フェリクスは猫だった。耳から尻尾にかけては月夜の森の中のような柔らかい黒色で、喉やふわふわの腹側は雪のように真っ白い猫だった。いつだっていかにも猫らしくぴんと尻尾を立てて、キッと周りを睨みつけて歩いた。天気の良い日は池のほとりで魚を眺めたり、木箱の上で日に当たったりして過ごす。気が向くと青獅子の学級でディミトリと授業を聞き、訓練場で生徒たちが剣や槍を振るったり、弓を引いたりする様を眺めていた。
孤高で、気難しい猫なのに、生徒たちはフェリクスのことを可愛がる。アッシュはフェリクスのために魚の骨と肉とを分けてやり、メルセデスは柔らかな膝をフェリクスに貸したがった。アネットは温室でこっそり歌を聞かせてやり、ドゥドゥーはフェリクスが歌を聞いたまま、柔らかく盛った土の上で眠っているのをそっとしておいてやる。イングリットは食堂の机の下で、そっと自分の肉をフェリクスに分けてやった。ディミトリが真似をして肉を分けてやろうとすると、フェリクスはつんとして絶対に手を付けない。彼はディミトリが自分の食事を無感情に飲み下すのを、いつも気に入らな気に見つめていた。
「フェリクス、フェリクス」
シルヴァンはうさぎや鳥の肉を仕入れては、フェリクスを呼んだ。フェリクスがしばらく気付かないふりをしていても、チッチッと舌を鳴らして、根気よくフェリクスに呼びかける。
「フェリクス、ほら、うまいぞ」
フェリクス用の小皿は水色で、シルヴァンのベッドの下にいつも隠されていた。今日もフェリクスのためだけに調理された肉を片手に、シルヴァンが呼んでいる。フェリクスは仕方なく、耳をピクピク動かして、尻尾を一振りしてやった。
「来いよフェリクス」
フェリクスは行かなくてはならなかった。別な学級の教室で、ベレトの授業を聞きたかったのだ。ベレトの声は低く優しい。剣を振る姿は興味深い。もっとベレトの近くで、学びたいことがあった。だからシルヴァンを無視するようにヒゲを上向かせ、別な場所を見ているふりをしている。しかし、肉の香りはかなり魅力的だ。
「フェリクス」
ニャ、と小さく返事をして、とうとうフェリクスはシルヴァンに招かれるまま彼の部屋へと入ってしまった。嬉しそうに笑う赤毛の青年の顔は、自分にはまるで子供の頃から変わらないように見えるのだが、中身はどんどんけしからん方向へと成長していってしまっている。そこが気に喰わない。彼はもっと、彼らしさをもって生きるべきなのに。フェリクスは行儀よく床に座って、水色の皿から肉を頂いた。ダスターベアだ。細かく刻まれた肉は食べやすい。すぐに食べつくしてぺろぺろと身繕いを始めたフェリクスを、シルヴァンは待ちわびたように抱き上げた。ベッドに座って、フェリクスを膝の上に乗せる。そんな無礼を、せめて肉の分は許容して、フェリクスはシルヴァンの膝で身繕いをつづけた。大きな手が背中を撫でる。尻尾をなぞり、首をマッサージしてくれる。フェリクスはなかなか良い気分で、シルヴァンの顔を見上げた。なんだか寂しそうな顔をして、シルヴァンはフェリクスを撫でる。
フェリクスは美しい猫だった。艶やかな毛は触れるものを喜ばせ、にゃあ、と面倒くさそうに鳴く声も好まれた。
「フェリクス、お前が好きだよ」
シルヴァンは膝に抱いたフェリクスを両手で包み、低い声で囁いた。こんな風に人間の雌のことも口説いているのだろう。シルヴァンは温かい。フェリクスは仕方なく、グルグルとほんの少しだけ喉を鳴らしてやった。けれども、フェリクスは行かなくてはならなかった。トン、と軽やかに床へと降りて、フェリクスはシルヴァンを振り返った。扉を開けてくれ。目でそう訴えると、シルヴァンは残念そうに腰を上げた。にゃあ、と鳴いて催促すると、シルヴァンはノブに手をかけた。誰かが向こう側からノックしている。
コン、コン。
「シルヴァン」
ディミトリだ。フェリクスはなんだか妙な気分になって、もう一度にゃあと鳴いた。どうしてか、不安だったのだ。シルヴァンはどこか思いつめた顔で扉を見つめている。フェリクスはシルヴァンの足に顔を擦りつけて、彼を見上げた。
フェリクスは猫だった。シルヴァンは肉を片手に彼を呼んだ。
「フェリクス……ここにいてくれ……」
目を開けると、遠くにぼんやりとした明かりが見えた。狭くて圧迫感のある暗い場所で、フェリクスは小さく体を丸めて眠っていた。ぐっと伸びをしても、体の中の不快感は消えなかった。昨日の夜に通常よりひどい目にあわされて、やっとやっとベッドの下へと潜り込んで今まで眠っていたのだ。
遠くの明かりはろうそくの炎だ。ゆらゆらと揺れている。部屋の片隅にある三人掛けのティーテーブルに、誰かが座っている。脚が見えるのだ。黒いブーツを履いた、両脚が。
フェリクスはサッと警戒し、自分を包むようにしていた毛布を手繰り寄せた。なにしろここへ連れてこられてからというもの、裸同然の格好で生活させられているのだ。羞恥よりも無防備さが不安を煽る。素早く周囲を見回して、部屋の中にいるのが黒いブーツの一人だけだということを確認した。ついでに、何かが床に置かれていることにも気が付いた。
白い皿に乗せられているのは、紛れもなく、肉だった。こんがりと焼かれた、分厚いステーキ。ダスカーベアだ!フェリクスの鼻がひくひく動き、急に強い空腹を感じた。香ばしいガーリックと香草、肉汁の匂い。フェリクスは迷ったが、ずるずると床を這って移動する。脚の鎖が音をたてないように布で包んだが、微かに擦れる音はきっとシルヴァンに聞こえているだろう。ティーテーブルにほど近い場所に置かれた皿に、手を伸ばすのは勇気がいった。けれども、ああ、空腹には勝てない。
散々逡巡した後に伸ばされたフェリクスの腕がベッドの下からそろりそろりと姿を現したのを見て、シルヴァンは耐えきれずに吹き出した。
「ウウゥ……!!」
まるで飢えた獣そのものだ。唸り声を上げて牽制しながら皿の上から一切れをかっさらって行ったフェリクスは、ベッドの下で肉汁たっぷりのそれを頬張った。素手で引っ張って食いちぎり、奥歯で噛み締めた。香草が臭みを消し、筋は切られている。うまい。体に力がみなぎるようだった。すぐに食べ終わり、次の一切れに手を伸ばす。
「フェリクス、よく噛めよ」
やかましい。黙れ気狂いの色情魔が。吐き捨てる代わりに肉を噛んだ。とにかく腹が立って、そして腹が減っていた。シルヴァンはティーテーブルで何をするでもなく、暗いろうそくの炎に照らされながらフェリクスのいるであろう場所を見つめていた。出撃前の、少し肌寒さを感じるようになった夜のことだった。