私の可愛い弟ざざあ。
ざざあ。
まだ冷たい風が頬を撫で、早咲きの桜の花びらを連れてくる。
4月よりお互い『新一年生』となる訳だが、小さい方は大きい方の新一年生の足元に必死にしがみつきながら顔面くしゃくしゃにして子供特権の駄々をこねて離さない。
「音、お前も来年から小学生の『お兄ちゃん』なんだからしゃんとして。」
「は…はじめがどっか行くなら小学生なんかにならん!」
「ほら、また帰省する時とかさ、寄るから。もう俺、帰る家…『ここ』しかないし。」
ほほえみながら癇癪起こす駄々っ子の頭をなでると、弾かれたように頭をあげ「…っ!おいのお嫁さんになる言うことか?!ずっと一緒?」と口にした。
その言葉にあっけにとられたが、震える手からは幼いながらに必死さを感じここで手を振りほどけばこの小さな体に見合わないほどの大きな傷をつけてしまうのではないか、と思案した。
この年齢ではまだ男だ、女だ、結婚だ、と考えるのは難しいのだろうと。結局は自分の事が大好きで離れたくないから出た言葉だと思うと満更でもない。
「んー…、それもいいかもなぁ。」
「まこちっ!?」
満面の笑みのかわいいかわいい弟分に、笑顔で「うん、お前が大人になったらな。」と返した。
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体はボロボロで陸すっぽ飯も与えられない。
『まとも』な食事なのは、せいぜい小学校で出される給食のみ。それでも余った食パンなどを持ち帰ることができる日もあるのだから自分はまだ、テレビで放送されているような『事件』よりマシな方だと考えると気は楽だった。
月島基、12歳にして世の中の全てを悟ったような顔で生きている。
小さいアパートで、呑んで打って殴ってたまに働いて寝る。を地で行く父親と二人きり。
とにかく、栄養も体力も気力も思考能力も何も足りていない状況だ。
近所の裕福な鯉登家から「暴れん坊の3歳児の面倒をみないか?見てくれたらお小遣いもやるし、食事も用意する。」なんて甘い誘いがあれば、何も疑うことなくOKしてしまう位には。
OKしたその日から、その猛獣と相まみえることになる訳だがこの足りない体で、相手にするには兎に角、骨が折れた。
何をしても癇癪を起し、腹を立てる。だが、何となくだがわかってしまった。
これは寂しさの裏返しだと。
月島を用意しなければいけない程、面倒が見れないという事は、3歳になるまでも同じように誰かが宛がわれ続けたのだ。
月島はそれが何故だか悲しく思えて、兄のように時には母のように接した。何となくだが自分のように「悟った」人間になってほしくないと感じたのだ。
そのうち、一緒に過ごしていて気を許してくれたのか癇癪を起すことはなくなり、今では「はじめ、はじめ」とカルガモの親子よろしく何をしても後ろついて来るようなった。
本当にそれが可愛くて、月島の中での足りなかったものを埋めてくれるような気もする。
結局、おもりはだらだらと中学卒業間近まで続いた。
鯉登家の3歳児の猛獣は少しばかりヤンチャな鯉登家の少年へと成長し、今まで面倒を見てくれたという恩義から全寮制の高校への資金を出してくれることとなった。
クソ親父に甲斐性は無い。
そうそう働きに出ようかとも考えていたので、有難くその申し出を受けたが、月島は少年と少しばかり離れる事を心配した。
心配通り、少し成長したからといってまだまだ甘えたがりのやんちゃ坊主だ。
あまりにも泣きわめく為「将来大人になったら嫁になるぞ。」という少女漫画よろしく指切りしてやれば、直ぐに機嫌を治したのが子どもらしくて面白かった。可愛い見た目なので、嘘泣きなんて覚えられたらたまったものではないなと思う。
「休みのたびに、ここには寄るから、元気な顔を見せてくれよ。」
そういうと、少年は喜色満面で頷いた。
それから、長期休みの度に鯉登邸に訪れている。
初めのうちは、いの一番に出迎えをしてくれて、学校ではこうだったああだったと楽し気に話をしてくれていたというのに、兄のように慕ってくれていたというのに。
大学資金の援助まで甘え、それも卒業まで残す所1年…就活をする頃には月島と少年はほぼ口を利かなくなっていた。
少年の実兄曰く「音ははじめどんが、大学卒業したら嫁に来るおもごった、違ぅて拗ねちょっどな。」と困ったように笑う。
(まじかよ、あいつ…今年で12歳だろ)
あんな昔した頓智気な約束事を今の今まで信じていたというのか。
ため息も出ててしまいそうになる。
だが、良い。まだ言っても12歳は子供だ。
自分が12歳の頃だって、先の事など何もわからず勝手にあきらめて悟っていたのだから、何か引っかかるところが彼にもあるのだろうと。
要するに大人になれば、考え方も変わってくる。
(今は触らぬ神にたたりなし。)
月島はそう思い、鯉登家との交流は持つものの、あれだけ目をかけた少年とは其れから、あまり関わりを持たず過ごすこととなった。
就職活動も無事おわり、結局地元で就職をした。まだ少年と離れるのが心残りだったのもある。ただ、何も進展はなく、数年たった頃大阪本社への栄転の話が上がった。
その頃には、目を掛けていた少年は青年へと成長し高校3年生となっていたが、あれから関係性はさらに悪化し口も利かない、利こうものなら睨み付けられるまでになっていた。
どうしてこんなに嫌われてしまったのか…、案外本当にほのかな恋情が彼の中に過去存在していて今となっては「こんなおっさんに恋慕抱いていた事」に嫌悪しているのかもしれないなぁと納得させる。
そうでもないと、悲しすぎる。
月島にとって青年は、どんな態度でも可愛い弟であり、肉親よりも大事で大切な我が子だった。
だが、彼が月島を「嫌だ」というなら栄転の話はぴったりで、二つ返事で了承した。
鯉登家にはその話と、今まで沢山の恩を頂いたのに何も返せなかったことを詫びる。
鯉登家は肉親でも親戚でもないのに、まるで家族が離れ離れにでもなるように惜しんでくれて、なるほど家族間での照れ臭い、寂しいとはこういうものか、とふと思う。
さようならパーティーならぬ、栄転祝賀会なるものを開いてもらい身に余る光栄だなと思った訳だが、青年はその場に一切顔を出さなかった。
もはや『決定打』だ、離れるのは正解だった。
と寂しく思う。
(――…さよならクソ親父、さよならなぜか俺を嫌いになった音。)
東京から関西となればわざわざ会いに来ないと会えない距離だ。
もう二度と、会う事ないかもしれない青年に、心の中で別れを告げた。
――だが、青年は会いに来た。
卒業旅行に託けて1ヶ月も。
「おい、どうしたんだ。俺が嫌いだっただろう?」
「…。」
やはり睨み付けられるだけだ。
無視するくせに、毎日アパートの前で立って居るので月島としても、アパートに入れざるをえない。
そして青年はひとしきり部屋を見渡し、出されたコーヒーを飲み無言でホテルに帰るというのを繰り返している。
何がしたいのか全く分からないが、彼は彼なりに距離の詰め方を考えているのかもしれない。そう思うと少し嬉しい。
だが、カレンダーはもう4月。いよいよ大学の入学式を間近に控えているのでは無いだろうかと心配しはじめた頃「やっとだ。」と一言青年は口にした。
「やっと?あぁ…大学か。大学の準備とか大丈夫か?」
声が聞けたことに飛び上がる程嬉しかったが、ここは冷静に。
ここで「久々に声を聞いた」など言えばまた話してもらえないかもしれない。
「大学はこっちだから大丈夫だ。2人で住む家の準備もこの1ヶ月で終えた」
「そうだったのか。大阪か…(いつでも顔が見れるな)、ルームシェアなんて今時だなぁ。」
そのあとは、今まで月島を無視をしていたのが嘘のように、時を埋めるかのようにペラペラペラペラと饒舌に話すではないか。
「いままでずっと我慢していたからな、おそらくお前にとっては年齢が問題だったんだろ?そうだろう?だから4月迄は自分を抑えて抑えて抑えて抑えて、あぁ…爆発しそうだった。あと1日たりとも待てんかった。」
何の話ししてるか月島にはさっぱり分からん状況だったが、今まで可愛がっていた青年に無視をされ続けていた為、上機嫌に話す青年が可愛くて「そうか、そうか」と適当に相槌を打って話を聞く。
何か青年の中で変化があったのだろう。それは月島にとっては非常に喜ばしいことだ。青年にとってはわからないが。
「〜で…、〜だ…。あとは退職届も郵送すれば良い訳だけだが、どうする?私が代わりに出すが?」
退職届?何の話だ。あぁそうか、東京で彼はアルバイトでもしていたのだろう。
今はその話なのだろう。アルバイトで退職届が必要なのは珍しい。知らないだけかもしれないが。
今時はいろいろな働き方があるから、頭の良い青年は何かアルバイトでも重要なポストについていたのかもしれないな、などと勝手に妄想をして笑っていると、視界が翳る。
無意識に顔を合わせないよう、としていた為青年がどういう顔をして話をしているかなど月島には分からなかった。
目の前まで近づいていた、自分が想像するよりはるかに大きな青年は陽気な口調とは裏腹に真冬の水より冷たい目で月島を見下ろしていた。
「基はもう何も気負うことは無か。私の家で私の帰りを待ち、料理をして家事をし、子供の面倒を見て、買い物は私がして。幸せに暮らそう。」
ガチャン。
「一旦な、これが一旦。婚約指輪の代わりだ。後でちゃんと、似合うもの買ってくるから…三度目の正直とも言うし二度あることは三度あるとも言うだろ。
もう嫌なんだ。お前が私の元から離れていくのが。」
両の手首にはまったそれは明らかにおもちゃとは違う。立派な拘束具だった。おかしいぞ、これは大層におかしな話だ。
目の前で『男』は先ほどの冷たい目とは打って変わり、熱を孕んだ目を潤ませて問うた。
「おいんお嫁さんになって…。」
・・・
猛獣は少年となり青年となり、そして一人の男として月島の前に帰ってきた。
月島にとって唯一の愛する弟。
月島を我が物にする為、態々退路を塞ぎ自分を曲げ、赤子の手をひねるように簡単だと言わんばかりに抑え込まれる。手首を一周する「エンゲージメントリング」が鈍色に輝き…脈越しになんら温かみのない無機質な温度を伝える。
「…俺が嫌いだっただろう?」
ここ1カ月で2度目の問い、男は小さく目を見開き自分の希望では無い言葉に深々と苛ついたようなため息をついた。
「…前も言っていたが、あの時はほんとに腹が立ってお前をどうにかしてやろうかと思った。その時だけじゃない、お前が気を使って話掛けてくるたび約束を違えて逃げて行くんじゃないかと思ったら…。憎くて、悔しくて。仕方なかった。嫌いではない、好いている。が、どうして良いか分からない。基がうんと言ってくれたら。約束を…守ってくれたら、おいは。」
「『これ』をしないと聞けなかったのか?お前は。」
「…今度は海外か?宇宙か?……深海か?3度目こそ、おいん知らんところに行くかもしれないだろ。…大人になったら、嫁に来る。ずっと一緒って、」
言ったじゃないか。
顔が歪む、直感で「あ、泣くなこれは」と感じた。
どこからともなく、桜の花の匂いが月島の鼻孔をくすぐったような気がする。
なるほど、彼はずっとあの早咲きの桜に囚われている可哀そうな男だったか。
(俺の可愛い弟、もう泣かないでくれ。)
月島はそっと男…鯉登の目元を指で掬った。
「なるよ、なる。だから、もう泣かないでくれ。もう、どこにも行かない、嘘じゃない。」
「今度は、その場を凌ぐこ「その場を凌ぐための嘘偽りなく、本当だ。生憎カミサマは信じていないから、---…そうだな。お前に誓う。」
言い終わって、『これ』では結婚式で神のみ前で誓う婚前契約のような言葉に顔を朱に染める。鯉登が言うように本当に「エンゲージメントリング」の役割を担ってしまうではないか。
「では、おいの、お嫁さんに…」
「ああ、なる。なるよ。大人になったお前と。
結婚しよう、音。」
月島はまるで子供がするような…、親が子に愛を伝えるようなキスをそっとした。
本物の家族になる事は、月島だって嫌ではない。
弟がただ、夫になるだけだ。
弟が。
愛する弟よ、さようなら。
私の可愛い弟よ。
それでも月島は弟として愛していたものを失う悲しさに、ひどく胸を締め付けられるのだった。