透明人間がよかった1 くしゃみをひとつして、部屋の中を見渡した。
昼下がりの日の光は柔らかく広い床を照らしてる。こころなしかキラキラ光るものが見えるような気がしたがホコリだ。鼻をすする。さっさと終わらせないと。
気を取り直してビニール袋を広げ、段処理の続きを始めた。二年も住んだのだ。物だってそれなりに増えるというものだろう。そういえばこの部屋に越してきたのもこんな冷えた春先だった気がする。
三月と言えど冬は停滞し、桜前線は未だ北上の兆しを見せていない。
近所の桜の蕾もまだ固く閉じられているようだったから、もしかしたらもう今年はここの桜は見られないのかもしれない。
空が白く眩しい花の雨が降る季節、俺はこの街にいない。
『もしもーしイチロー? 軽トラの件だけど何とかなりそうだよー』
「そっか。サンキュな」
『ダイスは? いる?』
「荷出しの時に人手ほしいかもしんね」
『はいはーい。ついでに向こうまで連れてって搬入までやらせればいいよ。あいつイチローにも借金してるんでしょ?いつ返ってくるか分かんないんだしこういう時に使っときなー』
「あーじゃあそうすっかな」
いるもの、いらないもの。
我ながら判断は早い方だと思う。今使っていないものはこの先も使わない。いたってシンプルな作業だ。そこに思考や感情なんてのは必要ない。引越し業者に頼まないと決めた以上、荷物は最大限減らしておきたかった。
『そーいえば、こないだ久々に店に顔出したよ』
サマトキ。
ラムダの粒立った声で届けられた名前が部屋の中で宙ぶらりんになった。腹の中に鉛の玉が落ちて、呼吸の音だけが並ぶ。
『アイツ聞いても何にも話さなくってさ。仕事しに来ただけだって、ハクジョーなやつだよね』
「……知らね」
止まっていた手をまた動かす。さっさと終わらせてしまわないと。
鼻をすする。
持ち主の名前を聞いた途端、あてもなく隅に追いやっていた荷物がいっせいに主張を始めたみたいで嫌になった。やんやと騒がれたところで俺にはどうしようもない。
いるもの、いらないもの。それから俺のじゃないもの。
手に取る度に記憶と名のついた感情が滲んでは溜まっていく。そろそろ底が抜けたりするのだろうか。
『ま、いんじゃない。出てったのはアイツなんだし』
「荷物もそんままだから処分に困ってんだよな」
『取りに来いって言えばいいじゃん』
「ずっと前に最低限は取りに来たけどな」
『黙って?』
「俺そんときメシ食ってたんだけど、急に帰ってきて」
『うん』
「横でずっとガサガサやってて、そんまま何も言わずにまた出てった」
『はー! めんどくせ!』
相変わらず遠慮のない物言いで安心する。『あ、ダイスー! 今度イチローのさ!』との声に別の声が遠くから重なって頬が緩んだ。騒がしくていい事だ。
『いかんせん連絡はしなね。アイツ僕の話ちゃんと聞いてたのか分かんないし』
「…………えー」
『ヤな事は先にやっちゃいなー。どうせいつかやんなきゃいけないんだから』
「……ありがたく受け取っとくぜその言葉」
『えっへん! 人生の先輩の言うこともたまには聞いとくもんだよ!』
そんじゃねーと通話終了の文字が表示されると同時にスマホは沈黙する。派手な髪の自撮りのアイコンがしばらく画面に鎮座していたが、やがて引っ込んだ。
途端にひとりになった部屋で、おもむろにスマホを床に置いた。今しなくたって、いつかはするのだ。今じゃなくたって。
いつか、絶対に。
「…………はー」
意を決してメッセージアプリの通話画面を開く。嫌なことは早めに終わらせる。間違いない。心臓が大声で喚き散らしているが無視だ無視。こういうのは勢いが肝心なのだから。
しかし呼び出し中のコールを聞きながら、ひょっとしなくてもメッセージで良かったんじゃないかと気がついた。幸い今の時間なら仕事中のはずだ。出なければ不在着信を言い訳に後からメッセージを送ればいい。
頼む、出るな。
『…………』
途切れたコールに続くのは案の定沈黙だった。
もう本当にイヤだ。なんで俺がこんな思いしなくちゃいけないんだよ。アンタがおいてった物の事だろうが。
通話をぶち切りたい衝動に駆られるが既のところで耐えた。繋がってしまったからには腹を決めなければ。どっちに転んでも後悔する羽目にはなるのだから。
「もしもし…………なぁ、アンタの荷物さ」
春先での事だ。
アンタと出会ってから、もう四度目の春を迎えようとしている。
透明人間がよかった
大学進学を機に始めた独立生活はようやっと形になりつつあった。
独立生活と言っても実家から離れただけで、実質は衣食住のうち食と住は保証された男子寮生活だ。
なかなか温度の染みきらない春だった。けれど雨はよく降った春だったから、桜はとうに散ってしまった。
今日も今日とて天気予報の最高気温を確認してはアウター手に少しばかり悩む。
荷物になるリスクを考えればなるべく置いてはいきたい。数秒ほど悩んだが、手に持ったアウターは結局そのままベットへ放り投げた。
ドアから部屋の外へ踏み出し、鍵を閉める。
木造の長屋寮はお世辞にも綺麗とは言い難いが、マメに掃除をしてくれる寮母さんのおかげで控えめな輝きを保っている。
破格の値段で朝晩飯付き、こんなとこ他を探したってないのだから文句などあるはずもない。休みを除いて食費を切り詰められるのは本当にありがたかった。
模様の着いた硝子窓から差し込む朝の光がつるりと床に落ちる。か細い悲鳴をあげる廊下を渡り、いくつものドアを追い抜かす。
おおむね快適な寮生活だ。煩わしいことといえば、一昨日の晩くらいからどこぞの馬鹿が馬鹿みたいな音量でAVを見ているくらいなもので。
「あら、一郎ちゃん」
玄関で靴箱を覗き込んでいれば、食堂から寮母さんが顔を覗かせていた。
水仕事をしていたのだろう、水滴の残る手を布巾で拭っている。頭にはいつものエプロンと揃いの花柄の三角頭巾が結ばれていた。
持っていた布巾をエプロンのポケットへ挟んで、やわらかな風が吹くように目が細められる。
「そろそろ慣れたころかしら。困ったことはない?」
「今んとこ特に。寮母さんの作る飯マジでうめぇんで、今日も楽しみっす」
「それはよかった。今日は新物のジャガイモが入ったからね、肉じゃがにしようと思って」
「サイコーっすね!早めに帰ってこれたら手伝いますよ」
「あらあらいいのよ。ゆっくり帰ってらっしゃい」
「そうすか?とにかく楽しみにしてるっす」
それじゃ、と足を踏み出した途端に、あっとまたも声が響く。
「今日はシーツを交換する日だから、使ったものは廊下の籠に入れて、新しい物は隣に置いておくから一枚ずつ持って行ってね」
「うす」
「明日の朝一息に回してしまうから、もし洗濯物があるなら悪いんだけど明日は午後まで待ってもらえる?」
「もちろんす」
「ありがとう。助かるわ」
寮の洗濯機は供用だ。型も古く時間がかかる上に台数もさほど多くないので、使う時はいつもタイミングを図る必要があった。
明日は二限からで時間に余裕があるから溜まった洗濯物を片付けようかと思っていたのだが、見送ることになりそうだ。
「いってらっしゃい。気をつけてね」
「うす!いってきます」
概ね快適な学生生活を送っていた。
スニーカーを突っかけて引き戸を引けば空には薄い青が引かれている。まだ目覚めきっていない朝へ踏み出す。肩にかけていたヘッドフォンに手をかけた。
「げ」
今日も今日とてやる気のない春だった。
容赦なく吹きつける冷たい風に身震いをして、部屋に残してきたアウターに終始思いを馳せていた一日だった。
そんな中でも寮母さんの肉じゃがは最高だった。これまた旬のサヤエンドウの青がまぶしく、皮のついた小ぶりなじゃがいもに少しの特別感を覚えながら完食すれば、寮母さんも厨房から満足そうに笑っていた。
つまるところ総じて悪い日ではなかったのだ。そのままとっとと風呂に入って寝てしまえばよかったのに。
俺の視界が捉えてしまったのは部屋の端で山となった洗濯物だった。
一度気になってしまうとダメだ。今まで気にしていなかったくせに途端にそれが不潔極まりないものに思えてしまう。気がつけばランドリーバッグを片手に部屋のドアノブを捻っていた。
夜中に洗濯なんて、と思うかもしれない。しかし居住スペースのある母屋と洗濯機のある場所は一定の距離があるため、皆遠慮なく洗濯機に深夜労働を強いている。
手探りで蛍光灯のスイッチを押せば、数回点灯した後に無機質な光が落ちる。裸の電球から放たれる青い白が目を刺した。
手前の洗濯機は既に稼働中だったから、奥の洗濯機の蓋を開いた。ランドリーバッグを洗濯機の縁にのせて、さて服を流し込もうとした時だった。
「……げ」
見つけてしまった。というよりそのタイミングに当たってしまった。
洗濯機の底で縮こまっているのは紛うことなき男のパンツだ。よく分からんロゴによく分からん模様が入っていた。
おそるおそる爪先でつまみ上げればそれは十分に湿っていて、ついさっき洗濯されたものだと分かる。柔軟剤だろう、お花のにおいがした。最悪だ。
ひとまずは洗剤の置いてある台に置いておく。こうして洗濯機に物が残っているのは特に珍しいことでもないのだ。
実際やれパンツだ片っぽ靴下だ、持ち主に忘れ去られたものが台にはそれなりに放置されている。そのほとんどはホコリをかぶってしまっていて、たとえ自分の物だったとしても正直もう一度身につける気にはなれないだろう。
午後からぶっ続けで入っていたバイトの疲れを欠伸で噛み殺しながら洗濯機のスイッチを入れる。さっさと布団で眠ってしまいたい。服の量を目視で確認しながらスピードコースに設定する。
硬い蛇口を捻ってやれば年代物の洗濯機は元気に稼働を始めた。大まかに測った洗剤をぶち込んだら折りたたんだ蓋を下ろす。
脱水が終わるまで部屋に帰ってもいいのだが、時間があるうちに今日出された課題に目を通しておこう。バイトを詰め込みすぎて留年なんてことになったら本末転倒もいいとこだ。
パイプ椅子に座ってまた欠伸を噛み殺す。眉間を揉みほぐしながら、文字の羅列を目で追った。
規則的なモーターの音が重く響く。ふわりと立ち上がるのは俺は使わない柔軟剤の香りだ。
出処を辿れば、そこには先程のパンツが横たわっていた。
このパンツにもいずれホコリが積もり、持ち主に持ち帰られることもないまま捨てられてしまうのだろう。持ち主の確認不足のせいでこのパンツは哀れな運命を辿ることになってしまった。かわいそうに。
「……」
持ち帰った洗濯物をハンガーにかけ、窓の外にある物干し竿に引っ掛ける。小物はまとめて物干しハンガーに。暗闇で春の風に揺れる俺のものではないパンツを尻目にぴしゃりと窓を閉めた。
明日の朝、寮母さんに届けに行こう。どうせ捨てられるだろうが、あのままいつまでも放っておかれるよりはずっとマシなはずだ。
布団に寝そべり、コードに繋いだスマホの光を顔に浴びた。SNSで大なり小なり他人の出来事を流し見していたら、今日も今日とてどこからか甲高い女の声が聞こえてくる。
アンアンひたすらやかましいそれに溜め息をつき、ヘッドフォンを手繰り寄せた。どこの馬鹿か知らないが、シコるなら静かにやれ。疲れてんだよこっちは。
プレイリストを少しずつ置き去りに、睡魔に吸い寄せられるまま身を預けた。
「あら、それサマちゃんのね」
「サマチャン……」
朝食を終え、食器を洗う寮母さんはいつもの調子であっけからんと言った。
どうやらコイツはサマチャンのパンツらしい。
「よく落としてるのよ。そそっかしいのよね」
「はぁ」
そそっかしいサマチャンはよくパンツを落としてしまうらしい。なんだそりゃ。
手の上にあるパンツをねめつけていれば、布巾で両手を拭った寮母さんはカウンターの向こうで頬に手を当てている。何やら困ったような表情だ。
「確か今日の朝出て、帰ってくるのは月曜の夜だって言ってたかしら。けどねぇ、私来週いっぱいは空けているのよ」
ほら。と示されたのは食堂に設置してある掲示板で、そこには『来週一週間は食事の提供がない』ことのお知らせが貼ってあった。
「悪いんだけどイチロウちゃん、サマちゃんに届けてあげてくれるかしら」
「いや……俺その人誰か知らないっすよ」
「一番奥の部屋だからきっとすぐに分かるわ」
含みのない笑顔で微笑まれてしまっては、何も言い返せなくなってしまった。
寮母さんには世話になってるし、頼まれたことはできる限り聞き入れたいが。しかし。
「……わかりました」
「ありがとう。お願いね」
宙ぶらりんになった手には俺が朝きっちり畳んだ一枚のパンツ。薄っぺらい布切れのはずが、その時ばかりはひどく重く感じた。
「はーーーー」
ぱ、と蛍光灯が容赦なく部屋を照らす。
背負っていたリュックサックを放り投げ、朝から敷きっぱなしにしている布団へ倒れ込んだ。汚ぇ。疲れた。風呂入んねぇと。
仕込みからラストタイムまで厨房に篭っていたためか、油の臭いがひどくて気持ち悪い。
このまま眠ってしまいたいと愚図る身体に鞭を打ち、気合いで起き上がる。
「……あーそうだった」
机の上に置いてあるパンツに思わず舌打ちを零す。なんだって俺が見ず知らずの奴にパンツを届けてやらねばならないのか。
「めんどくせぇ……」
確か、サマチャンが帰ってくるのは今日のはずだ。
嫌なことは早めに終わらせるに限る。そもそもこれを持って帰ってしまったのは俺なのだから。手早く風呂の支度をして、乱雑にパンツを引っ掴んだ。
コンコン、と気持ち控え目にしたノックが夜の廊下を渡る。一度目は返事がなく、仕方なしに二度目は少し強めにドアを叩いた。
もしかして部屋にはいないのだろうか。そうなると面倒だが出直した方がいいかもしれない。そんなことを考えていると。息を吸う間もなくドタバタ人間の気配が近づき、瞬く間にドアが開いた。
(うわ)
心の声を押し殺し、勢いに負けて仰け反った身体を元に戻す。怪訝な顔をした男にひとまずは問いかけた。
「あ、と……サマチャンすか?」
「……誰だテメェ」
まずもってして、その男は服を着ていなかった。いや、少々語弊がある。下はスウェットを履いているのだが、上は何も身につけていない。
風呂上がりなのだろう、かきあげられた髪からは雫が滴り落ちている。両耳にゴテゴテといくつも飾られたピアスに極めつけは指に挟まれた煙草だ。部屋は禁煙のハズなのだが。
何より肌も髪も輝かんばかりに真っ白で、こんな人間がいるのかと思わず疑いたいたくなる。
つまるところ、サマチャンはいかにもといった風体だったのだ。
引き攣る頬をなんとか誤魔化しながら手に持っていたパンツを差し出す。
「これ、洗濯機の中に残ってて」
「あ?……おーわりぃな、あんがとよ」
両目を何度か瞬かせる。思ったより素直だ。
見かけからして何かしら悪態をついてくるのではと身構えていたから、拍子抜けした。
サマチャンは持っていた煙草に口をつけると、そのまま煙を吐き出す。ドアの縁にもたれ掛かりながら、俺の顔を見やった。
「婆さん墓参りの時期か」
「あ、そうっす。それで俺が頼まれて」
「見ねぇ顔だな」
「1年す」
「名前は」
「ヤマダイチロウ」
「はぁ?真面目に答えろよ」
「生憎大真面目っすよ。生まれてこの方この名前でやらしてもらってるんで」
「ほーん」
マジマジと顔を見られているのが分かり、居心地の悪さに思わず目を逸らしてしまう。決してサマチャンの乳首がピンクだったからではない。
というかさっさとパンツを受け取ってもらえないものか。さっきから煙草を吸っては吐くばかりで一向に受け取る気配がない。
おそらくは自分のペースを決して崩さないタイプだ。運がいいのか悪いのか、身近にそういう人間が多いので息をつくだけで済ませられたが。
「どこの部屋」
「あー真ん中の方っす」
なんとなく、部屋番号を教えるのは躊躇われて適当なことを言ってしまった。怪しい人もとい知らない人に住所を教えるなと弟たちに口酸っぱく教えている手前、俺が率先して破るわけにもいかない。
しかし気を悪くしたなら面倒だな、と様子を伺えばバチリと目が合った。
赤い。刺さりそうなほどに長い睫毛は天井を向いている。しばしその瞳から目を離せないでいると、サマチャンは眉をしかめながら、もしかして、とでも言いたげな怪訝な表情で言った。
「最近バカでけぇ音でAV見てんのお前?」
「ちげぇ」
「あっそ」
まさに近頃のストレスを自分のせいにされそうになって思わず食い気味に否定してしまった。するとサマチャンは興味が失せたとばかりに俺の手からパンツをひったくった。
「助かったわ。サンキュ」
そう言って閉じられた部屋からは煙草に混じって不思議な匂いがした。
ドアの前に佇み、情報量の多さにまだ目がチカチカしていたが、やがて踵を返しそのまま風呂へ向かう。
その日は連日続いていたAVの音は聞こえず、久しぶりの快眠だったような気もする。
風もなく、ようやっと訪れた暖かな春の夜だった。