ノウノウ
知らなければ良かったと、思うことがある。
手汗ですべりかけた拳銃を、しっかりと握り直す。同じように銃を突きつけてくる、目の前の女を睨みつけた。世界で一番、愛していたのに。願うように呟く。
「……おまえに俺は、殺せない」
躊躇なく、彼女は引き金を引いた。弾は俺の髪を掠め、後ろの壁に穴を開けた。言葉より雄弁な否定に、唇を噛み締める。
「もう一回言ってみれば?」
冷たく微笑んだ妻は、銃を握り、俺の脳に照準を合わせた。
***
冒頭より、15時間前。
「ハニー、起きろって」
カインはいつものように、なかなか起きようとしないオーエンを揺さぶっていた。
「ハニー!」
「ぅあ……」
「よだれ垂れてるぞ!起きろ!」
「たれてな……ねむ」
「おい!今日は出社の日だろ!?朝ご飯、用意しとくからな……」
そう言い残して、カインはキッチンに向かった。しばらくして目を擦りながら起きてきたオーエンが、ようやくテーブルにつく。バナナと、牛乳をぶっかけたシリアルのボウルを置いてやった。オーエンは嫌そうに首を振った。
「しかし……暑くなってきたよなあ」
向かいに腰掛け、頬杖をついて、カインはお伺いを立てた。
「プールの水、入れてもいいか?」
「駄目」
にべもない。
「……宝の持ち腐れだろ……」
去年も数回しか水をはらせてくれなかった、とカインが口を尖らすと、オーエンは肩をすくめた。シリアルを、渋々口に運んでいる。
「……今度ね。今週はダメ」
「面倒くさがってるのか?掃除するのは俺なのに」
オーエンは、カインの言葉を無視して、ほっそりした腕を伸ばした。
「そこの砂糖取って」
「ダメだ」
「シリアルにかける」
「ダメだ」
カインは首を振って、砂糖の入った容器の口を手で押さえた。
「オーエン。砂糖を直接かけるのは、どう考えてもやめた方がいい。かける量が……」
「おまえだって、目玉焼きに塩かけるだろ」
「塩は別にいいだろ!俺は適量だし」
「僕も適量だよ。よこせ」
「オーエン」
「カイン。朝から、僕を怒らせたいんだ?」
「いや、俺はおまえの健康を……痛ッ!?」
テーブルの下でカインの思い切り足を踏みつけたオーエンは、涼しい顔で、長い手を伸ばして砂糖の容器を奪い取った。
「なにするんだよ!?」
「隙を見せた方が悪い」
「隙?おまえが足を踏んだんだ」
「ふん、この世はやるかやられるかだよ」
「おまえなあ、暗殺者しか言わないセリフだぞそれ……」
ぴくりと、オーエンの眉が動いた。砂糖の容器の蓋を開け、スプーンで、一杯二杯三杯と勢いよく入れていく。途中から何杯か数えるのをやめた。ものすごい勢いで砂糖の塊を食べるオーエンを遠い目で眺め、カインはコーヒーを啜る。しばらくしてから、立ち上がって、ハウスクリーニングの制服に袖を通した。
「……よし、時間だ」
カインは財布をスラックスのポケットに突っ込み、振り返った。
「おまえもそろそろ、出なくていいのか?出版社で、会議あるんだろ?」
オーエンは翻訳の仕事をしているのだ。普段は家で作業しているが、今日は出社と聞いていた。甘いシリアルを食べ終わったオーエンは、カインに続けて腰を上げた。二人で廊下に出る。
「……まだ、時間あるから。洗濯物干す」
「そうか、ありがとう。じゃあ、行ってくるよ」
カインは元気よく言った。洗面所のドアに身体をもたれかけさせ、オーエンはそっけなく呟く。
「そう」
「あ、今日なんだが、依頼を受けているのが郊外の家なんだ。なんでもしばらく空き家だったとかで、大掃除になりそうだ。ちょっと遅くなると思う」
「そう」
オーエンは頷いて、洗濯機のある洗面所に入ろうとした。その白い背中を、呼び止める。
「オーエン」
オーエンは足を止めて、振り向いた。本気で面倒くさそうに、顔をしかめている。
「なに?」
「……いつものやつは?」
「……はあ、」
「してくれないのか?」
頬をとんとんと、指で指し示す。渋々といった様子で、オーエンは歩いてきた。仏頂面こまま、カインの頬に、口付ける。
「……オーエン、愛してるよ」
いつものように言うのに、オーエンは、目を逸らした。最近はずっとこうだった。
「……行ってらっしゃい」
「ああ、行ってくる!」
元気よく笑って靴を履き、ドアを閉めて、そうしてカインは、少しだけ項垂れた。
結婚して、三年。たぶん、妻に飽きられている。もう、行ってらっしゃいのキスは頼まないとしてくれないし、つまらないことで喧嘩は増えたし、夜の営みは一ヶ月無い。自分とて、オーエンのことは好きだが、なんだか以前ほど魅力的に感じられない。出会った頃感じていた、ミステリアスで孤高な雰囲気が失われてしまったからだろうか。ガレージのシャッターを開けて、車に乗り込む。
「まあ、でも……」
生活とは得てしてそういうものだし、これは人間が二人で過ごすなら誰しもがぶつかる、ごく普通の問題なのだろう。不満な部分はあるが、総合的に言えば、幸せなはずだ。好きな人と結婚して、家も建てて、互いに仕事に精を出して、生活している。ただ、なにか、この退屈を吹き飛ばすような、そんな刺激的なことがあると良いのだが。
「……なんて、贅沢な悩みか」
カインは苦笑して、愛車のエンジンをかけた。
***
『通話状態は?』
『クリアだ』
耳元に手をやるのは、素人だけである。カインはスーツのポケットに手を突っ込んだまま、リラックスしたふりをしてインカムに答えた。
『警備は突破したんだな』
少し低い、少年の声が聞こえる。同僚のシノだった。今回は会場の前に停めたケバブのキッチンカーの中で、バックアップを担当している。
「ああ。ちょっと抵抗されて、殴りあいになっちまったがな」
『バレてないか?』
「多分な」
『USBは?』
カインはこれまた自然な動作で、胸ポケットの中のUSBの感触を確かめた。
「手に入れた。このまま会場を出るよ」
『しっかりやれよ、カイン。USBを持ち帰って、『アンノウン』の素性を突き止めたら、大手柄だからな』
「分かってる」
そう言った時、顔に傷のあるイケメンと、スーツの肩が触れ合った。男はそのまま、振り返らず堂々と歩いていく。カインは感心して、息を吐いた。
「格好良いな。ここは、華やかな人たちばかりだ……」
『ふん。好みのタイプはいたか?』
「馬鹿。オーエンに殺されちまう」
『オーエン……ああ、おまえのパートナーか』
「そうだ。来月で結婚してちょうど三年だ。病院で初めて出会ってから、丸四年」
『前に写真を見た。確かに美人だが、気が強そうだった。それに、ヒースの方が綺麗だ』
「見解の相違だ。俺にとっては世界一……」
カインは言葉を止めた。会場の真ん中あたりに、背中が大きく空いた、黒いドレスを着た女が立っていた。カインは、目を細めた。真っ白な背中に、目が吸い寄せられたのだ。
『どうした?本当に好みなタイプでもいたのか』
「いや……」
首を振る。確かに、目は引き寄せられた。だが浮気ではない。それは多分、愛する妻に似ているからである。というか、
「そっくりだな……」
細身のシルエット、身長も体重も同じくらいだろう。肉付きが悪いわりに尻だけは丸く、手足はすらりと長いのだ。髪は暗い銀色で、首はほっそりしている。これがドッペルゲンガーかとカインは感心した。後ろ姿だけだが、本当に似ている。
女が横を向く。横顔がきれいだ。好みの顔つきをしている。
「……え?」
ぎょっとして、カインは目を見開いた。見間違えるはずがない。ドレスを着た美人は、自分のパートナーだ。
『おい、どうした』
カインはインカムをミュートにして、呼びかけた。
「オーエン!?」
オーエンは振り向き、カインを見て、目を丸くした。
「えっ」
「おまえ、なにやってるんだ!?」
「は?カインこそ、なんで……」
「……こっち、来てくれ」
「え?」
「早く!」
死角になる壁際に引っ張ると、カインはオーエンの両肩を掴んだ。彼女の見たことのないピアスが揺れ、きらきらと、シャンデリアの光を受け輝く。剥き出しの両肩を掴んだ。
「……どうしてここにいるんだ!」
「痛っ……」
オーエンは、整えられた眉をひそめた。ハッとして、肩から手を離す。少し跡がついてしまっていた。
「悪い、強く掴みすぎた」
「なにするの……」
自分の身体を抱くようにして、オーエンが後ずさると、胸に谷間ができた。こんなに露出したドレスを着ているところを見るのは、結婚式以来ではなかろうか。カインは思わず、赤面して目を逸らす。
「すまない。だが、なんでこんなとこにいるんだ?おまえ……出版社で翻訳してるんだよな?」
目が合うと、オーエンは、面倒臭そうにため息をついた。
「……通訳を頼まれたんだ」
「通訳?」
「うん」
「聞いてない」
「言ってない。僕も今日、社長に言われたんだ」
「それで、ドレスを着るような、こんなパーティに呼ばれたのか?」
「そう。おまえこそ、どうしてここにいるんだよ」
「お、俺は……」
カインは言葉に詰まった。彼女を問い詰めてばかりで、自分の設定を考えていなかった。
「そ、掃除に」
しばらく、沈黙があった。オーエンの刺すような視線に耐えきれず、カインは目を逸らした。
「それより、ここはおまえが来ていいような場所じゃない。早く出ないと……」
「出る?なんで?」
「一見ただのパーティだが、裏世界の大物が集まってる。大きな商談が行われる予定で……その、掃除中に聞いたんだが」
「そうなんだ」
「ああ、なんでも、マフィアがこう……うじゃうじゃいるらしい」
「うじゃうじゃ」
「しかも、ただのマフィアじゃない。国際的犯罪組織だ。しかも、今日はその組織に属する凄腕の暗殺者が紛れ込んでいるらしい……奴に出くわしたら危ない」
「へえ。すごく怖いね」
「ダーリン、頼むよ」
手を合わせ、カインは懇願した。焦っていた。
「嘘じゃない、本当の話なんだ。おまえの身にもしものことがあったら、俺は耐えられない。お願いだ、先に家に帰ってくれ」
オーエンは困ったように、斜め下を向いた。可憐な睫毛が、上下する。
「……僕には仕事がある。終わるまで、帰れない」
「ああ、おまえの仕事熱心なところは魅力的だよな……だが、今は困る。訳があって俺は家までは送ってやれない。いい子だから……」
「おまえらしくないよ。噂なんて、本当に気にしてるの?」
「オーエン……」
「そんなに怖いなら、先に帰ったら?」
「いや、俺はまだ……」
「ねえ……僕、今夜のデザート、まだ買ってない。 ケーキ屋が閉まっちゃうから、お使いしてきて」
「悪いが、その……やることが、あるんだ」
「へえ。掃除って、そんなにかかるもの?」
「あ、ああ。ダクトの中とかな……色々、奥深いんだ」
「ふうん……掃除、」
オーエンは、目を細めた。カインを頭のてっぺんから爪先まで、ゆっくりと見るので、ぎくりとする。彼女が、軽蔑する時の仕草だ。
「おまえ、スーツ着てるけど」
カインは戦慄した。
「そっ……それは、」
「ひどいな。僕に、嘘つくんだ」
「いや、その……ほら、こういう席だからさ、営業も兼ねてる。そうだ!あれだ、金持ちの、別荘の掃除を提案しに……」
「浮気?」
「違う違う違う!」
凍りつくような視線で、オーエンは舌打ちした。
「最悪……油断してた」
「違う!断じて違うからな!?」
必死に彼女の白い手を、両手で掴む。すると、オーエンが眉を上げた。
「なにこれ」
反対の手で腕を掴まれて、掲げられる。シャツの袖口を、じっと彼女は眺めた。カインも気が付かなかった、小さなシミがついている。
「赤い。口紅?」
「そ、それは……」
「違う……血……?」
そう呟くオーエンを見ながら、カインはハッとした。先ほど遭遇した警備員を殴った時、付着した血だ。
「怪我してる?」
「いや……ええと、」
「どこ?誰にやられた?」
「違う、やられてない、が……」
「本当に?」
オーエンはカインの身体を触り出した。腕から胸、腰をなぞっていく。どきりとした。
「や、やめろって……」
静止の声も聞かず、流れるような仕草で、彼女はそれを取り出した。やけに手慣れていた。
「なんで銃なんか持ってるの?」
カインは思わず、片手で顔を覆った。
「あー……」
「グロック17……おまえ、銃なんてろくに使えないだろ。ハネムーンのハワイで、射的場で外しまくって……」
「えっと。おまえだって、外してた」
「そんなことどうでもいいだろ!」
オーエンは足を持ち上げ、カインの後ろの壁に叩きつけた。
「答えろよ。銃は苦手だって言ってたおまえが、なんで持ってるの」
「そ、それは……」
カインは逡巡した。本当のことを言うわけにはいかない。
「カイン!」
オーエンが唸る。その瞳には怒りと、必死さが浮かんでいた。
「……刑事なんだ」
「え?」
「黙っていて、すまなかった」
カインは深く、頭を下げた。もう仕事柄慣れてきたはずなのに、罪悪感で、喉の奥が苦かった。
「……刑事、」
顔を上げる。オーエンの瞳は揺れていた。目元が翳り、一瞬、闇のような絶望が映った。だが次の瞬間、あれは見間違いだったかもしれないとカインは思った。壁についていた脚を下ろし、満足げに微笑んで、オーエンはカインの腰に手を回した。
「あは、やっぱり」
「……え?」
その顔を見るのは、久しぶりだった。カインは息を呑んだ。初めてキスをした時のような、プロポーズをした時に見せたような。満足げで、嬉しくて仕方ないとでも言いたげな、そんな顔。彼女の左右違いの目が、きらりと輝く。甘えるように首を傾げて、囁く。
「……やっぱり。おまえはただの掃除夫じゃないって、思ってた」
「え、ええと……」
カインは冗談めかして、笑ってみせた。
「ほ、惚れ直したか?なんて……」
「うん、すごくね」
「そっ、か……」
今はそんな場合ではないのに、カインは頬が緩んでしまう。意地っ張りなオーエンだが、こうやって、たまに素直になる時がある。そういう時は貴重なので、一日中ずっと、機嫌が良いのを察知するとカインは、できるだけ二人でいられるように、時間を作っていた。
今はまったくそんな場合ではないのだが。
「オ、オーエン……そういう訳だから、この会場が危ないのは本当なんだ。だから、先に帰ってくれるか?」
「嫌」
「ありが……え、なんで!?」
「だって、カインが守ってくれるでしょ?」
無邪気にオーエンは微笑んだ。
「なら平気だよ。じゃあ、もう行くから……」
去りかけたオーエンの背中を、カインは抱きしめた。
「待て」
「なっ、なに……?」
びくりと、オーエンは身体を震わせた。カインは耳元に息を吹きかけながら、彼女の身体のラインを辿る。
「気になっていたんだ、このドレス」
「あ、やっ……」
さっきオーエンがしてきたように、腕から胸、腹をなぞるように触っていく。細い腰、尻、そして、太もも。長いドレスに隠れて、ホルダーを付けていた。そこから、目当てのものを引き出す。
「なんで銃なんか持ってるんだ?」
目の前で揺らしてみせると、オーエンは、呆然と唇を開けた。
「答えてくれ、オーエン。銃は重くて扱えないからいらないって、そう言ってたおまえが、なんでこんなもの持ってる?」
「そ、それは……」
白い喉が動く。唾を飲む音まで聞こえた。
「オーエン!」
「……警備の、仕事をしてる」
「警備?」
カインは、聞き返した。オーエンは静かに頷く。
「僕の生まれた地域は、治安が悪かった。昔から家に銃があって……扱いには、慣れてたんだ。でも本当のことを言ったら、物騒だって、嫌がられるだろ。だから……」
そこまで言ってから、オーエンは、怪訝な顔をした。
「カイン?」
「ああ、いや……なんていうか……」
きょとんとカインを見つめていたのだが、不意に、彼女はにやりと笑った。
「へえ。惚れ直した?」
「ああ……」
「はは……おまえの好みって、変」
「あんたもな。普通、隠し事をされたら怒るもんだ」
「まだ怒ってるよ。でも掃除夫より、警察官の方が僕のタイプなんだ」
「職業じゃなくて、俺自身のことは?タイプじゃない?」
「どうかな……おまえは、翻訳家は嫌い?」
「まさか。どっちのあんたも最高だ」
「嘘。態度が変わった」
「そんなことないって」
二人は、微笑み合った。互いに知らない一面があったことに驚き、ときめきを感じていた。
「あっ。そういや俺、さっき、あんたの仲間を殴っちまった」
「いいよ」
「いいんだ……」
「じゃあ、僕は仕事だから。持ち場に行かないと」
「ああ……俺もだ。また家でな」
「うん」
「……愛してるよ。どうか無事で」
「おまえこそ」
***
もちろん、カインは刑事ではなかった。諜報局に所属している諜報員である。彼の胸ポケットに仕舞われているUSBは、 『ノーザンカントリー』という名の巨大犯罪組織のものだった。この組織は、クライアントが抱える後ろ暗い問題を非合法に解決するため、盗み揺すりたかり強盗暗殺などさまざまな手段を使用することで、悪名高い。その組織の中でもカインが長年追い続けているのが、『アンノウン』という通り名で呼ばれるメンバーである。数々の殺人事件への関与が疑われているが、全く正体が不明、つながるような証拠も出て来ない。
だが今日のパーティでは、組織のメンバーの経歴などのデータを入れたUSBが、営業目的で一部のクライアントに配られるという。その情報を得て、カインは潜入捜査を行なっていた。
「まさか、オーエンが警備員だったとはな……」
マイクをオンにすると、シノの声が入ってくる。
『おいカイン、さっきマイクが切れてた。大丈夫か』
「ああ、問題ない。ちょっと……想定外のことがあっただけで」
『トラブルか?俺が行こうか?』
「いや、問題ない」
カインは元気よく首をふりかけて、必死でおさえた。動揺からか、ミスが多い。
「よし。USBを手に入れた次は、CD-ROMだよな……」
『そうだ。これは監視ルームまで取りに行く必要はない。配布されるらしいから、このままホールで待っていてくれ』
「こんなこと言いたくはないんだが……前時代的じゃないか?今さらCD-ROMって、ありなのか?」
『まあ、あるんじゃないか。役所はまだ使ってるらしいしな』
「そうなのか……」
『話は変わるが、おまえ、前にアンノウンとやりあったことがあるんだろ。どうだった?』
「顔は見ていないが……恐ろしく有能だった」
カインは、目元を険しくした。
「奴とは、撃ち合いになったんだ。それで死にかけた。俺の弾が当たっていると良いと思っていたが……最近の活動を見る限りでは、元気そうだ」
右目を撃ち抜かれたカインは、生死の縁を彷徨った。以来彼の右目は、義眼となったのである。
『大変だったな』
「ああ。それにしても今日のオーエン、綺麗だったな……」
『カイン』
「なんだ?ちゃんと聞こえてるよ」
『こっちにも聞こえてる。集中しろ』
「悪い、気を抜くとつい……」
カインは、唾を飲み込んだ。5メートルほど離れた黒いスーツの男と、目が合ったのだ。こちらをじっと見ている。数秒後、その理由に気がついた。
「おっと、まずいな……やらかした」
素早く踵を返す。人混みを掻き分けながら、カインは足を早めた。
『どうした、カイン』
「すまん、耳元に手をやっちまった」
『マジか』
「マジだ!」
ちらりと、カインは振り返った。サングラスをしたスーツの男たちが小走りでやってくる。慌てて自分も走り出す。
「まずいな……!」
人混みの中、身を屈めながら進む。ふと目をやると、従業員用の部屋のドアが、少し開いていた。
***
もちろん、オーエンも警備員ではなかった。彼女は犯罪組織『ノーザンカントリー』の一員であり、『アンノウン』の異名を持つ殺し屋である。一度決めた獲物は逃さず、証拠も残さないことで名高い。
「まさか、カインが刑事だったなんて……」
思わず呟くと、インカムからやかましい声が聞こえる。
『おい。なんの話だ』
「なんの話でもないよ」
『カインって、てめえの結婚相手じゃねえか。それがなんだって?』
「結婚してない」
『なら薬指の指輪はなんだよ。舐めてんのか?』
「どの指にしたっていいだろ。たまたまサイズがあったのが薬指……」
『あー分かった分かった、いいからさっさとこの仕事終わらせろよ』
「うるさい」
今日は苦戦していた。こんなに上手くいかないのは、人生で二回目だ。嫌な予感がしていた。一回目は敵と撃ち合いになり、オーエンの右目は義眼となった。
「誰だよ……『ナイト』って……」
ターゲットを探し出せずに、彼女は舌打ちした。GPSが上手く作動していないに違いない。なぜかカインの近くで反応するから、どうしても視界に入るのだ。うろちょろして仕事の邪魔をしてくるから、端的に邪魔だった。
「それらしい人間もいないし……」
『ぐずぐずしてんじゃねえよ』
インカムから、男の声が流れた。
『さっさと片付けたらどうだ。できねえのか?』
「は?殺す。おまえが囮用のUSBにちゃんとGPSを仕込まなかったんだろ」
『ああ!?俺様の仕事にケチ付けんのか!?』
「大体、今時CD-ROMとかUSBに個人情報なんて入れる訳ないだろ。いくら公安でも、馬鹿正直にそれを盗みに来るなんて思えないんだけど」
『そのまさかだろ。目標は、分かりやすくすしてやる方が良いからな』
「嘘。だって……あ」
『どうした?』
オーエンは、瞬きした。いつのまにかカインは持ち場を変えたのか、いなくなっていた。代わりに、ふざけた黄色いカナリアのキャラクターの着ぐるみが、会場を歩いている。子供たちに風船を配っているらしい。そしてそれに、GPSが反応していた。にやりと微笑む。
「へえ、こいつが……」
オーエンは、着ぐるみを観察した。こいつが、ナイト。風船を子供に渡すとき、恭しい仕草をしているのが不愉快だ。妙に様になっているし、誰かに似ている。
『オーエン、見つけたか?』
「うん。今、この着ぐるみに隠れてる」
『当たるか?てめえの場所からだと、遠いからな』
「なに?馬鹿にしてる?」
『いや?当たらねえなら、仕方がねえって話だ。俺様が代わりにやってやるよ』
「ふざけるなよ。この距離で僕が外すわけないだろ」
オーエンは、スコープを覗き込んだ。
「騎士様はカインで十分」
『カイン?』
「そんなコードネームにしたこと、後悔させてやる」
標的を捉え、引き金を引く。銃声が一つ。素早くスコープを覗き込み、舌打ちした。信じられなかった。
「外した……!」
***
「外れた……!」
悲鳴をあげる参加者たちが逃げ惑う。カインは冷や汗をかきながら、辺りを見回していた。追ってから逃げるため従業員の着替え部屋へ入り、着ぐるみのキャラクターに扮してホールへ出てきたところ、どこからか、狙撃されたのだ。
「危なかった……」
嫌な予感に咄嗟に身を屈めていなかったら、確実に頭を撃ち抜かれていた。カインは声を張り上げる。
「出口はあっちだ!早く逃げてくれ!」
会場はごった返していた。客を外へ誘導しながら、ぐるぐると会場を見渡す。人が多いからないとは思うものの、どこからどう狙撃されるのか、分かったものではない。よほどのプロなのか、スコープの反射光も見当たらない。
「誰だ?見当たらな……」
そこで、はっとする。オーエンはどこだ?カインは着ぐるみを脱ぎ捨て、出口へと走った。警備員の肩を掴み、揺さぶる。
「オーエンはどこだ!?」
「な、なんですか!?」
「俺の妻だ。探してる。今日の警備を担当してるはずだ」
「オーエン……?」
「知らないのか?美人で、オッドアイの……」
警備員は首を振った。耳を疑うような言葉を吐く。
「今日のシフトに、そんな名前の人はいませんけど……」
***
「た、ただいま……」
カインは冷や汗をかいた。玄関で出迎えてくれたオーエンは、一度も着たことがないエプロンをして、微笑んでいる。その手には鈍く輝く、包丁があった。そこから目が離せない。
「おかえり、カイン」
「あの、えっと……ありがとうハニー。その包丁は……」
「ああ、これね」
笑みを深めたオーエンはくるくると、包丁を回し、弄んだ。カインは思わず、身をすくめた。
「料理したんだ。夕ご飯、できてるよ」
「え……?」
耳を疑った。結婚してこの方、オーエンは食事の支度を一度もしたことがない。
「ええと……ウーバーイーツを皿に載せてくれたのか?助かるよ、ありがとうな!」
「は?馬鹿にしてる?」
「いや、おまえ料理できないだろ!?」
「やらないだけ。ほら、おいで。今日はおまえの好きなベーコンがあるよ」
オーエンは包丁を戯れに回しながら、ダイニングルームへ颯爽と向かうので、その後を恐々と着いていく。オーエンは、わざわざ椅子を引いた。
「どうぞ、カイン」
口の端を引き攣らせながら、恐る恐る、カインは腰掛けた。テーブルの上には、豪勢なご馳走が並んでいる。ピザ、ローストチキン、クリームシチュー。いちばん手前に、厚切りのベーコンが皿に載っていた。カリカリに焦げ、油を光らせていて、美味しそうだ。
「ほ、本当に、どうしたんだ……?」
「はは……嫌だな。僕がおまえのために作ったらおかしい?」
「い、いや、嬉しいが……」
「なら食べて」
有無を言わさぬ口調である。カインはフォークを手にした。ベーコンを刺して、口に運ぼうとして、ぴたりと動きを止めた。
「どうしたの?カイン」
オーエンが目を細める。カインは、フォークを置いた。
「……匂いが、変だ」
「へえ。せっかく僕が作ってあげた料理に、文句をつけるんだ」
「違う、文句じゃなくて……この匂いは……」
カインは言葉を切った。嗅覚には自信があった。記憶を辿る。
「嗅いだことがある」
「へえ。どこで?」
「……どこだったか……」
カインは、目を閉じた。
「とある、現場だ」
「続けて」
「被害者は毒殺されていたが……目撃者、証言、証拠が、不自然なほど、なにも見つからなかった」
瞼を開く。オーエンの赤い目は、ぎらついていた。続きを無言で促している。
「……この案件は、一連の不可解な殺人事件と因果関係があると見られている。殺害方法は違うものの、全く痕跡を残さない手口に共通点がある」
「へえ」
「俺は、その犯人と思われる人間に、一度撃たれてる。四年前……結婚する前のことだ。生死の縁を彷徨って、意識を取り戻した時、俺の右目は使い物にならなくなってた。今嵌めているのは義眼だ。交通事故で視力を失ったっていう、あんたと同じ」
「……そう、偶然だね」
「しばらく同様の殺人事件は起こらなかったが、一年ほど前からまた、活動が活発になった。一切の正体が不明なことから、事件の容疑者は、こう呼ばれている……」
「『アンノウン』」
二人の声が合った。次の瞬間、カインはテーブルの下に滑り込んでいた。オーエンが投げたナイフが、背後の壁に突き刺さる音。白い脚が、階段の方向へ駆けていく。
「待て、オーエン!」
テーブルの下から抜け出し、カインは声を荒げた。
「ハニー!どこへ行く!?」
ハッとして、カインはキッチンへ走った。引っ越した時に買った食器棚には細工がしてあって、奥のスペースが空いている。いざという時のために、ハンドガンがしまってあるのだ。使う時が来るとは思わなかった。マガジンを装填し、スライドを引いて、振り返る。まだ何も聞こえない。
息を凝らして廊下に出る。階段下にしゃがみ込み、銃を構える。ぱちりと、電気が消えた。張り詰めた緊張感が漂う。一挙動の間違いが命取りとなる、二年前と同じような感覚。自分の息遣いすら、うるさく聞こえるほどの静寂に包まれる。だがその静寂を、突如裂くものがあった。
スマホの着信音である。
「やっ……べ!」
階段の上から、オーエンはマシンガンをぶっ放した。轟音。肩をすくめながら、カインは廊下を全力疾走する。その後ろの壁を、オーエンが穴だらけにした。カインは咄嗟に、キッチンにスリッパを放り込んでから、隣のリビングに転がり込んだ。箪笥の裏に隠れると、スマホに向かって、小声で抗議する。
「シノ……もしもし?緊急か?」
『おい、カイン。さっきの任務について、俺は文句が言いたい』
「すまないが、それどころじゃない。オーエンに殺される」
『どうした?』
キッチンの方で、鋭い銃声が聞こえた。カインは冷や汗をかいた。
「分からないか!?夫婦喧嘩中だ!」
『物騒だな。銃声が聞こえる』
銃を構えたオーエンが、足音も立てず、リビングに入ってきた。
「ああ、ゲームしてるんだ……」
『勝てそうか?』
ちらりと様子を伺う。オーエンがソファを蜂の巣にしていた。イタリア製の革のソファで、高かったのに。ぞっとしながら、箪笥の裏で身を縮こませる。
「どうかな……形勢不利だ」
『仲直りできるといいな』
「ああ、ありがとう……うわッ!」
『大丈夫か?』
「大丈夫大丈夫、切るよ!」
『あ、おい……』
スマホを放り投げると、銃弾が綺麗にそれを撃ち抜いた。カインはその隙に走り出す。背後に回り込み、足払いをかける。器用に避けたオーエンは一瞬ぐらついて、立て直すまでの間に、カインは照準を合わせた。
知らなければ良かったと、思うことがある。
手汗ですべりかけた拳銃を、カインはしっかりと握り直す。同じように銃を突きつけてくる、目の前の女を睨みつけた。世界で一番、愛していたのに。
「……おまえに俺は、殺せない」
躊躇なく、彼女は引き金を引いた。弾はカインの髪を掠め、後ろの壁に穴を開けた。
「もう一回言ってみれば?」
オーエンは冷たく微笑む。カインはぐっと唇を噛んだ。唾を飲んで、静かに切り出す。
「……なあ。どうして、俺と結婚したんだ?」
彼女の片頬が、わずかに引き攣った。
「はは……最期に言い残すことがそれ?」
「最期じゃないが……答えてくれないのか?」
オーエンは、奇妙なほど完璧な微笑を浮かべた。
「……結婚すれば、身元が保証されるからに決まってるだろ。偽物の夫婦生活に、他に理由なんてないよ」
「偽物、な。俺を利用したってことか?」
「おまえだって同じだろ」
「俺は……」
「僕ばっかり悪いみたいに言うなよ。結婚生活に飽きてたくせに……」
「いや、それは……おまえだろ!?」
「は?」
互いに睨み合う。
「……最近休みの日にデートに誘っても、断ってたじゃないか。夫婦のふりが面倒になってたんだろ。プロとしてどうかと思うぞ」
「うるさい、記念日忘れてたやつに言われたくないんだけど。そんな記憶力でよく諜報員が務まるね」
「あれは謝っただろ!?埋め合わせだって散々した。他にどうすればよかったんだ」
「ねえ、前から思ってたんだけど……」
「……なんだ」
「浮気してない?」
「してない」
「でも、僕らの夫婦生活は偽物だろ」
「まあ、そうかもしれないが……」
オーエンは眉に皺を寄せる。可愛いな。と思ってしまったカインは、顔をしかめた。
「正直に答えなよ。浮気してた?」
これは演技だ。自分にそう言い聞かせ、カインは妻を睨みつけた。嫉妬するそぶりが可愛いことをわかっていて、油断させようとしているのだ。可憐で悲しそうなそぶりに少しでも隙を見せれば、即座に脳を撃ち抜かれる。唇を舐めた。
「……どうでもいいだろ、そんなの」
オーエンのこめかみに、青筋が浮かんだ。
「あっ、そう」
「ああ」
「じゃあ、死ね!」
ほとんど同時に、二人は動いた。
取っ組み合い、互いの腕を掴んで、押し合う。オーエンがマシンガンを振りかぶる。その側面で頭の横を殴られたカインはくらくらしながら、思い切りオーエンを突き飛ばした。床に倒れ込んだオーエンの上に馬乗りになろうとすると、蹴り上げてきたので脚を掴む。すると素早く腹筋を使って起き上がったオーエンがカインの首を絞め出し、カインは尻餅をついた。すぐさま腹を蹴ろうとして、ほんの一瞬、気づかないくらいの迷いが、オーエンの目に浮かぶ。
それを見逃さず、カインは彼女の腕を払った。虚をつかれたオーエンのマシンガンが飛んでいき、カインはハンドガンの銃口を、妻の額に突きつけていた。息を弾ませたまま、二人は互いの目を見つめた。舌打ちして、オーエンは腕を組んだ。
「早く、殺せよ」
カインの首筋を、汗が流れた。瞬きをせず、じっとオーエンを見つめる。
「……最期に言い残すことは?」
オーエンの瞳が揺らいだ。透明な膜が光って、風にさざめいた川面のようだった。唇がわなないて、閉じた。オーエンは首を振る。
「ないよ」
代わりに透明な涙が一粒、彼女の目尻からこぼれ落ちた。祈るように、オーエンはぎゅっと瞼を閉じる。カインは右手に力を込め、そして、銃口を額から離すと、床に放り投げた。
「……は?」
オーエンは、ぽかんとしている。カインはゆっくりと、両手を上げた。丸腰だ。
「同情のつもり?おまえ……!」
戸惑ったままオーエンはハンドガンを拾い上げ、カインに向けた。その手が震えている。
「……好きにしてくれ」
両手を上げたまま、カインは言った。
「だが、おまえに俺は殺せない」
「見くびるなよ……」
「いや、おまえの方が強い。分かってるだろ。それなのに負けたのは、俺を殺すことに躊躇ってたからだ」
「……違う」
「違わない。それに、俺も……」
カインは、首を振った。
「やっぱり、無理だ。おまえのことは殺せない」
照準も合わせられないほどに、オーエンは震えていた。ゆっくりと、カインはオーエンに近づいた。
「愛してる」
「……嘘」
「本当だ。浮気はしてないし、おまえになら、殺されてもいい」
頬を濡らして、オーエンは迷子のように、瞳を彷徨わせる。銃がごとりと床に落ちた。カインはオーエンを抱きしめ、熱い唇を重ねた。
「ん……!」
カインの肩に、オーエンが腕を回す。カインも腕に力を込める。右手で背中を撫で回しながら、舌をさし入れて強く吸う。しょっぱかった。オーエンは足を地面から離すと、カインの腰にぎゅっと巻きつけた。興奮して、カインは銃痕だらけの壁にオーエンを押し付け、身体をぴったりとくっつけた。
「……ッ、カイン、」
潤んだ瞳に、乱れた髪。柔らかい唇。息継ぎの合間、喘ぐように名前を呼ばれ、カインは愛しさに胸が詰まる。世界一綺麗だ。
「好きだ、オーエン……」
気持ちを確かめ合うには乱暴すぎるくらいのキスを、何度も重ねる。じゃりじゃりと、足元のガラスが音を立てた。火薬の匂いがリビングには立ち込めている。オーエンの細い指が、カインの頬を撫でた。構わず舌で歯列をなぞっていると、今度は首を引っ掻かれる。
「いって!」
「音がする……」
「オーエ……え?」
すっかり夢中になっていたカインはぱちくりと、瞬きした。耳を澄ませる。確かに遠くから、音がする。
「……ヘリコプター、か?」
オーエンは舌打ちした。
「クソ、あいつらだ……」
「あいつら?」
「バレたかも。家ごと爆破される」
「爆破!?なんで!?」
「捜査員の妻が組織に入ってたら、普通そいつはスパイだろ」
カインは口を開けた。
「え!?俺のせいか!?」
「そう。だから行くよ、騎士様」
「行くって?」
無視してオーエンは、テレビのリモコンを拾い上げた。0806と入力すると、庭から轟音が響く。
「なんだ!?」
慌てて窓に駆け寄り、カインは口を更にあんぐりと開けた。プールの底が開いて、隠し通路になっている。
「おまえ、プールが欲しいって言ってたの、このためだったのか!?変だと思ったよ……」
「うるさいな。さっさとガレージから、梯子持ってきて」
「あ、ああ……了解……」
隠し通路の先は、マンホールだった。苦労しながら暗い水路を歩き、持ってきた梯子を登って重い蓋を開け、歩道に出たその時だった。背後で、自宅が爆発した。
「あ……」
存外ショックを受けて、カインは立ち尽くした。ぱらぱらと外壁が、柱が崩れていく。二人で喧嘩しながら選んだキングサイズのベッド、長さを間違えて買ってしまい怒られたリビングのカーテン、お気に入りだったガレージ、毎週ピカピカになるまで洗って二人で何度もドライブした車、全て、勢いよく燃えていく。
「……おい。ボーッとするなよ」
「わ、悪い……」
子犬のような顔をするカインを見て、オーエンは舌打ちした。
「馬鹿」
「いや、だってさ……」
「……また、建てればいいだろ」