フィガロがファウストの脚に触れる話 どうしてこんな事になったのか――。若干だが酔いが醒めて来た頭で考えるがまるで答えは出ない。
ただ事実を述べるとすれば、ファウストは自室のベッドの上に座らされていて、目の前には床に膝をついて傅くフィガロがいる。そして恭しくも強引にファウストの裸の足を掴んで離してくれない。
普段なら決して素足に触れさせる事も、床に膝をつく事もさせはしないのに、今この状況の主導権はファウストには無いに等しかった。
優れた陶器を撫でるような手つきで膝から下を撫で下ろしたフィガロの顔を信じられない目で凝視していると、それに気が付いたフィガロは挑発的な上目遣いで見せつけてくる。そして少しだけ普段よりも熱を持った頬を臑に頬ずりをしてから肉厚の舌で自身の唇を舐めた。緊張で乾いてしまった唇を潤す仕草にも見えるが、捕食者の顔で獲物を前に舌舐めずりしているようにも映った。どちらが本当かなんてファウストに分かる筈も無く、ただ少しでもこの男から離れようと後ずさるが、実際どれくらい距離が取れたかなんてたった数センチくらいに違い無い。いや寧ろ……離れた数センチを咎めるようにその数倍は引き戻される。
全ては、シャイロックのバーでこの男と鉢合わせ、且つ同席を許してしまったのがいけなかったに違い無い。
珍しくファウスト以外の客がいない店内の空気は気安く、店主であるシャイロックと二人でグラスを合わせていたせいか、いつもより酔いが回っていた。この場所にはシャイロックしかいないのだから多少羽目を外そうが問題は無い――そう考えてしまうのは、シャイロックが持っている雰囲気が成せる業だろう。今日は特別相談事があった訳でも、愚痴を零したい訳でも無かったから、ただ楽しいだけの酒だった。
ワインボトルを二人で一本空にした辺りで、出入り口の扉を開いた。現れたのはフィガロだった。招かざる客――とまでは言わないが、差し水のようなものに感じられてファウストは眉間に皺を寄せる。それを気にしない振りをして、フィガロは周りを見回してからファウストのすぐ隣に落ち着いた。一つ席を空けて座ると予想していたが外れたらしい。
「君たちは何を飲んでるの?」
そう訊ねたフィガロに、シャイロックは常温でカウンターに出したままのボトルを向けた。バッカスのワインだ。先日手土産にと生産者から渡された物を思い出話も交えて口にしていた。
「別の物を飲まれます?」
「いや、ぜひ頂くよ。ルチルから先日の話を聞いて羨ましかったんだ。俺もバッカスのファンだからね」
それから三つのグラスを少し持ち上げて僕達は改めて乾杯をした。本日一杯目の酒にありつけたフィガロはグラスを傾けた後、幸福そうに息を吐く。
「人心地付いた気分だよ」
「おや、お疲れですか? 南の国は今日任務がありましたっけ」
「そうじゃないんだけど、ちょっとミチルたちの遊びに巻き込まれちゃってね。二人がかりでくすぐられて笑い死にする所だったんだ」
カウンターの内側でころころとシャイロックが笑ったが、ファウストは空笑いすら出て来なかった。一緒に笑ってしまえば良いのにとファウスト自身も考えたが、どうしても笑えない。子供たちに構われて喜んでいる男を想像しても、死ぬという言葉に過敏になっているに違いなかった。自分でも異常だと思える程、フィガロと死を関連付けるものを怖がっている自覚がある。それを微塵も表に出したくは無くて、ファウストはゆっくりとワイングラスを傾けて、苦味と一緒に飲みこんだ。
「それより、ファウストの話を聞かせてよ。西の国には久しぶりに行ったんじゃない?」
「別に、話す事なんて……」
そう言いかけて、手の中にあるグラスの中身を見下ろして言葉を続けた。話す事が無い、なんて有り得ない。任務で行った訳では無かったけれど、このワインと作り手、それから街の人々との思い出が蘇り、口を閉じる事を許されなかった。
「……楽しかったよ。ワインは美味しいし、魔法使いに理解のある人間達ばかりで。……どうせルチルから粗方聞いているんだろう?」
「うん。でもそれはルチルの思い出であって君のじゃ無いだろう?」
そう優しくまろやかな瞳で覗き込まれて、ぐっと言葉が詰まった。いつも強引なのに、こうして聞く姿勢を取られると話さざるを得なくなる。まるで先生が生徒に問題の答えを訊ねるような、父が子に一日の出来事を聞くような空気感にむず痒い気持ちを覚えた。
「……ムルが色々と案内をしてくれた。ワインの紹介方法は独特だったけれど、どれも飲んでみると納得の味で気付いたら長い間彼と回ってしまっていたな」
「お気に召されたなら良かったです。ムルも随分楽しそうでしたから」
「ふふ、酔った振りをした彼は少し可愛かったよ」
平時通り保護者のような言葉を発するシャイロックに微笑む。ブラッドリーとムルと対立して勝負をした事はきっと知っているから、自分だけの思い出とは何なのかを考えながらぽつりぽつりと言葉にした。
「それからルチルにダンスに誘われたな」
酒が入ると割と高い確率で誰かしらをダンスに誘っている気がするが、思えばファウストが誘われたのは初めてだった。時折シャイロックのバーでグラスを合わせる機会があるが、随分と距離感が縮まったものだと感慨を抱いた。
「君も踊ったの? だったら観たかったな」
「断ったよ。ルチルは少しあなたの影響を受けているんじゃないのか? 誘い文句がよく似ていた」
「え、俺が君をダンスに誘った事なんてあったっけ?」
「さあ。ふふ、思い出すと少し笑える」
もう答えるつもりの無いファウストに、「ちょっと、どういう事なの。教えてよ」と追い縋るからそれにも可笑しくて笑ってしまう。いつでも余裕綽々で何もかも見透かしているような男が、そんな風に困惑する姿は見ていて気持ちが良かった。ルチルに手を差し伸べられた時にフィガロの事を思い出したなんて、そんな事実をまあるく包んで隠してしまう。でないと今度はファウストの方が弱る番だ。優位に立ったフィガロには敵う筈が無いのだから、束の間の気分の良さを味わっていたかった。
「私もアーサー様と樽の中で踊りましたし、ファウストも可愛らしいお誘いに乗って差し上げても良かったのでは?」
「それは君が若い魔法使いに弱いからだろう?」
そう返すと、シャイロックは穏やかな笑みを浮かべたまま「まるでムルみたいな事を言いますね」と呟く。その声になんとなく嫌な予感がしたけれど、既に出てしまったものは戻らない。
「そういえばファウストも、葡萄踏みを体験されていましたよね?」
投下された爆弾に、ファウストはヒクリと顔を引きつらせた。
「いつもは隠されている素足で、観客に囲まれた場所で踊るように葡萄を踏まれていたのを確かに見たのですが……その事はお話されないんですか?」
「いや……っ、話すほどの事じゃ……」
ゆっくりと怖い物を目視する時みたいに隣に座るフィガロの顔を見てしまったのは、ピリ、と肌で感じた威圧感のせいだ。頬杖をついて先程までと変わりない表情で見つめてくるが、目が笑っていない。
「……へぇ、君が人前で脚を晒すなんてね」
その物言いに反発する心と、押し黙る理性が働く。常なら間違い無く口を噤んだであろうが、酒によってストッパーが緩んでいたとしか思えない。
「別に、誰に見せようが僕の勝手だろう。見られて困るものでも無いし、隠しているつもりも無い」
「ふぅん……。シャイロック、今日の所は失礼するよ。支払いはこれで。足りるよね?」
突然立ち上がるとカウンターの上にどう見ても飲んだ分の代金より多い額の硬貨が置かれた。暗に、ファウストの分を含めて不足は無いのか訊ねているフィガロに、シャイロックはにっこりと微笑んだ。そのやり取りに違和感を覚えたファウストは慌てて懐から財布を取り出すが、その手を財布ごと握られて、耳元で有無を言わさない呪文を聞いた。
一瞬眩しい光を感じて目を瞑ったが、再び開いた時には目の前にあったのはワイングラスでは無く、床に転がっている藁人形だった。思わず踏みそうになったのを回避していると、軽く肩を押されてバランスを崩す。見上げればそこにはフィガロがいた。
ファウストの意思も聞かずに退店させられ、理由も無く奢られて、伺いも無く自室に侵入されている。全てが一方的で腹立たしいのに、フィガロの顔を見たら今度こそ言葉が出てこなかった。
怒っているのだろうか。それとも別の感情なのかはファウストには分からない。正確にフィガロの感情を理解出来るのであれば、とうの昔に拗れてはいまい。ただ何かのスイッチが入ったのは間違いなかった。ヒリついた魔力は南の優しいお医者さん魔法使いを名乗るのは無謀で、自嘲するように寄せられた眉からは子供のような残虐さと冷酷さを感じてしまう。フィガロの生来持つ要素を諸に浴びている気がして、視界がチカチカとした。
一言も発せ無いままでいるファウストの脚を掴んだフィガロは、呪文を口にしようとして既の所で辞めたようだった。ブーツの踵を持ちながら紐の結び目を解き、丁寧にファウストの足から抜くと、靴下も裏返しにならないように引き抜かれる。恐らく抵抗をすれば瞬時に魔法を使われたのであろう。煩わしいものを好まない男だが、何を思ったのか手ずから行っていく。そして最後にズボンの裾を捲り上げたが、タイトな作りで脛よりも上には上がらない事に焦れた様子でファウストを見上げた。
「……脱がせてもいい?」
「……嫌だけど」
何を今更と思ったが、素直に頷く事もファウストには難しかった。伺いを立てられるなんて予想していない
「じゃあどうして黙って靴を脱がされたの?」
どうしてって……酔っているからだと答えればこのひとは飽きれて止めるのだろうか。異常な状況にまるで他人事のようにぼんやりと成り行きを見守ってしまったのは、目の前のこのひとが普段自分に見せない顔を見せているからだ。
率直に言えば興味。制止してしまえば見られなくなるであろう顔の続きが気になるから。焦りは不思議と感じなかった。突然何らかのスイッチが入ってしまったフィガロに対して揺れているのだ。
口を結んだままでいると、フィガロはゆっくりとズボンを引き抜いていった。ファウストが抵抗すればすぐにやめるだろうと想像がつく。まるで見せつけるかのようにゆったりとした動作は、いやに心臓に悪かった。
そしてとうとう足の爪先からズボンは引き抜かれて、小さな布擦れ音を立ててカーペットの上に落とされた。膝をついた男は、素足にそっと触れた。自分の脚はガラスか何かで出来ているのかと錯覚するような丁寧さで。他人に脚を触られたのは、四百年前に足枷を着けられた時以来かもしれない。ぞわぞわと競り上がってくる感覚は、不快だと一蹴出来ればおしまいなのに声は出なかった。
「解いてよ」
先に言葉を発したのはフィガロだった。傷一つ無い脚に目線を向けたまま言う。呪文一つでこんな脚にかけられた魔法なんて解いてしまえるのに、わざわざ本人に懇願するから気が向いた。隠している事を知られているのだから、隠しても仕方がない事だ。
「……サティルクナート・ムルクリード」
これがレノックスや若い魔法使いであったなら絶対に見せなかった。彼らが動揺してショックを受け、悲しい顔をするのは見たくない。
一時は炭のようだった脚だが、今では広い範囲で変色を起こしている。茶色くなっている箇所もあれば、蚯蚓腫れのように赤く盛り上がっていたり。お世辞にも綺麗とは程遠く、見慣れないひとは叫び声を上げてしまうかもしれない醜さだ。横に並ぶフィガロの秀麗な顔との対比が凄まじく目に映り、ファウストは視線を無意識に逸らしてしまった。
ややうねった前髪が脛をくすぐるように触ると、反射的に蹴り飛ばしてしまいたくなるのをぐっと堪える。しかしどうして堪える必要があるのかはファウスト自身も分からなかった。
だが、前髪が触っている時点で徐々に距離が近付いている事に察せなければならなかったのだろう。はじめは熱い頬が脛に寄せられ、両足を抱きかかえられた。決して強い力では無いから逃がさないためでは無いのだろう。ただ抱きしめられている。まるで幼い子供が親にするようだと感じたのも束の間、その視線に目が釘付けになった。見上げてくる不穏な瞳の色がもう余所見を許さないと訴えてくるのだ。そうして男の希望通りに見つめ返していると、唇の間から厚めの舌がチラリと見える。その舌の先がフィガロ自身の唇をなぞるのまでじっくり見てしまって、思わず危機感を感じた体が寝台の上で後ずさった。だがそのアクションを取ってしまったがために、今度はやや強引に引き戻された。起こしていた上半身まで腕の支えを失って倒れ込み、天井を見る羽目になる。
顔のすぐ横に手の平を置かれて、フィガロはベッドに乗り上がった。二人分の重さがかかる事を想定されて作られていないベッドは悲鳴を短く上げたが、それきり静まり返る。呪文を唱えたきり無言で一部始終を受け入れていたファウストのように。
「多少酔ってるかもしれないけど、状況が分からない訳じゃないだろう?」
服を脱がされて、偽りない姿を晒し、ベッドの上に二人。そういう状況の事を言っているのなら、分からなくも無い。知らない振りをするには大人になり過ぎたし、拒否出来た瞬間はとうに過ぎた。さっきからずっと自分の事をなんだと思っているのだ、この男は。予防線を幾重にも張り巡らせて、でも安心出来ないから何度も何度もこちらを試す。
すぐに傷んでしまう柔らかい果実に触れるみたいに頬に触れられればむず痒さを覚えて、ふっと吐息で笑った。
分からないのは、そう――
「……僕の何があなたにそんな顔をさせるのかが分からないよ」
どんな顔? と片方の眉が上がって言外に訊ねられたが、鏡を見せたって正確に相手に伝わるかは分からない。殆どは苛立ち、でも確実に寂しさが混ざっていて、どうしてこんな感情になるのか分からない困惑が広がっている。
「人前で僕が足を晒しただけで、そんなに動揺するなんて思わなかった。……僕の脚なんて、そんな大層なものじゃないよ。あなたの気が済むなら好きにしたら良いけれど、その顔はやめろ」
嫉妬なんて際限の無い感情を向けられるのは好きじゃない。どうせ全部フィガロの杞憂なのだから、するだけ無駄だ。それから婉曲した表現は苦手だと知っている筈なのに、試してくるのも如何なものか。苦言は出そうと思えばいくらでも出てくるのだが、それらをぶつけるのは一旦やめておいた。
「あなたは……多分あまり考えすぎない方が良いんだと思う」
自分より随分と年上の男は、そっと額を合わせてくる。子どもの体温を測る時みたいだと思ったけれど、すぐ近くで瞬く瞳の色が、言葉を紡ぐ事によって生じる振動が新鮮で刹那呼吸を忘れた。
「……どうして君は俺を受け入れてくれるの?」
それが分からないから、そんなに不安そうなのか。理解出来ないもの、未知のものには誰しも恐怖心を抱くが、フィガロにとってはこれがそうだとは思わなかった。これも責任の一端は自分にあるのだろうかとファウストは考えたが、やはり異常な程にフィガロが臆病な事が原因だろう。信じてもらえない方も辛いのだと、少しは知ってもらえれば良いのだが。
呆れて溜息を吐くと、ビクリとフィガロの肩が揺れる。ああなんて、哀しくて、愛しいひとなのだろう。
「そんなの特別だからに決まっているだろう」
少し頭を起こすだけで触れられるのだから、そんなに驚く事無いのに。そう思いながら触れた唇を離すと、未だ固まったままの表情があって笑ってしまった。
「僕があなたにキスをするのは、そんなにおかしな事か?」
フィガロは「うん」と言ったり、「いや、そんな事は」と言ったりちぐはぐで、どう答えたら良いのか分からない様子だった。正解なんて無いのに。
「気は済んだ?」
「……そうだね。ごめん、脱がせたりなんかして。でも君も無防備が過ぎるよ……どの口が言うとか思われるだろうけど、心配になる」
「はぁ……心配しなくても、他の奴に黙って服を脱がされたりしないよ。それで、これで終わりなの?」
「それってどういう事?」
叡智はどこへやら、まだ分からないのかと呆れ半分で頭を起こすと、今度は唇にではなくて左耳に寄せた。いつもより弱っている男に気分を良くして、たっぷりもったい付けてから。
「嫌じゃ無かったから、やめて欲しくなかったって事」