ツィーゲのショッパー〜Introduction〜
瑞々しい緑の新芽が生え始めた春のこと。日中だけなら日差しも強く半袖で過ごしても良さそうだが、あと数時間で日が落ちる。そのときのためにと神谷はカーディガンを羽織った。
「此度の試練、カミヤは乗り越えられるのか……?」
「水嶋さんと巻緒さんが街にいはるみたいやし、案内頼もか?」
出かける支度を済ませた若き店長に、厨房からは彼の身を案ずる声が上がる。
本日、彼が経営するCafe Paradeは店休日だが、神谷は溜まっていた店の書類の整理を、東雲は夏季に向けたスイーツの開発を、アスランは料理の仕込みに訪れていた。
「ははっ、心配症だなあ。大丈夫だよ、何回も行ってるんだから」
くだけた口調だが品良く聞こえる神谷の声色が蒸らし中の紅茶のようにふわりと舞う。
「茶葉を買いに行くだけなんだからさ」
アイドル稼業ですっかり板についたウインクを一つ見せ、厨房から出て行こうとする神谷にアスランは声をかけた。
「予期せぬ試練が降りかかったとき、その電子の魔具で我らを呼び出すが良い。我の闇の力を以ってカミヤを導くと約束しよう」
「ありがとうアスラン。それじゃあ、行ってきます」
両手をクロスさせポーズを決める魔界の料理人へ店主はひらりと手を振り、アンティーク調のドアを開ける。スタッフ兼ユニットメンバーをよそにリーダー神谷は目的地へと歩み出した。
店を出て右に曲がり、まっすぐ歩けば駅に着く。駅の東口から入ってエスカレーターで3階まで上って西口まで向かい、今度はエレベーターを使って1階まで降りる。
ところがエレベーターは不具合が発生したのか緊急メンテナンス中らしい。入口がゲートで塞がれ貼り紙が下がっている。ここから降りた方が迷わないのだが、使えないとなると少し先にある階段を使うしかなかった。
「おや」
神谷の視線の先には幼い我が子を抱っこ紐に入れ、むすっとした顔でベビーカーを畳む母親の姿があった。エレベーターが使えないため、やむおえず階段で降りようとしているのだろう。
神谷は足早に親子の元へ向かう。
「手伝いますよ」
見知らぬ青年がスマートに手を差し出してきたことがあまりに意外で、女性は目を丸くする。
「すみません」
「謝らないでください。エレベーターが止まると大変ですよね」
神谷は畳んだベビーカーを持ち、女性に続いて階段を降りる。
Cafe ParadeもTV出演が増え、それなりの認知度になっていたのだが、女性は目の前の男がアイドルだと全く気づいていない。認知度はまだまだだと肩を落とすのが普通の反応なのかもしれないが、神谷の性格だとそんなことを考えもしなかった。
女性が駅出口に着くと神谷はベビーカーを広げる。女性が抱っこ紐から下ろした子どもをベビーカーに乗せる間も、彼女が手にしていた買い物袋を持っていた。
「すみません、ありがとうございました」
「いえいえ、お役に立てて何よりです」
ぺこぺこと頭を下げる母親に、神谷は微笑みを崩さず会釈して見送った。
「さて……カルデアはあっちかな?」
神谷が体を向けた方角は既に間違っていたのだが、彼は謎の自信に満ち溢れた一歩を踏み出してしまった。
すらりとした足はスタスタと前へ前へと進む。だが進めども進めども自分の知った道ではなくなってくる。間違ったかなと曲がった道で更にわからなくなり、確か椿の花が咲く家があったはずだと思い出そうとしても今は春なので季節が違う。
さて困ったぞと地図アプリを取り出すが、地図だと北を基準にして表示されてしまうため自分の進むべき道がわからない。手のひらの上でスマートフォンごとくるくる回して歩くもすっかりお手上げだった。
「参ったなあ」
とりあえず大きな道に出るしかないと思うが車が往来する音が聞こえない。住宅地の中に入り込んでしまったようだ。
そのときだった。
「……幸広さん?」
消え入りそうな、囁くような穏やかな声。振り向くと見覚えのある柔らかな金色の巻き毛が目に入った。
同じ事務所の都築だ。
「ああ、圭さん。偶然ですね。はは、困ったなー……道に迷ってしまったみたいなんです」
頭を掻く神谷に都築はきょとんとした表情を見せる。
「どこに行こうとしていたんだい?」
「カルデアです。商業施設の中にあるはずなんですけど」
「カルデア……?」
都築にはピンと来ないらしく、顎に手を当て首を傾げる。
「外国の食品がたくさん売られているマルシェのようなお店なんですよ」
①Train
都築の頭の中には神谷が目指す店のイメージが湧かないのだが、彼が求めているものはちょうど自分が行きたい店にあるのではと察した。
「ああ、それなら……僕も紅茶を買いに行こうと思っていたんだ。よければ一緒に行かないかい?」
「本当ですか? 助かります」
神谷の表情がぱっと明るくなる。都築が水の次に紅茶を愛飲することは知っているがあまりに好都合だ。
「それじゃあ、行こうか」
迷いのない歩みを進める都築の後を神谷は追いかける。意外なことに都築の歩くスピードはゆっくりではない。折れてしまうのではないかと思うほど細い足なのにてくてくと進んでいく。
線路沿いの道に出て、最近の仕事話や互いのユニットメンバーの話をしながら目的地へと向かう。
ふと、2人の耳にさらさらと水の流れる音が入った。都築は思わず歩みを止め、水の音のする方へとふらりと向かう。
「圭さん?」
神谷は小走りで都築の後を追った。こんなときの都築は音の発生源しか耳に入っていないのではと思う。それくらい都築の動きに迷いがなかった。
ガーデンアーチをくぐり、都築が立ち尽くしたのは賃貸マンションが数軒並ぶエリアだった。人工的な小さな川が作られ、ちょっとした草花が植え込まれた小さなオアシスのようになっている。
「川の音が聞こえるのか。気持ちよさそうだね」
目を閉じれば小川の流れる音に心が洗われる。
「こんなマンションもあるんですね」
ふと都築が顔を上げるとマンションの2階の窓にサメのぬいぐるみが置かれている。レースカーテンと窓ガラスに挟まるように置かれたそれは通行人に見てもらうためだとわかった。
「サメ……?」
「ふふ、英雄さんに見てもらいたいよ」
微笑んだ都築はそのまま空を見上げる。平筆でさっとなぞったような雲がこれから徐々に分厚くなる季節に向かうのだろう。
2人の右側では電車が走り去る音が響く。小川の音などかき消されてしまうのだが、設計者はそれでもここにせせらぎを作りたかったのだろうか。
マンションから歩道に出て、先程の電車の進む方向へと行く。目と鼻の先では棒付きキャンディを手にした幼い男児が母親とおよそ10分刻みでやって来る電車を待っていた。
神谷自身は幼い頃、電車が好きだったかはよく覚えていない。電車のおもちゃでは遊んでいた。車両の中では地元を走る小豆色のものがお気に入りだった。
「電車は乗る方が好きだな……眠くなってしまうけど」
都築がそう呟くとひんやりした風が吹き、黄金色の髪がふわりと浮く。そろそろ日も落ちてきた。
「ああ、ごめんね。日が暮れてしまう。こっちだよ」
左に曲がると指差す都築の後を神谷はついていく。
神谷は、都築の母親は鬼籍だと聞いたことがあるのを思い出した。誰から聞いたのかは忘れたのだが、実親との距離感をまだ掴めてない身からすると複雑な心境である。
都築は遠くの空をぼんやり見ているようだった。
「……僕は、子どものときどんな電車に乗ったか忘れちゃったんだ」
レールの上を走る電車の音が近づいて、さっきの親子の前を通過する。はしゃぐ男児の声が響いてこちらまで聞こえてきた。
「もしかしたら、母とーーーー」
スピードを上げる電車の音に都築の声がかき消される。悲しんでいるのか単なる思い出話なのか神谷にはわからない。
車体に引かれた赤いラインが印象的な特急電車が消えていく。今は空席が多いが、帰宅ラッシュに伴い満席となるのだろう。
「……でもね」
ほんのりと、都築のエメラルドグリーンの瞳が丸くなったように見えた。
「昔のことは忘れてしまったけれど、アイドルになってから電車に乗ることや、楽しい思い出が増えてきたよ」
神谷は安堵の表情を浮かべる。
「……俺も、ファンやCafe Paradeのメンバーや他のユニットのみんなと共に移動することが増えて楽しいです。思い出の密度も増しました」
「そう、それはよかった」
この事務所のメンバーは誰も必要以上に他人の過去や事情を詮索しない。みんな訳ありなのは確かなのだが、誰もが前を向いていることに変わりはない。だから居心地が良いのだ。
「……行こうか。もうすぐだよ」
電車を眺めていた親子が帰路に着こうとする。
2人は親子を見送るように再び歩き出した。
②Home
神谷は手にしたスマートフォンの地図アプリを眺めてはいるのだが、途中で曲がる道を誤ったらしく、ミスに気付いた時には目的地からだいぶ離れてしまっていた。
「これは……? どこにあるんだい?」
都築は画面を覗き込むが、彼はスマートフォンを全く使いこなせていない。アイドルデビューするにあたり事務所から持たされたスマートフォンは最低限の機能しか使わず、操作に関してはいつも神楽の世話になっている。地図アプリなんてわざわざダウンロードするわけがなかった。
「うーん……ごめんね、僕はこれの使い方がよくわからないんだ」
都築は顎に手を当て少し考える。
「今から紅茶を買いに行こうと思っていたんだ。幸広さんが欲しいものが売ってそうなら、一緒に行くかい?」
渡りに船とはまさにこのことだった。
「いいんですか? 圭さんの予定などは?」
「今日はオフだから何もないんだ。紅茶を買って家でのんびり飲もうと思っていたよ」
「それなら是非とも俺に淹れさせてください」
せめてもの礼として神谷は申し出る。都築はニコリと微笑んだ。
「嬉しいな。ぜひともお願いするよ」
プロの淹れるお茶が飲めるということで都築もどことなく嬉しそうだ。
「行こう。こっちだよ」
穏やかだが迷いのない口調に安心してついていけると神谷は確信した。
都築のお気に入りの紅茶販売店は神谷も知っているのだが、すんなりとここにたどり着けたことがない。道に迷うくらいなら通販した方がいいと東雲にも言われるのだが、茶葉そのものをこの目や鼻で確認したいという気持ちがあった。
買い物を済ませた2人は都築の家に向かうが、あの家だと指差す方を見て神谷は思わず息を飲んだ。
住宅街の中にある一軒家は丁寧に花の手入れがされた庭に藤棚、ガーデンテーブルもある。なんて優雅な一人暮らしなのだろうと神谷は目を丸くしたが、都築の話によると友人夫婦の家に身を寄せて暮らしているのだという。
その特殊な環境にどう返せばいいのか正直言葉に詰まり、神谷は黙ったまま玄関に向かうしかなかった。
「さあ、どうぞ」
「お邪魔します」
神谷は絨毯のような履き心地のスリッパに足をひっかけ、綺麗に磨かれたフローリングの上をやや滑るように歩く。
「紅茶を淹れてもらうならキッチンに案内しないとね」
神谷がコンロに目をやると海外で手に入れたような、鮮やかな赤のホーローのケトルが目についた。都築はキッチン隣のリビングに置かれた食器棚の扉を開ける。
「ティーカップはここ。茶葉はここだよ。どれを使ってもいいからね」
「ありがとうございます」
都築はリビングでダイニングチェアに座って待つことにする。
神谷は先程都築に好みの紅茶は何かと尋ねたのだが、彼は茶葉に対して好みやこだわりはないらしい。神谷は都築がストレートティー派だったことを思い出し、すっきりと飲みやすいダージリンをチョイスする。
やかんに勢い良く水道水を入れ、たっぷり空気を含ませたままコンロで沸騰させる。沸騰したらすぐさまポットへお湯を注ぐ。高いところからポットへお湯を注ぐことはできなくもないが、パフォーマンスとしてなので実のところ味に大差はない。砂時計が見当たらないため冷蔵庫の扉に貼られたタイマーを借り、茶葉を蒸らす時間をセットする。茶漉しを使って2人分のティーカップに分けて注ぎ、緑茶と同じように最後の一滴まできちんと注ぐ。これをゴールデン・ドロップと呼ぶのだが、わざわざ言うほどのことでもない。
「……うん、良さそうだ」
淹れた紅茶をトレイに乗せ、神谷はリビングに向かう。真っすぐ進むだけなのでさすがに迷うことはない。
「お待たせしました」
ダイニングチェアに座りながら眠りに誘われていた都築はゆっくりと目を開けた。
「ごめん、うとうとしちゃっていたよ」
「少し歩きましたからね。さあどうぞ、お召し上がりください」
神谷は慣れた手つきで紅茶を注ぐ。白いカップに注がれる鮮やかな赤茶色が都築の目に飛び込んできた。
「綺麗な色だね。いただきます」
都築のほっそりとした指が白いカップに添えられる。そのままこくりと飲み干すと、彼は安堵の表情を見せた。
「ああ……美味しいね。誰かに淹れてもらうお茶はほっとするよ」
「そう言ってもらえて光栄です」
目線を上げた神谷は棚に置かれた写真立てに目が行った。温かな光たちが灯る夜の風景。そこに映る建物や人々からして日本で撮ったものでないのは明らかだった。
「これはドイツの風景ですよね?」
神谷に尋ねられているというのに、紅茶を一口含み嚥下するとようやく口を開く都築はマイペースそのものだ。
「そうだよ。僕が子どもの頃、母と訪れたクリスマスマーケットのものだ。そこの写真集は僕のものだし好きに見ていいよ」
棚の側に置かれたマガジンラックにはドイツの有名な城が表紙の写真集が置かれている。
「俺も数年前ドイツを旅行したことがありまして。話したことはありましたっけ?」
「聞いたことはあったかもしれない。ごめんね、忘れているかもしれないからまた聞かせてくれないかな」
「ええ、もちろん」
神谷が話そうとしたとき、神谷のスマートフォンが振動する。発信者はプロデューサーからだった。
「すみません、仕事の電話みたいです」
都築に一言断ると神谷はキッチンに向かい通話ボタンを押す。こういうときはお互い様なので遠慮しなくていいのは助かる。
電話に出たはいいが、次に入った仕事の詳細を聞いているうちに思いの外時間がかかってしまった。プロデューサーも長電話になり申し訳ないと話すのだが、ここしばらく神谷とプロデューサーの予定が噛み合わず対面できないため致し方ない。リーダーゆえ連絡事項が多くなるのもあった。
ようやく電話が切れると神谷はスマートフォンの予定表にメモを打ち込む。そして慌ててリビングに戻った。
「都築さんすみませ……」
神谷が話しこむうちに都築はすっかり夢の世界に旅立っていた。硬いダイニングチェアでも眠れるのは一種の才能だと感心すらしてしまう。神谷はソファに置かれていた藤色のストールを手にし、申し訳ないと言いたげに都築の肩にかけた。
写真立てに飾られたクリスマスマーケットの写真。大人たちはシナモンの効いたグリューワインを飲みながら寒いドイツの冬を越すと聞いたなと神谷は思い出していた。
「ドイツかあ」
神谷は先程のドイツの写真集を手に取りパラリと広げ、旅の記憶と連動させてみる。
ビールは16歳から、アルコール度数40度の酒も18歳から飲める。南ドイツではピッチャーを頼んだのだろうかと思うようなサイズのジョッキでビールを飲んだものだ。
じゃがいもが本当に美味しく、ウインナーも絶品。酸味の効いたザワークラウトはちょっと慣れなくてつまむ程度だった。それゆえ日本人がドイツに滞在すると太るとよく聞く。
ドイツではケーキのスポンジ部分にフォークが刺さったまま提供されると知ったら卯月はどんな反応をするだろうか。ケーキへの冒涜だと怒るのだろうなと想像し、神谷はクスリと笑う。
記憶の中のドイツと照らし合わせ、いつかまた再訪することがあれば都築に美味しいものやおすすめスポットを尋ねてみようと思うのだった。
30分ほど経ち、鍵ががちゃりと開く音と共に誰かが帰ってきた。神谷に少し緊張が走る。友人夫婦のどちらだろうか。
「ただいま」
現れたのは鼻の下と顎に髭を生やした40代くらいの男性。ここの家主である都築の友人だ。
「圭、お客様かい?」
都築の部屋を覗き込んだ男性は神谷と目が合う。もちろん互いに初対面だった。
「あなたはCafe Paradeの」
男性はCafe Paradeメンバーの名前まではわからないが、神谷の顔は知っている。神谷はすくりと立ち上がると丁寧にお辞儀をした。
「覚えていてくださって光栄です。初めまして、神谷幸広といいます」
都築は相変わらずすやすやと眠っている。男性は呆れたように軽くため息をついた。
「お客様を放って寝るなんて……すみませんね」
「謝らないでください。俺の仕事の電話が長引いたせいで、圭さんを待たせてしまいましたし」
困ったように都築を眺める男性に神谷は心から朗らかな声で返す。2人の声に都築はようやく目を覚ました。
「ああ……すまない。眠ってしまっていたよ」
都築は壁掛け時計をぼんやりと眺める。すっかり夕方になっていた。
「こんな時間だ。僕が神谷さんを送るよ」
「あ、大丈夫ですよ。お時間を取らせるわけには」
「ちょうど買い物に行こうと思ってたので。途中まででもどうですか」
男性はポケットに入れた車のキーを取り出し、神谷を誘う。
「それならお言葉に甘えます。圭さん、お邪魔しました」
「うん、またね」
都築は側にあった紅茶を飲み干すと、寝ぼけ眼で席を立ち玄関まで見送る。
色鮮やかな庭の前を通り、男性の車の後部座席に神谷が乗り込むとスムーズに出発した。
「圭が麗くん以外の人を招くなんて珍しいですよ」
「そうなんですか?」
「人嫌いではないんですが、見ての通りマイペースですから。神谷さんのおおらかさが合うのかもしれませんね」
男性の表情はどこかほっとしたようにも見える。西洋人の血が混じったルックスや華奢な体型やマイペースさゆえ妖精のようだと評されることの多い都築だが、その分どこか神聖視されがちなイメージを持たれてないかと気にしていることもあったからだ。
「麗くんが来ても時々寝ては彼に起こされてますけどね。まあまたよければいらしてください」
「はい、是非とも」
都築はドイツ育ちだが今は日本で友人夫婦の家に住んでいる。おそらく色々な事情があるのだろうが、それは神谷にもCafe Paradeのメンバーにも当てはまる。
「俺も昔、ドイツに行ったことがあるんですよ」
「そうなんですか?」
「ええ。また圭さんとお話できればなと思います」
都築が育った街という思いと共に、いつかまたあの地を訪れるのだろうか。
今度は仕事で訪れるのも楽しいかもしれないと神谷は口元を綻ばせるのだった。
③Room
都築は店名までいちいち覚える気質ではない。だから神谷が目指す店に入ったことがあるかもしれなくとも覚えていないのだ。
都築は顎に手を当てゆっくりながらも思い出そうとする。そのとき2人に向かって底抜けに明るい声が投げかけられた。
「ミスターかみや! ミスターつづき!」
2人が振り向くと眩い金髪と、猫背と、眼鏡をかけた男性3人組がいる。同じ事務所のS.E.Mだった。
「こんにちは。みなさん、お揃いで」
神谷が声をかけると山下は珍しい組み合わせに訝しがる。
「かみや、つづきさん、どうかしたの?」
「ちょっと道に迷っちゃって。カルデアに向かいたいんです」
「Wow,それなら俺が教えるよ⭐︎ ちょうどcheeseを買いたかったんだ」
舞田は人差し指を立ててウインクする。アイドルとして公の場に出ずとも、こういった仕草が自然と行えるのも舞田の強みであった。
「あ、いいね。俺、生ハムも食べたくなってきちゃった」
酒の肴を想像した山下は頬を緩ませる。
「Shoppingが終わったら、ミスターかみやとミスターつづきも一緒に、ミスターやましたの家でPartyしない!?」
舞田は大きな瞳を煌めかせて神谷と都築を誘う。
「お、いいねえ。狭いけどあと2人ならどうにか入りますよ。どうです?」
「うむ、普段なかなか交流できない、都築君神谷君の考えも聞ける貴重な場になりそうだ」
山下と硲も乗り気だ。10代のメンバーもいる神谷と都築は酒の場にあまり参加することがない。都築に至ってはあまりに食が細いため、事務所メンバーも食事に誘いはするが、頻度はそこまで高くはなかった。
「Cafe Paradeのみんなとは違った盛り上がりになりそうですね」
「にぎやかな音が聞けそうだね。楽しみだ」
神谷と都築は柔らかく微笑む。
「そうと決まればLet's Party! 行くよ!」
舞田を筆頭に男たちはぞろぞろと店へと向かう。神谷が行きたかった店でスピーディに用件を済ませ、スーパーマーケットで食材を調達し、山下家に向かう。
舞田と硲も山下家のどこに何が入っているか把握しているため手早く準備を進める。神谷は何か手伝いたかったのだが、その余地もなく申し訳なさそうに正座して皿を広げるくらいしかやることがなかった。
Cafe Paradeにはプロの料理人とパティシエがいるためパーティとなるとお手製の料理やスイーツがふるまわれるが、ここでは缶のお酒やお惣菜や外国語が印字されたチーズなどが並ぶ。5人では明らかに小さいテーブルは男たちの宅飲みへと変化する。
神谷は普段はあまり口にしない缶ビールを片手に、やんちゃだった頃の記憶が蘇っていた。
「なんだか学生の頃を思い出します。友人の家でたこ焼きパーティをしましたね」
「たこパか。それもいいねえ」
「うむ、私の地元からタコを取り寄せるのも良いかもしれない」
硲は相槌を打ちながらも、テーブルに乗り切らないビールの空き缶たちをせっせとキッチンに運び、中をゆすいでは水切りカゴにひっくり返していく。
「俺の地元のoctpusも負けてないよ⭐︎」
「海鮮ならはざまさんもるいも俺も新鮮なの食べてきたんでうるさいですよ〜。まあ埼玉出身のころんに聞いた方が早いですけどね」
きっと彼は元海洋学者として瞳を輝かせながらお勧めの鮮魚店を教えてくれるのだろう。この事務所にはあらゆるジャンルのスペシャリストが揃っているのだ。
「みんなの声から楽しさがにじみ出ているね。ここは幸せな音に満ちた空間だよ」
常温のペットボトルの水を手にした都築は部屋の隅で体操座りをしている。決して端に追いやられたわけではなく、ここが本人にとって居心地の良い場所らしい。一人だけ白い頬のままだが本人としては十分に楽しんでいた。
「So wonderful! ミスターつづきとミスターかみやのおかげだよ」
何を話してるのかもいまいち思い出せないほど心を解放させた夜。道に迷ったことでこんな展開もあるのだなとほろ酔いの中、神谷はとあることを思い出し急に視界がクリアになるのを感じた。
「……あ」
穏やかな声色に若干の焦りがにじむ。皆が会話を止めぴたりと静まり返り、部屋ではとりあえず点けているテレビの音しか聞こえなかった。
「神谷君、何かあったのだろうか」
酒が入ろうが話し方の変わらない硲が尋ねる。
「あ、いえ……」
言葉尻を濁しつつ、神谷は癖毛越しに頭をぽりぽりとかいた。
「アスランと東雲に、次郎さん家で飲み会をすると連絡するのを忘れていました」
神谷が慌ててスマートフォンを確認すると何件も着信やLINKが入っている。振動オフにしていたことすら忘れていた。東雲やアスランから話を聞いたであろう、卯月や水嶋からも気にかける一言が入っていた。
「あらー、リーダー愛されてるねえ」
横から覗き込んできた山下に茶化されつつ神谷はいそいそと立ち上がる。
「すみません、電話してきます」
自分を気にかけてくれるメンバーに感謝と罪悪感を抱きつつ、神谷は玄関側に向かった。
④Shop〜True End〜
「ああ、それなら僕が行こうとしている店かもしれない」
「本当ですか」
都築は上目遣いになり、店の特徴をのんびりと思い出す。
「ツィーゲ……ヤギが描かれた紙袋の店だよね?」
「そうです!」
おぼろげな記憶が輪郭を持ち始めたことで都築は人差し指を立てくるりと回し、神谷にこう提案する。
「紅茶を買いに行こうと思っていたんだ。よければ一緒に行くかい?」
「本当ですか? 是非ともお願いします」
願ったり叶ったりの展開に神谷はなんてツイているのだろうと見えざる神に感謝する。都築が行こうと思っていた店とは違うのだが、紅茶が売られていたのは確かなので本人としてはそこでも構わなかった。
「行こうか」
興味のある音に惑わされなければ都築は迷うことなく目的地に向かうことができる。都築の道案内を受けているうちに商業施設に到着し、入口に設置されたフロアガイドを2人で眺める。
「1階中央フロアだね。パン屋さんがあそこだから……左に曲がろうか」
「圭さんがいて助かります。俺一人だとここから先もなかなか辿り着けないので」
トイレが施設の角にあるならまだいい。中央に配置されたショッピングモールとなろうものならトイレに入ったが最後。どの店の角から入ったのかわからなくなり、施設内を永久に彷徨ってしまうのだ。
「人が多いとなおさらわからないよね。行こうか」
少し歩くと2人が行きたかった店が見えて来る。店舗入口には海外の色鮮やかなお菓子がびっしりと陳列されているが整然とはしていない。良い意味で雑多でカラフルで玩具屋のような愉快さがある。
都築はとある菓子に視線を奪われた。
「あ、懐かしいなあ」
それはクマの形をしたドイツ製の非常に固いグミ。日本のスーパーマーケットにもよく置かれているのだが、都築がそういった店に寄ることはほとんどない。
「子どもの頃、圭さんも食べましたか?」
「ううん。固くて顎が疲れるから苦手だったんだ。これの固くないグミなら食べていたような気もするんだけど」
クマのカラフルなグミが有名だが、固くない蜘蛛や脳の形などもあると2人は初めて知った。
ワインやビールなどちらほらと見覚えのある母国の単語が散りばめられた店内は、都築からすると懐かしく不思議な感覚がする。店内の一角に積み上げられた箱たちを見つけ2人は立ち止まった。
「紅茶はここだね」
茶葉に対してこだわりのない都築は迷うことなくいくつか箱を手にして終わるが、隣の神谷は箱を手にしては表記を読み込み悩んでいる。
都築の視線に気づくと軽く頭を下げた。
「待たせてすみません。後から行くので先に会計を済ませてください」
「そうかい? それなら先に行くけど、僕のことは気にせずゆっくり選んだらいいよ」
そう言うと都築は会計の列に並び、買い物を済ませるとレジから近い出口で彼を待つ。
しかしいくら待てど神谷が来ない。都築は商業施設の中の賑やかな音を聞きつつ気長に待つことにした。店員の呼び込みの声、買い物客たちの会話、赤ん坊の泣き声、店内BGM。それらが混ざったこの空間は活気があっていい。
どれくらい経っただろうか。店の紙袋を持った神谷がぺこぺこと頭を下げながら若い女性店員と共に店から出て来た。
「圭さん! 待たせてすみません!」
「……ああ、まだ買い物していたんだね」
神谷は下がり眉になり、すまなさそうな態度を見せる。
「情けないことに店内で迷ってしまっていまして……あはは」
女性店員からはまた何かあったらお声かけください、と言われていた。おそらく神谷はここを尋ねては毎回迷うため、店員から顔を覚えられているのだろう。
「圭さんは他に寄りたい店はありますか?」
「うーん……特にないかな。幸広さんこそ何かあるかい?」
「そうですね……」
上目遣いで少し考え事をする。店のみんなに何かお菓子を買って帰ろうか。今度事務所に行くときのお土産にしようか。そう考えていたときだ。
「都築さん」
やや硬い、張りのある声が投げかけられる。振り向くと艶やかな黒髪を肩で切り揃えたつり目の少年がいた。都築と同じユニットメンバーの神楽だ。
「やあ、麗さん」
「お久しぶりです、神谷さん。お買い物ですか?」
礼儀正しく頭を下げる彼の所作だけで育ちの良さが伺える。
「そうだよ。紅茶を買いに圭さんとここに来たんだ」
「そうだったんですか。奇遇ですね」
神楽の手には小さな紙袋が下がっている。彼が好きなハンドクリームを買いに来たことは明らかだった。
神楽はスマートフォンの画面をちらりと確認し、再び顔を上げる。
「今、迎えの者を呼んでいます。よければ家まで送りますがいかがですか」
「本当かい? いつもありがとう」
何度か世話になっているのか都築は頼る気でいる。神谷は少し戸惑っていた。
「わざわざいいんですか?」
「せっかくなので乗ってください。家の者には運転手から連絡しますので」
「ありがとう。それなら、お言葉に甘えさせてもらうよ」
口にはしないが、神楽は神谷を都築だけに任せきれないという気持ちもあった。
商業施設の出入口付近に3人で立ち、しばらくすると艶のある漆黒の車が現れた。運転席から白手袋にスーツ姿の品のある中年男性が降りると神楽に一礼する。
「こちらの方は私と同じ事務所の神谷さんだ。都築さん家と彼の家にも送ってくれないだろうか」
運転手は快諾すると後方のドアを開ける。彼に案内され神谷が運転手の後ろ、都築はその隣、神楽が助手席に座る。自分が一番のゲスト扱いされていることに神谷はいまいち落ち着かない。仕事でタクシーに乗ることはあるのだが、つい遠慮して他のメンバーに運転手の後ろを譲ってしまうのだ。
運転手はスマートフォンから神楽家に電話し、神楽の依頼で2人を家まで送る旨を伝える。
全員シートベルトを装着したことを確認した運転手はここから最も家の近い都築の住まいを目指し発車した。
神谷たちは帰路に着く人々を車の窓越しに横目で見ながら住まいを目指す。普段そう乗らない高級車の座席の座り心地の良さに、これは走るソファだなと神谷はやや緊張していた。
「今日は人に助けられてばかりだ。この恩は必ず返すよ」
「いえ、こういうのは持ちつ持たれつですから」
神楽の発言に都築は顔を上げる。神楽もアイドル業を始めてから随分と人を信頼するようになってきた。今でも一人で頑張りすぎてしまいがちな所はあるが、ここぞというときに支える都築や他ユニットメンバーのおかげが大きい。
神楽は気付いてないだろうが、成長したことを感じ取り都築は口角が上がる。
「僕は、幸広さんとの買い物が楽しかったよ」
最初の目的地に到着すると都築を下ろし、次にCafe Paradeをカーナビに入力して滑るように次の目的地を目指す。
別れの時間はあっという間に訪れた。
「ありがとうございました」
「ではまた事務所でお会いしましょう」
助手席の窓を開け、神楽は最後の挨拶をする。神谷は紙袋からあるものを取り出した。
「これを麗くんにあげるよ」
「私にですか? ありがとうございます」
神谷が渡してきたのは、都築と一緒に眺めたドイツ製のとてもとても固いグミ。
「かつてドイツに演奏しに行ったとき、たくさん売られていたのを思い出しました」
「事務所のみんなで食べるといいよ」
「そうさせてもらいます。それでは失礼します」
神楽は軽く頭を下げ、神谷が手を振ると同時に聞き慣れない車のエンジン音が遠ざかっていく。こんな一日も良いものだと神谷は店へと体を向ける。
「東雲とアスランはまだいるかな」
神谷が手にした紙袋の中には茶葉の他に、棒付きキャンディ、チーズ、ウインナーが入っていた。