく似ててね、と笑った。僕も、そう思う。おいしくなくてもおいしいから、ついつい頼んでしまう。僕が母親から産まれて母親に育てられたから、愛を持って与えられたから。
「ヨシッ、じゃあこの麻川さんが探してあげよう!」
パンパンと手を合わせて叩いてパンくずを皿の上にはらう麻川さんは、僕がぽかんと口を開けるのを見て満足そうにしている。
「こう見えても、おいしいところをよく知っているんだ。まあ、任せなさい。目玉が落ちるくらいに泣かせて、スッキリさせてあげるよ」
彼がにこにこしているのを、僕はずっと口を開けて見ている。おしぼりで手を拭いて、コーヒーを飲んだけれど、やっぱりいまいち飲み込めない。
・
馴染みの工場から頼まれたプラモデルに入れる説明書、お寺さんが檀家さんに年に二回配る寺報、近隣の小学校が発行するPTA広報紙、片面だけのカラーチラシ、泣きつかれてウンと安く見積りを出した両面印刷の商店街の案内マップは、お祭りの時に配るらしい。
小さな印刷所は、小さいからこそ忙しい。
僕は僕が勤め出すずっと前から使われている外国製の大きな印刷機にもたれかかって、ため息をついた。忙しくても、ほんの少しずつの待ち時間は必ず出来る。お手洗いをすませたり、水分補給をしたり、先輩たちはそこに煙草休憩が加わる。やめられないんだよなあ、とにやにやする先輩は、煙草の煙を手放す気がなくてそれを本人も周りも分かっているから適当に相づちを打つ。
「やめたほうがいいのは分かってるけどさあ、やめられないんだよなあ。そもそもさ、そんな簡単にやめられるものを、続けないでしょ」
別に続けてるわけじゃないと思いますよ。ニコチンって知ってますか。依存性があるんですよ。がんばれば、その気があれば、きっとやめられますよ………。
僕はぐっと言葉を飲み込む。正論に正しい時と正しくない時があることを、分かるぐらいには大人だし、僕が言える義理でもない。
「おい、ハルミィ!客ゥ、来てっぞ」
首にかけたタオルで汗を拭う。バレないように舌打ちして、外まで出ていくと先輩たちが気を使って吸いかけの煙草をもみ消した。すれ違いに「ケンカか?」と一言聞かれ、首をふると何も言わずに置いていってくれる。
可愛がられていると思う。年配の先輩方から、田舎から上京してきた控えめで真面目な好青年に見られている、可愛い後輩然としたふうで、面倒を見てもらっている。
「連絡先、知らないから」
麻川さんの鼻が、僕は好きだ。だけど、こういうところは、あんまり好きじゃない。僕の居場所にも『輪』があるのを分かってくれない人は、みんなキラキラしてる。キラキラはキラキラの中でしか輪を組めない。キラキラは僕の輪のことを考えてくれない。
「おいしいジェノベーゼの店を聞いたんだ。今度の日曜日、空いてる?」
だけど、僕は彼の高い鼻が好き。喉の奥がぎゅっと詰まる感覚を押し込めて頷く。縦に。しかも、二回も。
「……連絡先も、聞いてもいい?」
麻川さんは、ちょっと照れたみたいに言う。僕は頷いてから、メモがとれるものを何にも持っていないのに気が付く。
麻川さんは待ってる。僕が首から下げたボールペンで、僕の携帯の番号を書くのを良い子のワンちゃんみたいにして待ってる。
「明日はおやすみですか……」
「……ああ、休みだよ。まるまる1日、休みだよ」
僕はほっと胸を撫で下ろし、麻川さんの手を取ってカフスのボタンを外した。するすると袖を上に捲る。印刷インクで汚れた僕の手が、麻川さんの真っ青のシャツと少しざらつく年のいった男の、それでもきれいな腕をさすり上げていく。
僕は左手で袖を押さえ、右手でボールペンを構える。ゆっくり、ゆっくり。弾力のある肌に、インクが乗っていく。dから始める僕のアドレス。長くて覚えにくいと、家族や友達に不評のアドレス。@まで書いて、麻川さんの顔を見上げると、真っ赤になっていた。僕は何にも言わない。また腕を見て、ゆっくり、ゆっくり、残りを書いていく。
「長くて、すみません」
麻川さんは呆然としてる。メモ代わりにされた自分の左腕と見上げる僕とを交互に眺め、頬を染め耳を染め、だらしなく半開きになった口を固く閉め直し、開け、閉め、何を言っていいのか分からないという顔をしている。
「……すみません、まだ仕事があるので」
そんな顔はやめてほしい。別に『誘って』なんていませんよ。僕は嫌がらせのつもりでした……。キラキラに惹かれて、ずいぶん痛い目を見たくせに、僕はまた同じことをしている。平穏に暮らすまっとうな、白熱灯の暖かさの人々に潜り込んで、またキラキラを落とそうとしている。
泣けるジェノベーゼ、愛しいテゾーロ。
僕は馬鹿だから、麻川さんに抱いていた淡い恋心を満たそうとし始めた。
僕はまた泣くために何を探さなければいけなくなるだろう。本当は「おいしそう」と亀を指差す愉快な女性が、僕を探しだしてキスしてくれるとそれが一番いいんだけれど、現れてくれる気配はちっともない。