幸せのかたち「今朝は、少し冷えますね」
早朝、朝露に濡れた土と干し草の匂いが鼻腔に訪れる。音を認識しはじめたばかりのゼルダの耳に聴き慣れた声が響く。
リトの馬宿で一晩を過ごしたゼルダは、まどろむ瞼をゆっくりと慣らしつつ開き、ベッド脇に紺色のリト服を着込んで座るリンクの姿を確認した。寝起きの主君を穏やかな表情で眺めやる彼は、すでに身支度を済ませているようだった。
昨日は、朝早くにタバンタ馬宿を発ったのち、昼頃に一旦リトの馬宿に到着した。その後リトの村ならびにヴァ・メドーの周囲を確認するため、リリトト湖の周囲を徒歩で一周ぐるりと巡ったので、ゼルダは疲労で早々に寝てしまった。調査記録の確認も十分に出来ていない。
今日はリトの村へ赴き、族長カーンと面会の上、村のはるか上まで聳える高い岩壁の頂点にて微動だにせず静かに佇むメドーのもとで、更なる調査を進める予定でいた。
「朝ごはんの準備、してきます。気にしないでゆっくりお支度を」
そう言い置き宿の外へ向かうリンクの背を見送りながら、ゼルダはベッドの温もりを後にした。
小さな手鏡を覗きながら、柔らかな生成のガーゼに水入れから少し水を取り、顔を拭く。次に取り出した小瓶の中には、ハイラル草のエキスとガンバリバチのローヤルゼリーを配合し、それにヒンヤリハーブを少し加えて収れん作用をもたせた化粧水。プルア考案、お手製のものを分けてもらったものだった。少しずつ両手に取りながら、そっと顔にあて肌に馴染ませる。ふわりと香る、優しい野草とはちみつの香り。この香りとともに一日を始められるのが、ゼルダは好きだった。
天蓋の布を一旦下ろして着替えた後は髪を整える。肩の上で切りそろえた髪を、小さなブラシで梳かし、左右に編み、襟足の上で留める。探索、書き物、何をするにおいても、前に屈むと横髪が邪魔になる。それを防ぐことができるのが何より気に入っていた。それに、寝癖を直す手間がかからない。
そもそも髪を切ったのも、支度に手間をかけないため、が第一義的な理由だった。
なにしろリンクの朝は早い。朝起きる、と決めたら、それは5時。ゼルダは百年の間こそ、朝も昼も夜もなく過ごしていたが、人として存在していた過去の生活においては、その時間は『夜明け前』と定義していた。
支度も手早い。何をどうやったら、あんなに早く着替えたり、装備を整えられるのか…常人では出来ないであろう身のこなしの如何なるかが、そういったところからも見てとれた。
リンクはいつも何度となく気にしないように話すが、ゾーラの里への訪問を皮切りに遠方への調査に赴くようになってからは、出立の早さの重要さを実感していた。百年前もリンクや従者修行や各地への旅をしていたのは同様だったが、旅程や時間は予め概ね定まっており、突き詰めて自ずからは考えてはいなかった。
旅のありようを振り返り、ゼルダは決心し髪を切ることをリンクにも伝えた。思いもよらない宣言に、衝撃からかこぼれ落ちそうな程に目を見開き、驚愕の表情を貼り付けたまま凝視されたのち、一言。何故なのですかと問われた。
今後の旅支度を簡潔にし、迅速に準備できるようにする為と伝えると、気にしなくてよいことを必死の形相で伝えられてしまった。しかしそれではいけないと強く訴え、結果押し切ったものの、その後の寂しそうな表情はゼルダの眼裏に残っている。
実のところ長い髪でいたことの何より大きな理由は、伝承の姫巫女が金色の長い髪をもつ者として伝わっていたことだった。同じでいなければいけない。
『力を得るためにできること』の僅かなひとつ。
そうしていた過去の自分、その象徴と決別したかった。
他でもない自分自身を。今を生きたい。
髪を切ったのはそんな決意と願いの表れでもあった。
「すみません。お待たせしました」
リト服上下に身を包み、ゼルダが馬宿備え付けの料理スペースへ現れた。
昨日はフィールドワーク服だったが、今日はヘブラ山の中腹相当の高さで寒さ厳しいメドーへ行く予定のため、リンク同様の装備を昨日のうちに村で調達してあった。
見慣れない着姿。彩度抑えめの衣服ではあるが、革製のコルセットで程よく締まったウエスト部分があるためか女性らしいシルエットが十分に分かる。顔まわりの白い羽毛が、薄桃色を溶いた頬を際立たせ、愛らしい。
どう意識を他に持っていこうとしても、そんな普段とまた違った魅力を感じてしまう。
百年前と同様にゼルダに付き従い、その力になり支えていたい一心でリンクはこうして行動、寝食を共にしていた。しかし厄災討伐前、ここリトの村にて吟遊詩人カッシーワから、百年前にゼルダが自分のことを恋慕していたという話を伝え聞いてしまった。それが時折よぎっては浮ついた感情や期待を抱かせる。リンクは都度都度振り払うのに苦心していた。
(姫が好意を寄せていたのは、あくまでも記憶を失う前、百年前の自分。何より、今この世界を、本当の意味で救い、甦らせる立場であるハイラル王家の姫君なんだから、元いち騎士風情の自分が、そのような感情を向ける訳には)
いつも乍らの考えの下で自分を律しつつ、リンクは所在なげに視線をゼルダの左耳上の羽飾りへと移しながら返事をした。
「大丈夫、ちょうど出来たところです」
料理鍋の近くには椅子と、小さなテーブルが用意してあり、その上には湯気を伴う小ぶりの器。リンクが作った、にんじんシチューが盛られている。
料理は得意なこともあってリンクが担っている。いつもリンクばかりで申し訳ない、とゼルダも少しばかり料理を覚えはしたものの、好きなこと、なすべきことに時間を使って欲しいと先んじて支度されてしまい、なかなかその機会を得ることは叶っていなかった。
「この辺りはやはり冷え込むので、あたたかいものをいただけるのはとても嬉しいです。美味しそう……!いただきます」
胸の前で両手を合わせ、目を閉じるゼルダを何気なく見やりながら、所作の美しさに幾度目かも分からず目を奪われてしまう。こういった動作は一朝一夕で身につくものではない。
今も昔も、とりたてて日常の一挙一動を美しく見えるように意識したことはなかったリンクにとっては、それに重きをおいていた、かつての日々の賜物のようなゼルダの動きは、いつも新鮮で魅力的なものに見えていた。
「にんじんがとても甘いです!ミルクやバターの風味がとても良くて……本当においしい……!ありがとうございます」
顔いっぱいに『美味しい』が浮かんだ笑顔。これを見られるのが、最高に嬉しいことだと心の底から実感しつつ、ドヤ顔を極力抑えながら料理について解説を加える。
「リトの村へ一走りしてみたら、タバンタ小麦とヤギのバターが買えたので、それを使って作ってみたんです。この辺りは寒い時期が長いし、羽毛に覆われたリト族であっても、それなりに暖かい食べ物が好まれるものなのかも」
「そういえば……」
ゼルダは思い出したことを話し出す。
「リーバルがあるとき言っていました。空を飛ぶと、標高が上がると寒くなるように、飛んだ高さに比例して、気温が下がっていくのだと。寒くなると筋肉が収縮し、動きも硬くなり、技の冴えも落ちるでしょうし、普段から身体を冷やすものはあまり摂らないようにしていたかもしれませんね」
「リーバル、そういうの凄く気にしそう」
「ふふっ、そうですね。リンクはそういうこと……少しは気にしますか?」
「少しは、って酷いです」
「気にしている様子、あまり思い当たらなくて」
「お察しの通りです。大抵の場所なら動いてたらあたたまる、と思ってしまいます。それに、その時食べたいものを食べる。体が求めているものは、きっとそこで必要なものだろう、って」
「リンクらしいです」
朗らかに笑う。
朝日よりも眩しい……などと陳腐な例えを思いついてしまった自らの頭にやや落胆しながら、リンクは食べ終えた器を片付け始める。
「リンク、牛乳はまだ残っていますか?」
「ありますよ。出発するときに少し多めに買っておいたし、涼しい地域を旅しているから、まだ大丈夫そうです」
「たまにはわたしからも、ご馳走させてください。食後の一杯程度ですが」
「なんだろう?楽しみです。ありがとうございます」
ゼルダは携行用の小さなケトルでお湯を沸かし始めた。徐ろに取り出したのは、布に包まれた黒っぽい粉のようなもの。カップの上に載せた小さい荒目の網の上にその小さな布包みを置き、ケトルからお湯を少しずつ注いでいく。
「先日、ロレルさんがご夫婦でウオトリー村へ帰省されたそうなんです。その道中でレイクサイド馬宿近くの行商の方から、フィローネで近日、栽培している植物から作りはじめたという飲み物の試作品を貰ったそうで。コーヒー、という植物らしく、なった実を煎って、粉にしたものに湯をかけて滲出させたものを飲むものなのですが、是非わたしに知ってもらいたい。と話されて、いただいてしまったんです」
煎ったもの由来らしい、香ばしい匂いが漂ってきた。
「これでよいものなのか、わからないのですが」
包みと網をカップから離し、色味を確認する。
底が見えるか見えないかぐらいの濃さの、褐色の液体が入っていた。
「飲んでみましょうか」
旅先で、いざその日の活動を始めようという時に得体の知れないものを摂取すると思うと不安がよぎるリンクだったが、折角ゼルダが作ってくれたものを、飲まない訳にはいかない。
否。百年越しに共に居る、この世で一番大切な姫君から頂けるものである。
飲むほか選択肢などない。
「苦味と、その中に感じる味わいを愉しむものらしいです」
大まかにでも、味の予想をつけておくのは大事と思ったのか、勧めながらゼルダはそう伝えた。
「まずは、そのままどうぞ」
そのまま……?と疑問符を浮かべつつ、そっとカップに口付けてみる。啜ると、確かに苦味を伴うが、味覚のうちでは香ばしさとして仕分けられる味わい。悪くない。とリンクは感じた。
「うん、確かに苦いですが、香ばしさが主に感じられて……こういう茶だと思えば、そういうものかな、って感じがするというか」
「……そうですね。あのリンク……無理、してないですか?なんだかごめんなさい、口に合うかどうかも分からない、初めて飲むようなものを出してしまって」
飲んでみて、はたと気づいたようで謝罪の弁を述べ始めたゼルダを制し、
「ううん、大丈夫。なんだかこう、朝にすごく合う味わいな気がします。爽やかな苦味が、気分をすっとさせてくれる。目が覚める」
そう伝えた途端、表情が明るくなる。
「そうなんです!このコーヒーというものは、成分に覚醒作用を含むようで、眠気を覚まし、一日の始まりに良いのではと考えられているそうです。新しいハイラルの毎日に、新しい飲み物……なんだか素敵だと感じてしまって」
急に早口になり、一気に終いまで話す。何かに夢中になるときのゼルダの、いつもの様子。
朝日にきらきら輝く翠玉の瞳を、リンクが少し驚きつつも、つい愛おしげに見つめてしまっていても、まるで気づかない。
「これだけではないのです!このコーヒー、牛乳で割ってみたら美味しかったと伺って。さらに、この寒い地域のヘブラで飲むにあたって、私なりのひと工夫をしてみようと思っているんです」
意気込むゼルダは、さらに懐から小さな泡立て器を取り出した。ミルクを、おたまに入れてしばし火にくべ温める。
カップに注いだあと、泡立て器を両手で挟み、くるくると回すように動かし始めた。
待つこと数分。ふわふわと泡立った泡がふちから覗き始めた。
「すごい!クリームじゃなくても、これほど泡立つとは……知りませんでした」
「試してみたら、こうして泡立つことがわかったのです。これを、こうしてコーヒーに注いで……できました!この泡が、コーヒーのあたたかさと香りを閉じ込めてくれて、寒い地域でよりあたたかく、美味しく飲むことができるんです。飲んでみてください!」
突き出された淡い緑色のカップの上にのぞく白い泡が、ほわん、と揺れる。
遠い昔のいつかの場面に少し重なる錯覚を覚えつつ、リンクは受けとり、こんもりと乗った泡を少し口に含む。ふわふわで……ほんのり甘い。その下から、ほろ苦いコーヒーがあらわれて、泡とともに口内を満たす。
「んん!」
言葉にならぬ感嘆詞はリンクが美味しいものを食べ飲みした時の反応だとすぐ気づいたゼルダは、自らの感想を述べつつ笑顔を隠せない。
「まろやかな苦味とミルクのコク、泡のやわらかな舌触り……美味しいですね!コーヒーを作ってから時間が経ってしまったので、保温は出来ず残念でしたが」
「いえ、コーヒーがすこし温んだところに、あたたかいミルクがまざって、丁度良い温度で飲めました。美味しかったです」
「よかった……!いざ作るとなると、美味しくなるのか、喜んでもらえるのか不安で……安心しました」
嬉しさに顔を綻ばせ、ふわっとやさしく笑う。
(共に居られて良かった。こうして……二人で、穏やかな時間を過ごせて)
苦いコーヒーの上に、ミルクの泡。
ーー自分達の幸せに形があったなら、こんな風なのかもしれない。
ゼルダを眺めつつそんなことを考えていた自分に気づき猛烈に恥ずかしくなり、己を幾度目ともなく戒めながらリンクはカップの残りを飲み干した。
最後の一口が喉を降りていくのを感じながら、料理は科学だと昔誰かに聞いたような……とふと思い出す。ゼルダはリンクとは違うアプローチではあるが、ある種料理の才能があるのかもしれない、とリンクは思った。
ふと、カップを見つめるゼルダに目が止まる。
「ここで飲んでいるから、でしょうか」
「?」
「このコーヒー……リーバルみたいだな、なんて思えてしまって」
「こんなにふわふわって訳じゃ……」
「えっと、そこではなくてなんていうか……外から見えない、内の部分に、暖かくて熱い心を秘めていた……そんなところが、なんだか重なって」
「おれには中身剥き出しで、火傷させられてばっかりだったような気がします」
リーバルとの思い出の数々を思い返してむくれるリンクに、笑いを溢しつつゼルダは応える。
「闘争本能も、プライドもそのままで……リンクとは、対等に付き合いたかった、付き合える奴だ、と思っていたのかもしれないですよ」
「口ではああ言いながら、認めてたってこと?素直じゃないなぁ、ほんと」
愚痴りながら、鎮座するヴァ・メドーを見上げる。
「さて、と……会いに、行きましょうか」
「はい」
吹き降りる風は二人をふわりと包み込む。
まるで、出迎えにでも来たかのように。