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    sky_1112x

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    Twitterで連載している「さよならセンチメンタルジャーニー」の前編まとめです。

    2/20の罹破維武3で発行しました。
    文庫版には書き下ろしの千冬の過去編が収録されています。過去編は本編とリンクしています。

    とらのあな→https://ec.toranoana.jp/joshi_r/ec/item/040030965868/

    #ばじふゆ
    bajifuyu

    さよならセンチメンタルジャーニー(上) 錆びて変色した階段から不穏な音がする。ギシリ、ギシリ。いつ底が抜けてもおかしくない鉄の板が鳴るのを聞いて、オレは煙草の煙を吐き出しながら顔を向ける。
     そこには、朝日のなかに階段を上ってくる男がいた。
     金髪の間から綺麗に刈り上げられた地毛を覗かせ、猫のような目元がオレを凝視する。オーバーサイズのTシャツを纏った躰は、華奢だが引き締まった筋骨をしていた。人懐こい雰囲気を出しているのに、野良猫のように他人を警戒しているのが手に取るように分かる。
    「……どもっス!」
    「……誰だ、オマエ」
     男は最後の一段を上り切り、小さな鞄を肩にかけた。
    「松野です。松野、千冬っス」
     男——いや、千冬はそう言って笑ったが、その笑顔すらどこか無理をしているように見える。朝焼けの光のなか。オレは煙草をふかしながら答える。
    「……ドーモ」
     それが——オレ、場地圭介と松野千冬の出会いだった。

    **

    「コーポ・ペケJ」は築六十年を超える木造二階建てのアパートだ。壁にはびっしりとツタが張りつき、ベニヤ板の塗装はところどころ剝がれている。その不気味な外観から、近くに住む子供達が肝試しにやって来る始末。実際、近所でも有名な事故物件だった。
     偶然にも居酒屋で横に座った爺さんがこのアパートの家主で、「殺人事件があってから、誰も住んでくれない。家が傷んで困るんだよなぁ」と嘆いているのを聞いてオレは飛びついた。アパート全部を管理してやるからと上手く話を進め、月三万という格安で部屋を借りることができた。
     こんなオンボロアパートでも、都心の駅から徒歩十分という好立地。ワンルームの畳部屋という、渋谷の洒落た街並みには不釣り合いな部屋でも文句はない。
     しかも住民がみんな逃げて住んでいるのはオレ一人だから、実質オレの城のようなものだ。これからもずっと、それが続くと思っていた。

    **

    「オマエ、家主の爺さんと知り合い?」
    「いえ。たまたま公園で出会ったんです。住むところがなくなったって話したら、このアパートに住んでいいって言われて」
     オレは面食らった。公園で知らない爺さんにそんな話をするなんて、不用心過ぎるだろ。大体、住むところがなくなったってどういうことだよ。しかもどうして公園にいたんだよ。色々突っ込みたいところはあるが上手く言葉にできない。
     唖然として目の前の男をまじまじと見つめる。よく見ると引っ越してきたというにはあまりにも軽装だ。小さなリュック一つで、まるでこれからコンビニに行ってくるという風体。
    「荷物は? それだけ?」
    「はい。あ、明日、あとちょっとだけ届きますけど」
     こんなに身軽で引っ越しをするとは、やっぱり訳ありなのか? まぁ、もともとここは爺さんの持ち家でオレがどうこう言う権利はないわけだし、もう来ちまったものは仕方ねぇか。
     ポジティブに考えれば初めての隣人だ。歳もそんなに離れていなさそうだし、話が合うならダチになってやってもいい。
    「ま、ここにはオレしか住んでねぇし、楽にするといいぜ」
    「はぁ。あ、名前なんスか?」
    「オレの? なんだと思う?」
    「そういうの、いいっスから」
    「けっ。つまんねえの。……場地。場地圭介だよ」
     千冬は一瞬だけ驚いたように止まってから、歓喜に溢れた顔になった。さっきまでの無理な笑顔じゃなくて、心の底から喜んでいる顔。犬が飼い主を見つけたような表情だった。
    「はい! よろしくお願いします、場地さん」
    「おう。じゃあ、これが鍵な。二〇一号室が一番綺麗だから、そこ使え」
    「うわ。六本も鍵持ってるんスか」
    「一応、ここのアパート管理してるのオレだから。とりあえず荷物置いてこいよ」
    「はい。え、でも、とりあえずって……」
     何かあるんですか? と首を傾げる千冬に、オレはニヤリと笑った。
    「オマエの引っ越し祝いしようぜ。オレの部屋、隣の二〇二号室だから。荷物置いたらすぐに来いよ」

    **

    ——ピンポーン。
     玄関のチャイムが鳴ると、待ち構えていたようにすぐドアを開けた。
    「よう」
    「あの、オレ手ぶらで来ちゃったんですけど」
    「ああ? いいよ、別に。ンなこと気にすんな」
     入れよ、と手招きすると、一瞬の間があってからゆっくりと玄関に足を踏み入れてきた。
    「お邪魔しま、す……」
     千冬の声が小さくなったことを不思議に思って振り返ると、デカい目がさらに見開かれていた。視線の先にはオレの部屋。
    缶ビールやら煙草の吸殻を突っ込んだままの灰皿やらで、六畳の畳の部屋は埋め尽くされている。足の踏み場もなく、部屋の隅には取り込んだままの洗濯物が山になっていた。
     よく考えたら全然、人を呼べる状態の部屋じゃなかったわ。
    「あー、ワリィな。……明日片付けようと思ってたんだけど」
    「いえ、別に大丈夫っス」
     千冬はすぐにケロリとした表情に戻り、何事もなかったかのように靴を脱いだ。
    千冬が座れるように散らばったものを足で押しのけてスペースを作ってやると、落とし穴でもできたように畳が顔を覗かせる。軽く頭を下げるとそこへ腰を下ろした。
    「千冬、オマエ年いくつ?」
    「二十二です」
    「なんだよ、一個下じゃねぇか。てっきりもっと下かと思った」
    からかうように笑ったオレを千冬はちょっとだけ不服そうに見たが、何も言わずに口を噤んだ。
    「怒んなって。ホラ」
     そう言って缶ビールを差し出すと、シワを寄せた眉間がぱっとほどけて笑顔が浮かんだ。部屋にかけられた時計は朝九時を指している。
    まだ朝早いのにビールを差し出すのもどうかと思ったが、引っ越し祝いに出せるものがコレしかなかったから仕方ない。とりあえず、手あたり次第に冷蔵庫に入っている缶ビールを出して並べていく。
    「いいんスか? やった!」
    「酒、好き?」
    「ウス。でも金あんまりねーし、普段は飲めないんで」
    「高校生みたいな見た目してんのに」
    「言わないでくださいよ。童顔なの気にしてんスから」
    嬉しそうに息を弾ませる千冬は慣れた手つきで缶ビールの蓋を開けた。オレも自分の缶を開けて、乱雑に物が散りばめられた隙間に器用に座る。一口飲むと、冷たいビールが仕事明けの喉に沁みた。
    「ぷはぁ!」
    「うまそうに飲むな」
    「へへ。一年ぶり」
    「そんなにか? 折角だから、ツマミでも出すか」
     何か摘める物を探してさらに冷蔵庫を漁る。が、そういえば買い出しをしていないんだったと思い出し、仕方なくコンビニ系のスナック菓子の封を開け、千冬にも無言で差し出した。千冬は会釈をすると袋から菓子をいくつか摘まんだ。続けて冷えた缶に口をつける。
    「そういやオマエ、住むとこなくなったって言ってたな」
    「あ、それは……」
    何気なく聞いたら、千冬は一瞬躊躇った表情を見せてから目線を落とした。寂しげな顔をしてぽつりぽつりと話し始める。
    今は専門学校に通っているらしいが、寮が耐震検査に引っかかり、急遽大規模な工事を取り行うことになって立ち退きを余儀なくされたらしい。実家が遠い学生には代わりの寮が宛がわれたが、千冬の場合は実家が同じ渋谷区内だったことから家に帰るようにと言い渡されたということだった。
    そこまで語ると千冬は静かにため息を漏らした。寮の都合で突然の引越しなんて気の毒な話だが、要は実家に帰ればいいだけのこと。それでも住むところがないというのは、やっぱり実家に戻れない理由があるからだろう。
    「そっか。大変だったな。……で、学校ってなんの?」
    軽く聞いてみる。本当は家の事情のほうが気になっていた。でも無理に聞き出したくはない。千冬の神妙な顔つきからしてとてもそこへ突っ込む気は起きなかった。人それぞれ、多かれ少なかれ言えない過去っていうのはあるもんだ。オレだって他人に言えないことばっかりだ。過去のことはもちろん、今現在のことだって。後悔なんてしたことはないが、胸を張って言える話も何一つなかった。
    「動物系っス」
    「マジで?」
     今度はオレが目を輝かせた。昔から動物が大好きだったから。本当はそういう仕事に就きたかったが、オレには無理だとすぐに諦めた。
    「はい。トリマーの資格を取ってて」
    「いいなぁ! オレも動物好きでさ」
    「えっ、そうなんですか?」
    千冬の目は、同士を見つけて嬉しくてたまらないというようにキラキラと光る。
    「昔、近所にいた野良猫を可愛がっててよー。ガキん頃は動物図鑑も集めてたんだぜ」
     意外ですね、と千冬は歯を見せて笑った。コイツのそんな顔は初めて見たはずなのに、どこか懐かしい気持ちになって心臓が跳ねた。
     胸がざわざわするような不思議な感覚に包まれる。会って数時間しか経っていないのに、千冬の顔を見ているともう何年も前からこの部屋に出入りしているような錯覚に囚われた。
    「いいっスね。オレ、トリマーの資格取って世界中を旅するつもりなんスよ」
    「へえ?」
    その顔が一段と明るく輝く。
    旅をする——確かに旅はすげぇ楽しいだろうしいい夢だと思うけれど、なんでまた? 当然その疑問が浮かんでくる。オレがじっと耳を傾けていると千冬は、さっきまでの憂いある表情が嘘のように意気揚々と喋り出した。
    「色んなところに行きたいんです。どんな世界でも、どんな言葉喋ってるところでも、どんな人が住んでるところでも」
    「いいじゃねえか。でも、なんでそんな遠いところに行きたいんだ?」
    やはり理由は聞いておきたい。千冬は心なしか遠い目をしながら、窓のほうを眺めて言った。
    「旅に出たら……オレのこと受け入れてくれる人もいるかもしれないじゃないですか」
     なんとなく寂しげな口調だった。
    「今でも十分、千冬のこと好きなヤツとかいるんじゃねぇの。ダチ多そうだし」
    「そうなんですけど……そうじゃないんですよね」
     その言葉にはどこか含みがある。
     触れられたくない傷がある——わずかに震えを乗せた声にはそんな感触があり、オレは口を噤む。オレにだって知られたくない古傷はある。しんみりしたのを悟られたくなくて、ほら飲めよ、とまだ開けていない缶ビールを千冬に差し出した。すると思い出したように千冬が目を丸める。
    「そういえば、場地さんは社会人ですよね?」
    「まぁな」
    「朝帰りでしたけど、夜勤ですか?」
    「あー……」
     そこを聞いてくるか。オレは思わず言葉に詰まった。まだ出会ったばかりのコイツに、どこまで話していいものか。
    「すみません! 言いたくないならいいんス」
    「いや、ナイトワークだよ。ただの」
     言い淀んだオレを気遣って大げさに手を振る千冬。平静さを取り繕って言ったのに、オレは内心奇妙な焦燥に駆り立てられていた。千冬が「ナイトワーク」という言葉にピクリと眉を動かしたのを見てしまったからだ。千冬は悩んでから、「ああ」と顔を上げ、今思い当たったらしき言葉を遠慮がちに言った。
    「もしかして、ホストですか?」
    「え? ……まぁ」
    「場地さんなら、モテそうっスね! かっこいいし、優しいし」
    「優しいか?」
    「そうじゃなかったら、初めて会った男の引っ越し祝いなんてしてくれませんよ!」
     無邪気に笑った疑うことを知らないその様子に、オレはチクリと胸が痛んだ。
    ——本当はホストじゃないんだけど……。なんかまずい展開だな、これは。
    実際はゲイ向けの風俗でタチ専門のボーイをやっているのだ。店ではランキング上位に入っている、この界隈ではちょっとした有名人だったりする。もしそんなことをコイツに話せば、いったいどんな顔をするだろう。さすがにただ驚くだけでは済まないんじゃないだろうか。
    なんの変哲もないノンケ学生が、引っ越し先は事故物件で、隣人はゲイ風俗の人間でした、なんて。色々まともじゃねぇよな。逆にもしオレがコイツの立場だったら早々に出て行くかもしれない。そんなことを思い巡らせて心のなかで顔をしかめた。
     オレの心配なんて想像もしていないだろう千冬は、ホストと聞いただけで未知の世界を覗きたがるガキみたいに好奇心に満ちた目をキラキラさせている。
    「オレの周りにそういう仕事してる人いなかったんで、すごいっスね!」
     マジで感心されているらしい。いよいよまずいな、と思うが本当のことを切り出すきっかけがない。いや、言いたくもない。騙しているようで罪悪感はあるが、それでも真実は告げられなかった。
    ——この時間が、壊れてしまわないように……。
    がっかりした顔は見たくないと思い、どの店に勤めているのかと聞かれる前に、無理やり話題の方向を変えてみる。
    「千冬。オマエもしかして、大学デビューか?」
    「え?」
    「その髪。地味なヤローが高校とか大学に入って急に洒落込むっていうアレか?」
    艶のある髪は見事な金髪で、刈り込んだ襟足から地毛が覗いている。耳にはピアスをしているし、オレはそんなところだろうと見当をつけて聞いてみたが……。
    「いえ。オレ、ガキの時かなりヤンチャしてて」
    「は?」
     突然の告白に、今度はオレが面食らう。
    「中坊ン時は族に入って、毎日喧嘩ばっかしてました。その時のツケっていうか。未だに知らないヤツからも喧嘩売られるんスよね。だからナメられないように金髪のままにしてるってだけです」
    「へぇ……」
    「さすがに就活までには黒染めしますけどね!」
     サラリと言って、目尻を少し下げた。
     おいおい、反則じゃね? ちょっとイキッた野郎だと思って聞いてみればマジモンのヤンキーじゃねぇか。可愛い顔してるのにそんな過去があるとか、このギャップはかなり強烈だ。なぜか妙に左胸の辺りがキュッと締まる感触がする。
     多分、酒のせいだろう。さっきから目の前のコイツを可愛いと思ってしまうのも、やたらと気持ちがざわめくのも、頭がうまく回らないのも、全部酒のせいに違いない。
     気づくと冷蔵庫から出してきた缶ビールはほとんど空っぽになっていた。無造作に散らかった缶が、雑然とした部屋の風景と同化している。かなりの量を飲んだことに驚いた。
    「千冬ぅ」
     前に誰かから聞いたっけ。アルコールにはその時の気分を増幅させる作用がある、と。嬉しい時に飲めば嬉しさは倍増し、悲しい時に飲めば悲しみは大きく膨れ上がる。そしてオレは今、新芽が匂うような本能的なざわめきを胸のなかに感じていた。
    「なんですか、場地さん」
     オレのペースに合わせて酒を飲んだせいか、目の前の千冬も顔が赤い。緩んで開いた唇と、ほんのり目の縁に赤色をのせた瞳。どこか甘く感じられる視線が、オレに向いている。
    「……オマエ、エロいな」

    ——オレは千冬の頬に手を差し伸べる。千冬は最初驚いた様子だったが、唇を重ねるともう動かなかった。いや、動けなかった、のかもしれない。
    酔いの回ったオレには、自分を止める力なんてひとかけらもなかった。千冬の赤色を乗せた目尻に啄むようなキスをする。舌で瞼をなぞると、「ひぅ」という千冬の声がした。くすぐったかったのか、初めての快感に戸惑ったのか。
    オレはその声に少し笑って「可愛い」と呟く。すると「男に対して可愛いって、なんスか」と千冬が抗議する。その声も愛おしく感じて、ゆっくりと舌で頬をなぞった。千冬の幼い輪郭がオレの舌に蹂躙される。その事実に異様に興奮してしまい、口づけを何度も重ねた。
    千冬はまだ驚いた様子だったが、その舌の裏や口内を舐め回すと「んん……ッ!」という声を最後に大人しくなった。コイツ、Mの気があるんだろうか? 口元はだらしなく開き、とろんとした表情を見せ始めた。
    もう、食べごろだ。
    千冬の耳から首筋を手で優しく愛撫しながら、口唇をオレのモノへとゆっくり近づけさせる。下着越しに千冬の頬にモノを擦りつけて……。ああ、この時点でもう発射してしまいそうだ。
    千冬は蕩けた目で、耐えられないと言わんばかりにオレのズボンのジッパーを下げた。下着をずらして犬のようにしゃぶりつく。「……ッ!」思わず声が漏れそうになって、必死に我慢した。
    オレの声はまだコイツに聞かれたくない。まだ、かっこいい隣人でいたい。千冬の熱い口内にオレのモノが温められていく。思わず腰を引くと、意外とたくましい腕にしっかりと引きつけられた。「それ、やめろって」なんとか絞り出すと、千冬はしゃぶったままオレを見上げた。「それ、って、なんふぇふか?」いたずらっぽい目で言われて、「くそが……」と呟く。
    千冬の頭をわしづかみにして喉奥へ押しつけた。
    「んぐっ!」と千冬が抗議なのか生理反応なのか大きな声を出す。それでも肉棒に舌を絡めて奉仕してくる。頭を何度も上下させてやると、その度に目が蕩けていく。
    射精感が高まって、「やめろ、イきそうだから」と伝えても、千冬はソレを離さない。腰が辛い。熱が溜まって奥で火花が散るようだった。
    なんとか頭を掴んで顔ごと持ち上げると、その視線は色情を抱いてオレに向いていた。羞恥に染まる頬にオレのモノで濡れた口唇。オレはごくりと唾を飲んで千冬を押し倒す。もう、我慢できない。千冬が嫌がってもそのナカに入りたい……。
    千冬はされるがままだった。下着のなかへ手を潜らせてゆるゆると先端を包むように愛撫すると、腰が小刻みに揺れ始める。「ん……」と甘い声を漏らし始め、耐えられないようにオレのほうに手を伸ばす。「なんだ?」と訊くと、「一回、ギュッてして欲しい」と千冬は言って——

    「…………さん! 場地さんってば!」
     千冬の声に、はっと現実に引き戻された。つい妄想の海に漂ってしまったことに気づいて頭を振る。
    「……ワリ。ぼーっとしてた」
    「大丈夫ですか? もしかして酔ってます?」
     そう言って千冬が心配そうに顔を覗き込んでくる。さっきよりも一層近くなった距離。酒のせいか、耳までほんのりと赤くなっていた。妄想で犯そうとした罪悪感でオレは思わず顔を背けた。
    「あー、ちょっと酔ったみてぇ」
    「夜勤明けで酒飲んだら、そりゃ具合悪くなりますよ」
    「そーだな。今日はもう寝るわ」
    頭をガシガシと搔きながら、バツが悪いことを悟られないように千冬に伝える。
    「じゃあ、オレそろそろ帰りますね」
     千冬はオレの返答を聞くとすぐに立ち上がった。空いた缶を集めようとしたから、「大丈夫だ」と言ってやんわりと止めた。どうせもともと散らかっている部屋だ。缶が数本増えたって変わらない。寝て起きたらちゃんと片付ると誓う。
     千冬は頷くとそのまま玄関へと向かう。もともと手ぶらで来ていたから、そのままの恰好で靴を履いた。
    「じゃあ、今日はごちそうさまでした。朝っぱらからなんか、すみません」
    「オレが誘ったんだし、気にすんな」
    「ウス。改めて今日からよろしくお願いします」
    「ああ。なんかあったらいつでも声かけろよ」
     千冬は返事の代わりにニコリと笑いかけると、ドアノブを回した。バタンとドアが閉まり、千冬が出ていってしまうと部屋は急にがらんとした。ただオレの心臓の波打つ音だけが躰のなかに響くくらいに大きく、妙な気持ちになる。
    「なんだ、これ」
     その正体が分からないまま、誰もいない玄関を見つめて立ち尽くした。何十年もしまい込んでいた感情が蓋を飛ばして溢れ出た……そんな気分だ。
     呆然としてから、思い出したように踵を返して部屋に戻る。乱雑な部屋に構わず押入れから出してきた布団を床へ落とした。もう今日はダメだ。疲れた躰にアルコールなんて浸透させたから、おかしくなったんだ。寝て忘れよう。明日になったらアルコールと一緒にこの気持ちも抜けているかもしれない。
     起きてから風呂に入ろうと思ってそのまま布団のなかに躰を潜らせる。目を閉じると、いつもは気にならないカーテンから差し込む朝の光が気になった。瞼の裏に浮かぶのはさっきの千冬の笑顔。——無邪気さがふわりと散るような、屈託のない笑みの可愛さ……。
    「いや、寝れるか!」
     オレは勢いよく上半身を起こして、頭を抱えるように両手に埋めた。
     今、可愛いって思った? まだ出会って数時間。この感情に名前をつけるには早過ぎる。だけど——。
    ——オレのなかで何かが変わり始めている。
    「ああっ。くそ……っ!」
     再び布団に潜り込んだ。じっと目を閉じ暗闇を見つめれば、思考がだんだん脱落していく。夢のなかにはまた千冬がいて、オレはそのまどろみのなかへ落ちていった。

    **

    「ケイ! ちょっと聞いてんの?」
    「あ、店長」
     頭に声が響いて意識が戻ってくる。顔を上げると、座っているオレを見下ろすように一人の男が立っていた。
     大柄な躰つきには不釣合いなブロンドの髪の毛を綺麗に巻いて、爪には派手な色のネイルを乗せている。凛々しい目元には長いまつげ。朝方だというのに化粧崩れもしていない、完璧な装い。男であり女でもある。つまりニューハーフだ。
    「アンタ、最近ぼーっとしてどうしたの」
    「別に。なんでもないっす」
    「今日も指名客多かったし、疲れちゃった?」
    「いや、体力だけが取り柄なんで。あれくらいの人数なんともねーし」
    オレの返事に店長は眉をひそめた。ふっと小さく息を吐き出す。
    「心配してんのよ。アンタ、うちの人気ボーイでしょ。ケイ目当てで来る新規も多いし、何かあったら困るわ」
     詰まるところ、オレの心配と言いながら店の心配をしているわけだ。まぁ、それは当然だと思う。
    「迷惑かけるようなことはしないスよ」
     ガタっと席を立ったオレに心のなかでも読めたのか、店長は慌てて否定の言葉を口にする。
    「違うわよ! 私はケイが心配なの」
     焦ったその声を背中で聞きながらオレは鞄を乱暴に掴むと、振り返らずにドアへと向かった。
    「じゃ、お疲れっス」
     カランと音が鳴って外の世界が広がる。店長の困惑したようなため息が聞こえた。
     まだ早朝だと言うのに、七月のなまぬるい空気がオレの肌を撫でた。まだ日は昇ったばかりなのにすでに暑さを纏った初夏の朝日だ。今日も暑くなるんだろうなと思いながら、オレは光のなかへ踏み出した。

    「場地か?」
     人がまばらな繁華街のなか、背後に声を聞いた。振り返ると見慣れた男が立っている。
    「三ツ谷! 久しぶりじゃねぇか」
    「こんなところで会うなんて、珍しいな」
    そう言って笑ったのは、オレのガキの頃からの悪友の一人。三ツ谷隆だ。
    「オマエも朝帰り?」
    「まぁ。納期の近い仕事があってアトリエに篭ってた」
     三ツ谷は新米のデザイナーだ。妹達がいるからか昔から裁縫が得意で、オレも何度も世話になった。今は趣味と実益を兼ねてデザイナーを目指しているらしい。
    「ふーん」
    「場地も仕事?」
     頷くオレに、三ツ谷は「お疲れ」と声をかけた。コイツはオレの仕事のことを知っている。昔、悪友だったヤツらには包み隠さず話したから。
     気のいいヤツらだから、誰一人オレを否定することはなかった。「ダチに変わりねぇだろ」と言ってくれたことがすげぇ嬉しくて、その言葉は今でも間違いなくオレの心の支えになっている。
    「なぁ、時間あるなら朝飯行かね?」
     ニコリと笑いかけられて瞬時に考えた。
     今日はそのまま帰って寝たい気分だったが、三ツ谷と時間が合うことも珍しい。今断れば次にいつ会えるかも分からないし、ここは誘いに乗るべきだろう。
    「つってもな、この時間やってる店少ないよなぁ」
     時刻は朝の六時前。夜の店が並ぶこの繁華街には朝から営業している飲食店もあるにはあるが、落ち着いて食べられる店は案外少ない。
    「オレ、いいとこ知ってる」
    「マジ?」
     三ツ谷の馴染みの店は眠っているように静かな繁華街を真っ直ぐ進み、距離にして徒歩約五分。路地裏へ一本入った目立たない通りに構えていた。
     店の横には都心の繁華街には不釣合いだと思うほど立派な木が生えている。その木でちょうど建物が影に包まれていて、とても神秘的に見えた。古めかしい看板には「喫茶店」と書いてあるが、肝心の店の名前は掠れてもう読めなかった。
     三ツ谷に誘導されるように店内へと足を踏み入れた。入った瞬間、タバコの煙とコーヒーの入り混じった臭いが鼻を掠める。コーヒーの香りを嗅ぐだけでもいい店だと分かった。内装はシックなデザインで纏められ、木のぬくもりが感じられる机と椅子が並んでいる。
    「いらっしゃいませ」
    と、気のよさそうな店主に声をかけられ窓際の席に二人して腰を下ろした。テーブルごとに黄色く燃えるキャンドルが置かれていて、朝なのに薄暗い店内とテーブルをぼんやりと照らしていた。
     店内をぐるりと見回すと既に数人の先客がコーヒーを飲んでいる。
    「洒落た店を知ってんだな」
    「だろ?  徹夜明けの日は、大体ここで朝飯を食べるんだ」
     そう言うと三ツ谷は、ハードカバーの本のようなメニューに視線を落とした。随分分厚い。手広く提供しているのだろう。オレも一緒にそれを覗き込んでメニューをチェックする。朝は無性に味噌汁が飲みたくなるが、今日は諦めよう。
    「場地、決まった?」
    「んー、トーストとコーヒーのセットだな」
    「おっけ」
     三ツ谷が慣れた様子で店主を呼び、「トーストのセットと、フレンチトーストのセットで」と注文をする。
    「三ツ谷、朝からそんなもん食えんの?」
    「頭使うから糖分補給しなきゃ死ぬんだよ」
     出された水を一口含み、三ツ谷は笑った。
     デザイナーっていうのは意外と大変らしい。コイツは特に。
     三ツ谷は進路相談で担任に服飾系の専門学校を勧められた。だけど学校へは行かず、有名なデザイナーに直談判して弟子入りした。早く社会に出て世界に触れたかったと言ったが、三ツ谷には幼い妹二人がいたことを考えると色々思うところがあったのだろう。弟子入りして五年経ってやっと小さなアトリエを任せて貰えるようになったと聞いて、オレも自分のことみたいに嬉しかった。
    「場地は最近どう?」
    「別に。代わり映えしない仕事だしな」
    水の入ったコップを見つめながら答えた。
    「いや。仕事だけじゃなくてさ、私生活でもなんでも」
     私生活か。そう言われて真っ先に浮かんだのは、無論、最近あった一番の変化だ。さりげなく新しい住人の話題を切り出してみる。
    「そういえば、最近オレの隣に引っ越してきたヤツがいてさ」
    「え、あのボロアパートに?」
     目を丸める三ツ谷。まあ、驚くよな。コイツは一度オレのアパートへ来たことがあって、「ここだ」と言って建物を見上げた時は、あまりの寂れた外観に眼球が飛び出るくらい驚いていた。
    渋谷にこんな古ぼけたアパートがあるなんて想像もしていなかったのだろう。部屋で一緒に飲んで、帰る間際まで「すげぇところに住んでんなー、他に人いるのかよ」とやたら口にしていた。そんなオレの城に思いもかけずやって来たアイツ。柔らかなあの笑顔が胸を掠めた。つい本音を零す。
    「ソイツに会ってから、なんか変なんだよ」
    「変?」
     千冬と会って以来、夢にアイツが出てきてしまう。

    「場地さん……」
     夢のなかの千冬は赤らんだ目でそう呟く。毎回ベッドの上でもう我慢できないというように蕩けた目をしていた。腰を大きく上に突き出し、四つん這いになって下着越しにオレのソレを触る。
    吐く息は浅く、「もう、いいですよね……?」と目を潤ませて尋ねてくるのだ。もちろんオレの答えは決まっている……。
     オレは我慢できずに千冬の指先にソレを触れさせた。
    「ッ、く……う……」
     血管を浮き上がらせて勃ち上がるオレのモノを、ゆっくりと撫でられる。オレのソコがどれほど淫らで、どんなに貪欲かを確かめるように殊更にゆっくりと——。
     はっとして目が覚めると下半身に心当たりのある疼きがする。布団を捲って確認すれば、下着越しに元気にそそり勃つ中心のモノと目が合ってしまう。寝起きで夢と現実の区別をつけることができないオレは、疼きのような熱の塊を外へ逃がすべくドクドクと脈打つソレに手を伸ばす。
    そうして朝から本能のままに己を処理したあとは、やましい気持ちを感じながらも寝床のなかで煙草をくゆらせるのが日課のようになっていた。

    「場地?」
    「あ、いや。ただなんか……」
     そう言いかけたところで、プレートを持った店主がテーブルにやって来た。
    「お待たせしました」と差し出された皿。トーストの横には彩りのあるサラダが添えられ、半熟の黄身がツヤツヤと輝く目玉焼きが乗せられていた。続けて湯気の立つコーヒーが目の前に置かれると、芳ばしい香りが食欲をそそる。一口飲むと口のなかにさわやかな酸味が広がってほっとした。
    「それで?」
     三ツ谷はフォークをひょいとオレに向けて、続きを促した。何でも語れる相手ってのはありがたい。目玉焼きを潰しながらため息混じりに答える。
    「千冬に会ってから、アイツのことばっか考えるようになっちまって」
    「ふーん?」
    「夢にまで出てきやがるし」
     可笑しいよなぁ、と自嘲気味に笑うオレに「それって……」と三ツ谷は言葉を被せた。
    「一目惚れってやつ?」
    突き出したフォークがまっすぐオレを指している。
    「あ? なんだそれ、漫画かよ」
    「昔本で読んだことあってさ。一目惚れって、前世の記憶が関係してるんだって」
    「前世……」
    「そ。前世で最愛だと思った人間に、今世で出会えた時に一目惚れするんだって」
    三ツ谷はいつも「前世」の話をしてくる。最初は非日常なその言葉に、目の前に宇宙が広がったような掴みどころのない感覚がしていた。だけど三ツ谷の語り口はいつも真剣で考えさせられる部分もあったりして、耳を傾けるうちにオレも自然とその単語を受け入れるようになっていた。
    ——前世か。もしそれが本当で、千冬とオレが生まれる前に出会っていたとしたら……。
    いやいや、待て。そんな漫画みたいなことがあるわけない。「一目惚れ」とか「前世」とか如何にも子供じみた、しかも乙女過ぎる発想じゃねぇか。現実的じゃない。そんな言葉を素直に受け入れるなんてできねぇよ。頭の隅ではそう考えているのに、心のなかに妙な期待感が生まれてくる。
    「でもな……オレの仕事知ってんだろ?」
    「もちろん」
    「仮にオレがアイツを好きになったとして、オレは千冬を幸せにはできねぇよ」
     そう言うと三ツ谷は困ったように頭を掻いた。
    「幸せにする、しないって。それを決めるのはオマエじゃなくて、相手だろ」
    「そうだけどさ……」
     この不安と焦燥感をどう伝えればいいか分からなかった。
    「ほら、三ツ谷はさ、やっぱりすごいじゃねえか。自分の作ったものが価値を生んで、金になって」
    「そうでもないよ。こんなものはいらなかった! とか言われることあるし。落ち込むことも多いしな」
    オレとは違う世界で上手くやっているはずの三ツ谷は、少し大げさに眉をしかめた。グイッとコーヒーを喉に流し込む。まあ、それなりに苦労はあるんだろうが。
    「でも、オレの仕事はさ……年齢的にいつまでできるかも分からねぇし……。何も生産性がないっていうか」
    「うーん。それはオマエ、夜の店を悪く考え過ぎじゃないか? オレの先輩なんかよく行くらしくて、いつもその話されるぞ」
    「マジ?」
    「ああ。みんな元気で明るいし、悩んでる時に励ましてくれるってさ。ありがてぇって言ってた」
     確かにそういう面はある。三ツ谷の言葉にはオレへの気遣いも含まれているんだろう。けれど言葉通りに受け止めることはできなかった。
     仕事に貴賤はない。そういう考え方もあるのは事実だ。
     営業マンも水商売も同じ仕事。どんな仕事かでなくどのように働くかのほうが大事だとか、そんな風に言う人間もいる。……でも本当にそうだろうか。
     日給一万で働く人間がいる一方で、日給十万で働く人間もいる。同僚と楽しく話ながらやれる仕事もあれば、明けても暮れても客の機嫌取りに追われる仕事もある。
    三ツ谷が見ているのはあくまで表面的な、いい部分だけだ。言わば綺麗事に過ぎない。現実はそれとは違う。店長だってオレが働けなくなったらあっさり見捨てるだろうし、指名数上位のオレを疎ましく思っているヤツも大勢いる。ソイツらはオレがいなくなったら拍手喝采で喜ぶはずだ。
    コーヒーカップの中身を見つめてそんなことを考えていたら、
    「またなんか悩んでるみたいだけど……。まあ、オレならいつでも話聞いてやるからさ。気軽に連絡しろよ」
     三ツ谷は明るく笑った。
    「オマエっていいヤツだよな」
     そんな感想が思わず口を突いて出た。
     同じ悩みは共有できなくても、三ツ谷はいつでもオレを理解する立場にいてくれる。それがどんなに嬉しいか。
     ガキの頃から破天荒なオレを見放さずにずっと近くにいてくれた。今だってそうだ。オレのしょうもない話を真剣に聞いてくれる。コイツに、いや悪友達に、オレはつくづく助けられていると思う。
    「ばーか。ダチなんだから、当たり前だろ」
     いつもと変わらない笑顔を向けてくれる三ツ谷に感謝しながらオレは頷いた。
    「ありがとな」
    「おう。だからさ、好きなら絶ッ対ェ諦めんな」
     三ツ谷の言葉に胸に支えていたものがスッと軽くなった気がした。諦めなくていい。その言葉に、胸の内から沸々と勇気が湧いてくる。
     そのあとはいつも通り、くだらない話をしてまた笑った。洒落た喫茶店で話し込んでいたことをすっかり忘れて大きな笑い声を出してしまい、他の客に睨まれていそいそと外に出た。
    「じゃあな、場地。いつでもアトリエ来いよ」
    「おー、また予定決めてみんなでも集まろうぜ」
    「いいな。ドラケンのバイク屋に集合して宅飲みでもすっか!」
    「決まり。あとでマイキー達にも連絡してみるわ」
    三ツ谷は「頼んだ」と言うと、駅とは反対方向に向かって歩いて行った。多分またアトリエに篭るんだろう。徹夜で仕事してまた仕事。アイツ、やっぱりすげーわ。そう思いながら、オレは帰路へと着いた。

    ——その日の夕方。寝起きの頭にチャイムの音が響き渡った。
    「んー……、誰だよ」
     まだ千冬に誘惑された夢のなかにいるようで、下半身は熱を持っている。重い躰をのそりと引きずり玄関へと向かう。ドアノブを回して扉を開けると、目の前には金髪のつむじ頭があった。あれ? まだ夢を見ている? 驚いて思わず瞬きを数回してしまった。
    「場地さん、すみません……」
     腰を直角に曲げ、床を見つめたまま千冬が言う。
    「冷蔵庫、貸してくれませんか」
    「……あ?」

    千冬を部屋のなかへ招き入れると、とりあえず畳へと座らせた。
    「部屋、この前より片付いてますね」
    千冬が辺りをゆっくりと見回す。以前は転がっていたビールの空き缶も、吸殻だらけの灰皿も、洗濯物の山も。すべて綺麗に片付けられ畳がしっかりと見える室内。
    「いや、あの時がピークだから。いつもはちゃんと片付けてるし」
    「あ、そうだったんですね」
    そう言って眉を下げて笑った。コイツの笑い方は心にぽっと灯がともるような気持ちになるから不思議だ。
    「それで? 冷蔵庫がどうしたって?」
    「あ」
    問えば、千冬は思い出したようにしゅんとなる。叱られた犬みたいでつい頭を撫でてやった。千冬は気持ちよさそうに目をとじて撫でられてから、ハッと気づいたように顔を上げた。
    「あの……冷蔵庫が壊れました」
    「……災難だったな」
    今は七月。初夏とは言え、外に放置しておけば食べ物は腐る。
    「でも、今月は金欠で買い直せなくて……」
    「うん」
    「冷蔵の物だけでいいんで、一ヶ月だけ冷蔵庫お借りできませんか……」
    「まあ、いいけど」
    「ありがとうございます!」
     千冬はまた土下座せんばかりに頭を下げた。
    「気にすんなよ。オレ、夜はいないし、昼は寝てるだけだし。何ならオレの部屋でゴロゴロしててもいいんだぜ」
    むしろ大歓迎という気持ちで軽く笑ってみる。
    「えっ! さすがにそんなことできませんよ」
    「まあ、こっちだと一人で落ち着いてオナニーもできないか」
    冗談で言ったのだが、途端に千冬は真っ赤な顔になり「場地さん!」と叫んだ。
    「ワリィ、こういう冗談嫌いだったか」
    「あ、いや、そういうことじゃなくて……」
    「じゃあ、なんだよ」
    「いえ、なんでも……。そんなことより夜働いてるとはいえ、昼間帰ってきて寝てばかりなんですか?」
    赤い顔のまま、目を丸めてオレに聞く。
    「まあ、仕事がハードだからな。体力勝負だし」
    「えっ。ホストってそんなに体力使うんですか」
    あ、ヤベェ。オレはホストクラブで働いていることになっていたのだと思い出し、心のなかで舌打ちをする。枕営業をかけているホストでなければ、風俗で働くオレほど毎日躰を酷使することなんてないはずだ。まいったな、と思いつつ適当にごまかしてみる。
    「……まあ、ほら。ホストって、女相手に色々しなきゃだし」
    「色々って?」
    「えーと、ほら。酒を出したり、話し相手になるだけが仕事じゃないからさ。営業メールもしなきゃいけないし……なかには客の金がなくなったら取り立てみたいなことするヤツらもいるし」
    「ほぼヤクザじゃないですか!」
    千冬は分かりやすく青ざめた顔で目を瞠った。そのリアクションにドキリとする。
    もしかして嫌われたか? 自分で墓穴掘って嫌われるんじゃ目も当てられねぇよ。またしくじったと思い、再びごまかしにかかるオレ。
    「オレはしねぇけどな! 年収一億とか狙ってないし、楽しく女の子と酒飲めればそれでいいかなって」
    それより、ほら、冷蔵庫はここだから好きに使えよ、とドアを開けて見せてやる。
    「ウス」と千冬も軽く頭を下げて、とりあえず持参していたビニール袋から中身を取り出して入れた。そしてホッと胸を撫で下ろすような素振りでオレを見る。
    「よかったぁ。場地さんが借金の取り立てとか、似合い過ぎて洒落にならないっスよ」
    「だから、してねーって」
    コロコロ表情の変わるヤツだな。今度は可笑しそうに笑い出した千冬にオレも安堵した。
    似合い過ぎっていうのはまあ、認めるけど。確かに昔は悪友達と族のグループを作って、千冬と同じように毎日喧嘩ばっかりしていた。
    実際店で人気を取っているのも、『ヤンキーみたいな容姿が一匹狼みたいでかっこいい』からだと言われている。そんな理由で指名するのもどうかと思うが、金が必要なオレにとってこの容姿が上手い具合に働いてくれているのは、まあ、ありがたいことではある。
    「あれ? でも、それだけなら、結局体力って使いませんよね」
    「あー……」
    ごまかしたはずが逆効果だったことに気づく。千冬は意外とかしこいらしい。首を傾げるその顔は、目が笑っていない。
    じりじり。妙に前のめりになって近づき始めた千冬に、オレは少し焦りながら躰を後ろに引いた。冷蔵庫の用はちゃんと済んだのにコイツは帰る気がないらしい。四つん這いのまま一歩一歩とにじり寄ってくる。その目の焦点はまっすぐオレに合っていた。
    「場地さん……。枕営業、してるんスね?」
    視線に刺されて軽くたじろいだが、そう言った千冬の目がどこか寂しそうな、いや悲しそうな、あるいは怒っているような、そんな風に見えるのは気のせいか。
    ——いや、これは確実に怒っている?
    枕営業するようなホストが隣人なんて普通に考えたら嫌なものかもしれない。ましてオレが風俗のボーイをやっていることが知れたら、いったいどんな反応をされるのか。
    「場地さん? 目が泳いでますけど」
    コイツ、可愛い顔しているくせになかなかの威圧感を出してくる。さすがは元ヤンキー……いや、感心している場合じゃねぇけど。さらに突っ込んで聞き出す気満々な様子の千冬にオレは目線を斜め上に向けて思い巡らす。枕営業以外に体力を使うようなホストの仕事……何かなかったっけ? 必死に考えてみたが、お手上げだ。そもそも今喋ったホストの知識だってただの受け売りだし。残されたのは開き直る道だけだった。
    「……そうだよ。悪いかよ。ホストとして稼ぐなら、それは避けて通れねぇところだ。仕方ないだろ」
    やけに饒舌にオレの口が語る。けど、なんか腑に落ちない。もやもやする。こんなことは言いたくなかったんだ。
    ——千冬の前では綺麗な人間でいたかったのに。
    「場地さん?」
    口を噤んでしまったオレをきょとんとした目で千冬が覗く。心臓が肋骨を折りかねない勢いで跳ねるのが分かった。
    ——えっと……オレ、今なんて思った?
    オレはコイツには綺麗な人間だと思ってほしいのか? なんでそんなことを……つまりこれって……。
    三ツ谷にも新しい住人が気になるという話をした。でも、ここまで重症だとは思わなかった。
    「ふーん……」
    蒸し暑い部屋で千冬の額から汗が落ちる。
    オレの額には別の意味で変な汗が滲んでいた。冷蔵庫を開けたい。そこに入っているビールを一気飲みしたい。脳みそにアルコールを浸透させて今日のことをすべて忘れてしまいたい。もはや逃げる思考しかできない。
    なのに、蛇に睨まれたカエルみたいにオレは千冬の詰め寄る視線に囚われ身動きが取れず、ただその場に座っていた。すると、
    「どんな風に、やるんスか?」
    「あ?」
    オレを見据えていた目がふいに上目遣いになった。
    すっと甘い感触が胸の輪郭をなぞる。
    「枕営業……。オレも金ないし、ホストやろうかなって……でも、どうやるのか分からないし」
    どうやるか分からない……って、
    「オマエ、もしかしてドーテー?」
    まさかと思ったが、聞いてみた。
    「……ウス」
    千冬が小さな声で頷く。……意外だ。この顔と性格なら、女はいくらでも寄ってきそうなのに。女の選り好みが激しいとか? いや、そんなことはどうでもいい。
    ——これはチャンスだ。
    千冬に触れ、千冬のあられもない声を聞くために神様がくれた一生に一度のチャンス。
    オレの心はあまりにも欲望に正直な結論へと急ぐ。
    「ダメ、ですか?」
    眉毛を下げて問う千冬。なんて素直な反応だろう。コイツのこういうところ、ほんと可愛いな。躰の奥からドクドクと高揚した気分が込み上げてくる。
    ダメじゃねぇよ。そう答えようとしたのに、興奮のせいか口が乾き言葉が喉に引っかかって言葉が上手く出てくれない。
    夢で見た光景が走馬灯みたいに脳内を駆け巡った。いつも夢のなかの千冬にオレがしていることを実際にしてもいいってことだよな? 
    肌はどんな感触で、熱に浮かされたらどんな表情をするのか……この手で、この目で確かめていいって……ことだよな?
    「……じゃあ、ちょっとだけ躰触るぞ」
    ゆっくり手を伸ばし千冬の頬に触れる。ビクリと躰が揺れた。千冬は視線を落とし、顔に恥じらいの色が溢れる。しばらく口を閉ざしたあと、消え入りそうな声で「はい」と言った。
    「無理すんなよ。嫌ならすぐにやめるから」
    「……いや……これも、勉強なんで」
    そうか、千冬にとっては勉強なのか。オレが邪なことを考えているだけで、千冬には勉強。それならちゃんと教えてやらなきゃ。
    照れて目を細め、まぶしそうな顔で言った千冬。オレはまだ夢を見ているのだろうか。いや、千冬の体温もその様子も、全然違う。夢の千冬はこんなに温かくなかった。こんなに羞恥に染まる視線をオレに向けることもなかった。
    これは紛れもない、現実の千冬だ。
    生唾をごくりと飲み込んだ音がしんとした部屋のなかに響き渡った。
    肩を押して千冬を仰向けに倒す。緊張しているせいなのか、部屋が暑いせいなのか、千冬の前髪は汗で額に張りついている。怖がらせないように優しく静脈を辿り指を肌に這わせた。
    「ン……」
    うわ……ヤベェ。
    妄想でも夢でも見た光景。ある意味すっかり見慣れた光景のはずなのに、現実だとまったく違った。首筋の熱を確かめるように触れる。そのままTシャツを捲り上げ、遠慮もなく胸の尖りを暴いた。じっとりと汗ばんだ先端を舌で押し潰して愛撫する。乳輪の周りを舐め回し、時々先端を強く吸う。小さく噛むと千冬が耐えられないように声を漏らした。
    「ふぁ……や、」
    ——なんて声を出すんだよ。
    「ココ、触られんの初めて?」
    優しく聞けば、耳を真っ赤にして頷く千冬。いじらしいその仕草にオレの胸の奥が脈打ち、躰の中心にはどうしようもない熱が集まってくる。
    「いつも、そう言ってるんスか?」
    「ンなわけねーだろ。今日は特別サービス」
    そう告げると千冬の反応が大きくなった。こんなに丁寧に、壊れものみたいに扱うのは千冬だからだ。自分が好きな相手、かどうかはまだ分からないが、自分が本当に愛おしいと思える相手じゃなきゃ、イヤだ。
    千冬の躰が大きく捻じれ、やがて腰が動き始めた。
    「おい、腰」
    「……へ?」
    「動いてるぞ」
    「えっ!?」
    ハッとなった千冬は真顔で自分の腰を見た。無意識で動かしていたのだろう。さっきまで揺れていた腰はぴたりと止まったが、オレはニヤリと笑った。
    「欲しがるみたいに何度も、オレの足に擦りつけてた」
    「ちっ、違います! オレそんなことしませ……ふぁッ!」
    口だけは威勢よく反抗する千冬の乳首をもう一度舌で転がす。腰がまた揺らいでいる。オレの足に股間を擦りつけてくる姿は甘えた子猫のようで可愛い。
    千冬は自分の腰の動きを自覚したのか、視線を落として俯いている。顎を持ち上げて顔を見ると、ゆでだこみたいに真っ赤だった。羞恥にゆがむ表情にオレのモノが一気に熱くそそり勃つ。
    「千冬、オマエ……」
    「え……」
    「自分がどんな顔してるか、分かってねーのか……」
    額にキスを落とす。唇はダメだ。今のオレにそんな資格はねぇ。でも、額なら。
    オレの唇が触れた瞬間、ピクリと躰が跳ねた。もうどこを触っても気持ちいいかもしれない。
    ——すげぇ感度だな。
    オレの行為に千冬がこれほど敏感に反応するなんて、たまんねぇ。まだ夢を見ているみたいだ。嬉しさで疼く思いを堪えて再び胸の尖りを攻めてみる。相変わらずそこは恥じらうように赤く、さっきより膨らみを見せ始めている。
    ——千冬は乳首が好きなのか。
    これほど感じやすい躰を持っているなら、このままジワジワと粘りっこく愛撫してやればさらに快感は増していくはずだ。また円を描くように乳輪を舐め、ぢゅ、と音を立てて吸い上げてやる。赤く熟れるまで舌で尖りを転がしてわざと湿った音を立ててまた吸ってやると、その度に千冬の腰は妖しく揺らめき、爪先はピクピクと小刻みな震えを見せた。
    「……んんっ……ッ!」
    忙しなく動く腹筋の上を通り過ぎ、下着をずらそうと手をかけた。
    「ぁっ! そこ、は……」
    抵抗しようと手を伸ばした千冬の両手を掴み、片手で頭の上に固定する。
    「嫌がってる顔はしてねぇな」
    オレがそう言うと泣きそうな目をした。これから起こることを想像して恥ずかしがっているのか。オレだって今、胸のなかは高鳴っている。仕事とは違う。
    気になる子を自分の意思で抱こうなんて││いや、これは元々千冬が望んだことではあるが、それでもこんなことをするのは初めてだ。千冬の胸は緊張からか、徐々に大きく上下し始める。本当に嫌ならオレの手を力づくで振りほどいて殴ることだってできるはずだ。
    互いに未知の領域へ行こうとしている、オレと千冬——。
    躊躇いはなかった。容赦なくズボンごと下着を引きずり下ろして隠れていた中心を露にする。キャラクターのワンポイントが入った、意外にも可愛い下着に少し驚き、思わず零れそうになった笑みを堪える。今笑ったら確実に「なんスか!」と顔を赤らめて千冬は居たたまれない気持ちになるだろう。ひとまずそれは避けたい。
    可愛い下着のなかには不釣り合いに大きなソレ。既に蜜を滲ませている千冬のモノが可哀想なくらい震えている。一見すればただの男の肉棒なのに、千冬のだと思うと途端に愛おしく思えた。
    ヒクヒクと動き続けるソレにゆっくりと唇を近づけていく。
    「あっ、待ってください。そこまでさせるわけには……」
    千冬が必死に抵抗しようとするが、腕を振りほどかないところを見ると期待もしているのだろう。男にソレを咥えられるのは初めてのはずだ。その初体験の全てをオレが奪えると思うと、激しい興奮が心臓を凝結させた。
    千冬の初めては全部奪ってしまいたい。そう思った。
    「え……? アッ!? ンぁぁッ」
    火傷しそうなほど熱く昂ぶっている千冬のモノは蜜が滴って少し苦い。だが、意外とまずくない。健康的な食生活をしているからだろうか。舌先で円を描くように先端をなぞると、口内でビクンビクンと跳ねる。
    引っかかりのある部分を丁寧に、顔に当たるくらいに舐っていく。玉の部分をきゅうっと握ると千冬は気持ちよさそうに腰を揺らした。右に、左に、千冬の腰は快感から逃げるように動き続ける。
    「……本当に初めてなんだな」
    思わずそう聞いていた。
    千冬の反応が自分の躰に戸惑っているように初々し過ぎたから。無垢な躰に快感を教え込ませるように愛撫していく。
    千冬は顔を赤らめてパッと顔を背けた。
    「なあ、途中までやったことは?」
    無理やり顎を掴んで上向かせると、水分をたっぷり含んだ瞳と目が合う。
    「なんで、そんなこと聞くんですか」
    「なんでって、そりゃ……」
    「……パンツ下ろされたのも、その、ソコを舐められたのも初めてです」
    「マジで?」
    「当たり前っス!」
    何が当たり前なんだろう、と思いつつも愉悦に顔がゆがむのが分かる。
    男に舐められるのが初めてだと思っていた。でも、世界中の人類のなかでオレが一番初めに千冬のソレを舐めているのだ。
    そう思ったら、もう止まらなかった。抱き着くように千冬の腰を鷲掴みにする。
    「あぁ……ッ!」
    さっきの両腕の固定とは比べ物にならないほど強くしがみついてソレを舐め続ける。
    千冬の先端から我慢しきれなかったモノがどんどんに湧いてくる。もうほとんど射精するものが残っていないんじゃないかと思うくらい、口のなかが千冬の蜜で満たされていった。
    口いっぱいにソレを咥えながら千冬に問う。
    「ひもちーか? 千冬ぅ」
    「そこでっ、喋、らな、いでぇ…ッ! あ、頭、おかしくなっちゃいます!」
    自由になった両手で自分の頭を抱える千冬。初めての快感、初めての性行為。処理しきれずにショート寸前になっているのだろう。
    この顔が見たかった。子犬のように無邪気に笑う千冬の、全ての仮面を剥がした本能のままの表情が。
    オレは根元まで咥えたモノに舌を当てて上下に頭を揺らした。一人でオナニーする時は自分の好き勝手に動ける。その分気持ちいいところだけをピンポイントに刺激できる。でも、誰かにやられる時は少しずつポイントが外れていく。そのもどかしさが、快感をより強くしていくのだ。
    「ま、まって、あぁ、んっ! オ、オレ、もう……だ、めれす」
    もはや呂律も危うい。なんとか聞き取れはするが、千冬は舌を自分から出して腰を反り返らせている。
    トロトロと先端から溢れ出す蜜を舌先で拭って口唇を離した。ぎゅうと根元を握り締めると「あぁ……ッ」と苦しそうな声が喉奥から漏れたが、構わずに今度は幹の裏側を撫でてやった。
    「ひッ……ァ、あぁッ!」
    何かから逃れるように首を振る千冬の髪が畳の上にはらはらと散り続ける。汗に濡れて艶やかさを増したソレを美しいと思った。
    もっと追い詰めたくて、根元を戒めたまま先端に吸いついて包み込むように愛撫する。発射できないのに快感だけが高まっていくはずだ。さっきより丁寧に、しかし欲情的に千冬のソレをねぶり続ける。
    「ダメッ、も……もう、ぁ、イク、から……っ」
    ガクガクと躰を震わせて縋り告げられた哀願に満足して、性器を掴んだ指を緩めてやった。
    「ほら、イケよ」
    「はぁっ……ん、で、でも……」
    「イケって。命令だ」
    そう言った瞬間、千冬の内腿がビクビクと痙攣し白濁した液体が吐き出される。
    「あぁああ……んッ!!」
    千冬の声が大きく絞り出される。アパート中に響くんじゃないかと思った。
    でもここに住んでいるのは、オレと千冬だけ。いくら声を出しても問題ない。
    というかコイツ、命令って言った途端にイくなんてほんと犬だな。飼ってやろうか。
    そう思って眺めていると、千冬は達したあとの余韻に浸っているのか、足や腰を痙攣させながら目を閉じてぐったりしていた。
    「……千冬ぅ、オレも、いいよな」
    そう言うと千冬はぼんやりと目を開けた。何を聞かれているのか分かっていない顔だった。いや、相手が何かを喋っているということすら多分分かってない。そんな夢うつつの顔。
    男は達すれば賢者タイムになると思われているが、快感が強過ぎれば賢者タイムを通り越してすぐにまどろみがやって来る。今の千冬は後者なのだろう。
    それでも健気にオレに近寄ってくる。自身の助けが必要だと思っているのか。
    ダメだ。今千冬に何かされたら、オレのほうの理性がぶっ飛ぶ。
    「やっぱ、いい。自分でやれるから」
    「で、も」
    呂律の回らない口、陶酔した目で千冬がぼんやりと喋る。
    その頭を撫でてやってオレは微笑んだ。やっぱり可愛いな、コイツ。
    「寝てろ。オマエを見てるだけで十分だから」
    そう言って自分の下着をずらした。血管を浮き上がらせて勃ち上がるモノを擦る。
    ぼんやりしている千冬はその様子を肩で息をしながら黙って見つめていた。ぎゅっと手で握る。今までで一番の熱さが指の先端まで伝わってきた。一人でオナニーする時なんてヌルさに萎えるほどなのに。身悶えていた千冬、オレの指や舌に素直に反応していた千冬。夢ではなく現実の千冬を見ているだけで……。
    オレは手を上下に動かし始める。先走りで濡れていることも相まって手のスピードも上がっていく。クチュクチュと卑猥な音が部屋に響き、鼓膜を刺激した。
    小指がカリ首に当たる度に声が出そうになったが、「かっこいい隣人」でいるための最後の抵抗としてなんとか我慢する。
    「……う、……っ!」
     それでもかすかに声が漏れてしまう。千冬はその声を聞いて何を考えたのか近寄ってきた。
    「待て、来るな」
     そう言ったのに聞いていないそぶりで近づいてくる。オレのソレのすぐ傍に千冬の顔がある。熱に浮かされて上気した頬。金髪に染められた頭と、不釣り合いに童顔なその顔——。
    「場地、さん……」
     その声でオレの頭がショートした。
    「ンッ……」

    まるで合図されたかのように快感が背筋を駆け上がった。オレの腹、いや腰のあたりにわだかまっていた熱がすべて放出される。——千冬の顔に。
    「……ワリィ」
     快感が走り続けて思う通りに動かない躰で何とかそう告げる。だが、千冬は嫌がるそぶりは見せなかった。
     代わりに自身の唇についた精液をペロリと舐めた。指で掬い子猫が乳を吸うようにちぅ、と吸う。
    ——なんで……。
     男のなのに、隣人のなのに、嫌じゃないのか。
     そう思ったが次の瞬間、グラリと千冬の躰が揺れ、そのまま気を失った。
    吐き出した欲望と眠る千冬を前に、ただ息を切らして見つめることしかできなかった。オレは念願を果たしたのだ。夢ではなく現実に千冬を触れた。
    それなのに、まだ躰がその先を求める。
    なんとか躰の熱が収まったのを確認してから手を拭き、千冬の顔を拭き、そっと抱きしめた。千冬の躰は一見細く見えるが筋肉はしっかりとついていた。そんな躰を抱きながら、もっと、もっと、とオレは考えていた。

    **

    「ん……」
    千冬が目を覚ましたのは外が暗くなってからだった。気を失った千冬を布団へと移動させ、起きるのを待って数時間——。
    「……あれ、ここ」
    とろんと眠気の残った声で千冬が言う。
    「目ぇ覚めたか?」
    「場地さん……?」
    ぼんやりとオレの顔を見つめ、数秒後。思い出したように跳ね起きる。頬がみるみる紅潮するとそのまま視線を下に落とした。千冬は自分の洋服が変わっていることに気づいて、そこでさらに頬を染める。
    「あの、オレ達って、その……」
    「まあ、そうだな。夢ではねぇな」
    「うわっ。なんかすいません! 布団まで借りちゃって」
    「いや、別にいいけど。むしろ謝るのオレのほうだし」
    「え、なんで」
    「いや、だって、顔に……」
     そう言うと千冬は耳のつけ根まで赤くなって、もう一度俯いた。初めてソレを舐め回され、初めて顔射までされたのだ。
    「悪かったな」
    「え?」
    オレは素直に謝った。今一番言いたい言葉を伝える。
    「いきなりこんな事になって」
    「えっ。いや、でも、あれはオレが……」
    千冬から頼まれるような形でこうなった。成り行きとしてはそうだった。だけど違う。もし途中で千冬が意識をなくしていなければ確実にその先までヤっていた。一歩間違えたらオレは千冬の意思すら無視してナカを暴き、めちゃくちゃに犯していたかもしれない。
    今までにないほどの興奮を味わい、欲望に身を任せてどこまでも行ってしまいそうだった。やっと頭が冷えて冷静になるとさすがにそれはマズイことだと悟った。だからこの言葉しか出ない。
    「……悪かった」
    「そんな、謝らないでください」
    静かに答える声が胸に沁みた。
    「オレのこと、もう怖いか?」
    「そんなことないです!」
    気を遣ってそう答えたのか。探るようにその瞳の奥を覗き込んだが、恐怖や不安の色は見えなかった。澄んだ双眸にはそれよりもっと強い意思のようなものが感じられる。
    「だって場地さん、オレ……」
    「ん?」
    「オレ……」
    何かを訴えようとしながらも、言葉が上手く出てこないらしい。
    「オレは、その……」
    千冬は何度か頑張って話そうとしていたが、結局「いえ……」と言って会話を絶った。
    「なんだよ」
    「なんでもないっス。でも本当、気にしないでください」
    「……分かった」
    しんとした静寂が部屋を包み込む。千冬が起きてから切り出そうと思っていた話をいつすべきか、そのタイミングを見計らっていたつもりが逃してしまったらしい。オレは気まずさを取り払うようにコホンと咳払いをした。
    「ほら、コレ」
    そう言って千冬に鍵を差し出すと、千冬は驚いたように目を見開いた。
    「え、これって」
    「オレんちの合鍵」
    「えっ! いいんスか!」
    「いーよ。冷蔵庫を使うなら必要だろうし」
    オレと千冬の生活時間はほぼ真逆だ。ちょうどすれ違いの形になるから時間が合うのは夕方の数十分くらい。以前失くした時のために作っておいた合鍵をまさか他人に渡す日が来るなんて。
    鍵を作った日のオレが知ったら、きっと驚いてぶっ倒れるだろう。しかも、鍵を渡した相手とその日に途中まで行ったなんて知ったら。
    「冷蔵庫は好きに使っていいから」
    「ありがとうございます!」
    キラキラと目を輝かせた千冬に、オレへの変な気遣いや遠慮はもうないように思えた。先ほどまでのことなんて全部忘れたかのような笑顔。やっぱりコイツ、死ぬほど可愛い……そう思ったオレは、もう救いようがないな。緩みそうになった口元を手で隠す。
    「あの」
    「どうした?」
    「オレ、おかず作り過ぎることがあって、よかったらお裾分けしてもいいですか」
    「マジ?」
    余ったら小分けにして冷凍にしとけばいいじゃん、とか、本当はそういう返事が正しいのだろう。だけど千冬は伏し目がちで、耳まで赤く染めている。それを見れば大抵の男なら察することができるはずだ。
    とりあえず今日の事は千冬にとって最悪な思い出にはならず、オレの事を嫌いにもならなかったらしい。その事に深く安堵した。
    なんで千冬がオレに懐いているのかは分からないが、貰えるものは貰っておこう。それも千冬がくれる物ならば喜んで受け取る。
    「おー、楽しみにしてるわ」
    「ウス!」
    千冬は耳元を鳥の羽根で撫でられているかのように身をすくめながら、ニコリと笑いかけた。

    **

    「ケイ君、今日はありがとう」
    「おー、また指名よろしくな」
    「うん! また来るね」
    入口まで客を見送るとそのまま来た道を戻るように踵を返した。数台のカメラが天井から見つめている廊下を鼻歌混じりで歩く。「関係者専用」と書かれたドアを開けると、密閉されていた部屋の空気がふっと動いた。
    「お疲れ、ケイ!」
    「ウス。今日はちょっと客少なかったけどな」
    「仕方ないわよ。そういう日もあるわ」
    「そういうもんですかね」
    「それよりアンタ、最近機嫌いいじゃない。なんかあったの?」
    部屋の中央に置かれた本革の高級ソファーに腰かけ、足を組んだ店長が嬉しそうにこちらを見ている。
    「別に、そんなことないっすよ」
    「なあに、もう帰るの?」
    「仕事終わったんで」
    「やっぱりいい相手できたんでしょ?」
    ニヤニヤとした表情を隠そうともせず、好奇心に目をひそめた店長が聞いてくる。
    「そんなんじゃないっすよ」
    鞄を掴み、手を軽く上げる。店長は「お疲れ様」と言うと、もう一度笑いかけた。
    最近は家に帰るのが楽しみになった。今日も指名が終わると早々に家路を辿る。

    玄関のドアを開けると見慣れた風景が広がっていた。しかし冷蔵庫を開けると見慣れない器が一つ。千冬は意外にも料理上手だった。作り過ぎたらお裾分けすると言っていたのに、帰宅するとほとんど毎日冷蔵庫のなかには見慣れない皿がラップをかけて置いてあった。

    『場地さんへ。今日はちゃんぽんを作ってみました。レンジで温めて食べてくださいね』

    ノートの切れ端に書かれたメモがちょこんと添えられている。それをそっと取り上げ、皿を電子レンジに入れて温めた。
    「……ウマ」
    麺を一口啜るとふわりと醤油の香りが鼻を掠めた。下が見えないくらい野菜が乗っていて朝から食べるにはなかなかボリュームがある。
    だけど一度口にしたら止め処なく箸が動いてしまって、気づくとあっという間に完食していた。普段の主食がカップ焼きそばのオレにとって、千冬の手料理はどんなものよりおいしく感じた。
    ただ、こういうのって結構金かかるんじゃねぇかな。
    余ったからとは言っているが、当然材料費はかかっている。野菜や肉もこれだけしっかり使っていれば安くはないはずだ。自炊しないオレには具体的な金額なんかは見当もつかないけれど。
    「なんかお礼しねぇとな」
    咄嗟に閃いたオレは冴えている。とは言え、何をすればいいのか……。指先をそっとこめかみにあてた。まるで自分自身のなかにある秘密の考えを読み取ろうとするように。
    毎日自炊しているなら、たまには外食とか連れて行ってやれば喜ぶかもしれない。それならいい店も知っているし、誘ってみるか。千冬は何が好きだろう……と、あれこれ巡らせているうちにふと思い当たることがあった。待てよ、もし店の客に偶然出くわしたりしたら……。
    客達は気さくなヤツらばかりで、気軽に話しかけてくるヤツも多い。オレがゲイ専門のタチをしていることがもしバレたりしたら……。
    そこまで想像すると首を横に振った。やっぱり、
    「外食はダメだな」
    唇を噛みさらに考えを巡らせてみる。そうなると選択肢は自ずと限られてくる。デリバリーだ。普段自炊ばかりしているならピザやジャンクフードを食べたくなる時もあるはず。
    ここは一つ豪華な宅配料理で千冬をもてなすのはどうだ? 幸いにも普段から頻繁に利用しているから、この辺りの飲食店はほぼ網羅している。そうだな、宅配ピザと近所で評判のレストランからテイクアウトのメニューをいくつか取り寄せて、あとは千冬の好きなビールをたくさん用意してやろう。
    「完璧か?」
    いつの間にか畳に寝転がって煙草をくゆらせていた。その割にはなかなかナイスなアイデアだ。やっぱり今日のオレは冴えてんな。
    よし、そうとなれば早速千冬の予定を確認しておきたい。手元に転がっていた携帯に手を伸ばした。
    「あっ」
    そこでやっと気がついた。そう言えばオレ、千冬の連絡先知らねぇ……。何度も直接会っているし、家が隣なのもあって電話やメールという手段を考えたことがなかった。普通は連絡先の交換とかするもんだよな。そんなことすっかり忘れていた。
    「うーん」
    今から聞きに行ってもいいが、まだ寝ているかもしれない。わざわざ起こして聞くのはさすがに気が引けた。きっと今日も冷蔵庫を使いにこの部屋に来るだろう。悩んだ末に、オレは部屋にメモを置いておくことにした。

    『飯、うまかった。ありがとう。あと連絡先教えて』

    洗った皿をいつものように台所に置いて、その横にメモを添える。これで翌日には返事が来るだろう。

    そうしてまた夜が来て、オレは仕事に向かう。
    繰り返すオレの日常。毎日毎日、家で寝て、店で寝て、また家で寝る。それだけだ。もちろん寝る、の意味は違うけれど。この躰一つで日々を回している。それでもうまい飯を食えば英気が養える。思えば千冬の飯を食べるようになってから心なしか躰が軽くなっている気もする。ジャンクフード尽くしの生活へバランスの取れた食事が加わったから、少しは健康にでもなれたのだろうか。
    そんなことを考えながら歩いて、今日も店に着いた。
    ——けれど今日は厄日だったかもしれない。

    「ケイがソファに座りっぱなしなんて珍しいじゃない」
    ブロンドの前髪の隙間から凛々しい目元を覗かせた店長がオレを見つめてそう言った。二人いた指名客が風邪と残業で突然のキャンセル。
    その上、店に初めて来る客は初心なのがいいと言って新人を指名していく。オレには一人客がついただけで、あとは事務所のソファでぼんやりしていた。
    「まぁ、最近ちょっとお客も減ってきてるのよねぇ……」
    腹の底に溜め込んでいた深い息を吐き出す店長。不服そうに口まで尖らせている。それもそのはず。オレの客だけでなく、店の売り上げ全体が落ちてきていると先日曇った表情で零していた。夜の街はどれも似たり寄ったりで同じような店が軒を連ねている。
    この界隈も然り。ライバル店なんて目と鼻の先にいくらでも存在する。競争の激しいこの世界ではどの店も人気をキープするために必死だ。他店を蹴落とす覚悟で店を経営している。少しでも売り上げを伸ばすために様々なサービスを打ち出しては、客を取らんと日々争奪戦を仕掛けてくるのだ。
    「まぁ、そういう日もありますよね」
    「そうね。ケイは特に今まで忙しかったんだし、今日くらいゆっくりして」
    ため息ばかりついていても仕方ないわよね、と言いたげに店長はオレの肩を軽く叩いた。気持ちを切り替えたのか、いつも通りの明るい笑顔だ。
    そうは言われたが、言葉通りに受け取って呑気に構えるわけにもいかない。
    オレは気になり始めていた。夜の店なんてある日突然客がつかなくなって、それを機に閉店に追い込まれていくなんて話はザラにある。ネットで悪い噂を書かれたとか、サービスがよくなかったとか、その理由は様々だ。そうなってしまえば行き着くところは決まっている。この仕事を辞めて他で生きていくしかない。
    さっきの店長よろしく、オレも深いため息を吐いた。待機中のボーイ達は気楽なもんだ。店の事情を気にすることもなく各々自由気ままに過ごしている。スマホでゲームをしたり談笑したり。仲がいいのはこの店のいいところだが。
    そう思って部屋を見回した時、ふと気づいた。
    ——そういえばオレ、この店でダチと呼べるヤツなんて一人もいねぇかも。
    こんな商売だと仕事仲間にも通常以上の連帯感ができたりする。だからここを通して友人を作るヤツは多い。裏表なく話せるからだろう。老後までずっと一緒って言えるくらい親身な付き合いになるヤツもいると聞く。でもそんな話、これほどどっぷりこの世界にいるというのに、オレには無縁という気がしてならない。
    卒業して普通に社会人になって友人を作る。それだって苦労するというのに。最近できたダチなんて、たまたまアパートにやって来た千冬だけ……
    ——ん?
    そこまで考えて首を捻った。
    「千冬はトモダチ、か……?」
     頭のなかであれだけ犯して、現実にも進むところまでは進んで。それで「友達」なんて呼べるわけがない。でも、じゃあ千冬との関係はなんだ? 決して「恋人」じゃない。だってお互いに告白はしていない。
    千冬がオレに躰を触らせてくれたのも、ホストという職業への好奇心から来ているはずだ。つまり、オレと千冬の関係はどう呼べばいいんだ? セフレ? それも違うよな、どう考えたって。最後まではヤったことはないし……。添い寝フレンズっていうのも聞いたことあるが、別に添い寝をしているわけでもない。
    ——オレ達は一体何なんだ? 
    途端に訳が分からなくなってしまった。
    行き詰まった思考に悶々とするオレの肩へ、店長の手がトンッと乗せられた。
    「ケイ」
    「えっ!?」
    「どうしたのよ、そんなに驚いた顔して」
    「……いや、なんでもないっす」
    「今日はもう客の入りも少ないし……今出勤してる子達の半分は上がってもらうことにするわ」
    店長はどこか申し訳なさそうに言った。これまで人気をキープしていたオレに多少なりとも感謝の念もあるのかもしれない。
    「いや、でもこれから入って来るかもしれませんし」
    「……新人が沢山入って来たから、今日はその子達を優先したいのよ。ごめんね」
    店長はそう言って首を傾げて微笑んだ。ニューハーフが首を傾げても可愛いわけじゃない。だが……その言葉に逆らえないことは分かっていた。
    新人教育は大事だ。どこの社会でも。
    「じゃあ……オレはこれで」
    仕方なくゆっくりと立ち上がる。幾人かのボーイ達も店長に声をかけられ、続々と帰り支度をし始めていた。店長の言う通り、今日残るのは新しく入って来たヤツとまだこれから指名の予定があるヤツだけらしい。店の隅のデスクにいる元ボーイの男を見れば、事務担当のソイツは何やら必死の形相でパソコン画面に見入っていた。
    指先が忙しなく動いているからホームページやSNSの更新をしているのだろう。店のボーイ達の出勤情報はすでにネット上で告知されている。変更があったら逐一リアルタイムで知らせなければならない。結構大変な作業だな。
    「じゃ、お疲れ様っす」
    食い入るように画面を見つめ手を動かす男を横目に、オレは店のドアを開けた。
    夏だというのに、外はやけに涼しく感じる。早めに上がれたと言っても終電はとっくに終わっている時間帯だった。人気のない街灯の寂しい夜道を歩いて帰路を辿る。
    暗い道の脇を野良猫が横切った。まだ賑やかな繁華街沿いの車道から聞こえる騒音がどこか淀んで耳に届く。
    ざっくりとした使い古しの鞄を肩からかけ、ポケットに手を入れたまま歩いていると、つい足元を見つめていた。
    ……この仕事を辞めたらオレにはどんな価値が残るんだろう。
    高校を卒業してフラフラしていたオレに声をかけてくれたのが今の店長だった。資格もない、学歴もない、社会に出たことがない。そんなオレが一人で生きていくためにはこの仕事しかないと思った。
    もともと性に対して固執するものはなかったし、いつか動物に関わる仕事がしたい、その夢を諦めていなかったオレには金を稼ぐための手っ取り早い道のように思えた。店に入ると様々な境遇でここへ辿り着いたヤツらが沢山いた。豚箱から出所したばかりのヤツ、親に殴られて育ったヤツ、学校を中退したヤツ。そんなヤツらと最初は意気投合したが、ソイツらはやがて風俗の世界から消えた。金を稼ぐために、もっと危険な場所へ首を突っ込んだのだ。
    オレが風俗止まりで、それより危険なところへ行かなかったのは頭のどこかで危険信号が出たからだ。別に霊感のある人間とかじゃない。ただ、危ない、やめろ、とそちらに進もうとする度に耳の奥で誰かの声が聞こえた。誰の声かは分からない。だけど、その声はいつもハッキリとした意思を持ってオレに語りかけた。
    ソイツからの警鐘を無視し、無理矢理そっちの世界に入ろうとすれば途端に寒気と吐き気と頭痛がオレを襲ってきて、仕方なく諦める羽目になった。いつもそうだった。

    「前世で何かあったんじゃねえの」
    と三ツ谷はよく笑って言った。
    「なんだよ、また前世かよ」
    「……知らねぇけどさ。もしかして前世、そういう危ないところで死んだ、とか」
    「ばっか言うなよ。この世界で、そんな危ないところがあってたまるか」
    オレはそう言って笑ったけど、たまに夢を見ていたのも確かだ。オレが三ツ谷やそれ以外の仲間と、危ないことをしている夢……。そのせいで三ツ谷が毎回言う「前世」と言うのを、積極的に否定する気になれないのも確かだった。

    「どーすっかな」
    煙草を吸いながらそう呟く。
    希望のない将来が、星一つ見えない真っ暗な空と重なって心の影を厚くしていく。
    「お! オマエ! もしかしてバジ!?」
    突然鼓膜に大きな声が響いて、オレは空を見上げていた首を下した。目の前に現れたのは大柄な男。派手な柄のジャージと赤い髪が目立つ、如何にもガラの悪そうなヤツだった。顔も名前もとっくに忘れたが、目の下に彫られた刺青だけは見覚えがあった。蛇にナイフが突き刺さった、気色悪いその刺青に。
    「テメー……なんでここにいやがる」
    「おいおい、バジィ。つれねぇこと言うなよ」
    妙にハイテンションで遠慮もなく近づいてくる男。オレは警戒してゆっくりと距離を取った。
    「久しぶりじゃねぇか! 探してたんだぜ、オマエのこと」
    「あ?」
    この虫唾が走る薄ら笑いを見ていると、思い出したくない記憶が蘇ってくる。オレとコイツが出会ったのも、確かこんな星一つ見えねぇ真っ暗な夜だった。高校を卒業したあと、オレが今の店に入る前のこと。オレが働きもしないでフラフラとして、人生で一番くそみたいな生活を送っていた時だ。
    「オレさぁ、今ゲイAVのスカウトやってんだよ」
    「……だからなんだよ」
    関わらないほうがいいと判断して、男に構わず踵を返して歩き出した。しかしデカい図体を揺らして当然のように後ろをついて来る。
    「オマエの噂、オレの業界まで届いてんだぜ。今は店でも人気の売れっ子ボーイ君なんだろ?」
    「……」
    オレが返事をしなくても構わずに会話を続けてくる男に、額に青筋が走る感覚がした。が、グッと堪えて無言を貫く。
    「なぁ。オマエの店、美形揃いで有名らしーじゃん」
    そこでようやくオレは振り返って男の顔を見た。コイツが次に何を言うのか、想像ができたから。害虫でも見るように目の前の男を睨みつける。
    「今さぁ、オレんとこ、受けの男優が不足してんだよ」
    ほらな、ビンゴだ。こういうチンピラみたいなガラの悪いヤローがオレに近づく時なんて、大体理由は決まっている。
    「オマエの店から可愛い子、何人か紹介してくれよ」
    「……くそが」
    「なにもオマエにネコやれとは言ってねぇだろ? 紹介してくれるだけでいい」
    「うちの店はタチ専門なんだよ、他当たれや」
    それだけ言うと、再び踵を返して暗い夜道を進む。が、男も諦め悪く粘ってくる。本当に害虫のような男だ。
    「なぁ、頼むよ。マージンの一割くらいはオマエにやるからよ」
    それからも男の口が閉じることはなかった。大通りから外れた街灯の寂しい雑居ビルが並ぶ夜道に、男の汚い声だけが響く。粘り強さだけなら大会で優勝レベルだ。マジでうざってぇ。
    歩き始めて数分が経過し、男の饒舌も同じだけ続いた。しかしようやく状況を理解したらしい。返事をしないオレにしびれを切らせたのか、急に男の態度が豹変した。
    「おい、テメーいい加減にしろよ! こっちが下でに出てりゃ、調子乗りやがって」
    「ウルセーよ、夜中だぞ。迷惑になんだろうが」
    声を荒げる男に、オレは自分でも驚くほど冷静にそう告げた。イライラしている胸の内の感情を抑えつけるように。
    男はオレが相手にしないと分かると、苛立ちを隠そうともせずに頭を掻きむしった。
    「……バジ、テメーに断る権利があると思ってんのか?」
    「あ?」
    そう言ってスマホを取り出した男は、慣れた手つきで画面をタップし何かを表示させる。向けられた画面に映っていたのは、オレの部屋から出てくる千冬の盗撮写真だった。
    人は本当に驚くと声が出なくなるらしい。それはオレも例外ではなく、ただ目を見開いて唖然と顔を強張らせることしかできなかった。
    「随分と可愛い子犬を飼ってんだなぁ、おい」
    「テメー、どういうつもりだ……」
    「オマエのファンだっつーストーカーを知ってんだよ。ソイツが、オマエの住所を特定したって言うから行ってみたわけ」
    男の声に、沸々と抑え込んでいた怒りが湧き上がってくる。——ダメだ。もう喧嘩はしねぇと誓ったんだ。
    「ボロい幽霊屋敷に住んでるのかって思ってオマエの部屋見てたらさ、たまたま出て来たんだよ。エコバックなんか持っちゃってさぁ」
    「……せーよ……」
    「結構かわいー顔してんじゃねぇか。素人ノンケものはゲイビでも人気が高いからな。オマエが断るなら、コイツを拉致って無理矢理……」
    「ウルセーッつってんだろ!!」
    男の言葉に被せるように声を張り上げた。抑えていたものが一気に破裂するように、内臓の壁が慄えるような烈しい怒りに駆られる。神経が張り裂けそうで、殺意が芽生えた。
    そして次の瞬間にはオレは腰を回転させていた。右手の拳を男の顎めがけて振り抜くと、ガンッ! と鈍い音が夜道に響く。
    男は顔面を思い切り殴られて、痙攣でも起こしたようにグッとのけ反った。
    「ぐぅ……!」
    ——あーあ、やっちまった。
    店長に声をかけられてあの店に入ると決めた時に、オレは族からも喧嘩からも足を洗った。だからもうこの拳で人を殴ることはないだろうと思って生きてきたのに。 
    今、このくそみたいな男に再会するまでは。
    「やりやがったな……!」
    体勢を立て直した男は目尻を険しく吊り上げてそう叫ぶ。そして後ろ脚を軸にして体重をかけ、思い切り左腕を振った。風を切る音がして、男の拳が間一髪で避けたオレの頬を掠める。チリッとした痛みが頬に走り、拭った手に赤い糸のような細い血の筋がついた。それに構わずもう一発顔をめがけて右手を振り上げる。
    殴った拳が痺れるように痛み、腹の奥から懐かしさが込み上げてくる。この痛み、スリル、緊張感。喧嘩でしか味わえない高揚感にも似た感情。││気づけばオレは口の端を上げて、目の前の男と拳を混じり合わせていた。
    「はぁっ、はぁっ……」
    殴り合いを続けていると、男の口からは激しく空気を吸う音が聞こえ、大きく肩を揺らしている。犬が舌を出して喘ぐような荒い息遣いに虫唾が走った。
    いつの間にか暗い空からは大粒の雨が落ちてきて、道にできた水溜まりは波紋を作りながら次々と広がっていく。濡れる睫毛に視界が霞んだ。頬に伝う冷たい水は、涙のように儚く落ちて地面に消える。
    「ンだよ。オレを煽っといて、そんなもんか?」
    「くそっ……! ウルセーッ!」
    切れた口端を指で雑に拭い、目の前の屈んで小さくなった男を見下ろした。
    男がデカい図体を揺らし、傷を負った猪のように捨て身で突き進んでくる。オレは躰の軸をぶらさないように男の躰を避け、すぐに後ろに回り込んだ。喧嘩で一番重要なのは瞬発力だ。一瞬でも迷えば相手に付け入る隙を与えてしまう。
    空ぶって振り返った男に、右の拳を下から抉ってみぞおちに強く入れた。支えをなくした男は大きく揺れ、前のめりになってその場にゆっくりと崩れ落ちる。
    「ぐっ……」
    道端に転がった男の躰は雨に濡れてコンクリートと同化していた。もう立ち上がることができないのか、悔しそうに睨みつける顔だけがこちらを向いている。
    オレは贅肉のついたその躰に、グッと体重をかけて足を乗せた。雨が髪に滴り落ちる。頬についた男の血を流し、口のなかに血の味が広がっていく。その匂いに頭がクラクラとした。どこか懐かしい場所に戻ってきた気さえしてしまう。
    「二度と千冬に手ぇ出そうなんて馬鹿なこと思うんじゃねぇぞ」
    「くそっ!」
    「……その汚ぇ手で千冬に触れてみろ」
    「ぐぁ!」
    つま先の先端を肋骨の間へ喰い込ませると、そのまま力を加えていく。数センチのめり込む。筋肉がショックで縮むが、強引に突き続ける。ねじり込むように体重をかけてゆっくりと骨を軋ませるようにめり込ませた。
    「……次は殺すぞ」
    男の耳元に顔を近づけてそう囁く。男は取り返しのつかない絶望に陥ったような蒼ざめた顔をすると、無言で縦に首を振り続けた。
    オレはそれを見届けると、ゆっくりと足を下ろした。男は濡れたコンクリートから這うように躰を起こし、何も言わず俯き気味に立ち上がる。片側の壁に片手をつきながら、危うい足取りで夜の闇のなかに消えていった。
    「ふー……」
    肺に溜まった息を吐き出して、新しい煙草に火を灯す。けれど雨で濡れた葉っぱは湿気てもう煙が出ることはなかった。小さく舌打ちをして、煙草を咥えたまま歩き出した。久しぶりに思い出した凶暴な感情。ダメだと思うほどに興奮する。ああ、懐かしいな——。

    家に帰ったのは、午前四時を過ぎる頃だった。
    雨に濡れたまま、新宿から歩いて帰って来たのだ。雨が躰についた返り血を洗い流してくれたのはよかった。だけど、頭を冷やそうと思ったのにオレの感情の昂りは全く収まる気配がない。
    部屋のドアを開けると少し千冬の匂いがして、心臓がまた波打った。一直線に風呂場に向かいシャワーをひねる。思ったより目に見えない傷ができていたのが、肌に水が滲みた。汗と汚れを洗い流し、昂ったこの気持ちを収めようと、右手を自分のモノに伸ばす。
    「……くっ」
    指を輪っかにして竿を握りながら、親指の腹で先端を撫でる。喧嘩の興奮で疼いたのか、すでに濡れそぼっていた。
    ——ヤベェ、気持ちいい。
    頭のなかがおかしくなりそうだった。昔からそうだ。喧嘩をしたあとは、昂ぶりが止められない。まるでオレじゃない誰かに躰を支配されたような気分だ。
    裏筋を引っ搔くように擦ると快感で背筋が震えた。腕には鳥肌が立ち、オレの躰が快感に悶えていることを伝えてくる。それに、今のオレの興奮要素は喧嘩だけじゃない。
    「ち、ふゆ……」
     そう呟いて手の動きを速めた。千冬の笑顔、拗ねたような顔、そして、オレの前で蕩け切ったあの顔。舌を出してキスをねだるような顔。オレのソレを咥えようと開いた赤々とした口内……。
    無意識のうちに腰が揺いでいた。
    「はぁ……ッ」
     出しっぱなしのシャワーが躰に当たり、その刺激が加わって赤く膨らみをもったモノは火傷しそうなほど熱く昂っていく。
    ジリジリとくすぶる熱に蒸し焼きにされているようだった。神経の一本一本までが過敏になり、腹のなかに埋め込まれた塊が脈打つ様子さえハッキリと感じられる気がした。追い立てるような熱情から逃れようと背を反らすのだが、その動きにさえ快感を煽られて、また上下に指で擦り上げる。
    「千冬っ、ちふゆ、ち、ふゆ……!」
    一層手のスピードを速めれば、灼熱のように熱い肉がそそり勃って苦しいほどの快感が腹の奥からこみ上げてくる。千冬の笑顔が脳裏に浮かんだ。裏表なんかまるでないような、人懐っこい笑顔……。
    「……ッ!」
    その瞬間、意識が宙に放り出された。一瞬を駆け抜けて呼吸さえ忘れる。気づくとオレは荒い息を吐き出していた。浴室の壁に白濁液が伝って落ちていく。足元にもシャワーで流されたソレがたゆたっていた。
    目を開けているのか、閉じているのかも分からない。ただ白い世界に溶け出したオレは、もう一度、脳裏に焼き付けた千冬の笑顔を思い出した。

    **

    昂った熱を吐き出すと同時に、冷静さが舞い戻ってきた。もう一度シャワーを浴びて下着だけ履くと、早々に洗面所をあとにして台所へ向かう。
    冷蔵庫をチェックしようと扉を開ける頃には、完全にいつものオレに戻っていた。

    『お疲れ様です。今日は冷やし中華です! 電話番号、書いておきますね。多分徹夜しているので、よかったら連絡ください!』

    ラップをかけられた見慣れない皿。その上に小さな付箋がちょこんと添えられている。隅におどけた犬の絵が入った付箋だ。手に取って眺めると、荒んでいた気持ちにじわりと温もりが広がり、オレの頬はふやけたように緩む。
    意外と綺麗な千冬の文字。今日もここへアイツが来てこれを入れた。そう思うだけでなんだか今日の出来事が嘘みたいに、オレの心に優しい体温が戻ってきた。丸い目の犬がじっとオレを見ている。なんか、千冬みたいな犬が。
    徹夜ってことは今も起きているってことだよな。メモに書かれていた電話番号を登録したけど、かけるかどうかは迷った。
    オレのせいで、千冬が狙われるところだった。
    ——オレが関わることでまた千冬の身に危険が及ぶような羽目になったら?
    それだけは避けたい。何が何でも。
    発信ボタンを押す手に躊躇いがある。ひとまず椅子に腰かけ、顔の前で両手の指を組んで考え込む。「どうする?」内なる声に耳を傾けるが、最高速度で頭を回転させても出てくる答えはたった一つだった。
    ——千冬の声が聞きてぇな。
    プルルルル、プルルルル。数回のコールのあと、声が聞こえる。
    『もしもし!』
    「……千冬か?」
    『場地さん? お疲れ様です!』
    元気な千冬の声が鼓膜に流れ込んできた。
    「徹夜したのか?」
    『はい。課題が全然終わらなくて。でも今ちょうど終わったんで、テンション上がってます』
    なるほど。やけに元気なのはアドレナリンが出ているからか。多分、もう数時間もすれば充電が切れたようにふにゃふにゃと萎れて眠り込むんだろう。頭のなかで容易に想像できるその光景に、思わず笑ってしまった。
    ——ああ、こんな時でも、オレは千冬の声があるだけで笑えるんだな。
    躰と心の緊張感がゆっくりほどけていく。この声が好きだな。壁に背を預けて、千冬の声色を存分に味わう。
    「いつも、飯ありがとな」
    『いえ、大したもんじゃないですから。てか、元気ないですか?』
    「んなことねえよ」
    『シャワーめっちゃ浴びてたじゃないっスか。なんかあったなら聞きますよ?』
    そうか。隣の部屋だから、全部聞こえているんだ。喧嘩したら久しぶりに気持ちが昂って興奮してオナニーしていました、なんて言えるわけがない。気まずくなり、とっさに話題を変える。
    「……千冬の飯、めっちゃ助かってるよ。つーか、最近外食、食いたいと思わなくなった」
    『マジすか!』
    「……ああ、オマエの料理がうま過ぎるんだよ。どう責任取ってくれんだ?」
    冗談めかして言ってみる。笑う、という動作は心を救うのだと、この時知った。千冬と話していると、荒れた大地に水が染み込んでくるような感覚になる。ずっとこの声に耳を傾けていたい。
    千冬は少し黙ってから、
    『じゃ、生涯契約で責任取りますんで』
    とクスクス笑った。全く、冗談でもそういうことは言うなよ。本気にしちまうじゃねぇか。そんな事を考えながらも本題を切り出す。
    「あー……。それでさ、飯の礼がしたいと思って」
    『え、いいですよ! オレのほうがお世話になってるので』
    即座に遠慮してくるが、オレは食い下がる。
    「オレの気が済まねぇんだよ」
    『そうなんスか』
    すまなそうに答えるけど、ここは何が何でも礼を受け取って欲しい。考えるような数秒の間のあと、ようやく「じゃあ、お言葉に甘えます」と小さく零した。声には屈託のない微笑みが混じっていた。よっしゃ! オレは心のなかでガッツポーズをする。
    「オレと千冬の休みが合った日にさ、宅配取るから一緒に食べようぜ」
    『えっ、ピザとかっスか!』
    「そう。他に食いたいモンあるか?」
    『いえ! 宅配料理とか滅多に食えねーんで、嬉しいっス』
    千冬は電話越しでも分かるくらい息を弾ませて喜んだ。
    「オマエ、明日か明後日の夜空いてる?」
    『明日は実習で遅くなるんですけど、明後日なら』
    「じゃあ、明後日の夜うち来いよ」
    『ウス……あ、もしよかったらオレんち来ませんか?』
    いきなりの言葉に一瞬思考が停止した。頭のなかで言われた言葉をゆっくりと反芻してみる。「オレんち来ませんか」って言ったよな、今。
    「——え?」
    『あ、いや。いつも場地さんちにお邪魔してるの申し訳ないなって』
    千冬は深い意味はないことを必死にアピールするように早口で言う。
    「あ、あぁ。そっか」
    一瞬誘われているのかと期待している自分がいた。さっきまで、オレのせいで千冬に火の粉が降りかかったらと心配してたはずなのに。想像以上にオレの脳みそは単純らしい。
    どういう意味? なんて聞かなくて、マジでよかった。それ以上の意味なんてねぇよ。ボロアパートに住んでいる人間が二人ともゲイなんてこと、あり得るはずがない。冷静になれよ、オレ。
    「分かった。じゃあ、明後日は千冬んちな」
    「はい!」
    終始楽しそうに話す千冬に名残惜しさを感じながらも「じゃあ」と言って電話を切る。
    予定も決まったし、とりあえず準備しとかねぇとな。いざピザを注文しようとして再び携帯を持ち上げたが、そこで手が止まった。
    「あ、なんのピザがいいか聞くの忘れた……」

    **

    ——約束より十分ほど早い時間。オレは二〇一号室のドアの前に立った。
    待ち合わせ場所へ予定より前に来ることなんてほとんどないオレ。だけど今日は別だ。初めて見る千冬の暮らす空間。どんな部屋に住んでいるのか……。いや、同じアパートだし部屋の作りは当然同じなことくらい分かっているが。それでも、オレはまたとない新鮮な気持ちになっている。部屋には住んでいる人間の性格が出るのだと三ツ谷が前に言っていた。今日また一つ千冬のことが分かるかもしれない。そう思うと自然と笑みが零れてしまう。
    コホン、と一つ咳をしてから、ようやくチャイムに指を置いた。
    ——ピンポーン、と軽い音が鳴る。一枚の薄い板を挟んでバタバタと慌ただしい音が聞こえたあと、勢いよくドアが開いた。
    「場地さん! いらっしゃいっス」
     息を切らせた千冬の額には、ほんのりと汗が滲んでいる。
    「よぉ。もしかして早過ぎたか?」
    「いえ、ちょっと部屋を片付けてて……」
     ああ、なんだ——。コイツも同じなのか。そう気づくと安心するような気持がこみ上げてくる。オレが来る前に部屋を片付けていた、たったそれだけの事なのに、なんでこんなに嬉しいと思うんだろうな。
    「どうぞ」
     千冬の声を聞いて、胸の高鳴りを抑えながらゆっくりと玄関へ足を踏み入れた。同じ間取り、見慣れた畳のワンルーム。なのに、跳ねまくる心臓が肋骨を刺激する。
    部屋は想像よりも綺麗に整頓されていた。畳の上には背の低い机が一つと、敷きっぱなしの布団。家具はあちこちからかき集めてきたものらしく、統一された趣味や個性といったものはなかった。
    「キレーにしてんじゃん」
     偉いな、とガシガシ頭を撫でてやると千冬は耳を赤らめて俯いた。コイツがこういう反応することを分かっていてやっているオレは、つい優越感に浸ってしまう。犬を飼ったばかりの飼い主も、きっとこんな気分なんだろう。
    「今日、宅配取ってくれるって言ってたじゃないスか」
    「おー、ピザと、この近くのうまいレストランからツマミになりそうなもの頼んどいた」
    「マジっスか!」
    「あと、これな」
     袋に詰め込んだビールを見せると「やった!」と言って、千冬は嬉しそうに笑った。
    「他に食いたいものあるか?」
    「いえ、でも足りないかなと思って」
     足早に台所へと向かい何かを持ってくる。「これ」と言って差し出された千冬の手には可愛らしいミトンがつけられ、デカい土鍋を掴んでいた。それを机の上に置かれた鍋敷きの上に豪快にドン! と乗せる。
    「何か作ったのか?」
    「はい、よければ」
     そう言って千冬は土鍋の蓋を取った。白い湯気が渦を巻いて立ち昇っていき、部屋の温度を上昇させる。水蒸気に顔を湿らせながらなかを覗き込んだオレは、驚いて思わず目を見開いた。
    「え、鍋?!」
    「ウス。鶏肉の水炊き鍋です」
     千冬の言葉に、思わず部屋にかけられていたカレンダーを確認する。今は七月で間違いない。まだ初夏の気温とは言え、空気が肌に纏わりつくような蒸し暑さだ。どちらかというと鍋より断然、そうめんが食べたい。オレが眉をひそめたのを見て、千冬は頬を膨らませて詰め寄ってくる。
    「あっ、なんて顔するんスか! 夏の鍋、うまいんですよ」
    「うーーーん」
    鍋はもちろん好きだがその意見に納得できず、首を捻った。
    「でもなー。暑いだろ、普通に」
     グツグツと音を立てて、鍋のなかで揺れる具材。鍋の湯が立ち騒ぐ空気。冬なら最高だが、今想像しても躰がゆだるだけだ。
    「分かってませんね、場地さん」
    「アン?」
     千冬は「チッチッチ」と言いながら指を横に振った。その顔には自信と確信が浮かび上がる。
    「夏の鍋は、キンキンに冷えたビールとめちゃくちゃ合う!」
     誇らしげにニンマリと笑った千冬の顔。
    「なっ……!」
     全身を稲妻が駆け巡った。鍋にビール、それは最高にして最強の組み合わせ。もはや無敵と言っても過言ではない。黄金に輝く液体と程よく乗った雲のような泡。汗をかくグラス。湯気が立つよく煮えた葉野菜を口に入れ、冷えたビールで喉に流し込む。想像するだけで腹の音が鳴りそうだ。
    「……うまそうだな」
    「ウス! オレが場地さんに教えてあげますよ! 夏鍋のお初は奪ってやりますから」
     千冬はそう言ってドヤ顔をしたが、言っている意味、分かっているんだろうか。オレのそんな思考なんて気にせず、千冬はいそいそと取り皿にお玉、箸を取りに行く。それを机に並べれば完璧な食卓の完成だ。
    「さ、食べましょ!」
     千冬によそってもらった鍋の具材が乗った皿を手渡される。彩り鮮やかな人参に春菊、椎茸に今にも蕩けそうな四角い豆腐。鶏肉から出た黄色い水玉の脂がキラキラと光って食欲をそそる。
    湯気からはすでに冬の匂いが立ちのぼっていた。具材を食べてからスープを一口飲むと、あっさりしているけど上品な味付けでうまい。全身が湯気に包まれたような暑さに汗が滴り落ちてきたが、構わずよく冷えた缶ビールを手に持ってゴクゴクと飲み干した。
    「うっま!」
    「へへ。でしょ? 場地さんなら絶対気に入ってくれると思ってました」 
    冷たさが喉を染み通っていくこの爽快感は、確かに夏の鍋でしか味わえないかもしれない。この暑さが逆にスパイスになってうまさを倍増させている。
    「なんかもう、これで十分だな」
    「そんなことないスよ!」
     さほど広くもなく机の上を埋める缶ビールと鍋を横目に苦笑すると、千冬は身を乗り出した。
    「デリバリーとか高過ぎて普段絶ッ対ェ食えないんで、マジで嬉しいです」
    「そっか」

    ——飲み始めて数時間。
    無事に届いた宅配の飯も手伝って胃袋はますます元気になり、机の上に出されていた缶ビールはほとんど空になった。千冬は何本空けてもケロリとした顔でビールを流し込んでいく。
    「オマエ、酒強ぇんだな」
    「顔に出ないだけですよ。躰はふわふわしてるんで、多分、酔ってます」
    「ふーん」
     言われてみると、確かに顔は少し赤くなっている。ほんのり酔っているのだと思ったら、この間の羞恥に赤らんだ顔が思い出されて頭を振った。ダメだ、忘れろ。千冬にとってオレはただの隣人なんだから。
    「場地さんこそ、酒強いですよね」
    「まぁ。仕事でも飲むから、多少は」
     だが、オレも酒が強いわけじゃない。仕事の時は酔い潰れないよう程々にしか飲まないから、自分のキャパを越えて飲むことは絶対にないけれど。
    「あ、そっか。ホスト」
     ぽつりと千冬が呟いた。どこか寂しげな声で。
    「あー……まぁ……」
    話が上手く流れてくれればいいと期待して適当な相槌を打つ。けれど千冬は一瞬箸を止めてふっと小さな息を吐いた。
    「ホストって、やっぱすごいですね。この間のも……」
    「この間のって?」
     口が勝手に動いた。まだ自分がホストと見られていることに慣れない。千冬はわずかに目線を落として「いや、だから……」と言葉を濁す。
    「オレが冷蔵庫借りに行って、そのあと……寝ちゃった時の」
    「ああ!」
     初めて千冬を愛撫したあの夜のことが蘇り、ドキリとした。
    「えっ、忘れてたんスか。まさか場地さん、他にも色んな人を部屋に連れ込んでたりしないですよね……」
    「んなわけねーだろ! オレをなんだと思ってんだよ」
    「よかったぁ」
     すげー言い草だなと思いつつ、ほっとしたように微笑む千冬にオレも和む。
    他にもなんて、あるわけねーだろ。オレだってあの日の事を忘れられるはずがない。いや、むしろ繰り返し夢に見ているほどだ。でもこうして千冬から切り出されるなんて思いもしなかった。ずっと独りよがりな気持ちだと考えていたのに。
    けど、もしかして千冬も……?
    「……気持ちよかったか?」
    「それは、もう……。天国ってこういうところだなって」
    「言い過ぎだろ」
     そう笑うと、千冬は真剣にオレの顔を見た。
    「ほんとです。オレ、童貞だけど。世の中の人はこんなすごい思いをしてるのかなって。いや、そんなわけない、きっと場地さんだからだろうなって……」
    「なに、オレってそんなにテクニックありそう?」
    「いや、そうじゃなくて……」
     千冬が言い淀む。少しの間、沈黙が流れた。
     なぜか勝手に速まった鼓動の音に気を取られながら考えてみる。
    今、千冬は確かに言った。「場地さんだから気持ちいい」って。
    それって都合よく解釈すると……いやいやいや、そんなわけがない。夜の世界も長いオレだ。言葉が嘘をつくことくらい知っている。じゃあ、なんだ? なんで千冬はこんなに顔を赤らめているんだ?
     俯き黙り込んでいた千冬が、手に持っていた缶ビールを机にコトンと置いた。
    のそりのそりと畳を四つん這いで近づいてくる。大きな猫のように。一瞬オレは夢を見ているんだろうか? とマジで考えてしまった。でも現実に違いない。千冬の目はまっすぐオレを見ている。もしも胸の大きな女なら、その谷間がしっかり見えたことだろう。今オレの目に入るのは、千冬のTシャツのなかから覗く赤く腫れ上がったような乳首……。
     触れるほど近づいた千冬の瞳にオレの姿が映っている。顔が熱くなり、速まっていた鼓動はさらに速度を増していく。息がかかりそうな距離で見た千冬は思った以上に赤くて……。
    「だめ、ですか?」
     唇が触れそうなほど顔を寄せられて、そう問われた。目の前にはほんのりとアルコールに浸っている千冬。
    「……オマエ、またその台詞……」
     前にもアレになだれこんだのは、千冬のこの台詞がきっかけだった。前のように怯えてはいない。むしろ期待して、誘っているようなとろりとした顔。
    「場地……さん?」
    待て。ずりぃよ、千冬。そんな表情をして。
    オレのなかで辛うじて理性を保たせる一本の細い糸。それが切れたら、自分でも抑えられない衝動に駆られてしまう。千冬を無理矢理にでも犯したいという、飢えた狼のようなこの衝動に。それを必死で抑えているっていうのに。
    「場地さん、いや、ですか……?」
    熱に浮かされた眼差しでそう問われた瞬間、ぷつんと糸が切れる音がした。躰の奥底に押さえ込まれていた本性が、むくりと頭をもたげる。好きな相手にこんな風に誘われて、拒否なんてできるわけがない。そんなのてんでオレらしくない。この状況、男なら据え膳食わぬはってやつだろ。
    「……どうなっても、知らねえぞ」
    「……はい」
    千冬は頷くが、オレの目を見据え続ける。
     バラバラと自我が崩れていく音がした。次の瞬間には互いに糸で引き合うように近づいて唇を合わせていた。千冬の舌が柔らかく絡みついてきて、それにオレが吸いつく。なぶるように舌を舐め続けると、千冬はその度に腰を跳ねさせた。舌はソレと同じくらい敏感だ。こうやって吸い込めば、快感の虜になる。
    「……ん……ふぅ」
    唇から唾液が伝い流れ落ちる。部屋の暑さと脳に浸透したアルコールが思考を奪っていくのを感じた。欲望が全身を覆い、ただ啄むように触れる口づけに没頭する。
    「ッふ、ううン……」
    ぴちゃぴちゃと耳奥に響く音がいやらしい。いつまでもそうしていたかった。愛なのか、独占欲なのか。千冬に求められるほどに熱くなったし、拒まれればなお一層激しく求めてしまう。
    「はぁっ……」
    唇を離すと、とろんとした顔の千冬がだらしなく口を開けてこちらを見ている。口を閉めるほどの余力もないように見えた。肩で息をして、激しく空気を吸う音が聞こえてきそうだ。可愛い。素直にそう思った。誰よりも可愛い。世界一可愛い。
     オレは視界の端に布団の白い影を捉えて、その方向へ千冬を押し倒した。千冬の頭がシーツに押しつけられて躰は畳に寝そべるように張りつく。
     お互いの目にお互いを映して、何も言わずに見つめ合った。部屋にはオレと千冬の息遣いだけが響いている。千冬の肌に触れたくて、Tシャツの端から手を忍ばせる。
     だけど、これでいいのだろうか。千冬はゲイじゃないはずだ。だとしたらオレのせいでこっちの道に引きずり込んでしまうことになる。本当にいいのか……。オレ自身、これで納得できんのか。
     そう悩んでいた時、手に別の感触が触れた。——布団と畳の間に、何かある。
    「……ん?」
    「あっ、それは!」
     不思議に思ってソレを引っ張り出した。
     見覚えのある形。真っ黒で、刺激を加えるための突起が複数ついている。
    「……ディルド?」
     それは男の形を模した玩具だった。夜の店で働いているオレにとってはよく見かけるものだ。
    「あっ……」
     これまで見たことのない張りつめた表情を浮かべて、千冬は動きを止めた。狩りをする動物のように締まった口元。瞳は深く、躊躇いの色が揺らめく。
    「それは……」
    「千冬?」
     金魚みたいに口をぱくぱくとするが、一向に声は出てこない。——千冬がディルドを持っているってことは……そういうことだよな? 
    背中を走る神経の束を撫でられたように、興奮が次第に高まってオレの全身を覆う。
    「好きなんだな、尻の穴」
    「……ッ!」
     右に左にとせわしなく目を動かす。肯定はしないが、否定もしない。
     無言は同意だ。これほどあからさまな状況で、この玩具が千冬のものじゃないなんてことはないだろう。つまり、やっぱりそういうことだ。心臓が高鳴る。心が波打つように騒ぎ立ち、焦燥にも似た熱が全身を駆け巡る。奪いたいというまっすぐな欲望が今にもオレを飲み込みそうになる。
    千冬は尻で気持ちよくなれる……それって……。
    「オマエ、男が好きなのか?」
     期待してしまった。もしかして、千冬もオレと同じ気持ちなのかもしれない——。そんな淡い期待。
    「そ、れは……」
     千冬は俯く。そして、その顔が泣きそうにゆがむ。いつものように快感にゆがんでいるのではない。過去を思い出し、過去を悔い、過去を憎んでいるような、そんな顔だった。

    **


    「……場地さん、それは」
     千冬は言葉がなかなか出てこなかった。固い木片が咽喉につっかかっているようにたどたどしい。口をパクパクと動かすが、続く言葉が見つからない様子だ。
    「それは、その」
    「千冬。大丈夫だ、落ち着け」
    「き、嫌わないでください。オレ、場地さんに嫌われたら」
    「ンなこと一言も言ってねえだろ」
    「気持ち悪いとか、ゲイとかありえないとか、言わないでください。あ、思うのは自由ですよ。でも今は言わないでください。言われたら、オレ……」
     捲し立てるように言う千冬。——過去にそう言われたことがあったんだな。ゆっくりと千冬の手を取れば、指先がびくりと震えた。
    「すみません……」
     まだトラウマの世界にいるらしい。どうにかして落ち着けねぇと。睫毛を震わせて耐える千冬の表情を見るのは好きだ。でもそれは行為中の話だけ。千冬には、ただ幸せな世界で無邪気に笑っていてほしい。
    オレは千冬に近づき、その唇にゆっくりと口唇を寄せた。
    情欲に任せたものじゃない、何かを約束するためでもない、互いの存在を確かめ、今ともにあることを純粋に共有する、そんな口づけだった。
    「……ばじ、さん……?」
     千冬が驚きながらオレを見つめる。唇が合わさっているからか呂律が回っていない。千冬の頭を撫で、躰をオレに預けさせるようにグッと引き寄せた。子猫をあやすように、何度も、何度も口づけをする。
     千冬は最初、躰が硬かったが、だんだんとオレに体重を乗せて来た。もう大丈夫だ、と安心してくれたのだろうか。
     それでもオレは千冬への口づけをやめなかった。
    ——男同士なんて気持ち悪い。
     容赦なく放たれるそんな言葉へのトラウマが簡単に癒されるはずがない。無邪気な響きを持ったその拒否は、オレ達の心をいとも簡単に破壊してしまう。二度と回復できないほど、金づちで壊して粉々にする。それが再び蘇ることはない。
     修復して立ち直るには、壊れたものが直るのでなく、新しく作られるしかないんだ。
     舌先で千冬の唇を舐め、頬を舐め、額を舐め、顎下を舐め、その輪郭を辿っていく。千冬をもう一度この世界に生み出すように。
    「……落ち着いたか?」
    「……はい」
     千冬はぼんやりとした目でオレを見た。堪え切れずに溢れた涙が頬へと伝う。
    「大丈夫だ。気持ち悪いとか、そんなこと絶ッ対ェ思わねぇよ」
    「でも……」
    「オレもそうだから」
    「え?」
    「オレも男が好きだ」
     千冬への好きは、紛れもない本当の恋だと気づいてしまったから。だからオレも男が好き。オマエと一緒だ。……だけど声に出してから、しくじったと感じた。
    もし千冬の気持ちがオレとまったく同じではなかったら。これまでのことは全部オレの妄想の産物、あるいはそうあってほしいという願いからきた勘違いだったら。そこまで想像すると急に後悔が襲ってきた。
     なのに、千冬は目の縁を紅く染めて瞳を潤ませている。ふにゃりと泣くように頬は緩み、細い手をオレに回し抱きついてきた。
    「場地さぁん……」
    「おい。どうした」
    「嘘じゃないスよね? 信じていいんですよね……」
     そう言ってぎゅっと回した手に力がこもる。千冬から抱きしめられるなんて絶対にないと思っていた。またとない嬉しい場面なはずなのに、胸に顔を埋め泣いている千冬に、オレはなす術もなく手を宙に浮かせた。
    ゆっくりと千冬の腰に触れて、その身を抱え込むように引き寄せる。
    「場地さん、オレずっと夢に見ていたんです」
    「夢?」
    「はい。オレのことを好きだと言ってくれる人が隣で笑っているんです。……オレ、夢に出てきた人を探しに旅に出ようと思ってたんスよ」
     驚いて思わず目を見開いた。旅をしたいと千冬が言っていたのは、愛し合える相手を探していたからなのか。
    「でも、……いいんですか?」
     千冬が抱き着いた姿勢から、オレと目が合うくらいまで下がってくる。
    「ゲイなのにホストって。珍しいっていうか」
    「あー……」
     まだ嘘を言ったままだった。やり場のない視線を定める場所がなくて目は宙をさまよう。千冬を襲うと言った男のこともあり息が詰まりそうになった。でも今は、やっと千冬を落ち着かせたというのに取り乱すわけにもいかない。
    「……実は、ホストもゲイが多いらしくて」
    「そうなんスか!」
     咄嗟に口を突いて出たそれは、しかし本当のことだった。知り合いのホスト達に聞いた知る人ぞ知る真実だ。ホストクラブの半分はゲイかバイだと思ったほうがいい。だからこそイロコイ営業だのができるのだ。もし枕営業を絶対しないホストがいたら、ソイツはゲイだと思って間違いない。オレに話してくれたヤツはそう言っていた。
    躰を売らないことで価値を上げるなんてホストの世界では限界がある。だからホスト同士、誰がゲイで誰がストレートなのかは分かるのだと。それでも客には言わないという不文律があるようだ。ちょうどいい言い訳を思いついたオレ。自分を褒めてやりたい。
    「知らなかったっス」
    「まあ、知らなくてもいい知識だからな」
    「じゃあ、その、場地さんは男しか抱けないってことで、いいんスか……?」
    「それは……」
     今告白した「男が好き」ってのは、とにかく千冬を安心させるために出た言葉だ。だから事実には違いないけど、充分な答えじゃない。オレは千冬に出会う前まで、正直、性別なんてどっちでもよかった。
    挿れて出せば一緒、そういう最低な男だった。そんな下半身がだらしない人間だと千冬に思われるのは嫌だったが、これ以上嘘もつきたくない。
    「……オレは、どっちも抱ける」
    「え」
    「男も女もイケるっつーか……」
    「じゃあ、女としたことも?」
    「……まあ」
    「そうなんスね……」
    みるみる声のトーンは下がり千冬は俯いた。やっぱり嬉しくないよな。女も抱ける男なんて。この世界ではよくある葛藤の一つだ。
     本当のことを告げたとは言え、妙にいたたまれない気持ちに苛まれる。気まずくて自分の頬を摩る。けれど千冬はにわかに顔を上げて明るい笑顔を見せた。気持ちを切り替えた、そんな顔だ。
    「でも仕方ないっスよね。場地さんならモテそうだし! 恋人もいたんスよね?」
     その言葉に、オレはまた返事を躊躇った。
    「場地さん?」
    難しい問いだ。
    「……いたこともあった。でも、長く続いたことはねぇな」
    苦々しくそう答える。千冬にはあまり過去のことを話したくない。オレは本当に最低な人間だったんだ。男も女も性別なんて区別せず、来るもの拒まず、去る者追わず。言い寄られれば誰でも関係なく付き合った。そうして付き合ったヤツは大抵しばらくすると、オレのもとを去った。「本当は好きじゃないんでしょ」、そんな捨て台詞を何度聞いたか。一緒にいると伝わるものなんだな、といつも思った。本当は誰のことも好きだと思ったことはない。——オレは、恋ができない人間だった。
    「なんでですか?」
    「……なんでだろうな」
    「こんなカッコいいのに」
    「社交辞令でも嬉しいよ」
     オレはそう言って、千冬の頭をもう一度撫でる。千冬は「本気っス!」と言ってくれたが、真に受けないほうがいい。気持ちを知れただけで嬉しかった。この上さらにカッコイイだなんて言われたら、オレはますます千冬にのめり込んでしまいそうだ。そのあとは……泥沼だ。千冬から抜け出せないまま、嘘をつき続けなきゃいけない。
     千冬はむぅっという顔をしてオレを見ていた。つくづく思うけど、コイツは本当に犬に似ている。これも散歩から帰宅するのを拒否するような顔だ。
     そのままオレの唇に軽くキスをする。啄むような、軽いキス。
    「千冬?」
    「ほんとに、場地さんはカッコいいんスよ!」
    「ばかだな、オマエ」
    「だって、本当なんですから!」
     そう言うと、勇気を出すようにもう一度キスしてくる。
     オレはそれに答えてキスをし返す。
    「ん……」
    「大丈夫か?」
    「んっ、は、い」
     覗き込んだ目の色が濡れているのに気づいて、また唇を塞ぐ。今度は口蓋をなぞるように舌を這わせた。ねっとりとしたキスをすると千冬の躰がビクンと跳ねた。気持ちいいのか、舌を絡める度にビクビクと躰を震わせる。

     唇が離れた千冬の下半身がモゾモゾと動いた。太ももを擦り合わせ、何かを訴えるように見つめる瞳。
     気がつけば、オレはまた千冬の服のなかへ手を忍ばせようと伸ばしていた。下着のなかへ潜り、ヒクヒクと収縮を繰り返す小さな窄まりを撫でた。千冬は刺激に躰がビクンと跳ね、震える。すでに先走り汁が溢れて後ろまで濡れていた。ソレを指で掬い取って湿らせる。千冬を怖がらせないように、愛液をたっぷりとつけてやる。ひとかけらも痛くないように。すぐに快楽を感じられるように。ゆっくりと指を差し込む。
    「あぁ……」
     脱力したような緩やかな吐息が漏れた。
     反応を見ながら、そのまま指で円を描くように襞の周りを少しずつ撫でる。力が入り過ぎないように気をつけながら優しく撫でてやると、千冬の口から甘い声が溢れた。
    「ん、んあッ……」
    「……気持ちーか?」
     オレの問いに答えるように、夢うつつの顔で千冬が頷く。何度も、何度も。
    「千冬、腰動いてる」
    「うごい、てませ、ん……ッ」
     顔を赤くして抵抗する。でも実際には、貪ってくださいと言わんばかりに突き出した腰が、緊張にこわばっている。白いシーツの上に獣のように這い、千冬は己のすべてをオレの眼前に晒していた。
    「ッ、う……」
     千冬の出したモノで濡れて、ぬらぬらとてらつく肉の入り口。その縁をゆっくりと撫でる。痛くないだろうか。大丈夫だろうか。何度もそう思ったが、千冬の声から漏れるのは心底気持ちよさそうな声だけ。——よかった。平気そうだな。
     つぷりと再び指先をナカへと押し込んだ。途端に濡れた孔がキュッと締まる。ディルドを見た時から気づいてはいたが、やっぱり千冬は尻を使うのに慣れている。玩具のおかげで柔らかくなったソコが、より強い快感を求めてうごめきだす。
    「千冬……」
    「ごめ、んなさい」
     腰がカクカクと動いていることを自覚しているのか、千冬は恥ずかしそうに顔を隠した。
     オレはその手を取って千冬の目を見つめる。恥ずかしい、恥ずかしいけど気持ちいい、気持ちいけど恥ずかしい。そんな気持ちがループしているようで、顔が真っ赤だった。
    「気にすんな。気持ちいいんだろ?」
    「は、い……」
    「じゃあそろそろ、指だけじゃ物足りなくなるだろ?」
     気持ちの昂ったオレは、羞恥と屈辱を煽るように言い、ディルドを手に取った。 
    自身よりも大きなソレに千冬はごくりと生唾を飲み込む。いつも右ポケットに忍ばせている潤滑剤を取り出すと、ディルドにたっぷりと塗りつけた。沢山濡らせば濡らすほど痛みは緩和できる。千冬がケガをしないように、これでもかというほどローションで湿らせた。
    「挿れてやるから」
    「あッ!」
     言葉と同時に押し当てられた玩具の先端の冷たさに、千冬は思わず声を上げた。
    「待って、あ、あぁッ……」
     人肌のぬくもりを持たない異物が、ずぶずぶと音を立てて飲み込まれていく。入り口は玩具に押し広げられて哀れなほどに広がった。
    「いい子だ。ほら、もっと力を抜けよ」
    「む、り……ンン……ッ!」
     こわばったままの背中を震わせて千冬は耐えている。どうにかして力を抜こうと努めているようだが難しいのか、異物が押し込まれる度にひしゃげたような喘ぎ声が喉奥から零れ出た。
    「痛いか?」
    「ちが、きもちよ、くて……」
     なんとか声を絞り出した千冬は、耳まで紅く染めて喉をのけ反らせた。舌を這わせてやると喉元がびくりと震える。
    「大丈夫か?」
    「あ、あぅ……」
     千冬は答えない。もう陶酔の域に入っていて、こちらの声は耳に入っていないのかもしれない。
    「千冬……」
     肉を押し広げられた蕾の内側から潤滑剤がとろりと滲む。縁から溢れたそれが尻の谷間を伝い、シーツに滴り落ちた。
    「……可愛いな」
     思わずそう言っていた。頬を紅潮させて額に汗を浮かべる千冬。オレがするどんなことにも敏感に反応する千冬。そのすべてが愛おしくて、考えるより先に言葉が出た。
     その瞬間だった。
    「……ッぁ! も、やぁ……!」
     激しい快感に打ち震えるように千冬の躰がもう一度大きくのけ反る。ビクンビクンと躰を痙攣させて、白濁した液が飛び出た。
    「え……?」
     シーツに精液が零れていく。荒い息の千冬が肩を上下させている。内股は可哀そうなくらい痙攣していた。
    「千冬、イったのか?」
     もちろん答えはない。代わりにくぐもった声を漏らした千冬は、そのまま力なく崩れてぐったりとオレに躰を預けくる。
    「まだ、ディルドのスイッチは入れてねぇぞ……」
     挿れただけでイクとか、どれだけこの玩具に慣れているんだ? 思わず嫉妬しそうになる。オレが妄想と夢の世界で千冬を犯している間、千冬のことはコイツが犯していたのだ。頭がどうにかなりそうだった。たかが、玩具に。
    「ちが……。いつもは、こんなんじゃ……」
     千冬がオレの表情に気づいたかのように、薄く目を開ける。オレの躰にぐったりと体重を預けながら、違う、違うと繰り返す。
    「オレ、いんらん、とかじゃなくて、こんなの、ちがって、初めてだから、その」
    息を吐き出しながら辛うじて言葉を発している千冬。自分でも何を言っているのか分からないのだろう。
    今の言葉を合わせれば、「いつもはディルドでこんなに気持ちよくなることはない。場地さんだから気持ちいい」になるのか? いや、都合良過ぎかな。
    それって、すごく相性がいいか、千冬がオレを好きってことじゃないか。そうだったら嬉しいけど……こんな汚れたオレに、無垢な子犬みたいな千冬が関わっちゃいけない。その思いが湧き上がる喜びを制した。
     オレの揺れ動く心のなかを知ってか知らずか、千冬はもの言いたげな、ひどく熱い目線を送ってくる。けれどどこか焦点が合っていない危うい目でもある。そんな目で、「場地さん……」と柔らかな声を喉から漏らした。
    愛しそうにオレを見つめては、肩を揺らしている。ああ、ダメだ。そんな姿が可愛く見えちまったらもう、オレは自分を制しようがなかった。
    「んッ……」
     そのまま覆い被さるように千冬の顔に近づき、唇をこじ開けて舌を入れる。舌を絡めて深く触れ合うのがどうやら気持ちいいらしい。歯の裏をなぞるように舌を這わせると、それに合わせるようにビクビクと震えている。ヤベェ、かわいーな。
    「ふぁ……」
     見つめる扇情的な目に、呼吸さえ奪われてしまったようだった。胸が圧迫されたようになり苦しい。喉が干上がって、だというのに手のひらは汗ばんで、絡みつく視線から目を逸らせないでいる。
    理性が剥がれ落ちていく音がする。千冬にもっと触れたい、触れられたい。どうなってもいい、すべてを暴いて、乱して、何もかもを奪ってしまいたいと思った。自分のものとも思えない衝動が内側から湧き上がってきて恐ろしくなる。
    ——このまま、最後までヤってしまいたい。
     千冬の濡れた穴のナカに、自分の熱いモノを挿れたらどれだけ気持ちいいだろう。大好きな千冬と繋がれたら、どれだけ心が満たされるだろう。
    「……ダメだ」
     冷や水のような言葉が頭の隅に降りてくる。
    ——オレは千冬を幸せにはできねぇよ。三ツ谷と話した時のあの言葉が。
    そう言ったのは他でもない、自分自身だ。己で課した足枷に脳みそを鷲掴みにされる。
    オレみたいな人間の人生に千冬を付き合わせていいはずがない——。呪いのように頭のなかに響き渡る言葉。あの日三ツ谷は、自分の仕事に囚われるなとオレを励ましたっけ。
    きっとオレは心のどこかでこの仕事を後ろめたいと思っている。だからアイツの言葉は本当の意味でオレに刺さらなかったんだ。いや、オレが撥ねつけたんだ。
    しかも千冬と付き合ったら、過去を清算できてない輩がまた千冬を狙いにくるかもしない。あのくそ野郎と同じように、千冬を犯そうとするヤツが現れるかもしれない。千冬のこの躰に触れ、この表情を見られるのはオレだけであって欲しい。身勝手極まりないがそれだけは譲れないオレの本心だった。あらゆる害意から、オレは千冬を守りたい。
    ——それなら……。
    オレはやっぱり千冬のためにも身を引くべきじゃないか? 今ならまだ間に合うはずだ。ただの隣人に戻って、少し離れたところから千冬を見守ることだってできる。ましてや、オレはまだ千冬に嘘をついたままだ。欺いたまま抱いて、あとから真実を知ったら千冬はどう思うだろう。想像しただけでゾッとした。もし千冬に拒絶されたら、オレは何事もなかったかのように今まで通りに生きていけるだろうか。
    ——こんな中途半端な気持ちで千冬を抱くことはできない。
    「……悪い」
     触れていた手をそっと離して低く呟いた。
    「え……」
     千冬は驚いてオレを見たけど、微動だにしなかった。
    「オ、オレ、何かしました?」
    声が震えている。本当に怯えているようだった。嫌われたくない、捨てないでくれ、と言うように。
    「なにも……」
    「オレ、嫌なことしてたなら謝ります。直します。だから……」
    「違う。そうじゃないんだ。全部、オレの問題で……」
    痛いほど歯を食い縛る。千冬を抱きたい。でも、こんな躰で汚したくない。それが本心だった。金を稼ぐための手段と割り切っていたのに、こんな生活でも悪くないと思っていたのに、千冬を抱くと考えた時、こんなオレじゃダメな気がした。
    「……やっぱり女がいい、とか……」
    「違ぇよ!」
    「じゃあ、やっぱりオレを抱くのは無理ってこと……? 嫌いだから……?」
    「そうじゃねぇよ……」
     辛かった。千冬のこんな寂しげな声を聞くのは。
    すがるように千冬の腰元に頭を預けた。さっきまで蹂躙し舐めていたモノの匂いがする。それはもう、オレの興奮を誘わない。興奮してはいけないものだ。今までオレがやってきたことの罰なんだ、これは。
    「……ごめんな」
     もう一度そう言った。項垂れたオレを見下ろす千冬はきっと呆然としているだろう。
     部屋が静か過ぎて怖いほどだった。オレと千冬しかいない部屋。楽しく会話しながら食事をするはずだったこの部屋。
    のそりと千冬の腰元から顔を上げると、千冬が小さな声で「分かりました」と言った。そして一瞬、たまらなく気弱な笑顔を見せた。それは悲しみが影をよぎる表情だった。オレはその笑顔に何も返すことができず、ただ見つめるしかできなくて。
    間断なくオレを責めたてる苦痛が、腹の底で生まれたのを感じた。

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