この世界はいつだって不平等だ。
気をつけてくださいね。あなたは魔力もないただの人間かもしれませんが、異世界から来たという点でいえばこの世界でおそらくたった一人の、希少な人間なんですから。
そういう『珍しいもの』を蒐集したがる好事家というものはけっこういるらしい。どこから情報が漏れたかは知りようがないけれど、優しい学園長の忠告も虚しくわたしは手足を縛られて連れ去られてしまった。
獣の爪痕のような細い細い月があるだけの、暗い夜だ。既に学園の敷地から離れてしまった。潮の匂いが近づいてきたような気がするから、これから船にでも乗せられるのかもしれない。
口も布で塞がれているから助けは呼べない。荷物のように転がされたまま、わたしを乗せた荷馬車はそろそろ海岸に到着して止まるだろう。非力なわたしには誘拐犯であるたった一人の男をねじ伏せる力はない。仲間と合流されればますます抵抗はできなくなる。為す術もないとはまさにこのことだ。
ため息を吐き出すことすらままならず、ただそっと目を閉じる。珍しい異世界人だと見世物にされるのか、それとも身体を切り刻まれて何かの材料とかにされるのだろうか。どうであれ、オンボロ寮で暮らしている今よりも悪い状況にしかならないだろう。どうしようもない。
獣の咆哮が遠くから聞こえた。学園の裏の森だろうか。今、獣に襲われたらたぶん誘拐犯に見捨てられてわたしは無防備なまま獣に噛み殺されるだろう。どうであれわたしの幸運値は完全に底をついている。
「あんたも運が悪いよなぁ……」
夜闇のなか、形だけ向けられた憐れみになんの感情も浮かばなかった。波の音がする。頭を持ち上げると小舟が見えて、おそらく岸まであれに乗せられ運ばれるのだろうなと思った。
「運が悪いのはアンタのほうッスよ」
突如聞こえた声にわたしは目を丸くした。男は「誰だ」と声を上げようとして、その一音目で止まる。細い月を背にして現れたその人は的確に男の首にナイフを突き刺した。それを引き抜いた瞬間に血が吹き出るが、漫画やテレビのように派手なものではない。かくん、と壊れた人形のように男が崩れ落ちたのを見て、ああ死んだのかと思った。
鮮やかすぎる手際に、息を呑む。その人はナイフを振り、ついた血を払い落としたあとで男の絶命を確認した。
「監督生くん、無事ッスか?」
たった今人を殺したのに、その声音はわたしの知る普段のものと変わらなかった。無事を伝えるようにこくりと頷くと「ああそれじゃあしゃべれないッスね」とわたしの手を縛っていた縄をまだ血の残るナイフで切り落とした。口を塞いでいる布に手が伸ばされて、途中でぴたりと止まる。
「……口と足のは自分でとれる?」
オレが触ると汚れるんで、と笑う。返り血のついた頬を見て、おそらくその手にはもっと血がついているんだろうなと想像した。
わたしが足を縛っていた縄を解く間に、ラギー先輩は男の死体を小舟に乗せ海へ流した。遠くに大きな船が見えて、おそらくあれに男の仲間か雇い主が乗っているんだろうと推測する。
「あの、どうしてラギー先輩が……?」
ナイフの血は綺麗に拭いたのに、頬の返り血はそのままだ。
「あの男とその一味、夕焼けの平原で悪どいことしてる連中で。アンタが攫われたってことにレオナさんが気づいてしかたなくオレが来たんス」
アンタの匂いを覚えてんの、オレくらいだったんで。そう付け加えられる。特別手当が出るんでいいんスけど、なんてぶつぶつ呟いていた。
小舟はゆったりゆったりと海を漂いながら進んでいく。その様をぼんやりと眺めていると「行くッスよ」と声をかけられた。
「……匂いで追いかけるだけなら、ジャックでも良かったんじゃないんですか」
むしろ日頃からよく会うジャックのほうが、わたしの匂いは的確に覚えているだろう。わたしとラギー先輩は親しいとは言えない程度の関係だ。
ラギー先輩が振り返った。その目はわたしではなく、揺れる小舟を見ている。
「ジャックくんにこういうこと、させられんないでしょ」
「……」
そうですね、とは言えなかった。先輩ならいいんですか、とも問うことができず、わたしは苦笑いで誤魔化した。
人が誘拐されかけようと、その中で十七歳の学生が人を殺そうと、朝は当然やってくるし空は拍子抜けするくらい快晴で世界は変わらない日常をはじめる。
昼休み。エースたちと別れて植物園に向かう。
「……ああいうことってよくあるんですか?」
寝転んでいる百獣の王へと話しかける。ちらりと向けられたエメラルドグリーンの瞳はすぐに鬱陶しそうに閉じられた。ライオン特有の尻尾がぱしん、と不機嫌を示すように地面を叩いた。
「んなわけねぇだろ」
「……でも先輩、慣れているみたいでした」
なににとは言わなかった。言わずともレオナ先輩には通じるのだから問題ない。目蓋を閉じたまま、レオナ先輩の眉間は一瞬深く皺を刻んだ。
「殺せとは言ってねぇ」
「……助けてくださって、ありがとうございます」
「俺に言ってどうする」
「ラギー先輩に言ったら、レオナ先輩に言えって」
オレは報酬目当てにやっただけで、別にアンタがどうなろうとどうでもいいんで。ありがとうございましたと告げたわたしに、ラギー先輩は素っ気なくそう言った。
「……クロウリーにオンボロ寮の防衛魔法を強めるように言っとけ」
「もしかしてわたしってまだ狙われてるんですか?」
「珍しさで言ったら一級品だろ」
期待されるほどの物珍しさはないと思うが、相手にそれを言ったところで通用はしないだろう。実物を見てようやくたいしたことがないとわかってもらえるかどうか。
「レオナさーんいつまで寝てるんス、か……」
おや、とこちらを見るラギー先輩。ブルーグレイの瞳はわたしとレオナ先輩を交互に見た。
「お邪魔ッスか?」
「馬鹿言え」