本編① 雨林にて〜前編〜空がきれいだ、風が気持ちいい。
上手に飛べた、初めての景色を見た。
通り過ぎる星の子たちを誰彼構わず抱きしめたくなるような、愛おしいような、そんな高揚した気持ちのときさえあったのに。
何に興味があり、喜び、驚き、心動かされていたのだろうか。
以前までの自分は毎日どうやって生きていたのだろうか。
・・・どんなふうにそこに存在していた?
自分は、たくさんいる星の子の、その中のひとり。
この世界に生み落とされたときはひとりだったが、いつのまにか大切な人が増えていった。
硬い石のようだった心が、たくさんの感情表現をおぼえて豊かに柔らかくなるのを感じていた。
熱い肌に触れた水滴が音を立てて蒸発した。
雨粒を切り裂きながら雨林を飛んで、川の中に着地する。
ざぶん、と腰まで水につかった状態で、橙色の小さな船のようなものを両手ですくいあげる。
内側からほのかに優しく光る伝言を乗せた小舟。
そっと開くと込められた想いが広がった。
「あいたい」
ただそれだけの一言。
ひらがなで書かれた4文字が思いのほか胸を深く抉って、俺は思わず息をとめた。
意識が遠い昔に引き寄せられていく。
もうどのくらい前なのか数えられない。
一緒に原罪に挑んだ人が帰らなかった。
星の子の間で囁かれていた噂「帰らない子がいるんだって」
ただの噂だと思っていたのに、自分には関係ない、と。
あの人は、今、どこに・・・
雨が強い。
前髪から垂れた雨水が目に入ってくるが、瞬きもせず視線は小舟に落としたまま。
しかしその目は小舟を通り越し、遠く離れた別のものを見ているようだ。
どんどんケープから光が失われていく。
このまま、身体の芯まで凍ってしまえ、とふと思った。
この小舟に宿った名も知らない誰かの想いを共にして、鬱蒼とした森のなか石になってしまってもいい。
全身の力を抜く。
背のケープから光が抜け、身体ごと黒ずんでいく。
そのとき、誰かに腕を優しくつかまれた。
止めてくれるなという苛立ちと、踏みとどまったという安心感が同時に俺の心に広がる。
いや、こんなに人通りのある場所で散ろうしていること自体が、覚悟の足りなさの現れだったかもしれない。
その人はキャンドルを差し出して、回復させようとしてくれている。
「大丈夫?」
静かな声、気遣うように控えめに俺の腕を優しくつかんでいる。
「・・・少しぼうっとしてしまって・・・ありがとうございます」
自分の半端な行動のせいで心配させてしまったことを恥じ、そしてお礼も忘れないように言葉を返す。
まだ灯していない相手の顔は分からないが、声の低さからして男性らしい。
光を失いつつあるケープは水をはらんで重い。
つかまれた腕からじんわりと光が伝わってきている。
俺もキャンドルを出して灯しあい、相手の顔にかかった影が晴れると、現れたのは青く鋭い双眸だった。
その目が、少し驚いたように見えたのは気のせいだろうか。
声の優しさからかけ離れたその目の冷たさと、花火杖を携えた姿に全く隙がなく、俺はつい数歩下がって腕を振り払ってしまった。
「焚火までキミを運びたいのだけど、手を握っていいかな?」
振り払った俺を不快に思わなかったのか少し面白そうに見つめてから、彼は手を差し出してきた。
存外に丁寧な人だ。
どちらにせよ俺は簡単には動けそうにない。
その手をそっと握り返すと、その人は力強くケープを羽ばたかせた。
くるくると回転しながら踊るように着地する。
流れるような動きにも、エナジー補給にも無駄がない。きっと上級者だろう。
手を引かれながら密かに相手を観察する。
背中が大きい、俺より年上の男性だ。
大きな木の下にある焚火の周辺が暖かく乾いている。
男性は俺に先に座るよう手で促してくれた。
焚火のそばに座り、俺は躊躇(ちゅうちょ)なく燃え盛る炎の中に手を入れる。
冷えた指先から暖かい光が全身を巡った。
「雨林で考え事は気を付けないとね。まぁ、余計なお世話かな」
俺のケープの羽の数は5。
その枚数を眺め、男性が柔らかく微笑みを含んだ声で呟いた。
雨林で散るほどの初心者、という数ではない。
「さっきはありがとうございました」
「ん、いや、通りかかって気になってね」
そうだよな。雨林で立ち尽くす星の子を見たら、誰しも気になってしまうだろうな。
そして男性は少し迷ったように視線を外し、しばし考えてから言った。
「通りかかったというか、道順がさ」
雨林を走る道順のことだろうか。
「君の光を集める道順がさ、一緒なんだよね、アイツと」
一瞬誰のことか分からなくて考える。
彼とは初対面のはずだし、どこかで会ったことが、共通の知り合いでも居ただろうか。
いや。待て。
道順が一緒、アイツ。
まさかと胸がぞわりとする。
俺の忙しく変わる顔色で、疑問が確信に変わったらしい。
「やっぱり、君、紅(べに)のお弟子さんでしょ」
そうきっぱりと、男性は言った。
「師匠を知っているんですか」
だいぶ情けない声になってしまった。
それは仕方ない。無いに等しかった情報が、突然目の前に転がり込んできたのだ。
「知ってるよ」
「どこにいるかは・・・!」
「どこに行ってしまったのかは分からない」
相手の声にかぶせるような矢継ぎ早の俺の質問に、男性は冷静に答えてため息をついた。
俺は一瞬浮かせた腰を、また力なく丸太に戻す。
「・・・なんで俺が弟子だって分かったんですか」
男性は、青年の横顔をじっと見つめた。
焚火を見下ろす黄色い瞳に炎がうつっている。
泣くかと思ったが、それよりも身体が空っぽのような、感情さえも湧かない、そんな虚無感が彼を包んでいた。
「弟子がいることは聞いていたよ。そしてその耳飾り、紅のでしょ」
キャンドルを灯しあい、影が晴れたときに見せた男性の表情の意味が分かった。
頬杖をついて、男性が懐かしそうに眼を細めて飾りを見つめると、少しだけ目元の印象が柔らかくなる。
間違いなく師匠を知っているんだ。
男性が指さす俺の耳元の飾りは確かに師匠からもらったもので、器用な職人にわざわざ注文して作ってもらったと言っていた。
紫の布地に、金の装飾、いつかの季節の究極のアイテムで、簡単には手に入らないものだ。
俺の羽根の数では到底手が届かない高価な耳飾り。
それを目にした星の子のなかには、盗んだ物か、どんな手をつかって手に入れたのかと問い詰めてくる者もいた。
それでも身につけていたかったのは、自分を勇気づけるためだ。
師匠は生まれたばかりの俺を育ててくれた親鳥だ。
見るもの聞くもの、全て初めてのものばかりの世界で、厳しく、でも自由に飛ばせてくれた、大空みたいな人。
一緒に原罪へ行き、そして帰ってこなかったその人は、名前を紅藤(べにふじ)という。
師匠と一緒なら、雨林も、暗闇も、氷の世界も、竜も、怖くなかった。
突然親を失った俺は動揺し、恐れ、闇雲に探して回った。
師匠の知り合いに出会えたことは僥倖だが、幾度も繰り返される落胆を受けとめるには、もう心が正常に保てない。
・・・疲れたな・・・
「僕は紺碧(こんぺき)っていうんだ」
口を閉ざし沈黙してしまった青年を気遣うように、男性が口を開いた。
青い目によく似合う名だと思った。師匠と年恰好も似ている。
使い込まれた杖、細身だがよく鍛えられた体躯(たいく)に、長身。
ああ、俺も早く大人に、強く、もっと自由になりたい。
自由なのに、誰もなにも制限しないのに、喪失感から逃げられないでいる。
親が居なければ何もできないと思い知ってしまった、小さな自分。
乾ききって穴が開いてしまったようなこの心は、いつかまた元にもどるのだろうか。
「紅とはよく飛んだよ。弟子ができたって不愛想に言って、でも僕には会わせてくれなかったんだよ。ひどくない?」
虚ろな視線を寄こすだけの青年に軽く肩をすくめて、紺碧は立ち上がった。
「話し長くなりそうだし、とりあえずさ、僕のとこ来ない?」
「・・・」
普段ならば、この手を取っていいか迷うところだ。
一瞬、この人が俺をどうにかすることで得られるメリットは何だろうかと考える。
しかし落胆と疲労が判断を鈍らせた。
差し出された手を握ってのろのろと立ち上り、俺はパンツの汚れをはらった。
師匠はこの人のことは何か話していただろうか。記憶をたどってみる。
「そうそう、君の名前も知っているよ」
木の根元から飛び立ち、迷いなく一直線に羽ばたきながら彼は言った。
「雪白くん。当たったかな?」
ああ、当たりだ。
雪白(ゆきしろ)。
それが、師匠がつけてくれた、俺の名前。