むらさきのあめ今日は朝から冷たい雨が降っている。
こんな日に、この屋敷まで出向いてもらうのは悪い気もするが、俺の心は踊っていた。いつもと同じ廊下なのに、夢主の来る日は雲の上でも歩いているかのような気分だ。
夢主は、杏寿郎よりすこし年上の女性。
煉獄家に女手がない事から、月に何度か手伝いに来くれる優しい女性だ。杏寿郎は、そんな夢主に密かに好意を抱いていた。
時折花が咲くように笑ったと思えば、ふと遠くを見つめ切なげな表情をする時がある。しかし多くを語らない夢主をもっと知りたいと思った。
俺ももう大人といえる年齢だが、これまで剣術にばかり没頭しており異性に好意を抱くのは初めての事だ。俺はどこか夢主に子供扱いされている気がする。異性として、男として見られていない。だから、ただ簡単に言葉で思いを伝えるだけでは、夢主には足りないと思う。
門前で腕を組みながら待っていると、道の先に紫色の傘をさす夢主の姿が見えた。姿を見つけた瞬間、自然と胸が高鳴った。大の男が門の前で待ち構えているのも可笑しな話だが、高ぶる気持ちを抑えきれなかった。
「あら今日は、杏寿郎様」
夢主は、濡れた傘をたたみ、杏寿郎にお辞儀をする。
「うむ!夢主、よく来てくれた」
しとしとと冷たい雨の降る中、2人は門の下で向かい合った。夢主がすぐ触れる距離に居て、自分に微笑みかけている。胸の高鳴りと嬉しさで口元が緩むが、必死で耐える。
「杏寿郎様、今からお出掛けですか?傘をささないと」
ほらな、やはり夢主は俺を子供扱いしている。
「違う、俺は夢主を待っていた」
「えっ…私を?」
以外な答えにすこし驚いた夢主は目をパチクリさせて杏寿郎を見上げた。口角をツンと上げて笑うその頬は微かに赤い。
「頬が赤いようです…お風邪でも引かれたら大変ですよ」
「………むう」
やはり俺が何を言っても子供扱いだ。
一度くらい男として、夢主をドキりとさせてみたい。
杏寿郎の横で門から建物に移動するため、夢主は再び傘を開いた。
「杏寿郎様」
共に傘に入りましょう、と言わんばかりの夢主の動作に杏寿郎の胸はさらに高鳴る。杏寿郎が紫色の傘の柄を持ち、2人で傘の中に入る。頭上の傘を叩く雨粒の音が、なんだか心地良い。2人の肩が触れ合って、いつもより近くにお互いを感じた。
もう少しこのままで…と思う間も無く、2人は建物に足を踏み入れた。
杏寿郎は傘を畳むと胸の服をギュッと握って自分の鼓動を押さえ付け、確かめた。自分の心臓だ、いつもより音が速いのは確かめなくてもわかっている。そのまま大きく息を吐いた。
男としてドキリとさせたいと思っていたのに、こちらばかり乱されている。
「杏寿郎様?やはりご気分が…?」
胸を押さえた杏寿郎を見て、夢主が心配そうに声を掛ける。
「大丈夫だ!今日は、夢主に手伝って欲しいことがある!」
「は、はい。なんなりと」
「俺の部屋の片付けを頼みたい」
「…私などが寝所に入ってもよろしいのですか?」
「構わん!」
草履を脱ぎ、廊下を進む杏寿郎の背後を夢主が続く。
いつもは千寿郎様と共に台所や居間に立つことが多かったけれど…、寝所は初めて。
すこし緊張する。
「杏寿郎様、お掃除でしたら晴れた日の方が…」
「ここだ」
夢主の言葉途中に、杏寿郎の寝所に到着してしまった。杏寿郎が勢いよく襖を開くと、手紙を書きかけたような紙が床中に散乱している。
「あらあら、…随分と散らかっていますね」
「むう…すまない。頼まれてくれるか」
「はい、分かりました」
すこし恥ずかしそうな杏寿郎をよそに
夢主は襷で着物の袖を留めると、部屋に足を踏み入れた。散らばった紙を踏まないように、一枚一枚拾いながら進んで行く。
「俺は少し庭に出てくる」
「はい」
雨の中を…?と不思議に思いつつも、夢主は頭を下げて杏寿郎を見送った。
さあ片付けをと思い、ふと手の中の紙に目をやった。
どれも同じ人物のものによる文字が書かれており、失敗したのかくしゃくしゃにされた紙もある。机の上には、書いたばかりと思われる手紙が置かれたままになっていた。
「ひさかたの……」
夢主は思わず口に出して読んでしまい、慌てて口元を押さえた。
“ひさかたの、雨は降りしけ、思ふ子が、やどに今夜は、明かして行かむ”
(意味・雨が降ればいい。愛しいあの人が今夜は雨が止むまで帰らず一緒にいてくれる)
見渡してみると、部屋中の紙に恋の和歌が書き綴られていた。
夢主は、思わず机の上の手紙に背を向けた。
これは、恋文…?
人の恋文を覗き見るなど…あってはならないわよ、夢主。
平然を装うが、杏寿郎が誰かに恋をしている…と考えると、心の片隅がチクリと傷んだ。
なぜ胸が痛むのか…そんな事、自分では分かりきっているのに。
雨の降り頻る中、杏寿郎は傘もささずに庭に立つと、静かに天を見上げた。身体に落ちる雨が熱った身体をひんやりと冷やしてくれる。
たとえこの思いが実る事のない俺の片恋だろうと、今日だけは降り止まないでくれ。
「あ、兄上?傘は…」
庭に面した縁側から、千寿郎が心配そうに声を掛けた。
「ああ、大丈夫だ。もう入る!そうだ千寿郎」
「はい?」
「家中の傘を蔵へしまっておいてくれるか。夢主の物も」
「えっ?雨なのに…ですか?」
「うむ!!」
千寿郎は首を傾げながら、足早に部屋へ向かう兄を見送った。
「夢主は、和歌の意がわかるのか?」
突然戻って来て、背後から声を掛けてきた杏寿郎に、夢主の心臓は跳ね上がった。
「きょっ…!も、もうお戻りですか」
「うむ。今日の雨は特別だ」
「そうですね、特別寒い気がします」
「………」
「……違いましたか」
頬をカリカリと掻きながら黙ってしまった杏寿郎をよそに、夢主は片付けを再開する。その瞳は寂しそうに揺れた。
「誰かに…送る予定の歌ですか?ごめんなさい、少し読んでしまいました」
「かまわない」
「……恋の歌ばかりですね」
「剣術にしか取り組んでこなかった俺は、色恋に疎い。抱いた恋心をどうやって相手に伝えていいものか分からなくてな」
「それで和歌を…」
「しかも相手は年上だ。ただの言葉で好きと言うだけでは、足りない気がする」
「…………」
和歌は、叶った恋、許されない恋、会いたくても会えない、そんな先人達の思いが込められている。恋心故の耐え難い気持ちを。
胸に抱いた大きな恋心を、どうか相手に伝えたい為の歌。
「夢主に、この和歌の意味が俺の気持ちだと伝わればと思って……書いたのだ」
夢主は、向かいに腰を下ろした杏寿郎を見やった。赤い頬に少し伏せた瞳で、膝に乗せた拳を握る杏寿郎。夢主の表情を見るのが少し怖いような、そんな表情に見えた。
この部屋に散らばった和歌は杏寿郎が夢主に宛てて書いたものだった。
夢主は杏寿郎を抱くように、机の上の手紙を手に取り、優しく抱きしめた。その頬はすこし赤い。
「我が背子(せこ)に……」
「………」
「我が背子に、恋ひてすべなみ、春雨の、降るわき知らず、出でて来しかも……」
(意味・あなたの事がたまらなく恋しくて、雨が降っているのにもかかわらず、家を出て来てしまったのです)
頬を染める杏寿郎に微笑みかけながら、夢主は返歌を呟いた。
「コホン……私からの返歌…私の気持ちです」
「ま、待ってくれ!もう一度」
「二度は言えません」
「何!…頼む!俺はどうしても夢主を!夢主の気持ちを知りたい!」
「ふふ、さあ、部屋を片付けましょう」
「むう。さては俺に解読は無理だと思っているな!」
「そんなこと」
夢主は悪戯にふふっと笑った。
いつの間にかチクリとした胸は痛く無くなっていて、もうこの想いがこの先に進めるかは後回しでいい。伝わっていなかったら、それはそれで構わない。こうして、思い人と笑い合える日々があれば、私は幸せです。