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    ichijikyugyo

    @ichijikyugyo

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    ichijikyugyo

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    一左馬。🐴がねむさんと1️⃣をくっつけようとする

    ゴール直前でシュートゴール直前でシュート

    1.舅

    予測不可能な方向に、その球は飛んで来た。
    「合歓……こ、恋人とか、いんのか」
    そういう話だったのか。内心合歓は、ため息をついた。どちらにも取れるように曖昧に肩をすくめてみせると、兄は眉を下げ、気まずげにコーヒーを啜る。
    合歓は、兄である左馬刻と喫茶店に来ていた。今は別々に暮らしているため、近況報告を兼ね、月に数回程度、二人で会う。妹を大事にしてくれる、優しく強い兄のことは好きだった。中王区が解体され合歓が別政党の所属となった現在、仲も良好である。だから今日も会えることが嬉しかった。だが左馬刻には、いささか、自分に対して過保護な部分がある。有難い反面、会話のボールを返すのが、少し面倒に感じることもあった。今がまさにそれである。
    「うーん、ノーコメントじゃ、ダメ?」
    「いや、あのな、今すぐ紹介しろとか言うつもりはねえけどよ……その、もし将来のこととか考えてんなら」
    「流石にまだ考えてないよ」
    「い、いんのか誰か!?」
    「フフ、どうでしょう」
    左馬刻は目を見開き、わなわなと震えたが、拳をキツく握りしめ、耐えた。ものすごく、自我を抑えていることが分かる。かつてだったら声を荒げているのに必死に我慢しているのは、ひとえに妹に嫌われたくないからだろう。合歓は、少し申し訳なくなった。なにも意地悪で言わないのではなく、心の底から面倒臭いだけなのだ。恋愛に関して兄と語ると絶対にろくなことにならないと分かっていたから、その話題は二人とも、避けてきたはずなのに。
    「いや、あのね、ちゃんとそういう時には、お兄ちゃんに一番に言うからね」
    「……分かってる、けどよ……」
    「なに?」
    「け、結婚するんならよ……お前には幸せになってほしいからよ、」
    何かを言い淀んでいる。なんだか、嫌な予感がしてきた。
    「その……なんつーか……相手の、あくまでな?候補としてな?考えといてほしいんだけどよ……」
    「え?うん」
    左馬刻は躊躇いがちに、こう言った。
    「い、一郎とか……いいんじゃねえか」
    「嘘でしょお兄ちゃん」
    あまりのことに、合歓は、絶句した。

    ***

    兄は一郎のことが好きである。おそらく、二人の禍根が消える以前から、好きだったものと思われる。とても分かりやすい。しかし、そのことに本人は気づいていない。合歓はこの、恐ろしい事実を真っ先に察した人間の一人だった。ちなみに今では、関係各所、ほぼ左馬刻の気持ちを分かっている。勝手に外堀が埋まり、知らないのは、当の山田一郎という有様であった。
    「合歓は……その、嫌いか? 一郎が」
    「いや、そんなことないよ……ないけどさ……」
    「だ、だよな。一郎のダボはよ、あー、結構良い奴なんだわ……」
    「あ、うん。知ってるよ」
    合歓は頷いて、そっと、スマホの録音ボタンを押した。
    「えーっと、お兄ちゃんは、一郎くんのどんなところが好きなの?」
    「ア?」
    「お兄ちゃんは、好きなところがない人を、私に紹介してるの? そんなことないよね」
    「あ、ああ……そうだな……」
    圧強めな合歓に、左馬刻はたじろいだ。彼女が政界に足を踏み入れて以降、鍛え抜かれた弁論に、勝てた試しはないのだった。
    「一郎の、良いところな……」
    少し考えて、左馬刻は気がついた。
    「って見りゃ分かんだろ」
    「あ、うん……ハイ……そうかもしれないけど、よかったら言語化して」
    「あー、そうだな……」
    左馬刻はしばらく唸っていたが、ふと閃いたように、顔を上げた。
    「身体」
    「身体?」
    「こう……背も高いし?俺様には敵わねえけどよ、まあ、筋肉とか……あとサウナで見たことあんだが、アイツの」
    「お兄ちゃん」
    「わり」
    「一番がそこ?本当に?」
    「悪かったって! あれだ、他にもある、あー、」
    左馬刻は、咳払いをした。
    「なんだ、その……顔? とかよ」
    「もうほんとお兄ちゃん最悪、外見ばっか!」
    「……ああ、あれか。ラップスキルとかか? けど俺様の方が上手えし……」
    「そうじゃなくて、こういう時は内面を言うよね!?普通は!」
    「あーそれ言うつもりだったんだわ内面、内面な……」
    左馬刻は、貧乏ゆすりを始めた。合歓が何度言っても直らない、彼の癖だった。
    「アイツは偽善……良い奴だぜ」
    「今偽善者って言おうとしたよね!?」
    「いや、その、一郎ちょっとそういうとこあるっつか……」
    「本当に推してる!?にわかには信じがたいけど!?」
    左馬刻は厳しい表情で、天を仰いだ。絞り出すように言う。
    「や、優しい……んじゃねえか?多分。最近話してねえから知らねえけど」
    「最近話してないの!?よくその疎遠さで勧めてるね!?」
    「あと……なんかこう、頼りがいがあって、しっかりしてるっつう噂だ。な?」
    「噂?……ていうか、一郎くんも別に、私のこと好きじゃないよ」
    「馬鹿野郎!な訳ねえだろが!合歓は性格が天使で絶世の美女なんだから好きになんねえ男とかいねえよもっと自覚持てッ!」
    「お兄ちゃんもシスコンの自覚持とう!?」
    これ以上訊いても、無駄かもしれない。合歓はため息をついて、スマホのチャットアプリを開いた。
    「オイ。誰とメールしてんだ合歓。オイ」
    「メールじゃなくてチャットね。一郎くんと」
    「な、仲良いのかよ……」
    兄はひどく狼狽した。それを尻目に合歓はさっき録音した左馬刻との会話を、一郎に送る。既読がついて、それから数秒後に、チャットが届いた。
    『神様仏様合歓様』
    一郎と合歓はマブダチだった。

    ***

    「らっしゃいませ何名様、さま、左馬刻……」
    一郎は絶句した。なんで左馬刻がここに。
    喫茶店から出た後、スプラッタ映画を観た碧棺兄妹は、ほとばしる血と肉を散々見たことから腹が猛烈に減り、焼肉屋に入った。そして、噂の一郎と遭遇したというわけである。一郎は萬屋の依頼を受け、ホールにヘルプで入っていた。
    「い、一郎……」
    左馬刻は絶句した。一郎も言葉を失っていた。二人が黙ってしまうと、沈黙がその場を支配した。一郎は突然の邂逅に固まり職務を放棄、全く席を案内する気配がない。合歓はなんとか間を持たせるべく、微笑んだ。
    「わー、一郎くんじゃん、焼肉屋のエプロン、めちゃくちゃ似合ってる〜」
    「あ、あんがとな合歓ちゃん……」
    と言いながらも、一郎は左馬刻から熱い視線を離さない。合歓は、分かりやすさに呆れた。俯いていた左馬刻は、咳払いし、チラッと一郎を見た。
    「一郎。さ……最近どうだ」
    「あ、ああ。元気にやってっけど……」
    「……なら、良かったわ」
    左馬刻は眩しそうに、一郎を見て目を細めた。そして、すぐにそむける。一郎は目を逸らされたと感じ、唇を噛み、憂いを帯びた表情で俯いた。その一部始終を見ていた合歓は、頭を掻きむしった。
    「……オイ合歓。頭皮を大切にしろ」
    「うるさいな全頭ブリーチしてる人に言われたくない」
    「……えっ左馬刻それ染めてんのか?」
    「地!毛!」
    左馬刻は思わず己の髪を掴み引っ張った。
    「兄妹揃って地毛だろどう見ても!カラコンの度合ってねえんじゃねえかアア?」
    「裸!眼!」
    一郎はショックで目を見開いた。
    「明らかに裸眼だろ毎日左右違う色のカラコンしねえよ別に厨二病じゃねえから!マツエクしすぎで前見えてねえんじゃねえか?」
    「イヤ自まつだし?マツエク行かなくても長えし勝手に上向きになるけど文句あっか!?つうか前から言いたかったんだけどよその腹の鼠径靭帯、筆で描いてんのかよ不自然なんだよ!」
    「ハァ?れっきとした筋肉の影だし?鍛えてるから腰骨に自然と浮き上がるだけだし?アンタこそなんだその足の長さ!何キロあるんだよおかしいだろシークレットブーツは何センチですかぁ!?」
    「ストップ」
    合歓は言った。
    「お腹すいた。一郎くん、案内して」

    ***

    仕切り直しである。
    「ええと、ご注文は……なんでしょうか」
    一郎は、仏頂面でメモを手に取った。
    「うーん。お兄ちゃん、何が良い?」
    「……あー、そうだな、」
    左馬刻は流れるような仕草で胸ポケットから煙草を取り出し、禁煙を願ってやまない合歓にはたき落とされた。左馬刻が床に落ちた煙草を拾おうとすると、ちょうど、同じくしゃがんで拾おうとした一郎と、手が当たった。二人は赤面した。
    「あっ」
    「あっ……あー、一郎」
    「え、あっあっ、な、なに?」
    「あー、シフト……」
    「シ、シフト?」
    「いつまで、だ」
    「あ、えっと、もう上がっていいって言われたから帰ろうかと……」
    「そうかよ……」
    左馬刻は俯き、立ち上がって、座り直した。煙草は拾い忘れたままだった。
    「気ィ、つけて帰れや」
    「あ、あんがとよ……」
    合歓はため息を吐いた。別れ難いなら、そう言えばいいのに。こいつら格好を付けたがるから、自分が余計な気を回す羽目になるのだ。おもむろにスマホを見て、それから叫んだ。
    「あっごっめーん!私、友達と飲むことになったから抜けるね。私のことは気にしないで、二人は一緒に焼肉食べなよー」
    自分、なんて気が利くんだろう。近くの焼肉屋入って存分に一人焼肉しよう。感動しながら、合歓は壁にかかっていたハンガーを外し、上着を羽織った。すると、袖を引かれる。
    「まままままままま待ってくれ合歓ちゃん」
    一郎である。合歓は眉をひそめた。
    「え?」
    「マジで待ってください」
    「……なに」
    手招きされたので顔を近づけると、一郎は小声で言った。
    「なにじゃねえだろ! き、急に左馬刻と二人きりにするなよ!」
    「ちょ、え?気を遣ったんだよ?」
    「す、すす、好きな奴と二人きりだぞ!?無理、絶ッてぇ無理だって!」
    友よ、ヘタレだったのか。合歓は呆れた。
    「なに言ってんの?帰るよ」
    「いやッ、マジで頼む! 居てくれ! じゃねえと緊張で失神しちまう」
    「もう失神しなよ!」
    「いやほんと合歓様お願い、お願いしますッ今度何でも奢るからよ……!」
    合歓はみっともなく追い縋る一郎を振り払い、バッグを肩にかけながらヒールの爪先でカンカンと床を叩いた。すると左馬刻が合歓の腕を掴んだ。
    「ね、合歓ちょっと待てちょっと来い」
    「え?」
    左馬刻は合歓をグイグイと引っ張り、部屋の隅まで連れてくると、小声かつ早口でまくし立てた。
    「なに帰ろうとしてやがる、帰るな絶ッてえ居ろ……頼むから居ろ」
    「ええ……私は、お兄ちゃんと一郎くんが積もる話あるんじゃないかな〜と思って……」
    「馬鹿野郎!二人で話すこととかねえよ一郎のダボの目もロクに見れねえのによ」
    「目くらい見よう!?緊張してる!?」
    「あと、二人きりにされたら一郎をいびり倒しちまう……」
    「いびり倒す!?」
    「コイツが合歓と結婚するかと思うと、あークソ、ムカついてきてよ……」
    「結婚しないよ?なにその舅スタイル」
    左馬刻と合歓は、しばし見つめあった。
    「え、一郎と結婚」
    「付き合ってすらない」
    「いや、だってメール」
    「マブダチなの」
    「さっき合歓のこと引き留めてた」
    「あれはそういうんじゃないからほんと、ヘタレなだけだから」
    「けどよ、合歓は一郎のこと好きだろ?」
    「全然」
    「合歓。あれ、見てみろ」
    一郎は所在なげに、水滴のついたグラスを眺めている。時折意味深なため息をつき、辛そうな顔をして、前髪をくしゃりとかき乱す。
    「あ! 今のやつ」
    「どれ?」
    「あれ、あの仕草だよ。見てっとこう……なんか、胸が苦しくなんだろ?」
    合歓は憐れみの目を兄に向けた。
    「……ごめん、なんない」
    「マジで言ってんのか?」
    「うん」
    「心臓痛くなったりよ、呼吸がな、なんか、こう……は、早まったり」
    「全然ならない……」
    「エ……」
    左馬刻は納得いかず、首を傾げた。合歓も、首を傾げた。
    「俺はな、合歓の気持ちを尊重してえと思ってる。恋愛においてもな」
    「うん」
    「けどよ、一郎はガチで良い男なんだよ。この俺様でも惚れそうになるくれえにな」
    「もう惚れてない?」
    「今まで色んな野郎どもを見て来たが、正直、これ以上の物件はねえ。銃兎も理鶯も最高だが、合歓を任せられると思ったのは、一郎だけだ、だからよ」
    「単にお兄ちゃんの好みじゃ……」
    「もう一度だけチャンスをくれねえか、合歓」
    左馬刻は真剣な顔で、合歓の両手を掴んだ。
    「一週間くれ。俺が、一郎を合歓好みの男に育ててやる。その後、付き合うか付き合わねえかは、合歓が決めりゃいいからよ」
    合歓は慌てて、首を振った。
    「えっ全然そんなことしなくていいよ」
    「ありがとうな合歓、絶対に育成成功させっからな」
    「今の遠慮とかじゃないよ本当にしなくていいよ!?っていうかしないで」
    「心配すんな、俺様に任せろ。特訓してやる」
    兄は昔から、全然他人の話を聞かない。そして良かれと思って、見当違いのお節介を焼く。最悪である。それを咎めようとし、だが合歓は考え込んだ。よくよく考えてみれば、これはチャンスかもしれぬ。一郎と左馬刻はこのままでは目も合わせられず、まともに会話もできないという、世にも情けない有様。しかし二人に足りないのは、素直になれる環境なのだ。ならば口実を与えることによって、以前のような自然な関係性を取り戻せるのではなかろうか。
    「……分かった。もし一郎くんが了解したら、特訓して良いよ。でも私、半端な結果じゃ納得しないから」
    「ああ。分かってる。準備して、待ってるからよ……」
    「マンツーマンで指導してあげてね。今から」
    「オウ……え、マンツーマン?今から?」
    「お兄ちゃんのこと、信じてるよ」
    「ま、待て合歓二人はちょっ……心の準備が」
    「じゃあまたねお兄ちゃん!」
    「ね、合歓……!」

    ***

    「つーわけで、今からテメーを徹底的にしごく」
    一郎は、向かいに座った左馬刻を見つめた。驚きすぎて、久しぶりに目を合わせた。左馬刻は完全に、不貞腐れた顔をしている。
    「何で?」
    「聞くな」
    「しごくって……ラップか?」
    「テメーの花婿修行をしてやる」
    「はな……何て?」
    一郎は、期待に跳ねる心臓を押さえた。
    「も、もしかして……俺の結婚相手って、さ、さささ左馬」
    「合歓だ……」
    「だよな分かってました……」
    一郎は肩を落とし、それからハッとした。
    「待て合歓ちゃん?全然分からねえ。双方の合意もねえ。なんでだよ!?」
    「そりゃテメーを合歓に相応しい男にするために決まってんだろ」
    「だからそれが何でだよ。話が見えねえよ」
    左馬刻は、やれやれ、一から説明すんのかよ、と言いたげな様子で、ため息をついた。
    「俺様が勝手にテメーを花婿候補に推薦した。だから修行して合歓に相応しい男になれ」
    「そうか、なるほどな。アンタのいつもの見切り発車だな。前から思ってたんだがよ、あんたのこういう善意の押し付け、困るぞ。合歓ちゃんも迷惑してるし価値観馬鹿みてえに古いし」
    図星を突かれた左馬刻は息を吐き、前髪をかき上げた。顔だけは良いので一郎は不覚にも、その仕草にドキリとした。
    「……マア確かに俺様は古い人間だわな。合歓にも、悪いことしたとは、思ってんよ」
    「あ、ああ。一応思ってたのか」
    「一応許可はくれたが……乗り気じゃねえみたいだし」
    「そりゃそうだろ」
    「それに……合歓に振られたら、お前も立ち直れねえだろ」
    「全然立ち直れる」
    「ア?」
    「俺、合歓ちゃんに振られるのは全然余裕っす。ノーダメージ」
    「マジかよ……」
    左馬刻は一郎を、尊敬の眼差しで見つめた。合歓に愛の告白をして振られたら、左馬刻だったら三日三晩は泣いて過ごし五年は立ち直れない。それを余裕とのたまうこの男、並大抵の精神力の持ち主ではない。やはり合歓を任せられるのは一郎だけであるという思いを強くした。
    「……つうかそもそも俺、合歓ちゃんのこと好きじゃな」
    「んじゃ早速、特訓だな」
    「ハイ。いやハイじゃねえわ、普通にやらねえけど」
    「俺とお前、マンツーマンで花婿がどうあるべきか、イロハを叩き込んでやる」
    「ま、マンツーマン!?」
    「……何だよ」
    目元を翳らせ、左馬刻は呟いた。
    「俺様と、ふ、二人きりになるとなんか問題でもあんのかよ、嫌かよ……」
    左馬刻はもぞもぞと、落ち着かなくジーンズのポケットに手を入れたり、出したりした。一郎は頬をかいた。
    「……べ、別に?全然、い、嫌じゃねえし?きき、緊張とかも特にしてねえし?」
    「じ、じゃあ……良いじゃねえか……」
    「ああ……まあ、良いけど……」
    変な沈黙が流れてしまった。一郎は相手の様子を伺った。
    「今……からかよ?」
    「ン?ああ……まぁ……そうなるな……」
    「そっか。と、特訓て……どういう……」
    「それは……なんつうか、それだ、それだよ……」
    「え?」
    「それ……その煮え切らねえ態度はなんなんだよ一郎ッッ!叩き直してやんよ!」
    左馬刻は急にキレた。湯沸かし器もかくやというスピード、自分も同じような態度だったくせに理不尽だった。
    「やる気あんのかもっとハッキリ、シャッキリしろや! あれだ、俺様と結婚すると思って練習してみろッ!」
    「ささ、左馬刻を結婚相手と思って!?」
    「ああそうだ、テメェももう少し覇気出せんだろ腑抜けやがって。そんな男に……うちの合歓はやれねえよ!」
    「いやだから、もらう気ねえって。設定からおかしいんだって!」
    鬼舅と化した左馬刻はおもむろに、焼肉屋のメニューを手にした。一郎に手渡す。
    「おら」
    「あ、なに?」
    「メニュー選べ。いいか、今から俺様は……合歓だ」
    「そりゃ無理あんぜ」
    「うるせえ!いいから、そう思ってやってみろ。はい、ドン」
    清々しいほどの無茶振りである。一郎は、しばし考えた。もし目の前にいるのが左馬刻ではなく、合歓だったら?合歓ちゃんだったら……なんだか……少し緊張がほぐれてきたかもしれない。やけにガタイの良い合歓にフランクに笑いかけ、メニューを指さす。
    「えーっと。とりあえず、最初はタン塩でいいよな?」
    「ハイ不合格」
    不合格である。
    「なんでっ!?」
    「上タン塩があるだろがッ!!!」
    左馬刻は、ブチ切れた。トングを手に取ると、カチカチカチカチと鳴らした。
    「うるせーッ」
    「いいか一郎ォ!これが一番大事だ。惚れた女には……柔らけえ肉しか食わせんな!」
    「んだその迷言!?」
    「それが男のプライドだ、いいか。並と上があったら、上行け上。俺様はなあ、合歓には、舌の上で溶けるくれえ柔らけえ国産肉しか食わせたことねえよ」
    「はあ……シスコン……」
    生憎、一郎が合歓とご飯に行く時は大抵牛丼チェーンなので、左馬刻が大事に育てた彼女はアメリカ産並肉を食べている。すまん左馬刻、焼肉激安食べ放題も一緒にめっちゃ行く。
    結局、左馬刻が全ての肉を注文した。あまりにも上ばかり頼むので、一郎は財布が非常に心配になった。最悪バイト代から引いてもらうか……とすら考えた。
    「あー、俺焼くよ」
    肉が来たので、一郎はそう申し出た。トングで上タン塩をつまむと、金網の上に放る。
    「ダボッ!!!不合格!」
    不合格である。
    「はあ!?次はなんだよ!?」
    「肉の焼き方だよ!真ん中に置け!タンは外側が反り返ったらすぐひっくり返せ、さもなくば死ね!」
    「出たやっべえ掟!」
    「一郎よォ……チンタラ焼きやがって、前からなってねえと思ってたんだわ、テメェの肉を切って肉屋に売ってやろうか?」
    「なあ。もうちょい、マイルドに言ってくんね?」
    左馬刻は裏声で言った。
    「イチローくんの下手くそっ」
    「うっわキモッ」
    「合歓はキモくねえ!俺様の演技力の問題だろが!」
    「今のモノマネだったのか!?」
    「演技っつってんだろがッッッ!」
    左馬刻は再びトングをカチカチ鳴らすと、焼き方指南へと入った。
    「まずな、網の上に手をかざしてよ、温度を確認することから始めんだよ。200度くれえになったら」
    「いや分かんねえよ」
    「ア?じゃ……触ったら分かんだろ」
    「シンプルに火傷だろ」
    「タンはな、かるーく表面を網に撫で付ける。こうすると脂が移るからな。んで、表面がちょっと焦げるまで……焦げすぎは良くねえからな。マァでも焦げかけくらいで……焦げかけよりはもう少し焦がすくれえかな……」
    「……いや、こだわり強すぎだろ!!!」
    この調子が、一時間続いた。ようやく頼んだ肉を食べ終わり、一郎は大きなため息を吐いた。すごく疲れた。左馬刻が立ち上がる。
    「んじゃ俺様トイレ行ってくるわ」
    「ほーい」
    一郎はスマホでツイッターを見ながら、言った。その瞬間音速で頬を何かがかすめた。目の前には、脚を高く蹴り上げた左馬刻がいた。
    「なに!?なにすんだよ!?」
    「ほーいじゃねえだろがダボカスッ!十回ド汚い東京湾に沈めてやんよ不合格ッッッ!」
    不合格である。
    「はああ!?なんだよ!?連れションが正解か!?」
    「いいか。俺様……じゃねえ、合歓がトイレに行っている間、テメーは会計払うんだよスマホいじんなや。金あるか?ちょっと立って飛んでみろ」
    「いやポケットからコインの音鳴らねーから!」
    「スマートに払うのが花婿の務めだからな」
    「やることなすこと、古の攻めなんだよな……」
    「なんか言ったか?」
    「なんでもねえっす」
    一郎はため息をついて、ポケットから財布を取り出した。その瞬間風速で左馬刻の手に叩かれ、財布は遠くへ飛んでいった。
    「馬鹿野郎ッ年下のくせに俺様の前で財布出すんじゃねえ!!払うな、殺すぞ!」
    「マジでどうすりゃいんだよ!?」

    2.周到

    「えーっと」
    左馬刻が一郎の家に行くと言ってきかなかったため、二人は萬屋ヤマダのビルに向かっていた。
    「マジで、花婿修行って本気か?つうか、なんだそれ?」
    「これだから最近の若えもんはよ」
    左馬刻は真面目な顔をして、重々しく言った。
    「合歓にふさわしい男になるにはそれ相応の覚悟と、周到な準備が要るに決まってんだろふざけてんじゃねえぞクソダボ」
    「あ……ハイ」
    「俺様の目が黒いうちはテメーの未熟さのままで結婚できると思うなよ」
    「あー、アンタ、自覚あるか?目が赤いって……」
    一郎は遠い目になったが、すぐに持ち直した。
    「そういやさ、左馬刻が家来んの、久しぶりじゃね?」
    声を弾ませる。実際、久しぶりである。左馬刻は覚えてないふりで、首痛いのポーズをした。
    「おー……そうかもな」
    それから、ハッとして一郎を睨みつける。
    「違え。今俺様は合歓だった……」
    「なにする?スマブラ?」
    浮かべた一郎は、まったく聞いていない。中学生のノリである。左馬刻もつられた。
    「弟いねえの?」
    「あー二郎は遠征行ってる。明日国際試合でよ。で三郎もなんか国のプログラム?とかで海外」
    「ほーん。んじゃ寂しいな。そうだな……マリカねえの?」
    「あるある、なんでもある」
    「なんでもあんのかよ」
    左馬刻は笑いながら、一郎の脇を鋭いナイフのような肘で突いた。一郎も笑い、自身のあばらをおさえた。
    だが萬屋ヤマダへ足を踏み入れるなり、左馬刻は、大きなため息をついた。腕まくりして、こう言った。
    「やるか……掃除」
    「え?ああ、汚ねえか?やるか?」
    「一郎が」
    「俺が!?俺が掃除すんのか!?」
    「たりめーだろ俺様は監視だ」
    「腕まくりの意味あったか?」
    とはいえ、萬屋ヤマダの衛生管理に、一郎は自信を持っていた。男三人、むさ苦しく生活している割には、清潔感漂う部屋のはずである。
    「いやでもさ。そこそこ綺麗だろ、普通に」
    「おっまえなあ……」
    やれやれ、と左馬刻は首を振ってみせた。
    「チリひとつ許さねえよ。あそこにあんのはなんだ?」
    左馬刻は、テーブルの上に置いてある瓶を指差した。一郎は答えた。
    「チリソースだ」
    「不合格だ」
    「ダメか?チリ……音が同じだけだろ?」
    「一郎のくせに洒落たもん使ってんじゃねえよ」
    「ハ!?不合格の理由おかしくね!?」
    左馬刻は、値踏みするような目で、一郎を眺めた。
    「……つうかよ。テメー、料理できんのか?」
    「え?まあ、普通に……?つうかある程度できないと、俺ら量食うからさ、外で食うと金きついんだよな……」
    「フーン……」
    左馬刻は無意識に、自分の顎をさすった。合格である。
    「じゃあよ……裁縫とかも、できんのかよ?」
    「裁縫って、ボタン付けとかか?ならまあ……あとは、新学期用に雑巾縫ったり、二郎のサッカー用の靴下に名前刺繍するくれえなら、できるけどよ……」
    合格である。
    「一郎、洗濯はどうだ?」
    「あーうちドラム式洗濯機あるから」
    合格である。
    左馬刻は、渋い顔で考え込んだ。日常生活における基本的な部分は、こいつ……できる。だが、なんとか難癖をつけてやりたい。そのまま合歓の元に送り出すのはなんか……癪だから。
    「んじゃあとは、掃除だけだな……」
    左馬刻は窓枠に指を滑らせ、その指に、フッと息を吹きかけた。
    「埃、拭けてねえぞ」
    「いや厳しすぎんだろ」
    一郎は戸棚の中からウェットティッシュを取り出し、一応窓枠を拭いた。左馬刻は、首を回す。
    「マァ今日のところはこの辺で勘弁してやるよ……つうかそろそろ、飲み物淹れろや気遣いもできねえのか舐めてんな完全に舐めてやがる」
    「淹れる暇なかっただろうが!」
    一郎は仕方なく、冷蔵庫を開けてコーラのボトルを取り出した。グラスに注いでいる間、左馬刻はもう飲み物に興味をなくして、テレビをまじまじと見つめている。
    「デケェテレビだな。映画観ようぜ」
    「あのな……」
    呆れながら一郎は、テーブルの上にグラスを二つ置く。左馬刻はリモコンを操作し、勝手にサブスクのページを開く。うげ、と一郎は声を出した。
    「ホラー映画か……」
    「苦手か?」
    「いや、観れるけどよ」
    「まあ……俺様も別に好きじゃねえけど。合歓、こういうのめちゃくちゃ好きなんだよな」
    左馬刻はげんなりした顔をした。
    「しかも笑顔で見やがる。肝っ玉が座ってんだよな。その隣でビビったら恥かくだろ、今のうちに練習しとけ」
    「ええ……」
    仕方なく、一郎はリモコンを左馬刻から受け取り、ホラージャンルの映画を探した。普段見ないから、どれが一番マイルドなのかとか、全く分からない。ほんの試しに、予告編をつけてみた。
    「うわあああ」
    「うおああああ」
    悲鳴を上げてから、二人は顔を見合わせた。
    「え?」
    「ハ?」
    「え、左馬刻?ホラー苦手?」
    「いやいや馬鹿野郎違えよ。一郎テメーこそ苦手か?」
    「や、苦手ってわけじゃねえよ!普通普通」
    「ホー。じゃ、再生すっか?別に俺様はまあ……どっちでも」
    「どっちでもいいよな、マジで。でもよ、まあ、今日は……」
    一郎は言い淀む。左馬刻は、こめかみをポリポリと爪でかいた。
    「……やめ、とくか」
    「ハハ、いやビビってるわけじゃなくて……な?」
    「いや一郎、分かるぜ。なんかこういうのは……なあ?」
    「観ろっつわれたらまあ、余裕だけどよ、まあ……」
    と濁しながら、一郎はロマンス映画のトップにあった作品を流し始めた。二人、ソファに座る。左馬刻は横になり、長い脚をわざと一郎の腹の上にのせてきた。
    「おい」
    「ア?」
    「どけろどけろ」
    「あっオイやめろや」
    ロマンス映画は、退屈であった。百合以外に興味がない一郎は、左馬刻の脚を定期的にどけながら、たまにコーラを喉に流し込み、あくびした。左馬刻が、唸った。
    「……おい、一郎」
    「え?」
    「何かすることあんだろ」
    「え、何が?」
    「俺が合歓だぞ。マスターピース」
    「そんな合歓ちゃんはいねえよ」
    「何かしろよ。ポップコーン取って、口に入れてやるとか……」
    「ポップコーンねえけど。あと、人の手でつまんだポップコーン食いてえか?あれって塩ついた自分の指舐めるとこまでが一セットじゃねえ?」
    「ホラーシーンで肩抱いてやるとか」
    「ホラー映画でそんなこと急にしたら、怖くねえか?俺ならビビって、叫ぶな」
    「かったるいラブシーン入ったらキスするとか……」
    無理だ。一郎は頭を抱えた。
    「ハードル高えよ! さっきから軒並みハードル高えんだよひと昔前の口説き方なんだよ……」
    「ああ?俺様を過去の遺物みてえに扱うとはまだまだお子ちゃまでちゅね〜」
    「ア!?やんのか?」
    「……まあつまりな、なんだ……隣に好きな奴がいんなら、なんかすることあんだろ。な?」
    一郎は隣に座る、好きな人をまじまじと見つめた。元ヤンのわりに、一郎は奥手だった。
    「……いや、緊張して何もできねえな」
    「ダボッ恋愛舐めてんのかッッ!」
    左馬刻は、激昂した。
    「いいか、落としたけりゃ自分から行け。恋っつうのは戦だ。相手に頼るな。チンケなプライドなんか守るな。攻めろ、絶対に自分から行け。手くらい握れ!」
    「け、けどよ。嫌われたらとか……嫌がられる可能性もあるしよ、合意がないうちは、下手なことはできねえよ」
    「アア!?じゃ了承とってからやりゃ良いだろ」
    「分かった。手、握って良いか」
    「ああ、良いんじゃねえか今ので」
    「あんがとな、じゃ……」
    一郎は左馬刻の手の甲に、自分の手を重ねた。すると左馬刻の手がびくりと跳ねたので、思わずぐいと押さえつける。
    「……オイ」
    「わ、悪い……嫌か」
    「違え、こうやんだよ」
    左馬刻は、一郎の手の水かき部分を撫でた。そして、すっと隙間に指を滑り込ませた。恋人繋ぎである。
    「うわっ……」
    すげえ。手慣れている。一郎はぞわぞわっと背筋が震え、顔が熱くなった。時折左馬刻が指に力を入れるので、ますます興奮した。そして、映画がしばらくすると、困った。
    いやーーーーーー手ェ離す場所分かんねえわ。俺ちょっとソファから腰浮かせて手伸ばしてコーラ飲みてえんだけど。左馬刻の顔を見る。
    「ウワッ」
    「ア?」
    「いや、なんでもねえ……」
    左馬刻は、『勢いで手を握っちまったけどここから引くに引けずどうすれば良いか分からなくなった微妙な顔』をしていた。
    それから手を繋いだまま一時間が経過した。相変わらず映画はつまらない。だが一郎は、新たな問題に直面した。
    これ、かったるいラブシーンだ。
    さっき左馬刻は、かったるいラブシーンではキスするものだと教えてきた。一郎は、緊張で手汗が止まらなくなった。多分左馬刻にも伝わっている。ただでさえサウナ好きで代謝の良い二人の手はもうベッタベタである。脇汗も止まらない。着ているTシャツはじっとり濡れている。画面の中の俳優たちは恍惚の表情で喘ぎ声を上げ、シーツの上で乱れる。早く終われ。つうか、このシーン物語に必要か?別にこれ見て興奮もしねえし、ただただ一緒に見る相手がいると気まずいだけじゃねえか?そしてまだ終わらない。長えなオイ。グレーのTシャツだから汗ジミが目立ちそうで気になる。無駄に長え。吐息とかこれ何の需要だよ!?ああどうしよう。ここでやらなきゃ男じゃねえのか?落としたきゃ自分で行けなんて、俺には無理だって!無理無理、無理……
    「さ、左馬刻」
    「ア?どうした」
    「キスしても、良いか」
    左馬刻は目を見開いた。一郎は死にそうになりながら、視線を外さずに堪えた。やっべえもうダメだ。終わった。聞かなきゃよかった。絶対に引かれてんだろ。どうカバーすれば良いんだよ。冗談っすよ左馬刻さん〜って言うのって、まだ間に合うか?
    しかしその時、かすかに左馬刻の顎が上下に振れた。一郎は心臓が止まりそうになり、次に、バクバクと大音量で鳴り出した。ゆっくり、顔を近づける、左馬刻の瞼が、下りた。口づける。
    唇は、思っていたより柔らかかった。骨も筋肉も硬いこの男に、こんなに柔らかい部分があったのかと頭のどこかで考え、一郎も目を閉じた。胸の中で、泡のようなものが弾けている。苦しく甘い、不思議な感覚だった。この一瞬を、一生忘れない気がするほどに。
    唇を離す。ほんの少しの間だったはずなのに、走った後のように、息が切れていた。自分が息を吐く音がうるさくて、一郎は唾を飲み込んだ。すると突然、衝撃が訪れた。
    「え、」
    背中がソファに叩きつけられ、肺から息が出る。突き飛ばされたのだ。左馬刻はすっくと立ち上がると、廊下の奥、トイレに消えた。一郎は呆然としていた。

    ***

    トイレに鍵をかけた瞬間、左馬刻はしゃがみ込んだ。全力疾走をしたかのように荒い息を吐き、カッカと火照る身体を持て余した。
    「な……」
    何ださっきの。
    一郎に、キスされた。左馬刻は、唇を指でなぞった。頬が熱かった。心臓がギュンギュンと、あり得ない高速で回転している。触れ合わせるだけの単純なキスだったのに、どうしてこの自分がこんなに動揺しているのか。信じられない。震える瞼を閉じると、先程の、一郎の真剣な目を思い出した。よく分からないが、今すぐ発狂してドアに頭ぶつけてえ。
    力ない、ノックの音が聞こえる。左馬刻はすっかり力の抜けてしまった身体を叱咤し、立ち上がると、トイレのドアを開けた。するとすぐ目の前に、一郎が立っていた。
    「左馬刻、ごめん。俺……」
    「合格だ」
    合格である。
    「……え?」
    左馬刻は、一郎の両肩をがしりと掴んだ。
    「さっきの、すげえ良かった」
    「はい?」
    「悔しいがよ、確信した。テメーなら合歓をメロメロに出来る」
    「め……え?」
    「タラシの才能あんな。勿体ねえ。もっと女遊びしろよ、いや絶対やるなお前には合歓がいんだぞダボが」
    「な、何だそりゃ訳わかんねえ……」
    混乱していた一郎は、深く息を吸った。決然とした面持ちで言った。
    「……左馬刻」
    「あ?」
    「俺、好きな奴がいる」
    左馬刻は、ぽかんと口を開けた。一郎の気持ちを、彼は考えていなかったのだ。
    「ずっと前から……好きなんだ。全然上手くいかねえし脈もねえけど、諦められねえ。これからも、好きだ」
    一郎の言葉は、心の底から出てきたもののようであった。しみじみと、噛み締めるように話した。まるで自分に語られているんじゃないかと勘違いしてしまうほど、優しい顔で左馬刻を見ている。左馬刻は目の前がすっかり暗くなり、胸がキリキリと痛むのを、どこか他人事のように感じていた。
    「だから、合歓ちゃんとどうこうっつーのはねえと思う。その……なんか色々特訓してもらったのに、悪いな」
    左馬刻は自分がまだ口を開けていることに気がつき、閉じた。苦い後悔が押し寄せる。
    「……いや。こっちこそ。テメーがその気じゃねえのに付き合わせて、悪かったな」
    「や……全然……」
    一郎は、首を振った。疑似的な告白をしてしまい身体中が熱かった。汗で服ももうびしょびしょである。勢いよく、Tシャツを脱いだ。左馬刻が、ぎょっと目を見開いた。
    「テメなんで今Tシャツ脱いだ!?」
    「……え、汗かいたから着替えようと思って……ダメか」
    「あ、いや……今のは何でもねえ……」
    左馬刻は、首を振った。おかしい。
    なんだか一郎が、男の色気ダダ漏れに見える。さっきキスなんかしたからだろうか。年下のくせに胸筋は発達しており、乳首には艶があり、腹筋も硬そうだが程よく脂肪はついた、絶妙なボディラインをしている。一郎は、ペットボトルの蓋を開け、水を飲んだ。唇の端から、水が垂れて顎をつたい落ちる。
    「テメなんで今水滴らせた!?」
    「え、悪ィ垂れてたか?」
    一郎は腕で口元を拭った。それから、白いTシャツをハンガーから取って、勢いよく着た。
    「んでそんなパッツパツのTシャツ着てんだよ!?」
    「あこれ、三郎のだったな。また伸ばしちまったよ、怒られんなこれ……」
    一郎は嘆きながら、またシャツを脱いだ。たくましい上半身が、再びあらわになる。汗で濡れた肌は、若さで輝いている。左馬刻はまた目が釘付けになった。頬が勝手に熱くなる。
    「どうした?アンタ、様子おかしくねえか?」
    異変に気がついた一郎が、心配して、迫ってくる。トイレの前の狭い通路なので、必然、距離は近づいた。身長が同じくらいなので、顔と顔も近づく。一郎は身体だけでなく、顔も良かった。心根も優しい。合歓の相手として文句なしだと、左馬刻は思っていたのだ。
    「おおお、おかしくねえよ」
    「いやおかしいだろ。顔も赤いし……」
    「赤くねえし!?白いだろ!常に!」
    「いや、でもよ……」
    「なんでもねえっつの!」
    左馬刻は、後ずさる。動揺して、目を擦る。俺様の目がおかしいのか?それとも一郎が急成長したのか?それとも、前からこいつは、こんなにカッコよかったのだろうか。
    そのことにずっと、気がついていないだけだったのだろうか。


    3.シュート

    養育費を支払おうとする零を拒否するため、一郎は彼と定期的に会っていた。今日、二人はヨコハマの商店街の一角にある、狭くて古い中華料理屋のカウンターで、隣りあっていた。零の仕事の都合で、ここに来いと呼び出されたのであった。
    「一郎。結婚とか考えてるか」
    「考えてねえよ」
    沈黙が流れた。テレビでは、六日前の、サッカーの再放送が流れている。自然、二人の視線はそちらへと移った。選手のアップが映される。山田家次男、二郎がタオルで汗を拭っていた。サポーターの歓声が、画面越しでも届いた。
    「……そうか」
    息子の活躍を見ながら、零は呟いた。
    「本人達が納得してるなら、俺は口は出さねえよ」
    「話聞け。達って誰だ?」
    親父も歳だ。難聴が始まっているらしい。
    「だがな、気になるからどういう人か教えてくれ。おいちゃん、ごっつ気になるな〜」
    親父ウッゼ。
    話を聞かない中年男性ほどろくでもないものはない。だが一郎は最近左馬刻にフォーリンラブであり、脳内花畑フェアリーランドだった。そのため、やめろよ親父……と嫌がるフリをしながらも積極的にスマホを取り出して、麗しい左馬刻の写真を見せた。
    「こ、この人……が好き」
    「ホー、なるほどね。見たことあるぜ。べっぴんさんじゃねえか。これが一郎の、未来のお連れ合いさんか」
    「いや違えよ!」
    「とか言って、良い感じなんだろ?」
    「いや……全然……マジで全然……」
    この前左馬刻が家に来た時のことを思い出し、一郎は泣きたくなった。
    「俺が一方的に好きなだけだから。アイツはその、俺のことなんて一ミリも意識してねえよ」
    「告白はしたのか?」
    「いや……」
    「まあ、とりあえずそっからだな」
    零はサングラスを外し、拭き始めた。
    「落としたけりゃ自分から行かねえとな。恋っつうのは戦だ、プライドなんか守らずに攻めてみろ」
    「なんだそりゃ」
    どこかで聞いたような説教に、一郎は笑った。少し気が楽になった。
    「それにパパがちゃーんとお前に相応しい相手か、ジャッジしてやるよ」
    「ああ……エ?」
    ハッとして、一郎は顔を上げた。
    「いや待て。ジャッジとかじゃねえんだよ、そういう段階じゃねえんだよ」
    「なに、恋で正常な判断が下せねえんだろ? 俺がクズ野郎じゃねえかだけ確認しといてやるよ」
    「そういうのいらねえんだよ。本当に。つうかあんたみてえなクズにまともなジャッジできねえだろ」
    「まあまあ俺に任しとけ」
    「いや、違、マジで余計なことすんなよ親父」
    「おうおう」
    「分かってんのかな……俺、トイレ」
    一郎がトイレに行った瞬間、中華屋のドアが開いた。低めで少し掠れた、男らしい声がする。
    「よお来てやったぜ。やってっか?」
    常連だろうか。零は何気なく振り向き、目を見開いた。男も、驚いたように立ち止まった。
    「あれ、テメーは……」
    「おまえさんは……」
    零は、腕を組んだ。見覚えのある顔だったからである。ついさっき、息子のスマホで見た顔である。だからずっと憧れていた親らしい台詞を、言ってみた。
    「中途半端な奴に、うちの息子はやらねえぞ」
    「ハア?」
    左馬刻は、高い鼻に皺を寄せた。いきなりなんだ?
    「そんな覚悟で、うちの一郎と結婚されちゃ困るねえ」
    こいつが一郎の親父か。合歓のこと言ってんのかクソが。売り言葉に買い言葉で、応戦した。
    「ア? 覚悟いるのはそっちだろうが履き違えんじゃねえぞクソダボが」
    「お、なかなか言うねえ」
    「ア? 言っとくがな、こっちは存在自体が奇跡なんだっつの。せいぜい有り難く思ってこの美を拝めや」
    「いくらなんでも自信ありすぎじゃねえか……?」
    零は、左馬刻をまじまじと見つめた。なるほど豪語するだけあって、確かに稀な容姿をしている。形の良い高い鼻、切長の瞳、薄い唇、顔だけ見れば中性的とも言えるのだが、引き締まった筋肉と上背が男らしさを強調する。美丈夫ではある。彼は顎を上げて、傲慢に言い放つ。
    「自信もつくだろ、こんだけ可愛けりゃヨォ」
    「可愛……?」
    「ハ? どう見ても可愛いだろが」
    「ああ、ウン。そうだな」
    零は曖昧に頷いた。どう見てもこのヤクザ、可愛さで売ってるタイプじゃねえと思うんだがな……。
    「よーしよし、可愛いのは分かった。そうだ。うちの一郎はそこそこ料理できるが、おたくはできんのかい」
    「ハッ、一丁前に品定めか? ……まあ、基本的なものは一通り作れんじゃねえか」
    「そりゃ偉いじゃねえか」
    「だろ? しっかりしてんだわ」
    「稼ぎは? 息子は自営業だから若干不安定なとこもあんだけどよ」
    「その辺は問題ねえ。金で困らせるような状態には、俺様もさせねえしな」
    「いいねえ愛だねえ……」
    すると開いていたドアから、合歓が顔を出した。彼女も左馬刻と一緒にヨコハマに来ており、二人で中華ランチの予定だったのである。兄に似た美しい顔を、しかめている。
    「なにやってるの? ポケ◯ン?」
    「いや、これからPKだ」
    「ポ◯モンじゃん」
    「ポケモ◯の略語じゃねえよ。先週の試合のPK戦だ、見てみろ。山田家次男が映ってる」
    左馬刻は、テレビを指して言った。試合は同点、決着はPK戦で行うことになるのだ。この後キッカーに選ばれるニ郎が映っていた。
    「へえ……って違う違う、私はお兄ちゃんが口論してるから、なんで他人を持ち出して争ってんの?と思って」
    「や、合歓、これはだな……」
    途端に左馬刻は、しどろもどろになった。
    「その……コイツが一郎の父親で……結婚したら舅……」
    「結婚?」
    「合歓と一郎が……」
    「また言ってる。しないって。さっきお兄ちゃんも、一郎くんには他に好きな人がいるらしいって、言ってたじゃん」
    「そ、そうだな……」
    左馬刻は、肩を落とす。合歓は零をまじまじと見た。零も、合歓をじっくりと眺めた。二人はほぼ同時に、互いの目的が同じであることを、理解してしまった。素早く、合歓は言った。
    「初めまして。一郎くんにはいつもお世話になってます」
    「いやいやどうも。妹さんか?しっかりしてるじゃねえか」
    零も帽子を取り、軽く頭を下げた。左馬刻は胸を張った。
    「だろ?合歓は内面も外見も完璧なんだわ格が違えんだよ格がよォ」
    「お兄ちゃん変なこと言うのやめて。恥ずかしい」
    「事実だろうが」
    するとその時、声が聞こえた。
    「待て待て磁場バグってんのか?」
    トイレから出てきた一郎が、仰天していた。
    「なんで合歓ちゃんとさ、さささ、左馬刻、がここに」
    「ア!?い、いい、ちろうじゃねえか」
    左馬刻と一郎はどもりながら、目を合わせたり、すぐに逸らしたりした。
    「な、ななんで左馬刻ここに」
    「そりゃ、あれだ……め、飯食うから……?」
    「こ、ここ、チャーハン美味いよな!」
    「あ、お、おう。ご、五目あんかけ焼きそばもうめえぜ……」
    「へ、へえ……俺も食おうかな……」
    「い、いいんじゃねえか……」
    零と合歓はそっと離れた席に座り、店員をこっそり呼んで、五目あんかけ焼きそばを注文した。一郎と左馬刻はそれに気がつかず、というより存在を忘れ、どもり合戦を続けていた。
    「あっ、えっと、左馬刻元気だったか?せ、先週ぶりだな……」
    「お、おう……」
    「よ、よかったこの前、体調悪いのかと思って、ずっと心配してたからさ……」
    一郎は心配してくれたらしい。優しい。左馬刻はキュンキュンした。
    「あ、あんがとよ……」
    そう言いながら、視線を床に落とした。それからそっと、また目線を上げて、一郎の顔をちらりと見る。
    「んで、ヨコハマ来たんだよ」
    「ああ……親父に呼ばれてよ」
    「フーン……なんか話あったのか」
    「や、くだんねえやつだよ。いつ結婚すんのかとか……」
    「結婚」
    「や、別に好きな人がいるだけで、脈もねえしよ、全然、そんなの先のことだって言ったけどさ、ハハ……」
    「好きな人」
    「ああ……左馬刻?」
    左馬刻は、拳を握りしめている自分に気がついた。ぽつりと、言葉を落とした。
    「……誰だ」
    「え?」
    「テメーの、好きな奴って……誰だ。俺様が、知ってる奴かよ」
    一郎は、唾を飲んだ。左馬刻は一郎を、真っ直ぐ見ていた。ひどく真剣な目だ。どこか、覚悟が決まったような、海のように凪いでいて、なんでも受け入れそうな、そんな静けさを瞳に宿していた。
    一郎は、思わず目を逸らした。テレビ画面が目に入る。キッカーに選ばれた二郎が、ゴール前に立ち、足首を回しているところだった。プライドなんか守らずに、攻めろ。一郎は腹を決め、思い切って、言った。
    「俺が好きなのは左馬刻だ」
    左馬刻は、呆然とした。
    「ハ?」
    しばらく、沈黙があった。PK直前の、サポーターの歓声だけが店に流れていた。困って左馬刻は辺りを見回したが、合歓も零も、サッカー再放送に釘付けの振りをしていた。
    「……や俺様は男だぞ」
    「そうだな」
    「おかしいだろ、テメーは女を好きになるはずだろ。なんで同性同士……」
    「そうか?好きになっちまったんだ、なにもおかしくねえよ」
    一郎は、まったく揺るがない。左馬刻はそんな、男か女かなど瑣末な質問をした自分が、恥ずかしくなった。
    「じゃ……なんだ、あれか。この前、お前がその……」
    「うん」
    「その、好きな奴がいるって、言ってたけどよ……」
    「ああ。左馬刻のことだ」
    左馬刻は、今まで一郎が言ってきた言葉を思い出していた。確か、ずっと前から好きで、脈がなくて、でも諦めきれない人がいる。そう言っていた。身体中が熱くなり、どくどくと心臓に血が流れた。
    「アンタに惚れてる。できれば、付き合いてえ」
    一郎とうっかり目が合うと、弱い電流が全身に走っていくように、左馬刻はじんと痺れた。視線を逸らしたいのに、逸らせないのであった。
    「マジ、かよ……」
    「ああ」
    ダメか?と一郎は言った。左馬刻は弱った。断ろうとするのだが、理由が全く浮かばないのだ。昔から、一郎になら合歓を任せられると思っていた。顔も身体も性格も問題なくて、修行も準備も、本当は必要なかった。こいつしかいないと、確信していた。
    一郎のことが、好きだからだ。
    「分かった」
    「さ、左馬刻……」
    「ったく、仕方ねえな……」
    「じ、じゃあ!」
    目を輝かせる一郎に、左馬刻は頷いた。
    「そんなに言うなら、テメーと結婚してやるよ」
    「まだそこまで言ってねえよ」
    左馬刻は眉間にくっと皺を寄せた。一郎は慌てて、左馬刻の手を取り、握りしめた。二人の手はどちらも、じっとり汗ばんでいた。
    「……不束者ですが、よろしくお願いします」
    その時ちょうど、テレビの中で、二郎がシュートを決めた。
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