「あの商談に挑むには、少々足りないかもしれない」お菓子屋さんの行列に並ぶ菫(すみれ)
一年に一度しか売り出されない限定ドーナツを入手するという使命のため早朝から並んでいるのだ。
頭にはターバン、目元にはサングラス。変装は完璧だ。
甘味のために並んでいる姿など、見せられるわけがない。
周囲より頭ひとつ分は高い身長から前方を見渡すと、数人ずつ店内へ入っていく様子が見てとれた。
この調子ならあと数十分もあれば使命を果たせるだろう。
ふわりとドーナツの香りが風に乗って鼻腔をくすぐる。嗚呼…楽しみだ。
その時、期待に躍る気持ちを無慈悲に打ち砕く者が居た。
「すーみれっ!」
「ちっ」
能天気な呼びかけに思わず舌打ちが漏れる。何故、此処に此奴が。
背後から菫の顔を覗き込むように現れたのは蒼黒(そうこく)だ。
彼は商人で、菫は商談の際の通訳として彼と行動を共にしている。
仕事は出来るのだが、此奴は接してくる距離が近い、馴れ馴れしい。声が大きい。
「やっぱり菫じゃねぇかー!なぁんで無視すんだよっ!なぁなぁ菫ってば!」
「五月蝿い…!」
声を抑えながら、菫は鋭く一喝した。
「名を連呼するな!…なぜ俺だと分かった。変装は完璧なはずだ」
「??」
「…なんだ、その間の抜けた情けない面(つら)は」
「へ、変装…?」
黙っていれば整っている部類に入る容貌をこれでもかと歪めて、蒼黒は菫に指を差しながら小馬鹿にするように爆笑した。
「変装…な!いやー流石に付き合い長いと後ろ姿で分かるんだわ。折角の手間を無駄にしちまって…ぶふっ…すまんすまん…!」
涙まで浮かべて、全く謝っている素振りを感じさせず蒼黒は両手を眼前で合わせると、まだ笑いの気配で歪みそうになる口元を抑えながら菫の隣に立った。
「…で、なぜお前まで俺の横に並ぶ。さっさと帰れ」
さも嫌そうに、菫はジロリと蒼黒を睨みつける。
眼光の鋭さたるや、サングラスに穴が開きそうな勢いだ。
「お前が並ぶってことは、そりゃあ美味いドーナツなんだろ?俺も喰いたくなったんだよ」
「一口、二口で飲み込む貴様には過ぎた代物だ」
「ちゃんと味わってるって!失礼だな」
立ち去れ、と語気荒く口にしようとした時だ。
「お待たせいたしました!次のお客様どうぞ」
ドアから店員が顔を覗かせ、天使の微笑みで菫と蒼黒を店へと誘う。
店内に入った菫はサングラスを外した。
確(しか)と、その姿を見定めなければならない。
こんな色付きの眼鏡越しに眺めたのでは、職人たちに失礼というものだ。
万死に値する。
食欲をそそる色合いで整然と並べられたドーナツを、うっとりと菫の視線が一つ一つ丁寧になぞる。
その隣で「うまそう!」と目を輝かせる蒼黒の姿なぞ、すでに瑣末(さまつ)なこと。
菫は、苦悩しつつも、しかし時間をかけては外に並んでいる…恐らくは飢えてドーナツの幻覚まで見ているかも知れぬ同志たちの迷惑になると焦る気持ちを抑え、限定品と他にも数種類を購入し、無事に店を後にした。
店を出ると、蒼黒が自分で購入したドーナツの包みを差し出してきた。
「これ、お前にやるよ」
「何故」
「なぜって…全種類食べられたら幸せだろ?」
菫は受け取った包みの中を覗いて、軽く目を見開いた。
自分が涙を飲んで買わずに諦めたドーナツが、そこに並んでいる。
こいつ、俺の注文を見て、俺が頼まなかったものをわざわざ…。
ぐっと、菫の胸に迫り上がるものがあった。
しかしそれを堪えて、菫は何事もなかったかのように冷静に振る舞う。
「…普段の仕事でもこのくらいの有能ぶりを見せろ」
「は!俺はいつだって有能。自分でも怖いくらいだぜ!お前だってよーく知ってんだろ!」
ばし、と蒼黒が菫の二の腕を叩く。
「この借りは次回の商談で返してくれればいいぜ。なんてったって、相手はあの化け狸ジジィだからな!揚げ足とられるわけにいかねぇんだ」
そう不敵な笑みを浮かべると、蒼黒は菫に背を向けてひらひらと手を振る。
「あぁ。心してかかるとしよう。化かされるのは、どちらのほうかな」
立ち去る背中に自信に満ちた返事を送る。
中身がつぶれない程度に包みを抱きしめ、菫は口元に思わず笑みを刷いた。
(終)
※笑みを刷く(はく)は間違った使い方です。
しかし素敵な表現なので使用しました。