てのひらの肖像ユーリスはふと手を止めて、引き出しの中を見つめた。ベレトが使っている部屋は相変わらず簡素で、物が少ない。はるか昔、傭兵として育った環境がそうさせているのか、それとも生まれついた彼の性分なのかは分からない。この小さな家にも、もう数年住み着いてはいるが、ベレトの部屋にあるものといったら。机と椅子、壁にかけられた釣り竿。本や服が収められた棚。それ以外は、すっきりと片付いている。
その唯一の棚の引き出しに、乾いた服をしまってやろうとして気が付いた。間違えて、別の場所を開いてしまったのだ。
そこには、古い本が一冊と、小さな帳面。その上に、セイロス教のシンボルが模られた首飾り。それに使い込まれた懐中時計が、きちんと置かれていた。
本は、教典のようだった。かつてガルグ=マク大修道院で人々を導いていた時に使っていた物だろう。ちゃんと取っておいてあるとは、伊達に数十年間大司教をやっていたわけではないらしい。そういう律儀なところが好ましかった。
では、その上の帳面は。と、それも覗くのは野暮な話だ。ユーリスはその正体を知っていた。これは、ベレトの父親が最後に遺した日記だ。大切な父の形見を、谷底で五年間眠り続けていたにも関わらず、こうしてしっかり見つけ出して保管しているとは見上げた根性だ。今となってはあの五年間が懐かしい。今でなら、たった五年と思えるかもしれないが、若かりし頃のユーリスには長すぎる五年だった。いいや、悠久を生きる身となっても、やはり五年は長い月日だ……。あの期間の何倍もの長い時間を添い遂げても、ベレトが隣にいなかった日々を思い出せば心が苦しい。なあんて、そんな恋に胸を焦がされる感情が、あの頃の自分にもあったっけ?
ドキリと脈打ったユーリスの心臓とは対照的に、引き出しの中の懐中時計は動きを止めてしまっている。これは自分がいつだったか、ベレトに贈ったものだった。どこかの部品が壊れてしまったのだろう。時を刻むことを止めてしまった時計は、そのうちに修理を頼みに行きたいと言っていたのを覚えている。久しぶりに、二人でこれを作った時計職人のいる街へ出かけても良いかもしれない。
ユーリスは最後に、セイロスの紋章が入った首飾りを見た。大司教時代に使っていたものだろうか。それにしては見覚えがない。特別な時にだけ使っていたものかもしれない。
ユーリスはその首飾りをじっと見つめた。なにやら仕掛けがありそうだ、ということを見抜いたのは、彼の生まれついての性分がそうさせたに違いない。なにか匂う。なにか、秘密の匂いが。ユーリスは服を持ったまま、手を伸ばして首飾りに触れた。
「あっ」
「え?」
小さな声を聞いてユーリスが顔を上げると、部屋の主がちょうど扉を開けて入って来たところだった。
「服は、その下の段だよ」
「分かってる。間違えて開けたら、懐かしいモンがあったから」
ベレトは何気ない様子でユーリスの隣へ歩み寄った。
「それは、式典用の首飾りだ。確かに懐かしいな」
「ふうん。初めて見たよ」
「……あまり、きみの前では使っていなかったから」
どこかそわそわとしたような言葉の端に、ユーリスはちょっと唇をつり上げてニヤッと笑った。さり気なく引き出しを閉じたがっている様子の伴侶に、秘密の匂いが強くなる。掌で首飾りを弄び、チャームの側面に掘られた細工に指を滑らせる。目視では分からない、ごく小さな引っかかりがあった。留め金だ。爪の先を潜り込ませると、パチン、と音がして、チャームが開いた。
「これ、……」
「……あまり、光に当てないでやってくれ」
ユーリスは少しばかり驚いて、目を瞬かせた。
「日の当たる場所が苦手な子なんだ」
中からユーリスを見つめ返したのは、ちょっと澄ました顔で描かれた、紫色の髪の青年だった。白い頬にわずかに血を昇らせて、薄桃色に彩られた唇が優し気に微笑んでいる。
「……式典で、これを身に付けていたって?」
「……」
無言で手を伸ばすベレトをかわし、ユーリスはまじまじと自分の肖像を見る。顔料が薄れかけてはいるが、公式的にガルグ=マク修道院で飾られている肖像画よりも保存状態は良さそうだ。
『俺に会いたかったのか? それなら、素直にそう言やいいのに』
そんな台詞が聞こえて来そうだ。。
「これを、式典で使っていた? 信徒たちの前で、これを手にして、祈りを捧げていたっていうのか?」
「……いや、本当は、毎日身に付けていた」
「毎日ィ?」
やんわりとユーリスの手から首飾りを取り上げると、ベレトは中で行儀よくこちらを見つめている青年を確認してから、パチリと閉じた。丁寧に引き出しへと仕舞い込み、少しばかり照れたような顔でユーリスを見る。対してユーリスは、自分がどんな顔をすれば良いのか分からなくなっていた。
「初耳だ。この歳になっても、あんたの秘密を知ることがあるとは」
「秘密にしていたつもりはないが……いや、でも秘密だったかな」
「仕事中に引っ張り出して、眺めてたのか?」
「……」
ベレトは曖昧に笑う。ユーリスから服を受け取り、その下の引き出しの中に仕舞っていく。
「教えろよ。俺様が恋しくて、身に付けてたって?」
「そうだな……それもあるが、……自分が祈りを捧げるとき、一番大切なものだったから」
先ほどまでのバツが悪そうな表情は消え、ベレトはどこまでも優しく、ふわりと微笑んだ。あ、これはまずい。ユーリスは身構えた。ベレトがこういう顔をするのは、こっぱずかしい台詞を平気で吐くときだと決まっている。
「セイロスの紋章は、信徒にとってはとても大切なものだ。しかし、女神の正体を知っている身としては、違和感があった。……だから自分は、自分が一番大事にしているものを身に付けて、一番大切な、……愛するきみと共に祈りたかったんだよ」
「あーー、そうかそうか。ま、そういうことだよな、うん。……俺様と一緒に祈りたい、か……」
「……ユーリス?」
「いや……あんたらしいっつーかなんつーか、さ」
案の定だ。長い髪をかき上げて、ユーリスはそっぽを向き、小さく溜息を吐いた。じわり、自分の肖像よりも頬が赤くなってしまいそうだ。
しかし危なかった。当時の信徒たちが首飾りの存在を知ったら、愛妻家大司教猊下のエピソードとして書き残されていたところだ。ただでさえ、たまの休息時間に本当の名前で呼び合っていたところを目撃され、二人だけの愛称で呼び合っていた、なんて書物に記されてしまってあるのに。
「ま、つまるところ、常に俺と一緒にいたかったってことだろ?」
「そうだな。今は大衆の前で祈ることもないし、何より本物がいつも傍にいるから必要なくなった」
「……おうよ、とくと拝めよ。この美少年の顔を」
お決まりのジョークに、二人は笑ってベレトの私室を後にした。午後は何をして過ごそうか。久しぶりに、外でお茶でも飲みながら、思い出話に花を咲かせようか。時間はたっぷりある。
首飾りが戻された引き出しの中、懐中時計は時を刻むことを止めてしまっているが、もう一度動き出す時を静かに待っているようだった。
終わり