「今日はやけに山が騒がしいな」
山のあちらこちらから聴こえてくる喧騒は妖や獣の争う鳴き声だ。
本来夜の山というのは不気味なほど静かで、恐ろしい。国広はそれでもその闇と静寂を好み、この中で眠りに落ちるのを心地よく感じていた。だから山と山を渡り歩き、旅をしている。
これまでもこうして騒がしい夜の山を経験したことがあった。鬼である国広にわざわざ妖や獣が近くに寄ってくるということも無いが、それでも用心に越したことはない。国広は、軽い結界代わりの札を辺りに配置すると、火を消し眠りについた。
それからどれくらい経っただろうか。目を覚ました国広は当たりを見回した。火を消した名残かまだ少し温かい。あれから少しも眠っていないということである。
普段眠りの深い国広は、朝まで目を覚ますということが無い。不思議に思いながらも上体を起こすと、寝床にしていた洞穴の外から何かの鳴き声が聞こえる。
「子狐か……? にしては声が低いか」
きゅう、きゅうと言う弱った犬のような声。洞穴の外へ出ると、そこには小さな九尾が一匹、国広を見上げていた。
月夜に照らされる黄金の毛並みが見事で、九つの尻尾も形が良く美しい。その九尾は弱っているのか、まだ未熟に見える身体を震わせている。
「お前、ずいぶん弱っているようだな……怪我は無いようだが腹を空かせているのか?」
国広が片手を差し出すと、九尾はそこに擦り寄ってきた。先程の鳴き声もここに何者かの気配を感じ助けを求めていたのだろう。
「握り飯くらいしか残っていないが、食べて行くと良い」
国広はその九尾を抱き上げると、自分の床まで連れていき膝の上に乗せてやる。特に抵抗もせず大人しく座っている九尾に残り物の握り飯を見せると、食べて良いのか、と言いたげな目で国広を見上げてきた。
「明日は里に帰る予定だからな、全部食べて構わないぞ」
そう言って国広が差し出すと、九尾は勢い良く食らいつき始めた。
(子狐……では無いが成体でもない様だな……この様子だと争いに巻き込まれて逃げているうちに消耗したのか)
九尾は成体となれば国広よりも大きく育つが、この九尾は普通の野狐よりひと回り大きいほどで、かなり若い狐の様だ。
そして九尾と言うものはプライドが高く、優雅でいて他者に懐かない。警戒心も強くそれは同族であっても同じだ。特に雄においては顕著でそれ故にこうして未熟な個体が虐げられることは多々あるが、鬼である自分にここまで気を許すというのは珍しい。男好きの牝狐であれば国広の様な強い種族(鬼)の男に懐くと言う事もあり得るが……
「もしかしてお前雌か……? 顔つきと雰囲気から雄だと思っていたんだがな。そら、腹を見せてみろ」
すでに国広のやった飯を食べ終えた九尾はぺろぺろと口の周りを舐め清めている。
国広が腹を撫でてやると、ごろんと仰向けになり、警戒心の欠片もない様子で弱点を晒け出した。
「……雄だな……九尾の雄は馴れ合わないと聞いたが成体では無いからか……?」
知能の高い九尾ならば国広の言っていることは理解できているだろうが、彼は気持ち良さげに腹を撫でられているだけだ。
これでは飼い慣らされた犬の様……そう思いながらも懐く姿は愛らしかった。
「お前、すぐに出て行きはしないだろう? 一緒に床に入ってくれないか。今日は冷えるからな」
九尾はきゅう、とひと鳴きすると国広の毛布に潜り込む。
「……やはり獣はあたたかいな……これはよく眠れそうだ」
長く、熱を逃しにくい毛と国広よりも高い体温。その体のあたたかさを確かめる様に抱き締めると、彼は嬉しげに擦り寄ってくる。そして大きな九本の尻尾を国広に絡ませると、甘える様に鳴いてみせた。
「ふふ、中々お前は可愛らしいな」
そう言って撫でてやると、ぺろりと顔を舐めてくる。
そうしてしばらくじゃれ合い、二人は眠りについたのだった。
◇
「ん? お前もしかしてついて来るつもりか?」
山を降りる準備を整え、洞穴を出る。すでに飼い犬の様に後ろをついて回る九尾は、国広が声をかけると連れて行ってくれ、と言わんばかりに尻尾を振りながら足元に擦り寄って鳴いていた。
「良いのか? 俺についてきても山を歩くだけでお前には退屈かもしれないぞ」
そう話しかけてもなお鳴き続ける彼が国広から離れる気配はない。
「……そうだな、連れが居るのも悪くないか。お前はあたたかいしな」
国広はそう言ってしゃがむと、帯と一緒に巻いていた飾り紐を解く。鮮やかな橙色に金の装飾がついたそれは国広が長い間身につけていたものだ。
国広はそれを彼の首に巻きつけると、首の後ろに蝶々結びを作った。
「これで俺の連れだとすぐに分かるだろう。旅をしていれば逸れる事もあるからな」
突然の贈り物に彼はまたきゃう、きゃうと鳴きながら喜んでいる様だ。
「気に入ったか? 本当は店に売ってあるものを買ってやれば良いんだろうが、とりあえずそれで我慢してくれ……ってうわっ」
国広が彼の頭を撫でていると、ぼふん、という音と煙のような靄のようなものが視界を覆う。
それが九尾の変化である事には気がついたが、一体何に化けるというのだろうか――
「……ん、上手く化けれているだろうか?」
少しずつ靄が晴れ、視界が開けて行く。その中から現れたのは金の髪に碧い瞳――国広によく似た容姿の彼は、狐らしいぴんと立った耳と、九本の尻尾を生やしている。
「お前……なるほど俺の姿を真似たのか」
「ああ、あんたより少し身体は小さいが良く似ているだろう? この姿ならあんたと話が出来るからな」
上機嫌そうな彼はそう言って国広の腕に自分の腕を絡めてくる。すりすりと甘えるような仕草は獣の姿の時を思わせるが、人型をとった彼は中々に色気がある。狐に誘われる者の話はよく聞くが、これならば納得できる。
「上手いものだな、耳と尻尾が無ければ人だと信じてしまうぞ」
「俺たちの得意分野だからな」
得意げな様子の彼は上機嫌に耳や尻尾をひょこひょこと動かしている。
「まさかその姿で俺を誘って襲う気じゃないよな?」
「そんなことするわけないだろう。俺にまだそれ程の力は無いし多分あんたの方が強いぞ?」
確かに雄の狐がわざわざ自分の子を残せない男の鬼を襲うはずは無いし、自分で言った通り今はまだ彼より自分の方が力を持っているだろう。
――本気で疑っているわけでは無い。でもその妖狐らしい雰囲気に思わず口に出さずにはいられなかった。
「あんたに懐いたのは……一目であんたを気に入ったからだ……あんたみたいに綺麗で優しい鬼は初めてだ」
そう言って少し顔を赤らめている姿を見ていると、自分も少し気恥ずかしくなる。
「……そこまで言われると照れるものだな……まあ俺には九尾の知り合いも居るしな、お前の事も本気で疑っているわけじゃないさ。それ程に色気があったということだ」
国広はそう言って彼の耳のついた頭を撫でる。それに喜ぶ彼は、獣の姿の時のように国広に寄り添った。