透明人間がよかった 2 どっ、と講義室の後ろで笑い声が上がる。
ヘッドフォン越しにも届いた賑やかにスマホから顔を上げた。
気がつけば窓はすっかり緑一色だ。
風が強い。はためいたカーテンが視界に威勢よく割り込んだ。窓を閉めた方がいいか。ちらりと辺りを見回してみたが、俺以外に気にしている人間はいなさそうだった。
始業まではあと五分足らずといったところだ。
この講義は出席代わりのレポートさえ提出していれば単位はかたい。要点をおおよそレジュメで抑えておけば講義中は他の課題を消化する時間にもってこいだ。課題はなるだけ大学にいるうちに終わらせておきたい。バイトが終わったあとに眠気と戦いながら取り組むのは効率が悪いと近頃学んだばかりだった。
教授が教室に入ってきたタイミングで周りの席が急速に埋まり始める。隣の椅子に置いていた鞄を足元に移動させているとその隣の席に勢いよく誰かが座ったのが分かった。
「一郎じゃねぇか!久しぶりだなぁ!」
聞き覚えのある声にそちらを振り返ればやはり帝統だった。若干の煙臭さを放つ男はやはりというか手ぶらだ。ヘッドフォンを肩にかけ、呆れ混じりに応える。
「久しぶりってお前、そろそろ出とかねぇと単位やべーだろ」
「そうか?まーなんとかなんだろ!」
帝統がカラリと笑ったタイミングで始業のベルが鳴る。プロジェクターが投影され、薄暗くなった教室で帝統が大欠伸をしていた。
「なんで今日はいんだよ」
「いやぁ今日はどうにも出が悪い気がしてよォ」
あくび混じりにそう言ってクイクイとハンドルを回す仕草をして見せる。相変わらずのようだ。
帝統とは学部も棟も違うから、すべての講義で顔を合わせるわけではない。しかし教養の講義がいくつか被っているので、こうして時たま顔を合わせることがあった。
入学早々、俺のバイト先のゴミ捨て場に倒れていたのが話すきっかけだったと思う。雲のように掴みどころのない、不思議な雰囲気を持った奴だ。
「でもたまには顔出してみるもんだな。お前にも久々に会えたことだし」
「調子いいやつ。もう代返はしねぇからな」
「えーそう言わずによォ」
おろろーんとしばし下手な泣き真似をしていた帝統だが、講義が始まるとたちまちに突っ伏して寝息を立て始めた。本当に気ままな奴だ。しかしやたらめったら人の事を聞かず、自分のことも特に話さないところは一緒にいて気が楽だ。おかげで俺はコイツのことをほとんど知らないが、自由人と評される距離感は程よく適度で心地がよかった。
マイクを通し、電子記号となった教授の声が教室に落ちる。真面目にメモを取る者、俺のように内職に励む者。帝統のように突っ伏している者と受講態度はさまざまだが、およそ百人余の人間を納めた部屋の中で、大きなひとつの生き物のように一様に息をしていた。
不思議なことに隣で人が眠っていると作業が捗るらしい。面倒な教授の面倒な課題をひとつ片付け、講義が終わる頃には清々しい気持ちで提出ボタンをクリックすることができた。
生徒が次々に出ていく中、なおもヨダレを垂らして眠り続ける帝統の頭を小突く。
「起きろよ。終わったぞ」
「ふがっ、んえ?」
カーテンが開いて明るくなった教室で帝統が大きく伸びをする。せきを切ったように騒がしくなる中でよくもまぁ寝ていられるな。
「ふぁーーあ、お前今日バイト?」
「おう」
「つってもまだ時間あんだろ?乱数んとこ行こーぜ」
手ぶらのまま立ち上がった帝統は頭の後ろで腕を組み、歩き始める。俺もまたリュックサックを肩にかけ、その隣へと並んだ。
スニーカーを振り出し、アスファルトを踏む。
容赦のない青空に太陽はじりじりと肌を焼いた。梅雨を追い越した夏のような天気だ。隣を歩く帝統もまた「あちー」とパタパタ襟口を仰いでいた。まだ暦は春といえど暑すぎる。明日からは半袖を着よう。
乱数の店は大学から歩いて二十分ほどの所にある。
ある日帝統に店へ連れていかれたのをきっかけに知り合った乱数は、服を作る仕事をしている。
帝統は乱数とは出会って久しい仲だったらしく、店に入り浸っては在庫整理や店番を引き受けて小遣いをもらっているらしい。話によると帝統は乱数に金を借りているから、文字通り働いて体で返しているのだと。乱数自身は気さくで話しやすく、俺も時折顔を出しては古着や靴を安く譲ってもらっていた。
路地をいくらか曲がれば交差点に奇抜な外見をした店が見えてくる。勝手知ったる様子でドアベルを鳴らす帝統に続いて俺も店へと入った。入口近くにいるヘラジカの剥製は黄色のキャップにハートのサングラスをかけて今日も今日とて愉快な装いだ。
この店はいつも不思議な匂いがする。乱数いわく服の匂いらしいが、今日はどこか記憶に引っかかった。
少し前に嗅いだことがある気がするが、イマイチ記憶と結びついていないのかうまく正解をひっぱり出せない。
色という色が真ん中で爆散したような店の中を首を傾げながら歩いて入れば、視界に入った白に鼓動がひとつと跳ねた。
「……あ」
開いた口が塞がらないとはこの事なのだろう。遠慮なしにカウンターの中に入っていく帝統とは裏腹に俺はその場から動けずにいた。
「あれ、一郎いらっしゃーい!ひさしぶりだね!」
カウンターのスツールに胡座で腰掛け、パソコンを叩いていた乱数が振り返る。するとその隣に座っていた人物も緩慢な様子でこちらを見た。ようやくひっぱり出せた正解は赤い瞳だった。
「…………サマチャン」
「ぶっ飛ばすぞガキ」
そこにいたのは紛うことなきサマチャンだった。そそっかしくてパンツをよく落とす乳首がピンクのサマチャンだ。
漠然と、もう話すこともないのだろうと思っていたのに、まさかこんな所にいるなんて。
「え?え?なに?二人知り合いなの?」
俺とサマチャンを交互に見ては面白い予感がするとにんまり口角を上げる乱数に、サマチャンが大きく舌を打つ。
カウンターの向こうで冷蔵庫を漁っていた帝統が不思議そうに顔を覗かせていた。
「左馬刻はねーうちのお得意さんなんだよー。ねーサマちゃん!」
「るっせ、逆だろバーカ」
「あっはは、まぁウィンウィンってこと!」
ペンを片手にダブルピースをした乱数の頭をサマチャンがはたく。
「うえーん!サマちゃんがぶったよー!」と椅子に座ったまま俺の胸に抱きついて来る乱数を好きにさせながら、俺は未だに目の前の状況を消化しきれずにいた。
サマチャンはと言えば気にした様子もなく、乱数に出されたであろう珈琲を啜りながら机の上にあった書類に目を通していた。
お得意様、ということは仕事仲間だろうか。しかしサマチャンが住んでいるのは俺と同じ学生寮のはずだ。頭の中でイマイチ繋がらないピースにまた首を傾げる。
「あ!そういえば帝統ちょうどいいとこに!いっぱい届いたから仕分けよろしくねー」
「げぇーーマジかよ」
冷蔵庫から引っ張り出したであろうバウムクーヘンを頬張りながら帝統が舌を出す。ついでにコップに注いだミルクも飲み干している。最早尊敬の域にに値する卑しさだ。
「一郎もやってく?お小遣いあげるよん」
「……おー」
「帝統はちゃーんと借金から差っ引いとくからね」
「ガーン……」
口の周りに白ひげを作った帝統が力いっぱい落ち込む様を視界の端に捉えながらも、俺の視線は無意識にサマチャンの方へ向いていた。
「あーたまに店いんぜあの人。乱数とは付き合い長いらしいけど」
「へぇ」
店のストックに入り、いくつか置かれたダンボールの箱を開封する。帝統が迷いなく手を動かす中、見様見真似で所狭しと並ぶ服の間を縫い、リストのナンバーを確認しながら所定の場所に服や布を置いていく。
いっそうのこと濃い服の匂いに、なぜだか胸をそわそわと綿毛が撫でていくようだ。かと思えば大きなくしゃみがやってくる。服が多いところはやはりホコリも多い。
「知り合いなのか?」
「いんや、こないだ寮で会って、知り合いってかパンツ……」
「あ?パンツ?何言ってんだイチロー」
怪訝な顔をしたダイスがビリビリに破れたジーンズを手早くハンガーへ掛ける。
鼻を啜りながらまた服の山を掻き分けた。落とし物のパンツを届けに訪ねた人なんて、客観的に聞いてみれば確かに妙ちくりんな話だ。
「……腹減った」
バイトを終え、日付を超えてから帰ってきた頃には寮はすっかり静まり返っていた。なるたけ音を立てないように布団に沈み込む。
賄いを食いっぱぐれてしまったのは正直痛い。厨房に入っている間は油や食材の匂いで腹なんて一向に減らないのに帰ってきた途端これだ。
特に今日は金曜ということもあって客が多く、厨房担当の俺もホールに駆り出されるほどに目の回る忙しさだった。
寮母さんに晩飯取っといてもらうんだった、と今更遅い後悔に明け暮れる。ともかく腹が減って死にそうだ。
「……」
俺と帝統が在庫の整理を終えた頃にはサマチャンの姿はなかった。早めに終わらせればまだいるだろうかと期待しなかったと言ったら嘘になる。果たして俺は、あの人と少しくらい話をしたかったのだろうか。
突っ伏したまま身動ぎをする。今はともかくこの空腹を何とかしなければ。このままだと眠れやしない。
「……っし」
鼻をツンと抜ける匂いがする。
玉すだれをくぐり、すっかり知らない場所のような面で沈黙する厨房の明かりをつけた。青白い光のもと、だいぶんと小さいゴムスリッパを突っかけながら冷蔵庫の中を物色した。
寮の食材は後から寮母さんに報告すれば勝手に使っていいことになっている。小腹が減った時に軽い料理くらいは作れるという訳だ。もちろん火の元や調理の後片付けはするという前提の話だが。
見たところ豚こまと玉ねぎ、キャベツが少々残っているようだった。
米が欲しいところだが、どうだろうか。ほんの少しの期待を持って開けた冷凍庫には綺麗な三角のおむすびが入っていて思わずガッツポーズをしてしまった。これだけあれば十分どころか余りある。
早速玉ねぎを半分に切り、ラップにかけて冷蔵庫にしまってからもう半分の皮を剥いてくし切りにする。寮母さんが長らく使っている鉄のフライパンを温めたらまずは玉ねぎをぶち込み、焼き色がつくまで炒める。みりんと醤油、酒に軽く浸しておいた豚こまも投入すれば、一気に食欲のそそる香りが立ち上った。水気を切ったざく切りのキャベツに加え、最後に塩胡椒で味を整えれば完成だ。
電子レンジで解凍しておいたおにぎりを茶碗に移し、適当な皿に盛った野菜炒めと共に食堂のテーブルへと運ぶ。
席につき、ホカホカと湯気を立てる野菜炒めに一心に食らいついた。深夜の誰もいない薄暗い食堂というシチュエーションも相まってか、我ながら殺人級にうまい。
そういえば飲み物を持ってきていなかったと明かりのついた厨房へ戻ろうかと思ったとき、ガラリと食堂の硝子戸が開いた。
「…………あ」
空いた口が塞がらなかった。昼間とは違い、今度は玉ねぎに食らいつこうとした形のまま。
本日二度目の白色は、薄闇にもなお浮かび上がっていた。
「……食います?」
「……おー」
食堂に入るなり厨房の冷蔵庫を物色し始めたサマチャンはめぼしいものを見つけられなかったのか、結局はミネラルウォーターを手に持っていた。
この人も晩飯を食いっぱぐれたのだろうか。すると俺と同じように何か適当なものでも作ろうと厨房に来たということになる。
しかし冷蔵庫にあった食材はほとんど俺が野菜炒めにしてしまったから、そこを覗いたってあるのは半分になった玉ねぎだけだ。依然手元で香ばしい香りを立ち上げる野菜炒めに良心がギシギシと軋む。流石にいたたまれなくなった俺は気が付けばその後ろ姿に声を掛けていた。
冷凍のおむすびはまだもうひとつ残っていたはずだから電子レンジに掛けて、茶碗にのせる。それから野菜炒めを取り分ける用の皿を持って、サマチャンの待つ食堂へと戻った。
「どうぞ」
「あんがとよ」
向かいできちんと手を合わせてからサマチャンは少し冷めてしまった野菜炒めへ箸を伸ばす。俺もまた食事を再開しつつ、ふと視線を上げれば厨房から刺す青白い光が白い髪を薄ぼんやり照らしていてなんだか幽霊みたいだった。
昼間と同じ薄手の白いTシャツに細身のジーンズを穿いたサマチャンはこんな時間でもそれだけで様になっていた。
サマチャン。そそっかしい。乳首はピンク。そのくらいしか俺はこの人のことを知らない。
キャベツと玉ねぎを噛み潰す音、橋と茶碗がぶつかる音に紛れてタイミングを図る。何度か逃した後にとうとう声を伸ばした。
「あの、サマチャンは」
「サマトキさんだ。わざとだろお前」
顔を傾けて白飯を頬張るサマチャンがこちらを睨みつける。薄々思っちゃいたが直情型だ。サマトキ、どんな字を書くのだろう。
「サマトキさんは四年とかっすか?」
「俺もう卒業してっから」
「院生?」
「社会人」
「え、今いくつ」
「二十四」
「へー……え!?」
「るさ」
特段気にした様子もなく咀嚼を繰り返すサマトキさんは御歳二十四歳らしい。歳上だろうとは思っていたがまさかひと回り近くとは。俺との歳の差を指折り数えて少し震えた。怖ぇこの人。
「なんでまだここ住んでんすか。学生以外住めないんじゃ」
「婆さんが待ちが出るまではいいとよ」
だからといって卒業したあともいつまでも居座り続けるのは如何なものなのか。いつまでも実家に居座り続ける大人みたいだなと思いながら豚こまに噛み付いていれば「全部顔に出てんだよ」とドスの効いた声に小突かれた。
「なんの仕事してるんすか、まさか二ー……」
「服屋」
「あぁ、だから乱数の店」
「お前薄々思っちゃいたがくっそ生意気なヤツだな」
「あのパチカスといい、アイツの店に来るやつはどいつもこいつも」などとブツクサ言いつつも俺の野菜炒めを完食したサマトキさんは皿と箸を持って立ち上がる。俺も茶碗に残っていた米をさらえてその後を追った。
既にスポンジで皿を擦っていたサマトキさんの隣に並べば「ん」と泡まみれの手を差し出される。洗ってくれるのだろうか、自分の食べたものくらい自分で洗いたいのだが。
申し訳半分に「あざす」と差し出せば、「そっちも」とコンロに置きっぱなしにしていたフライパンを指さされた。流石にそこまでは、と躊躇を顕にしていれば「貴重な飯分けてくれた礼だっつってんだ。さっさと寄越せ」と至極もっともらしい言い訳をくれた。
これまた生意気だと言われてしまうのだろうが、このときに初めてこの人を大人だと思った。
黙々とフライパンを金タワシで擦っている隣で洗い終えた皿を拭いていれば、ふわりと香ったのは柔軟剤の香りだ。
不意にこの人に届けたパンツのことを思い出した。あの時はいかにもにいかにもな風体にドン引きしたものだが、口や外見は粗暴でも案外いい人なのかもしれない。
「飯、食いっぱぐれたんか」
「いや、今日は元々バイト先で賄い食うつもりだったんすけど、思いの外忙しくて」
「結局食いっぱぐれてんじゃねぇか」
「まぁ、そうすね」
「ンな切羽詰まってバイトしなきゃいけねぇの」
「大学金かかるし、空いた時間は働いてた方が気が楽なんで」
「ふぅん」
すすがれたフライパンが再びコンロへと戻っていくのを横目に、ガスの元栓を締めて布巾でシンクを軽く拭きあげた。
汚れた布巾を洗っていると、サマトキさんはまだそこに立っているようだった。部屋に帰らないのか、と思いながら布巾を絞り、蛇口に引っ掛ける。
腹も膨れたことだし俺も部屋に帰ってさっさと風呂に入ってしまおう。そうして振り返れば、その人は存外近くに立っていたようで思わず体がこわばる。厨房の蛍光灯が点滅する。サマトキさんの形の影に閉じられて、逆光の中で赤い目が瞬いた。
「おまえ俺の部屋来いよ」
「…………………………何で?」
建付けの悪い換気扇が、俺の気持ちを代弁するように大きな音を立てた。
「何してんだ。入れよ」
やっぱり迂闊かもしれない。いや迂闊だろ。どう考えても。
ついこの間知り合った先輩の部屋に遊びに行く。字面だけ見ればなんの変哲もない。がしかしひとたび覗き込めばそれは底の見えないブラックボックスだ。
数分前に頷いた軽率な己を、大きく口を開いたドアを前にした今となっては張り倒してやるのに。
しかし数分前のソイツがほんのひとさじ、本当にひとつまみほど、もう少しこの人と話がしたかったのを知っていた。たまらず頭を搔く。
「……お邪魔します」
「人ン家かよ」
「いや、紛うことなき人ン家だろ」
苦笑いを浮かべながら当たり前のように開かれたドアをくぐれば、何がおかしいのかサマトキさんはくつくつと肩を揺らしていた。
「別に、取って食おうってんじゃねぇわ」
「分かってる、すけど」
俺に続いて部屋に入ったサマトキさんがドアを閉めれば、あの匂いに閉じられる。瞬きほどの暗闇の後パチン、と遅れて蛍光灯がついた。
「うわ……すげぇ」
スチールラックに重ねられた服の壁に思わず呆気にとられる。存外几帳面に並んでいるそれらに思わずまじまじと眺めてみると、ジーンズだけで一体いくつあるのか皆目検討もつかない。私物と言うより在庫と言った方がしっくりくる絵面に、服屋というのはどうやら本当らしいと妙に納得した。
「他所に倉庫借りてっから一部だ」
「こんなに置いてたらいつか床抜けちまうんじゃないすか」
「婆さんにもよく言われる」
そう言うとサマトキさんは俺と壁の隙間を縫うように部屋の中へ進んでいく。
部屋の広さは俺のと同じはずだからそれほど広くはないはずだ。しかし部屋の奥にある小さなデスクとベッド以外は特段何もないからだろうか、服の壁に圧倒されながらもそれほど狭いとは感じなかった。
「そこ座ってろ」
くい、と顎で示されたのはパイプベッドだった。俺は買うのも勿体ないと備え付けの布団をそのまま使っているから、寮の部屋にベッドがあるのは少し新鮮だった。
言われた通りベッドに腰掛ければか細い悲鳴が鳴る。畳にベッドってなんか変な感じだ。ふと見ればサマトキさんは服の壁からいくつかを引き抜いているようだった。
白い腕につぎつぎ重なっていく服たちから目を外し、窓際の灰皿を眺める。この部屋の匂いの源はこれかとまんじりと見つめてみるが、何となく違うような気もした。
手持ち無沙汰にスマホをいじっていれば、二度目の欠伸を噛み殺したところでふと手元に影が落ちる。
「ちょっと立て」
座れと言ったり立てと言ったり忙しない人だ。大人しく立ち上がれば今度は「バンザイ」と。
バンザイってアンタ。その顔から出てくるにはあまりに子供じみた単語に思わず笑ってしまう。当のサマトキさんは気にも留めていないようで、言われた通りに両手を上げると俺の腹回りを所持品検査よろしくまさぐり始めた。
表に出ないよう堪えてはいるが、ハチャメチャにこそばゆい。そもそも他人に触れられるのは好きじゃないのだ。今にも総立ちしそうな鳥肌を押さえつけようと息を詰める俺に構わず、サマトキさんはとうとう服を捲り始めた。
「……っ、何してんすか」
「お前着膨れするって言われんだろ」
「言われるけど」
「ならこれとこれは、なしだな。ほらよ」
「ほらって……」
頭の上に上げていた手を下ろされ、そのままいくらかの服を持たされる。ほら、の意味が理解できず服とサマトキさんを交互に見やった。
「やるっつってんだ」
「やるって……は!?いやいらねーって」
「ガキが遠慮してんなよ」
「いや遠慮とかじゃなくて、もらう理由がねぇっつうか」
「理由だァ……?あー、じゃあこないだ俺にパンツ届けてくれた礼ってことにしとけ」
「適当かよ」
「理由さえありゃ受け取んだろうが」
「横暴すぎんだろ」
頑なに抱えた服を突き返そうとする俺にサマトキさんが眉間にシワを作る。たいそう機嫌を損ねてしまったようだ。
だからと言って引き下がるつもりはない。この人は本当に、ついこの間知り合ったばかりの仲なのだから。それに。
「服くらい、自分の金で買う」
「あ?乱数にももらってんだろうが」
「乱数にはちゃんと金払ってる」
サマトキさんの左目がぴくりと動く。かと思えばにじりよってくる身体に思わず後ずさった。足は直ぐにベッドの縁に行き当る。軽く胸を押され、気づけば俺はベッドに再び座り込んでいた。
立ち上がる隙もなくサマトキさんが隣に腰掛け、俺の肩に肘を置きながら煙草に手を伸ばす。
待たなければいけない。そう、部屋が言っているようだった。この部屋はこの人のテリトリーだ。そうでなくとも動作と視線で他人を操るような迫力をこの人は持っていた。
ジジ、と煙草の先が焦げる。ゆったりと吐き出される煙は渦巻きながら白い光の中を音もなく昇っていく。
「俺様お前のこと気に入ってんの、分かるか?」
「えー……」
一体何を言い出すんだこの人。
そんな素振りを見せていただろうか。思い返そうにも交わした言葉はあまりに少なすぎた。
怪訝な顔を隠さずさらしていれば肩にかけられていた腕でそのままぐいと引き寄せられる。煙の匂いと瞳の赤が濃い。
「気に入った奴になんかしてやりてぇのは普通だろ。聞いたとこお前あんま金使いたくねぇみてぇだし」
「いや俺の知らない普通の話されても」
「とにかく受け取れ」
ちけぇー。ドンドコやかましい心音とは裏腹の冷静なところで寝そべっている俺が言う。常軌を逸しすぎた状況に俺の脳がとうとう音を上げて思考が乖離を始めていた。
「理由とやらが足りてねぇなら、俺がお前を気に入った、それで十分だろ。なんなら付き合うか?」
乖離した俺がふわりと飛んでいく。文字通り放心状態になったまま、冷静に寝そべっていた俺もさすがにお手上げだと背中を向けた。残ったのは正真正銘丸腰丸裸の俺だけだ。停止していた思考エンジンをなんとか起動させる。
「……もしかして俺今告られてんすか」
「もしかしなくてもそうだろ」
「だから俺の知らない普通の話すんなって……」
やめとけよ。街でアンケートを取ったら九分九厘の人たちは俺を止めてくれるだろう。まちがっても俺の常識がおかしいみたいな言い方をするな。おかしいのはアンタの距離感と即決力だ。
俺とてある程度の忖度は持ち合わせている。だからあえて言わなかったが正直初めて会ったときから思っていた。コイツ絶対ヤリチンだ。それも俺みたいな目線も変わらない男にまで手を出すほどに見境がないらしい。男子寮だからそういうこともあるかもしれない。同郷の親友にからかわれてもまさかと笑い飛ばしていたのに。
多少ほだされたのは否めない。だからといって部屋に行くなんてやっぱり迂闊すぎたのだ。今すぐ逃げよう。
「てかそもそもその気じゃなきゃ部屋なんて入れるかよ」
今にも腕をふりはらって一目散に出ていってやろうと腕に力を込めたところだった。そっぽを向いたかと思えばギリギリ聞き取れるくらいの早口でサマトキさんは確かにそう言ったのだ。
「……」
どっちだ。自ら潔くヤリモク宣言か。それとももしかすると、ひょっとして、俺とそういう関係になりたいというのは本心で、ただ距離の詰め方がおかしいだけなのか。いや、どっちにしろヤリチンに違いはなくね?ようやく起き上がり始めた冷静な俺が言う。あぶねぇ、またほだされるところだった。
「あー、と」
あからさまに返答に詰まる俺にサマトキさんの視線がじりじり焼け付くようだ。この少ないやり取りの中でも気がついたのは、現在進行形で一向に目を合わせられない俺とは違い、サマトキさんは俺の話を聞くときに目を合わせようとしてくることだ。
いい人だろ。また冷静な自分が言う。
そんなことはわかっている。もう少し話がしたいからと、もう少しこの人と一緒にいたいからとのこのこ部屋まで着いてきたのは俺だ。
息の音が近い。五十センチにも満たない内側で、幸か不幸か俺は気がついてしまった。この部屋の香りは服の匂いでも、煙草の匂いでも、ましてや柔軟剤の匂いでもない。この人自身の肌の匂いだ。
血迷った。後の俺はそう語る。
「オトモダチってことじゃダメすか」
バカか。バカだろ。
速攻で後悔に苛まれる俺の肩に回された腕に力がこもる。ちらりと視線を投げれば、サマトキさんは三白眼を大きく見開いて、それから綻ぶみたいに細めるところだった。
一度。心臓が泣きそうなほどに大きく跳ねた。
弾けたように大きな声で笑い始めた大人に思わず腕の中の服を抱きしめる。大口を開けて笑うととんがった歯が初めてちらりと覗く。子どものような顔で笑うものだと思った。
「いんじゃねぇの。そんじゃあよろしくな、オトモダチ」
しばらく爆笑を引きずるサマトキさんの胸が揺れる。抱き寄せらている俺も当然揺れている。ようやく揺れが落ち着いてきた頃には俺はすっかり冷静さを取り戻していたと思う。
なんやかんや言いくるめられた俺は結局両手いっぱいの服を持って廊下に続くドアの前に立っていた。手の塞がった俺の代わりにサマトキさんがドアノブを捻る。
「イチロウ」
初めてその声に形どられたれた名前に、視線と首を回す。
頬を擦り付けられるように刹那、肌が触れ合う。細かな柔らかい髪が耳をくすぐって、すぐに離れていった。
「また明日な」
「……っす」
白くて冷たそうに見えた肌はとても、それはとても熱かった。
触れた箇所から熱が伝染ったように顔が熱くなるのが自分でわかった。
ダサい顔を見られたくなくて、早足でドアをくぐった。廊下をわたりながらきっとまだ後ろにいると思うと振り返れなかった。心臓は、やはり胸を突き破りそうなほどに跳ね回っていた。
大きな音が立つのも構わず自室のドアを開け、布団へ飛び込む。
枕に押し付けた顔に触れてみれば耳まで熱かった。
血迷った。それ以上に浮かれていた。
鼻から大きなため息をつく。頭を雑に掻き回して起き上がる。
汗がようやく暑さに気がついたように、こめかみを伝っていた。