進捗 組織が瓦解し、事後処理も落ち着いてきた頃、降谷は毛利探偵事務所を訪れていた。
「毛利先生こんにちは。今お時間よろしいですか?」
「あぁ、安室君か。問題な――」
新聞から顔を上げた小五郎は、いつもとは違ってグレーのスーツを纏った降谷に目を瞬き、「……まぁ、座れ」と降谷を来客用のソファに座らせ、二人分のお茶を用意して戻ってきた。ピリッとした空気が二人の間に漂ったのは一瞬。安室の時のような笑顔を浮かべて降谷は口火を切った。
「本当は一から説明したいところですが、なにぶんあまり時間がありませんので単刀直入に申し上げます。僕は安室透などという名前ではなく、本名を降谷零と言います。公安警察に所属する者です」
「あぁ、知ってた」
「流石毛利先生、ご存じでし――――えっ!?」
思わず素の反応が出た。アクアマリンの瞳を見開き、膝から手を浮かせて硬直する若き公安のエースに、小五郎がやれやれとため息をつく。
「あのなぁ……、素性も知れぬような奴を家族に近づけるはずねぇだろうが。お前さんが弟子にしてくれって言い出したときに調べさせて貰ったさ」
「ハッキングされたような報告は受けていないのですが……」
「機械は苦手だからな。昔から足で調べるのがオレのやり方だ」
降谷は呆然と目の前の人物を見つめた。毛利探偵事務所に探りを入れる時に調べた限りでは、彼はある程度の推理力はあれど、特段危険視する必要のない人間と判断され、寧ろ危険視されていたのは、ベルモットの『宝物』であるコナンだった。
「流石に所属までは探せなかったが、警察学校の卒業式で主席総代を務めりゃ、至る所で噂にもなる。公安なんだろうな、と思ったのはその時だ」
「……」
「確信したのは、サミット事件の時だったな。あの時、公安はオレを容疑者として逮捕したが、あれは事故として処理されないようにするため、もう一つは、あのガキの力を借りたかったからだろ」
「もしかして、コナン君のことも……」
「あのガキについては、始めは大して調べてなかったが、お前さんがあんまりにも気にしてるものだから調べ直した」
娘の蘭と、その幼馴染みの新一が遊園地に遊びに行って、その新一が行方不明になったその日に突然現れた彼そっくりの少年。その日、件の遊園地では閉園間近に身元不明の子どもが保護されており、いつの間にか脱走していた。聞けば、その少年は身の丈に合わない大人物の服を着ていたらしい。
「ここまで情報がありゃあ、答えは出たも当然だろ」
「今真剣に毛利先生を公安に勧誘したいです」
「やめてくれ。それに、オレは『先生』なんて呼ばれるような人間じゃねぇよ」
顔をしかめてシッシッと手を振る小五郎に苦笑し、居住まいを正す。
「それにな、お前も含めて、警察っていうのは匂うんだよ。どれだけ一般人を装ったって、胸の内の正義までは隠しきれない。特にお前はあのガキと一緒にいるときにその気配が強かった。今はこんなんでも、オレだって元刑事の端くれだ。そこら辺の勘は鈍っちゃいねぇよ」
「そこまで分かっていて、何も言わずにいてくださったのは何故ですか。僕は、公安は貴方方を利用したんですよ」
「そんなのはこっちだって一緒だ。好きなように利用されてたことには、まぁ言いたいことはあるが、利用されている間はオレらの安全は保証される。それにつけ込んでいたんだからな」
「……」
「驚いたか」
小五郎は腕を組んでニッと口角を上げた。
「……正直、先生のことを甘く見ていました」
「だろうな。オレも自分ができの良い人間だなんて思ってねぇしよ。つーか、先生はやめろって」
「いえ、呼ばせてください」
「はぁ?強情だなおめぇ……。あぁそう言えば、気配で言うなら探偵坊主の家に居候してた院生の兄ちゃんも怪しかったな」
「先生、やっぱり公安に来ませんか?」
「だから行かねぇっつーの」
冗談ですよ、と眉を下げて笑った降谷に、つとその瞳を眇めて、小五郎は淹れてきた茶を啜る。こうして見ると、本当に若い。自分よりも十近く年下の青年が、やけに眩しく見えた。
「まぁ……、なんだ。オレが言うのも畑違いかもしれんが、お疲れさん。片付いたんだろ」
「えぇ、一通りは」
「ポアロも辞めたか」
「今月で最後だとマスターには伝えました」
「そうか……」
ギシ、とソファの背に凭れて年季の入った事務所の天井を見上げる。
「寂しくなるな」
「本当にお世話になりました」
「一つだけ、いいか」
「はい?」
降谷はアクアマリンの瞳を瞬いて首を傾げた。
「あの探偵坊主のことだ」
「新一君のことで、何か?」
「あー、その……、」
自分で言い出しておきながら、小五郎はガシガシと頭を掻いて言い惑うように視線を泳がせる。暫く沈黙が空気を支配したが、やがて意を決したように小五郎が顔を上げた。
「………協力者として横に置くつもりなら、覚悟しておけよ。アイツ、オレよりも事件体質だからな」
「先生、勘違いされやすいんじゃありません?」
「うるせぇ」
心配ならそう言えば良いものを。普段、邪険にしていた弊害がここで出てくるとは。
ついニヤニヤと意地悪く笑う降谷に、小五郎がヤケクソのように噛みついた。
「あれでも昔から見てた奴だからな!!変なところでくたばられたら気分わりぃだろーが!!」
「そういうことにしておきますよ」
クスクスと笑いながら、降谷は不覚にも泣きそうになった。
決して楽な仕事ではなかった。苦しい思いも、悔しい思いもたくさんした。救えなかった命を悔やんで立ち止まりそうになったときもあった。
それでも、少なくともこの事務所と階下の喫茶店での時間は、降谷にとっては限りなく安らげた時間で、無駄なものではなかった。
だって、こうして今も、目の前で彼が笑っている。
それは、何よりも守りたかったもので、何よりも嬉しいことだった。