Hoffnung「リヴァイ」
扉越しに、女が呼びかける。
その扉に凭れて座る男が、声にほんの僅か背後を振り返った。
隔てた扉の向こうで、ちゃぷん、ちゃぷんと、軽やかな水音が奏でられる。時折微かに鼻歌が聴こえてくる。どうやら、割と上機嫌な様子で湯で遊んでいるらしい。浴槽に浸かる人間が動く度、男の耳元に、水音がやけに反響して届いた。
男は何も答えず、ただひたすら其処に座り、扉越しの存在に耳を傾けている。
暫く水音と鼻歌の合奏が続く。そして、突如、止まった。
「夢を、見たんだ」
ちゃぷん。
「世界が、滅びる夢」
その声は存外、軽快に紡がれた。
「ガラガラと音を立てて形をなくしていく世界の中で、」
ちゃぷん。
「あなたは、繋いでいた手を離して」
ちゃぷん。
「私は、あなたを振り向きもせずに走っていった」
ちゃぷん。
「あなたがどうなったかは、わからないけれど」
雑音と静寂が、同時に鼓膜を打つ。
「私は、死んだ」
ぺち、ぺち、と濡れた足が床を叩く。
背後で、風が起きて、
「――――……リヴァイ」
水音が、耳元で響いた。
「……ねぇ、リヴァイ」
ずぶ濡れの身体が、リヴァイに纏わりつく。
男女の間で、膨らみが歪に形を変えた。
「もしも私が、あそこであなたと共に居る事を選んだとして」
すぅ、と酸素を吸い込む。
「あなたは、私と一緒に、死んでくれる?」
沈黙が場を支配する。
男の衣服が、見る間に色を変えていく。
「…………」
痛いほどの静寂の中で、ひとつ、ぴちゃんと水が跳ねた。
「……お前が、大人しく何もしないでいられるのか」
「―――…あぁ、しない」
いずれにせよ結末が変わらないのなら。
「そんな末路を選ぶ事を、したって良いだろう」
は、と息が漏れ出た。
「お前は、しない」
今回も、次も、その次も。
彼女にできるわけがない。
例え世界が、それを許したとしても。
例え彼等が、いずれにせよ全く同じ末路を、辿るとしても。
「さっさと拭いて着替えろ。風邪を引く」
「ねぇ、リヴァイ」
「ハンジ・ゾエ」
何かを続けようとしたハンジの言葉を、リヴァイが無理矢理断ち切った。
「絶望を前にしてもなお諦めず、希望を見出す」
身体にまわされた腕を、男が掌でなぞる。
表面に浮かぶ水滴を拭いつつ、徐々にそれを指先へと滑らせていく。
「人類の為なら、最後まで足掻き続けようと飛んでいく。てめぇの男すら置いていくのを厭わず」
世界には、二人だけではないのだから。
こつん、と互いの指先が触れて、ゆっくりと絡み合った。
「それがお前で」
――――それが調査兵団だ。
一瞬目を瞠ってから、ハンジが甘やかな微笑を浮かべた。
それはもう軽やかに、彼女は次の言葉を紡ぐ。
「それなら、リヴァイは、てめぇの女を躊躇なく送り出してくれる、って事かな」
互いの手が、ぎゅ、と一瞬深く繋がって、そして離れた。
それが答え。
「……ふ、ふふふ」
そうか、そうだよね。小さな笑い声が、楽しげに、或いは悲しげに、空に染み込む。
「…………」
リヴァイが振り向いて顔を寄せる。
もう黙れとでも言わんばかりに、彼女の声を奪った。
刹那映った互いの瞳の奥には、失望と希望が綯交ぜになって浮かんでいた。
暫くそうして、互いの存在を分かち合って、漸く熱が離れる。
はぁ、と溜息のような吐息が漏れて。
「――――……ふふ、幸せで、少し、痛いね」
頬から一つ、何かの残滓が零れ落ちた。