やさしいあじ それらすべてに気遣いがつまっていた。
太陽が高く空にあろうが、<大いなる厄災>が闇夜を明るく照らしていようが外の明かりを一切部屋に取り入れる気のない、分厚く黒いカーテンのかけられた部屋の中で、ファウストはテーブルの上に広げたバスケットの中身を前に、ベッドの上に腰かけそっと息をつく。
持たされたバスケットの中身を広げるには机の上は心もとなかったので、魔法でとりだしたテーブルをベッドの前に置いていた。
パンとチーズ、蒸した野菜とキッシュに、おまけのワイン。
昨夜は浅いながらに多少は眠ることができたから、今すぐに眠りを欲しているわけでもない。夢も見ないほど深いわけではなく、けれども夢を見るには浅い、あと少し眠りが深まれば夢を見ていたかもしれないくらいの、眠りの薄氷の上。けれども、いまのファウストにとってはそのくらいの眠りが一番安心できる。
できれば深い眠りに落ちたいと思う。けれども全く意識がなくなるというのは、ファウストの負った傷のもたらすものを思うと避けたいものであった。夢を見ないほどの眠りに落ちる前に、覚醒の直前に、その浅瀬で夢を見るかもしれない。
夢を見たくない。
これまでだって夢見がいいほうではなかったけれど、ここ最近はもう夢に出るものが分かっていた。新たに召喚された賢者の魔法使いの中に、レノックスとフィガロと、そしてアーサーを見て、思い起こされるものなの一つしかない。
辛くて、苦しい、恨みしか残らない想い出。けれどもその中には、幸福で温かかった記憶もある。炎の熱さだけならばましだ、どこをどう見ても悪夢でしかないのだから。幸福で温かい夢を見た後の目覚めのほうが最悪だった。
そんなものどこにもない、すべて手のひらから零れ落ちてしまった。いや、はじめからこの手の中には何もなく、英雄だ、聖者だと祀り上げられ、図に乗った愚かな己の勘違いだったのだ。なのに確かな温かさが胸の中、頭の中、心のありか、そのどこかに残っていて、どこかでそれを求めそうになる。
そんなものはどこにも存在しないし、もうほしくもないはずなのに。そもそも多くの仲間を犠牲にしてなした結果を前に、それを求めるなんておこがましすぎてそんな己を許すことなどできるはずもなかった。
だから眠りたくない。けれど、体力、魔力、精神力の回復には睡眠は必要だ。どれほど回復魔法を使おうとも、眠らずに過ごすことはできない。ひとりきりで過ごしていた時にだって、作業に夢中になって幾晩かを眠らずに過ごしたことはある。けれど、それは期間を限定していたから可能であっただけで、恒常的には限界があった。そのことを魔法舎で暮らすようになり、己の厄災の傷について自覚してから、いくつかの実験を経てファウストは理解していた。
ならば最低限必要な量と質、己で制御できる程度を見極めるしかない。それがどの程度なのか、今は己の身体を使ったその実験の真っ最中であった。
手袋を外してパンを手に取れば、それはまだ温かかった。保温の魔法をかけているのかもしれない。
手に温かく、柔らかさを伝えてくるパン。蒸した野菜からも強いにおいは感じられないから味付けはそれほど濃くないのかもしれない。キッシュも同じだ。塩味と重さが足りない時のためのチーズ。
消化によく、栄養のバランスを考えられた、恐らく、朝食のメニューとは別に誂えられたもの。
彼は、ネロはたしか、自分と同じく共同生活には向いてないと反対していたはずなのだ。昔の癖、己のエゴというようなことを言っていたけれど、けれどこの中には、押しつけがましくない気遣いが詰まっていた。
食事をする気分になかなかなれずに、いざ、と思った時には食事時を逃していることが多かった。調理を担当している人間やネロの手を煩わせるのも気が引けて、されど己で何か作るというのもその労力を割くことに面倒を覚えて、適当にあった保存食で空腹を紛らわせてきたのだけれど、その間にずいぶんと彼に気をもませてしまったのかもしれない。
今日はこうしてバスケットに準備していたということは、もしかしたら、バスケットに詰められることのなかった思いやりがあったのかもしれなかった。
悪いことをしてしまったかな。
柔らかなパンを小さくちぎって口に入れる。あたたかな柔らかさがあった。鼻にぬけるバターと小麦の香りは噛むとその強さを増す。よく噛んで飲み込んでから、バスケットの中に一緒に入っていたカトラリーの中のフォークで蒸した野菜を刺してまた、口に入れた。
芯に歯ごたえを残しながら、けれども柔らかく蒸された野菜の甘みが舌の上に広がり、ほのかな塩味が野菜そのものの味を引き立てる。簡単にかみ切れる蒸し加減は絶妙で、また塩加減は薄く優しかった。
キッシュにはナイフを入れる。これまた柔らかくあっさりと刃が通った。野菜を飲み込んだ後に口に入れれば、今度は卵のまろやかさが口の中を満たし、蒸し野菜よりは塩味が効いていて、丁寧に味付けされているのが分かる。
簡単に調理できるもののようでいて、けれどもそこには手間がかかっている。丁寧な仕上がりのこれらを食べ損ねていたのかと思うと、少しだけ惜しいと思った。
渡されたワインを部屋にあるグラスに注いで口に含めば、これまでに料理の軽さには反して重たい口当たりだった。昼から嗜むものでもない、けれど、これを飲んで眠ってしまえ、というネロの言葉通りの意図を感じる。
「美味しい」
どれもこれも美味しい。食道を通って胃に落ちたものでほかほかと体が温まっていく感覚は、緊張を解きほぐしていくようで、ファウストは己が思っていたよりも自身が気を張っていたのだということに気づいた。
蒸し野菜を食べ、パンを食べる。けれどキッシュが一番しっくりくる。美味しい。気づけばキッシュばかりに手を付けていた。ワインのつまみには少し味が足りないけれど、チーズを足せばちょうどいい。
くるくるとグラスの中のワインを回し、そして飲む。
酒精もあいまって体が温かくて、ゆるめられたものがゆるゆると睡魔を連れてくる。
パンも野菜もまだ残っていたが、ファウストは一度すべてバスケットに戻して蓋をし、そうして保温と保存の魔法をかけた。
ぱたりと仰向けに倒れこんで目を閉じると、さきほど食べたキッシュの食感を思い出す。嗅覚が触覚が、味覚がここちよいもので満たされていた。結界と防音の魔法をかけている室内で、聴覚が拾うのはファウストが動きにあわせた布ずれと、自身の心音と呼吸の音ばかり。
なんだか寝てしまいそうだ。
ほかほかと温まっていく末端から、這い上がる暖かな睡魔に逆らうことなく、ファウストは目を閉じた。彼の言った通り、ワインを飲んで寝てしまうのは少しだけ癪なのだけれど、それもいいか、と思う。
夢を見るなら、先ほど食べたキッシュのそれがいい。それか他の料理の夢。
ああでも、知らないな。ネロの作る他の料理の味は。
キッシュの生地に包まれる夢を見た。
これが漏れだしていたら、どういう風に見えるものなのか、それは少しだけ気になった。