あなたが帰る場所「センセんとこのな、アシさんが長いこと来られんいうて」
「例のチーフアシスタントさんですか」
うん。と、生返事がひとつ。手帳を手早く捲りながら彼は眉根を寄せる。真に焦っている訳では無いだろうけども、打てる手は迅速に打つのが担当の鉄則であり、今やるべき最優先の責務だ。
先程脱いだばかりのスーツに再び袖を通したあと、彼は私が抱いているボサツくんの頭を撫でた。それから私の頭も。
「なぁ、俺も撫でて」
「はい」
ゴーグルの形に癖付いた髪を後ろに撫でつければ、彼は少し虚な目になった。
「……最近、なんか元気あれへんなぁ思ててん。ネームもな、おもろいねんけどこう、本人の狂い方が微妙に違ういうか」
「作家の狂い方でメンタルを慮るのは大事なことです」
「俺が、もうちょい早く……いや、今更悔やんでもしゃーないな。はよヘルプ出来るやつ探したらんと」
お前ん家が職場の隣で良かったわ! と、重い空気を払拭するように彼が笑う。私も笑う。うまく笑えたかはわからないけれど。
「何かあったら、呼んでくださいね」
「悪いな」
「いいえ」
私が亜空間を貸すのは貴方だけなんです。だから、寧ろ呼んで欲しい。
「……ほな、行ってきます」
「はい、行ってらっしゃい」
そうしてクワバラさんは、来た時と同じ姿でオータムに戻って行った。
『何を惚けているのです?』
ボサツくんの問いかけで現実に戻ってきた私は、ソファーに座って改めて自分の感情を振り返る。
「……上手くは言えないのですが、少し驚いてしまって」
よく気のつく人だ。それに、先手を取るのが上手い。
「もし……クワバラさんが自宅じゃなくて私の家にもう一度来るとしたら、その時は『お帰りなさい』と言うべきでしょうか?」
『……全く、あなたはクワバラのことになるとちょっとどころじゃなくお馬鹿になりますねぇ。家に帰ってきたら「ただいま」と言うのでしょう? 人間は』
ボサツくんは、情けない私を見上げてサラリと助言を与えると、膝の上で丸まってしまった。
ああ、なんとも愛らしい。
「……確かに、そうですね」
もしかして、ボサツくんに背中を押されているのだろうか? もしそうならばなんという僥倖。ねこに勇気つけられれば怖いものなんて無い。
「ただいまと言われたらお帰りなさい、ですね」