ダンッ、と派手な音を立てて、空っぽの杯が粗末な机に叩きつけられた。
「だ~~っはっはっは!! 見たか! 俺様の勝ちだぜ、ざまあみな!!!」
言葉の乱暴さとは裏腹に、どこか情の込められた笑い声を上げたのは、ここアビスの酒場にたむろしているごろつきどもの元締めである青年、ユーリス=ルクレールその人である。立ち上がり、自分の座っていた椅子が倒れるのも構わず、隣で潰れている人物の背中を叩いて喜んでいる様子は、年相応の若者が酒を飲んで騒ぐ姿に相違ない。周囲ではらはらとその姿を見守っているのは、彼の組織に所属しているチンピラたちだ。お頭、もうその辺で……と止めに入ろうとする者も先刻までは見られたが、酒場の端で同じように酒を嗜んでいた灰狼学級の面々に「やめとけ」「好きにさせたげたらいいんじゃん?」「わたくしには関係ありませんわ」等と言われて引き下がってしまった。その面々も、もう部屋に戻ったのだろう。酒場には数人の常連客とユーリスの部下数名が残っているだけだ。それに、ユーリス自本人と、その飲み比べの相手が机に突っ伏しているくらいである。
「よっしゃ、そんじゃあ部屋に戻るとするか……先生、立てよオラッ……チッ重てえな、ったく……!」
ユーリスは机に突っ伏してしまったベレトの体を無理やり起こして肩に掴まらせると、ふらふらとアビスの通路へと出て行った。当然、勘定はツケである。彼がこんなに酒に飲まれるのは珍しく、常連客たちは、ユーリスの紅く染まった美貌を眺めて口を半開きにしている。酔っているにしては意気揚々と歩き出した彼の後ろを、部下たちが注意深く警護している。無理もない、自分たちの頭領だけでも気をつけねばならないのに、この戦争の陰の立役者であるベレトまで酔い潰れて担がれているのだ。間者に狙われたら、その時は……
部下たちの目に見守られつつ、二人は地下の闇に消えて行った。
事の始まりは数刻前のこと。ユーリス=ルクレールは、酒場で灰狼学級の友人たちを酒を飲み交わしていた。
「ユーリス、ちょっと飲みすぎじゃありませんの?」
「おう、どうしたどうしたァ?」
「はあ……? どうもこうもねえよ」
「あ、なんかめんどくさそうな気配だし。もしかして、先生となんかあった?」
ハピの鋭い突っ込みに、ユーリスはギラリと一瞬物騒な眼の光を見せたが、すぐにグイと酒を煽った。
「昼間……先生と話してたらよぉ」
「おっと、話してくれんのかよ。それで?」
「……この戦争が終わっても、傍にいてほしいって」
「「えっ!?」」
顔を見合わせたのはハピとコンスタンツェだ。
「ユリー、よかったじゃん!」
「そうとなれば、わたくしにも指輪を買う手伝いをさせたのですから、新しい大司教猊下ともどもヌーヴェル家再興の手伝いをしてもらいますわよ!?」
「待てよお前ら、どう見ても続きがありそうだろうが!」
バルタザールはユーリスの暗い表情を窺い見ながら、二人を嗜める。確かに、と話の続きに耳を傾けた三人の顔を見ることもなく、ユーリスは前髪をぐしゃりとかき混ぜた。
「……あ~、俺も一瞬、『そういう意味』かって騙されたさ。けどな、要するに、貧民窟への救済や、孤児院の設立に関して俺の立場から助言が欲しいんだとよ」
「あ~~~……ナルホドね」
「はあ……いかにもあの先生らしいですわ」
「はは……ま、そんだけならまだ笑えるじゃねえか」
ギラリと、今度こそユーリスの目が殺気に揺らいだようだった。
「それだけならな。けどな……言うに事欠いて、『すまない、言葉が足りず誤解を招くような言い方をした』だってよ……」
「お、おう……」
ちょうどその時、酒のお代わりが机に到着した。ユーリスは二人前の杯を両手でガッシと掴むと、実に景気よく喉を鳴らして飲み干していく。ゴッ、ゴッ、ゴッ、……ガンッ。机に空の杯が叩きつけられる。
「おい……」
「は、はい!?」
「もっと、じゃんじゃん持ってきやがれ……!」
前髪が乱れ、隙間から睨まれた給仕係は、慌てて店の奥へと引っ込んでいった。こりゃ重症だな、と灰狼学級の面々は溜息を吐く。そこに客が現れたのは、ユーリスが三杯目を飲み干した時だった。
「やあ、楽しそうだな」
「先生!」
ユーリスの背後に立てるのは彼くらいなものだ。突然現れたベレトに、ユーリスは振り返りもせず酒を飲んでいる。
(どこをどう見たら楽しそうなんだ? どう見てもピリッピリしてんだろうが!)
バルタザールは笑顔を引きつらせてベレトを見た。なんでこんなところに先生が、と、ハピも怪訝そうな顔をしている。溜息を吐かれたらまずい、とコンスタンツェは早々にハピと一緒に机を移動した。残されたバルタザールは貧乏くじだ。
「よ、よお先生……!」
「ユーリス……随分飲んでるようだな」
「ああ? なんか文句あんのかよ」
正面から突っかかられても、ベレトの表情はまるで揺れやしない。それがまた憎らしくて、それに自分が子供っぽいように思えて、ユーリスはぷいとそっぽを向いた。
「はは、自棄酒はもうやめとけって言ってるんだけどよ」
「自棄酒? ……なにかあったのか?」
深酒の理由が気になるらしいベレトに椅子をすすめて、バルタザールは答えあぐねた。全部あんたのせいだぜ、とはさすがに言えない。
「嫌なことでもあったのか? 俺になにかできることがあれば、手伝おう。何でも言ってほしい」
元担任の優しさあふれる言葉は、今はしかし逆効果だ。バルタザールは片手で顔を覆った。
「……ほ~お、言ったな? 先生……」
にや~っと笑って酒臭い口を開いたユーリスは、やっとギギギと首を回してベレトの方を見る。
「ああ、いつもきみには世話になっているからな」
その言葉に密かに青筋を立てながら、ユーリスはガシッとベレトの肩を抱き、その澄ました顔に笑いかけた。
「じゃ、俺様の酒に付き合ってくれよ……!」
「分かった」
……そうして、最終的に何故か飲み比べが始まってしまったのである。
「んんん……俺の酒が飲めねえってのかよ、せんせえ……」
むにゃ、と自分の声で目を覚まし、ユーリスは自室の天井を眺めた。
(あれ……? いつ部屋に戻って来たんだっけ……)
この私室はアビスの奥に隠されている。決まった道を歩き、隠し通路を通らなければ辿りつかない場所にある狼の隠れ家に、酔った状態でよく帰って来られたものだ。ユーリスは体を起こそうとして、手足が異様に重たいことに気が付いた。おまけに、ちょっとうごかしただけで頭がガンガンと痛む。
「うっ……! クソッ……!」
仕方がなく体中を弛緩させ、寝台に沈む。水が飲みたい。喉がカラカラだった。ああそうだ、そういえば昨日は、飲みすぎて……なんで飲みすぎたんだっけ……? 確か、相手に飲ませるために自分も何回も酒を煽って、……相手って、えーと……
「……ぅん……」
突然隣で誰かが身じろぐ気配がして、ユーリスはビクッと体を跳ねさせた。この寝台に自分以外の人間が寝ているなど、有り得ない。頭痛に構っている場合ではない。ユーリスは素早く身を起こして横を確認し、そしてあんぐりと口を開けて動きを止めた。
「……!!?」
そこに寝ていたのは、ベレトだった。……ただし、装備は何も身に付けていない。装備だけでなく、服も、だ。
「なっ……なっ……!?」
つまりは裸で添い寝している状態のベレトを、ユーリスはまじまじと見てしまった。実戦で鍛え抜かれた体に、いくつかの傷跡が散っている。胸の傷が一番大きい。隆起した筋肉が、呼吸に合わせて柔らかく上下する様子に、つい、見惚れてしまった。ついでにシモの方にも目を向けると……下着の紐は半分解けてはいたものの、大事な部分は隠されたままだった。残念なような、ほっとしたような気分で、ユーリスは次に自分の姿をあらためてハッとした。自分もほとんど全裸に近い恰好で寝入っていたらしい。野郎同士、恥ずかしがる理由はないが……そういう意味で意識して見ている相手ではわけが違って来る。
実際、ユーリスのそこは……朝ということもあってか、元気になりつつあった。
(いやいや待てよ。昨日、何した? 一体先生とどこまで……あ~、頭いてえ……!)
寝台の上で胡坐をかき、ユーリスは自分の長い髪をガシガシとかき混ぜて文字通り頭を抱える。ベレトが目覚めるまで、あと少し。その穏やかな寝顔と体に、自分の口紅の跡が残っていることにユーリスが気付くのも、時間の問題だった。
終わり