紺碧、吐露紺碧が体調を崩した。
深淵の海で泳いでから、極寒の峡谷なんて行くからいけないんだ、と雪白は思った。
ただの風邪だと紺碧は言っていたが、時刻は昼を回るというのに今日は一度も姿を見せず、もしかして動けなくなっているのではと心配になってきたところだ。
彼の部屋はツリーハウスの3階。
掃除の時以外は3階へ行くことはなく、紺碧の部屋へ入ったのは雪白がここに来て家の中を案内してもらったとき以来だ。
他の部屋よりも装飾が豪華にされた重厚な木製のドアは、ここがこの家の主人の部屋だということを示している。
控えめにノックをして、少しだけドアを開ける。
寝室の前には書斎があるから、ノックが聞こえないかもしれない。
「紺碧さん?」
雪白は寝室に届くくらいの声で呼んでみた。
「入りますよ」
耳をすませると微かに入室を許可する返事が聞こえたので、雪白は静かに室内へ入る。
靴で踏んでいいものか迷うほど厚い敷物の上を歩きながら左右に目を配ると、大きな書棚と、ピアノ、そして珍しい楽器を見つけてその前で足を止めた。
艶のある木で出来た本体は深い茶色をしていて、形はギターそっくりだが大きさはギターよりもかなり小さい。
ピアノの音は時々聞こえてくるけれど、この楽器の音は聞いたことがなかった。
「・・・なんていう楽器だろう・・・」
ひとりつぶやきながら部屋を横切り、そっと寝室のドアを開ける。
巨木の内側に沿って作られた丸い部屋。
窓際に置かれたベッドに横たわる紺碧の姿があった。
「具合どうですか?」
声をかけると紺碧は力なく微笑み、寝具をどかして場所を作ると、座って、と指で示した。
ベッドに座り彼の顔を間近で見ると、顔色が悪く、目にも力がない。明らかに具合が悪そうだ。
紺碧の額に手を当てて、雪白は自分の体温と比べてみる。
「ちょっと触りますね」
次に耳の後ろの首の辺りに触れると、軽く汗をかいているのが分った。
「熱い。これは結構高そうですね」
「・・・なんでそこで計るの?」
寝ているところを起こしてしまったのか、熱のせいか、ぼうっとした様子で紺碧は尋ねる。
「額より分かりやすい気がして」
聞けば食欲はないし、水分も摂っていないという。
雪白は店にあった適当な果物を拝借して果汁をしぼり、水、少量の塩、砂糖を入れて飲み物を作った。
味は保証できないが、水分不足と体力が落ちてしまってはいけない。
飲み物と、ついでに店で出しているスープも持って寝室へ戻る。
「ちょっとでも飲んでください。スープは具は食べられなくても、スープだけでも飲んでみてください」
体を起こすと頭痛がするらしい、紺碧は少し顔をしかめつつ起き上がり、グラスに口をつけてひと口ふたくち、飲み物を飲む。
「雪白くんが作ってくれたの?すごいなぁ」
何が入っているのかひと通り聞いたあと、紺碧は驚いたように言ってへらりと笑った。
その笑顔にも元気がないが、持ってきたものは全部食べてくれたのでひとまず安心だ。
氷水でしぼったタオルを額にのせると目の奥の頭痛が和らぐようで、紺碧は気持ちがいいと呟いて目を閉じた。
「看病の仕方とか、紅藤が教えてくれたの?」
紅藤(べにふじ)は雪白の師匠で、原罪に行ったきり戻らず、行方が分からない。
「教えてもらったというか、師匠の真似をしただけで・・・。飲み物は不味くなかったですか?」
「美味しかったよ、ありがとう。・・・看病してもらうとか経験なくて、よく分からないんだよね・・・」
親鳥とか師匠とか、一緒に生まれた仲間とかはいなかったのだろうか。
紺碧は遠いところを見るような虚(うつろ)な目をしていて、それが熱のせいかどうかは分からない。
「小さい時、体調崩したらどうしてたんですか?誰かと一緒に居なかったんですか?」
「生まれたての雀ばかりで集められて過ごしてたんだけど、あんまり恵まれた環境じゃなかったかもしれないね」
そこで彼は言葉を切って雪白を見た。
「雪白くんになら話してもいいかもしれない」
「・・・なんですか」
彼の過去に関する話しだ、と思った。
少し緊張して雪白は背を伸ばして座りなおす。
「星の子を売っている組織、聞いたことある?」
「星の子を売る・・・人攫いとか、そういう悪い人たちのことですか」
予想外の言葉に思考が追い付かなかったのだろう、一瞬の間のあと、オウム返しのように言った彼の眉間に皺が寄る。
嫌な響き。陰鬱な、凄惨な。嫌な予感しかしない。
「そこでは生まれたばかりの星の子が集められて育てられていてね。気がついた時には、僕はそこにいた」
紺碧は穏やかに、目を閉じたまま昔話をするように話し始めた。
生まれたばかりの星の子は本当にまっさらで、感情表現を教わらないと手を振ることさえできないのだが、そこに目を付けたのが人身売買を生業とする集団だ。
そこでは余計な感情表現は教えず、自我を持たせず、客の要求に従順に従い、客を満足させるために星の子は教育されるという。
まさに生きる人形だ。
高価な対価と引き換えに売られた後は、客の自由。
疲れたからキャリーして欲しい、楽器を教えてほしい、一緒に原罪へ行って欲しい。
暗黒竜に攻撃されるとどうなるの、酸素がなくなるとどうなるの。
寂しいから話しを聞いて、一緒に添い寝して、意中の人とその相手を別れさせて、代理で謝ってきて、弟子として振る舞って、友達のフリして、彼氏彼女のフリして、相方になって、依存させて、ストレスの捌け口に、欲望の捌け口に。
・・・私を、俺を、満足させて。
歯止めのきかない欲望が暴走して降り注ぐ、表に出てこない暗い事実。
取り締まる法律などないから、その悲劇は止(とど)まることを知らない。
この世界は自由だが、自由と表裏一体で、裏では闇が巧妙な罠を仕掛けて笑っている。
たくさんの子が集められていた上に、商品でしかない子供に注がれる愛情などなく、体調を崩しても対処法など知らずただ耐えるだけだったのだと、紺碧は言った。
そして彼は自分を買った客から逃げてきたのだという。
「空っぽな身体に、偏って教えられた感情。愛情があるように振る舞って相手に好かれるようにするのは得意だよ。でもどれが本当の僕の感情なのかよく分からなくなるんだ」
普段の紺碧はいつも穏やかで微笑みを絶やさず、誰に対してもとても自然に振舞っているように見える。
雪白は想像を超える話に絶句して、何も言えなくなってしまった。
簡単に同情などできないし、何を言っても軽く聞こえてしまいそうで、彼を傷つけてしまいそうで。
ベッドに散らばる銀と群青の髪を一房手に取って、ほつれをとくように指先で梳いて、ぎゅ、と握る。
「俺が紺碧さんと同じ時、同じ場所で生まれていたら、2人で生きてこれたのかな。紺碧さんが大変だったら助けることができたかもしれないのに」
こうだったら良かったのに、なんて言ってもどうしようもないのに。
当時の幼い彼が置かれていた状況を思うと、胸が押しつぶされるように辛い。
自由を奪われて、気にかけてくれる人もいなくて、物みたいに都合のいいように扱われて。
「紺碧さんは、いつも自然に笑ったり怒ったりしていて、それは貴方の本当の気持ちからくるものだと思っていました・・・全然不自然ではなかったので・・・」
自分と居るときも、彼は演技をしていたのだろうか。
もしそうだとしたら、それを見抜けない自分は今まで彼の何を見てきたのだろう。
そして彼にとって自分が演技の必要な相手だとしたら、それはとても悲しい。
「・・・雪白くんと居ると、すごく気持ちが楽なんだ」
ぽつりと小さな声で発せられた一言。
自分を慰めるために言ってくれているのだろうか、と一瞬思ったが、声音や表情からそれが本心なのだろうと感じた。
「なんで・・・俺は特別なことはなにも」
「キミみたいに裏表がなくて、真っすぐで、飛ぶのが大好きで、何を考えているのかすぐ顔に出る子、一緒にいると楽しいよ」
「褒めてくれてるんですよね、それ」
すぐ顔に出る、と言われて雪白は苦笑した。
「もちろん。キミと居ると・・・生きているんだなって実感が湧く・・・」
深く息を吸って、静かに言う彼の言葉が、心にしみる。
一緒にいることでそう思ってくれたことが嬉しい。
外側からでは分からない、彼が経験してきたこと、背負ったもの、葛藤や苦しみ、少しでも理解できる日がくるだろうか。
「前に目尻のほくろの話になった時、元々なかったって言ってましたよね。もしかしてなにか関係してますか?」
「鋭いね」
面白い話じゃないのに、さも楽しそうに言って、彼は片方の口の端をにやりと上げた。
そういう笑い方をすると、途端に凄みのある表情になる。不思議な人だ。
客に気に入られるように、容姿をいじることが日常茶飯事で、目の色を左右で違う色にしたり、手足にヒビを入れたり、高身長、低身長を強いたり、歯を削られたりなどがあったそうだ。
そして彼の場合は目尻のほくろと、銀髪に所々混じる青い髪、そして上半身に彫られた入れ墨だという。
複数の大きな手が自分を掴み、冷たい作業台に磔(はりつけ)のように押さえつける。
屈辱的な光景を無慈悲に照らす白い照明と、真っ黒な影の目眩がしそうなコントラスト。
近頃はほとんど見ないが、その場面を夢に見てはうなされ、冷や汗をかきながら目を覚ますことがあった。
「お前は目つきが悪いから、ほくろでも入れて艶っぽい雰囲気でいこうか、なんてアクセサリーでもつけるように軽く言われてね。これで済んで良かったよ。目とかいじられると最悪だったから」
彼の入れ墨は見たことがない。
いつも上衣の下にインナーを着ているのはそういう理由だったのだろうか。
痛かったに違いない。
怖かっただろうに。
確かに計算されたようなほくろの位置だな、と、切れ長の目を際立たせるな、と思ったことはある。
しかし、故意に作られたものだとは夢にも思わなかった。
「ほくろも髪も、鏡で見たときに目立つ場所ですよね。その・・・辛くないですか。髪も伸ばしてるし」
ぬるまったタオルを氷水で冷やし、交換する。
「辛かったよ、昔はね。でもさ、見るたびに落ち込んでいたら、なんか負けたみたいで嫌だなって」
蘇る思い出はどれも苦痛と屈辱、後悔で出来ていて、そのくせその場面の映像、においさえ鮮やかに思い出せて。
痛い、苦しい、憎くて、なにも抵抗できなかった無力で無知で臆病な自分が嫌いで。
「確かに元々の自分のものじゃないし思い出しちゃうキッカケだけど、今はこれも含めて僕。これも僕の魅力ってことで踏み台にして利用しちゃえばいいんじゃない?って思うようになった」
望まず与えられたものだが、それらはもう彼を支配する象徴ではなく、現状を受け入れた彼の一部。
思い出す記憶も、噴き出す感情も飼いならして、荒れ狂う風の中を飛ぶように上手くかわして、高く飛ぶための踏み台にして。
「むしろ与えてくれてありがとね、くらいの気持ちだよ。ね。なかなか似合ってるでしょ?」
自信ありげに語る口調にも表情にも、挑むような気配をにじませる。
暗黒竜と対峙するとき、峡谷のレースに出るとき、嵐のなかを飛ぶとき、彼は今のようなとても好戦的な表情を見せる。
今も挑んでいるんだ、自分自身の気持ちに決着をつけるため、過去と決別するために、と雪白は思った。
「確かに似合ってるって思います。でも素直に言えないです。散々、紺碧さんの髪色が綺麗だって言ってしまって」
雪白はどんな顔をすればいいのか分からなくて、手に握った髪に視線を落とす。
春が近づき優しくなった日差しが差し込んできて、雪白の白い髪を明るく透かし、それとは対照的にうつむいた顔に影を作った。
自分のために悲しんだり、気持ちに共感しようとする雪白を見て、紺碧はそんな彼が愛おしい、と思った。
愛おしい?
自分が誰かを愛おしいと思うなんて。
そもそも、この感情は「愛おしい」というものなのか分からない。
けれども、春風のような、優しいこの感触。
ふ、と紺碧が笑う気配がした。
「それだって僕を褒めてくれたんでしょ。それに雪白くんに昔のこと何も話してなかったしさ。キミが綺麗って感じたんなら、純粋に綺麗だったんだよ。僕は褒められて嬉しかったよ。だからこれからも褒めてね」
褒めて、なんて年上の彼が素直に言うもんだから、雪白は少しだけ笑った。
額のタオルをどかして、そっとおでこをなでる。
指の隙間から光のきらめきがキラキラとこぼれる。
「紺碧さんは、お店に来るお客さんをお腹いっぱいにして笑顔にさせてえらいです」
「はい」
子供に言い聞かせるような口調に、今度は紺碧が笑った。
「仕事休みたいなんて言いながらも、ちゃんと行くのでえらいです」
「はい」
雪白も、もう少し笑顔になる。
「書庫の灯籠にめちゃくちゃ頭ぶつけてるけど、ちゃんと飛ぶのでえらいです」
「はい。て、ちょっと」
笑顔になった紺碧の額から髪の方まで撫でて、そっとほくろのある左の目尻に触れる。
薄い皮膚の感触。
目元に触れられても紺碧の目は揺らぐことなく、真っ直ぐ雪白の目を見ていた。
光の角度で、緑にも、灰色にも見える紺碧の青い目。
いまは、穏やかな深い空の色。
「俺を雨林で拾ってくれて、世話してくれてえらいです。感謝してます」
「はい。雪白くんはちゃんとお店を手伝ってくれる良い子です」
幼い子供のようだが、飾らない言葉がお互いのあいだを行き来するのは、とても穏やかで心地がいい。
心がすっと本来の柔らかさを取り戻す、そんな感覚だ。
「痛かったり、嫌だったことがあったけど、乗り越えて、ちゃんとここに紺碧さんが居ます」
「はい」
次に何を言おうか迷って考えて、自分の感情を手探りで探っていると、今まで冷静でいられたのに急に込み上げるものがあって、雪白は思わず大きく息を吸い込んで一気に言った。
「貴方が俺にしてくれたことは、間違いなく愛情があったと思います。・・・ここに居てくれてありがとう」
ダメだ、涙が出て止められない。
声だって涙声だし、情けないな。
人前で泣くなんて絶対嫌だったのに。
でも紺碧さんの前だと自然と素直になれる。
ぐちゃぐちゃに泣いている俺も、俺なんだよって、なんだか分かって欲しくて。
「なんでキミが泣くの」
ぽつりと優しい声。
今度は紺碧が雪白の頭をなでた。
「雨林で紺碧さんと会った時、実はかなり限界で」
師匠を探して飛び回って、疲れ果てていたときだ。
「もう師匠が帰ってこないなら、俺も居なくなりたいって思ってたんです」
強い信念と意志を持つこの青年が、生きるのを諦めるほど追い詰められていたのかと、紺碧は改めて思い知らされる。
「誰にも頼れなくて。でも紺碧さんに会って、師匠を知る人と出会えたのがとても救いになりました」
たくさん、たくさん話を聞いてもらった。
小さな思い出話から、必死にせき止めていた悲しさや寂しさまで。
否定せず、いつまでも静かに聞いてくれたのが紺碧だ。
泣いていいよと言ってくれた貴方の目も悲しそうだった。
それは貴方にも泣きたいほど辛いことがあったからなんじゃないか。
「それに紺碧さんは俺の目標でもあるんです。自分をちゃんと持ってて、飛ぶのがめちゃくちゃ速くて。だから・・・だから紺碧さんは、えらい、です」
言いたいことの半分も伝えられないような気がして、もどかしい。
雪白は紺碧の手に自分の手を重ねた。
じんわりと、エナジーの循環が始まって、ゆるやかに巡りはじめる優しい気配。
この流れに乗って、自分の気持ちも届いたらいいのに。
「...ありがとう。今の言葉ぜんぶ、本当の言葉だね。そして僕が感じている気持ちも、絶対僕自身の気持ちだ」
救われているのは僕の方だよ、と言って雪白の手をぎゅ、と握る。
「雪白くんと居ると、心が生き返る気がする」
そう言ってもらえて、雪白はとても嬉しかった。
雪白自身も紺碧と居ると、居心地が良くてとても楽だからだ。
彼の過去の話は心にずしりと重くのしかかってくるものだったが、打ち明けてくれたことが嬉しかった。
貴方が辛いとき、何をしてあげられるだろう、貴方は何を望むだろう。
あわよくば、ほんの少しでも、一本の小さなロウソクのように、足元を照らすことができたら。
貴方がその青い瞳で見据えた先を、隣で肩を並べて見ることができたら。
それはとても幸せなことだろう。
雪白が去った自室で、僕は鏡の前に立っていた。
食事をとったおかげか、かなり体力が戻っている。
目尻のほくろ、色の違う髪、そして上半身の紋様。
上衣を脱ぎ捨てた背や胸、濃紺で彫られたのは死相紋(しそうもん)だ。
星の子は胸の核を中心にエナジーをめぐらせる回路を体内に持っている。
無理に大量のエナジーを流すと、この回路は傷んで黒く変色してしまうのだが、ひどくなるとその色が皮膚の表面まで浮かび上がってくる。
それは死相紋(しそうもん)と呼ばれ、かなり重症な証であり、手遅れになると死に至ることもある。
忌むべき、不吉な紋様だ。
―――だいぶいいご趣味のものを彫ってくれちゃって。
僕は見慣れた紋様を見つめて心の中で呟いた。
本物の死相紋は、もうちょっとグロいんだけどね。
そして腰の辺りにある、醜く切り裂いたような古傷。
ついに消えそうにないその傷は、今でも心を抉る最たるものだ。
新しいシャツに腕を通し、再びベッドへ戻る。
まだ頭が痛いなぁ。
目を閉じると先ほどの雪白の顔が思い浮かんだ。
居てくれてありがとうって、泣いていた。
生きていて良かった、彼も、僕も。
生きることをあきらめないで良かった。
眠気が襲ってきて、思考が鈍くなってくる。
暖かい気流の中、雲に突っ込んだ時のように意識が気持ち良く落ちていく。
誰かと心が通じ合う、それがこんなに嬉しいことだなんて。
知らなかった。
遠くまで見渡せる、琥珀色のキミの瞳が見据えるその先を、僕も一緒に見ることができたら。
1人では見えなかった景色が、きっと見られるだろう。