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    【1128氷奏24新刊サンプル】 臆病なキミと意気地なしのボク

    テキスト版サンプルです。内容は飛び飛びになります。

    #サンプル
    sample

    臆病なキミと意気地なしのボク/サンプル(冒頭部分)
    ───────★ GPF2016 〜バルセロナ〜

    「ヴィクトル、ちゃんと歩いてよ! ほら!」
     自分より大きな体を健気に負ぶって部屋の前までたどり着いた勇利は、部屋のカードキーを探すのに、とうとうヴィクトルを支えるのを諦め転がした。絵に描いたような秀麗なスーツ姿でホテルの廊下に転がる酔っ払いのポケットを全て裏地ごとひっくり返して、最終的には自分のポケットからカードを見つけると、そのままドアを開けてズルズルと死体でも引きずるようにヴィクトルの体を部屋の中に運び込んだ。
    「も〜、そんな酔ってないでしょ、横着しないでよ」
    「このスーツ、フジソバのカツドンが千個は食べれるよ……ゆうり、ひどい」
    「そんな高いスーツ着る人は富士そばでカツ丼食べないでよ、他のお客さんびっくりするから」
    「みず〜」
    「はいはい」
     部屋の入り口に転がるヴィクトルをそのままに、勇利は甲斐甲斐しくペットボトルの封を切って渡した。ようやっと自分で体を起こしたヴィクトルが、口の端から流れ出るのもかまわずに水を豪快に飲み干す。そのまま勢いをつけて立ち上がると、胸元がびしょ濡れのままヴィクトルはベッドにダイブした。
    「……ご機嫌だね」
    「そりゃね……この間から俺の情緒はジェットコースター並みにぐちゃぐちゃなんだ」
     わざわざ日本まで行ってさ、二人でプロ作ってさ、指輪送られてプロポーズされたかと思ったら、コーチクビになって、初の愛弟子が相談もなく自分より先に引退すると宣言されたんだから、と務めて完結に詰ると勇利がグッと言葉を詰まらせた。
    「ひどいと思わない?」
    「本当にごめんって……」と勇利は気まずげに背を向けながらベッドの端に座る。
    「でも今はヤコフコーチが一番ジェットコースターだと思うな、情緒」
    「……いやぁ〜怒ってたなぁ」
     揃いでヴィクトルが誂えた勇利のスーツは絞りきった体にはぴったりで、鍛えられた滑らかな背に張り付くシャツや、腰から臀部にかけてのラインが美しい。そんなところを見られているとは思わないのか、勇利は窓の外の夜景をぼんやり見ながら「楽しかったね、エキシビション」と、小さく言った。
    「そういえばなんでユリオも怒ってたんだろ」
    「ドッキリ負けしたからだろ、俺に勝とうなんて百年早いんだよね」
     せっかくオタベックと二人で考えた新プロを、銀メダル組が反則技の飛び道具で潰したと怒り狂っていた。持ち込み道具にコーチとかズルいというので、お前もヤコフに出てもらえばいいだろとヴィクトルが言ったら、もっと逆毛をたてて鳴いた。オタベックに預けて宥めてもらうのが大変だったのだ。
     それだけではない、ヤコフにはせっかくの後輩の晴れ舞台をお前らベテランのゴタゴタで潰してどうすると言われ、これには二人とも素直に頭を下げた。「ワールドで完全に叩きのめしてるから、二人とも逃げるなよ」と半べそで言われた顔がいじらしく、両側からハグをして胴上げして更に怒られはしたが。
     ベッドのサイドボードには二人で勝ち取った銀メダルが月明かりを受け輝いている。
     グランプリファイナルで金は逃したものの、自己最高記録でフリースケーティングのワールドレコードを叩き出した。その勝生勇利の動向と、コーチであるヴィクトルの現役選手復帰のニュースは、瞬く間に世界中を駆け抜けた。
     正式なインタビューではなく、簡易的な囲みの場所でヴィクトルが
    「勇利がね、俺が現役に戻んないと引退するっていうから、復帰することにしたよ。あ、もちろんコーチも辞めないよ、兼任」
     と言ったことから、まったく話を聞かされてない両国の連盟陣が慌てふためいた。改めて記者会見をする、ということまで、昨日ようやっと話がついたところだ。
     今日のバンケットでは皆鵜の目鷹の目でそのあたりを探りたがっていたが、ロシアと日本の連盟関係者から『余計なことは何も喋るな』とお達しがあり、二人が顔を見合わせてはぐらかしていたのが三十分ほど前だ。
    「はしゃぎすぎかな、僕ら」
     ハハハと勇利がメガネを外して振り向いた。溢れそうに大きな瞳は、今は眠いのか潤んで伏し目がちだ。痩せても丸いままだった頬はさすがに削げて、年相応の色が染み出すのをヴィクトルは今日初めて知った。酒で緩慢にしか動かない腕を伸ばして、指の背で頬をなぞると珍しくしたいままに勇利は大人しく受け入れた。
    「最初は顔近付けるのでさえ怖がってたのにね」
    「そりゃ……八ヶ月? 一緒に暮らして、風呂まで入ってたらね、慣れますよ」
    「ほんと? もう慣れた? 俺の顔」
     上体を起こして覗き込み、鼻先が触れるほど顔を近づける。勇利は少しだけ顔を引いたが、今度は後ずさるようなことはなかった。
    「慣れたよ、もう怖くない、ヴィクトル酔ってるもん」
    「そう?」
    「こないだ泣いてる方のが怖かったよ、どうしようかと思った」
    「嘘つけ」
     暖簾みたいに前髪をめくったデリカシーのない奴がいうことじゃないよ、というと、確かにと笑う。二人で吹き出した拍子に唇が触れ、そして、そのままどちらともなく唇を重ねた。
     言葉足らずで散々すれ違ったせいで、最後の最後でその手を離すところだった。
     ヴィクトルは勇利の背を引き寄せて抱きしめた。
     互いに触れていたいというこの気持ちが、試合の後の打ち上げ花火のような高揚感だとしても、この瞬間は二度とない。今気持ちにブレーキをかけるのはバカのすることだ。
    「……、なんで、キス、するの」
    「今しなくていつする?」
     答えになってないよ、と言いながら勇利はヴィクトルの腕を振りほどきはしなかった。体にぴったり張り付いたシャツに手を添えて背中を辿ると、腕を回してきつく抱きついてくる。そしてゆらゆらと戸惑いがちに揺れる瞳を閉じて、互いに奪い合うようにキスをした。
    「……ぁっ……ぁあ……ふっ……」
     溺れた人のようにうまく息が継げない勇利が、時折喉を鳴らす。酒で燻された舌がうまく動かせないのがもどかしいのか、苦しいとヴィクトルの胸を押した。
    「……、ごめん、ゔぃくとる……ごめ……」
     譫言のように繰り返す勇利の顔を覗き込むと目の端に涙が溜まっている。今も昔も泣かれるのは苦手だが、この勇利の涙は悪くない。ヴィクトルは親指で滲む目尻を拭ってやった。
    「どうした? もう、いや?」と聞くと嫌じゃない、と首を振る。
    「ごめん、息が……続かない」
     大真面目な顔でそう言うものだから、つい顔を覆って天を仰いだ。
    「キス……とか慣れてないっていうか、こういうの……、その、初めて、だから」
    「……え?」
     思わず大きな声を出したヴィクトルに、勇利は暗闇でもわかるように顔が赤くなった。この年齢で経験がないのを驚かれたのかと、もじもじと後ずさる。だからうまく出来ないかもしれない、ごめん、と蚊の泣くような声で言う勇利に、ヴィクトルは盛大なため息をついて
    「これは本当は言わない方がいいと思ったんだけど……」と勇利の顎を掴んだ。
    「お前は俺とのキスは初めてじゃないし、それこそこれからやることだって厳密には初めてじゃない」
     突然のヴィクトルの告白に、勇利は目を丸くした。
    「俺をその気にさせて逃げたのはただ一人、お前だけだよ勇利」




    (中盤部分)--------------------------------------------------


    「……もう曲かけはじまった?」
     第一グループの練習を始めるアナウンスが告げられる。最終グループの更衣室からも、準備をしていた選手がひとりひとりと部屋を出てリンクやウォームアップエリアに向かう。残っているのは最後に着いたヴィクトルとクリスだけだ。
    「あれ? ユウリ、どうしたの? 君のグループもう始まってない?」
     クリスが声をかけた方を振り向くと、先ほどの日本の選手が入り口に立っていた。手をバタバタさせてどうやら慌てているようだが、クリスと一言二言交わし、慌ただしくモノのやり取りをしている。
    「ごめんごめん、そのまま持ってきちゃった」
    「支度中ごめんね!」
     確かに親しげなやり取りだ。ヴィクトルは気になってロッカーの陰から顔を出して「ハァイ」と手を振った。するとそれに気付いた日本人選手は、ゆうに十センチはピョンと飛び上がり。しかめ面のような神妙な顔をしながら頭を深々と下げてドタバタといなくなった。
    「前見ないと転ぶ……、あぁああ、はは。イヤフォン、同じのだから持ってきちゃってた……って何その顔、ヴィクトル」
    「さっきの子だよね、やっぱりあの子、俺のこと、嫌ってない?」
     どうにも挙動不審を通り越して、視界に入るのさえ避けているような気がすると、ヴィクトルが言うとクリスは「……まぁ、うん、悪気はないよ」となんとも歯切れのわるい返事が帰ってきた。
    「どうしたの、珍しいね気にしてるの」
    「……なんかどっかで見た記憶があるけど、どこだったかな」
    「そりゃ────、どこか見てるでしょ、狭い界隈なんだし」


     ウォームアップエリアに向かうつもりで、ヴィクトルは観客席に足を向けていた。関係者用のそこは各国のコーチ陣や練習の終わった女子選手などが陣取っている。そこに見慣れた金髪を見つけて、ヴィクトルはその隣に座った。
    「アップしなくていいの? ヴィクトル」
    「君もだろ。ほら、コーチこっち睨んでる」
    「俺は今小休憩と敵情視察」
     同門の選手が第一グループで出場しているクリスのコーチは、リンクサイドからクリスにハンドサインのようなものを送っている。
    「アップ行けって、ヤコフに見つかったら君も同じこと言われるよ」
    「大丈夫でしょ、まだ」
    「さっきの子、気になる?」
     何か目的が明確にあったわけじゃない、なんとなくだ。そう思っていたヴィクトルは首をかしげてみせた。
    「曲かけは次だよ」
     クリスが指し示した先に、先ほどの黒髪の選手が中央に出るところだった。周囲の選手は邪魔にならないように端に滑走の軌道を変えてゆく。
     曲は「Merry Christmas Mr. Lawrence」。美しいピアノの旋律で始まる曲は目新しいものではないが、自国の作曲家をデビューのプログラム曲に選ぶのは新人らしい。なんの変哲もないトレーニングウェアを着た幼げな少年が、ピアノの音色に合わせてステップを踏む。
    「……へぇ」
     思わず漏らした声にクリスが「ね?」と得意げに覗きこんできた。静かな旋律を辿るステップシークエンスは、一気に見る者を曲の世界観に没入させる。大技や派手な演出もないにも関わらず静寂を漂うようなソレは突然にヴィクトルの視線を掴んできた。
     憑依型の表現力の高いスケーター。競技会の煌々と輝く照明の下では、ともすればやり過ぎると白けてしまう諸刃の剣ではあるが、その塩梅が絶妙だ。若いのに玄人受けするタイプだろうな、高揚する頭の隅で分析をする。
    「ヤコフが好きそう、うん」
    「そう?」
     静かだった曲が一転し、ピアノソロからオーケストラの音色が重なる中盤。まずはここで大きなジャンプ……、と思ったところに突然影がよぎった。
    「危ない!」
     誰ともなく、声が上る。
     日本人選手のジャンプの瞬間に、練習していた選手の軌道が膨らんで接触したのだ。跳んでいたユウリはそのまま壁に激突し、ぶつかってきた選手の方は転倒して中央で蹲っている。対面にいたヴィクトルたちにもその衝突した音ははっきりと聞き取れるほど大きく、一瞬リンクは騒然とした。
    「大丈夫か? ……どっちもスピード乗ってたからな……」
     ヴィクトルとクリスのところからは接触した瞬間がよく見えずに、一気に互いが跳ね飛ばされたように見えた。しかしいきなりジャンプの軌道に他の選手が入り込んだようにも見える。
     壁に激突した方の日本人選手は既に立ち上がって、足を抑えて蹲っている方の選手に駆け寄っていった。その顔は遠目から見ても蒼白だ。曲は止められ、やがてふたりとも周囲に促されリンクから降りていった。蹲っていた方の選手も自分の足で立っているので、きっと大事ではないだろうがひやりとする瞬間だ。
     五分後に再開しますとアナウンスがされ、リンクには残された選手は、三々五々にまた滑り出した。
    「用意できたらすぐこいと言ったろう、ヴィクトル」
    「あ、ヤコフ」
     子供の頃のように頭を張られることはなくなってきたが、小言のトーンは変わらない。
    「予定通り後半組も始まるぞ、油を売ってるな、クリス、お前もな」
     やぶ蛇のクリスもはぁいと言って立ち上がる。
    「あの二人大丈夫かな?」
    「あん?」
     言うまでもなく接触事故のことだ。
    「ぶつかられた方が減速して受け身をとってたからな、怪我はないだろうよ、細っこいのに頑丈だ。体幹をよく鍛えとる」
     ぶつかられた方は日本人選手の方らしい。下の階段から上がってきたということは、ヤコフはリンクサイドから見ていたのだろう。
    「日本人の子の方が謝ってたからあっちがぶつかったのかと思った」
    「とりあえず謝るのはただの癖だろうよ日本人は」
    「褒めて腐して忙しいなぁ……、あの子さ、ヤコフの好みだよね、あのステップとか」
     そう言ってみると、ヤコフはヴィクトルの顔をまじまじと見てから、呆れたような顔でフンッと鼻を鳴らした。
     
      翌日、接触事故を起こした二人は軽い打ち身だけで出場メンバーに変更はないと発表があった。
     第一グループの紹介が始まると、衣装を身につけた選手たちがきちんと六人揃って次々にレベランスをして手を振る。まだまだ無名の若手選手ばかりだが、ヴィクトル&クリス効果で観客数が多く微笑ましい声援があちこちから上がる。
     アップの合間にヴィクトルはクリスと並んで第一グループの見学に関係者席の端を陣取った。気づいたファンが携帯を向けるがそれに対応はしない。今は氷上の選手たちが主役だ。
     件の二人はというと、氷の上に蹲っていた方は大げさなテーピングをして痛々しく足を引きずるが、相手の日本人選手は意外にも飄々として気にしてる様子は見られなかった。
    「ぶつかった方が重症だな」と前の席にいた関係者が含みありげに言う。
     今時の公開練習であれば、個人の携帯も含め映像は色々の角度から記録が残る。公式のカメラからは接触時の詳細は分かりにくかったが、記者の回していた映像からは「どっちがぶつかってきたのか」がはっきり映っていた。ただの不注意か、それとも意図的な進路妨害なのかは判別はつかないが「ぶつかられた方」に怪我がないので、執拗な追及はないだろう。
    「全然気にしてないって感じが、すごいね、彼」
     まだ育ちきっていない薄い体と黒く撫で付けた髪。衣装はシンプルな黒に銀色のスパンコールを散らしたモダンな衣装、その上に日本のジャージを着たユウリ・カツキは堂々としたものだった。
    「肝が座ってる」
     昨日は小動物みたいに跳ねてたのに、とヴィクトルは笑った。
    「そういう子だよ。ベビーフェイスでナメられやすいけど」
     クリスの言い方からするとやはりかなり親しいのだろう。けれど随分若いような気もする。
    「あの子いくつ?」
    「俺より二つ下だから……十八かな?」
    「え?! 十八?」
    「うん、十八、ギリギリまでジュニアにいたんだよ」
    「いや、そうじゃなくてさ……っていうかそもそもあれ昨日の子か?」
     確か昨日の少年は大きなメガネをしていた。髪も下ろしていたせいか全然印象が違う。
    「髪あげると少し大人っぽくなるっていうか、まぁ年相応になる感じ?」
     多く見積もっても十五、六程度にしか見えない。確かにアジア系は幼く見えるが、彼は特に丸い頬とこぼれ落ちそうな黒い瞳が余計に幼く見えていた。
     しかし、前の選手と入れ違いにリンクに入って滑走している姿は、幼い見た目とは逆に熟練のスケーターのような安定した足運びだ。昨日はステップしか見ることは出来なかったが、スケーティングの美しさが際立つ。基礎を死ぬほど叩き込んで、まるで呼吸をするかのように重心のコントロールが出来るようになった選手の滑り方だった。国際大会レベルに出てくる選手はそのあたりは皆ぬかりなく出来ると思われがちだが、十代で完璧にやれる選手は少ない。表情はかなり固く緊張が滲み出てはいるが、体自体はきちんとアップに間に合ったのか落ち着いた風にも見える。
    「ユウリ! ファイト!」
     隣のクリスが大きな声で声援を送ると、黒い瞳が一瞬こちらを向いてコクリと頷ずいたように見えた。真っ黒な瞳はぼんやりと焦点が定まってないようでどこを見ているのか掴みにくい。
    「へぇ、落ち着いてるね、結構観客も多いのに、今年シニアデビューだろ?」
     今度はヴィクトルを見ても飛び跳ねはしなかった。さすが本番でそんな余裕もないだろうが。
    「場数は踏んでるよ、あとたぶん裸眼だからきっと観客は見えてないなぁ」反応したのは声だけだね、とクリスは頬杖をつきながらまっすぐにユウリを見ている。
    「まぁみててご覧、面白い子だから」
     名前がコールされてから制限時間をたっぷりつかって彼はスタートポジションについた。シニアデビュー間もない新人にしてはやはり度胸がある。
     そしてゆっくりと上体を反らしてから左手を上空に掲げた。指先まで美しくカツキの


    〜〜〜〜〜〜〜(中略)〜〜〜〜〜〜〜〜〜


    ───────★ ヴィクトルマニア

     ユウリ・カツキ(日本)。日本の黄金世代が引退した今、唯一の男子シングル特別強化選手。
     極東の強豪国日本において、珍しく名門クラブチーム出身ではなく地元の小さなスケートクラブ所属のまま、日本代表にもなった変わり種。彼のために引退寸前だった老コーチがチームに残り指導、振り付けは同郷の元ブノワ賞受賞プリマが受け持ち日本代表としては不動の地位にある。シニア進出と共に大阪のスケート強豪大学へ進んだが、現在世界大会での成績が振るわず伸び悩んでいる。
     素顔は大変シャイな性格ながらも、練習の鬼と言われるほどの練習力と勤勉さを持つ。尊敬するフィギュアスケーターは『ヴィクトル・ニキフォロフ』と言って憚らない。

    「何これ、クリス」
     ロシアからスイスへのVC画面で、猫とソファに沈みながら眠そうなクリスは「なんで俺が詰められてんのさ」と面倒そうに言った。
    「あの子俺のファンだって」
    「そうだね、有名」
    「なんで言わなかった?」
    「聞かれてないし」
    「この記事、嘘じゃない?」
    「ちゃんとググった? どこにもプロフィールにそう書いてあるよ」
     今時下世代のスケーターは、クリスかヴィクトルを目標に掲げる。勿論ランキングの一位と二位なのだからあたりまえだが、それこそ無難に現在のランキング一位の名前を上げたとも言える。
    「今の子、みんなそう言うじゃん、逆に避けるとザワザワするしさ。俺も子供のころずっと先輩の名前あげろって言われてたけど、本当はそいつ大嫌いだった」
    「え、そうなの? あれ嘘?」
    「いないって言うと感じ悪いからって、同門も先輩の名前言っとけってヤコフに言われてただけ。すごい性格悪くて俺とかギオルギーとかすっごいパシリさせられて、負かした時はせいせいしたよ」
    「君がパシられてた時代なんかあったんだ……」
    「そりゃね、俺別にスケートのコネとかない一般人だったし」
     タブレットの中のクリスは猫がいきなり部屋で運動会を始めて、右往左往しながら合いの手を打ってくれてる。毛足の長い白い猫は時々こうやってクリスを翻弄している。
    「まぁまぁ、とにかく嘘じゃないよ。ユウリは有名なヴィクトルマニアだし、そのことは隠してない。知らなかったのは君だけで、俺が言わなかったのはとりたてて言うことでもないだろ? たくさんいるし」
     ものすごくどうでもよさげなクリスから、テキストメッセージでリンクが送られてきた。
    「ナニコレ」
    「まぁ見なよ」
     動画サイトにアップされてるテレビ番組映像だ。ファンが勝手にアップロードしたらしいそれは、日本の番組だったが自動翻訳もついていた。
     ガサガサとした解像度の悪い映像は今よりもっと幼いカツキのサムネイルが映っている。ノービスかもっと前、なのかもしれない。番組の主役は最近引退を表明した若い頃のアサオカ。この頃は世界ランキングでトップ争いをしていたはずだ。コンセプトは世界チャンピオンが次世代を担う子供の元へお忍びでコーチをしにゆくというドッキリらしい。
    「クリス前に女子校に行ってシャツひっぱられて破られてたよね、この手の番組で」
    「思い出させないでよ、すごく怖かったんだから。そういえば、ヴィクトルは変装がすごすぎてネタばらしなしに、結局ヤコフがコーチしてたよね、めちゃくちゃだよね、ロシアのどっきり」
    「そう? だいたいそんな感じだよ、ロシア」
     小さい子供たちで賑わう地方のアイスリンクで、着ぐるみを着たアサオカとタレントが子供たちに『尊敬する選手は?』の質問をしてゆく。女子の大半はアサオカと同世代の女子選手とそして勿論アサオカの名前を我先にと挙げる。男子は勿論アサオカ一択だ。世界レベルで活躍する彼らは祖国の英雄に違いないだろう。今ヴィクトルがそう慕われて名前を挙げられているように。
    『次はこちらのグループに聞いてみましょう』
    『ちゃんと大会出てるクラスの子たちですね、あのへんは、初心者じゃないですね』
     少し張り詰めた空気をタレントがハイテンションで割ってはいる。一人一人に同じ質問をして、最後に一番後ろにいた、ふっくらとした頬の少年にマイクを向けた。
    『君は将来フュギュアスケート選手になってオリンピックとか目指してる?』
     戸惑いを隠せない少年は、腰が引け気味で後ずさりながらタレントの質問に頷いた。それを逃さないようにアサオカが着ぐるみで後ろを固め肩に手をのせてガードしている。
    『じゃあ目標とする選手とかいる? この人にスケート教わってみたいな〜とか、そういう人』
     少年は蚊の鳴くような細い声で、早口で答えた。「え? 誰?」と声を拾いきれなかったタレントがもう一度マイクを向けると、こんどははっきりと大きな声で『ヴィクトル!』と叫んだ。
    『えっ? 外国の選手?』
    『ヴィクトル・ニキフォロフ、ロシアの選手です。こないだヨーロッパ選手権で金でした。コーチがヤコフ・フェルツマンコーチで……その、四回転跳べてすごいんです!』
    『いきなりめっちゃ喋るなこの子、いや、あの、国内の、日本の選手とかどうかな?』
     スタンばってたアサオカが着ぐるみを脱ぐタイミングを逸して、明らかに挙動不審になっている。もうインタビューが済んでない子はいない。彼がアサオカの名前を出さないかぎり収まりがつかないのだ。
    『え〜〜〜と、アサオカ選手とかは?』と、タレントはとうとう名前を出してしまった。
     すると目をキラキラしてヴィクトルのプロフィールを喋っていた少年は、急にスンっと真顔になって「すごく優しいし、かっこよく踊れて尊敬してます」と急によそ行きの顔で答えた。そのタイミングでアサオカはヘッドの部分をかなぐり捨て、「おぉおおお〜〜いゆうりぃ〜〜〜〜〜! 頼むよぉお」と少年を抱きかかえてスピンを回り始め、笑い声のSEが被る。そして画面が切り替わり、なめらかな映像はひな壇があるスタジオになった。ついこの間会ったばかりの青いメガネ少年が頭を抱えて、少し老けた洒落たスーツ姿のアサオカが大笑いをしているところで映像は途切れた。
    「熱狂的なファンっていうか、君のスケートをよく研究してるよ」
    「……ふぅん」
    「滑った動画は見た?」
    「少しだけね。ジュニアの時のと、ついこの間のかな」
     本当はアップされているものはさらって全て目を通した。時折痩せたり膨らんだりはあったが、ヤコフに「お前の影響が強い」と言われた通り数多いるヴィクトルフォロワーの中でも、よくヴィクトルのプログラムを研究している。たぶん彼はヴィクトルのように滑りたい自分と、自らの表現の間で揺れている。
     まず骨格が違うのだ。体はだいぶ出来つつあるが体が平たくアジア人らしい骨格はジャンプの方法論からして違ってくる。ヴィクトルとクリスのような恵まれた体格と筋力で高く跳ぶスタイルよりも、ジャンプの距離を伸ばした方が彼は安定するはずだ。ヤコフの受け売りではあるが、細部まで気を配った繊細なコントロールを可能にするフィジカルが備わっているのならば、指導者が気づいて伸ばしさえすれば化ける。
     そして天性のダンスセンスはきっとバレエの基礎をきっちりやったものだろう。もしかしたらバレエからの転向組かもしれない。スタートポジションのポーズひとつから世界を作り、観客を引き込む才能は訓練したからといって身に付くものではない。
     何もかも過不足なく持っているようで、どこかが絶対的に足りない。彼のその探究心や滑りに、何かノイズのようなものが入っているのも確かだ。
    「悪くはないけど日本人っぽい感じで纏まってるでしょ、最近の」
     クリスが貼ってきたもう一つの映像は、比較的最近のものだ。キスクラにいるコーチは女性で、ヴィクトルもよく知っている名門スケートクラブのトップだった。
    「あぁ、あそこの大御所の生徒なのか」
    「大学のクラブチームと兼任してるみたいだけどね」
     スパルタで有名な女傑だった。日本で最古参の名門を率いるクラブはそのチームの財産である育成メソッドが完成している。幼い頃からそこで伸びてきた才能ならそれもよいだろうが、カツキのような生真面目だが反面、奔放な魂を持つ器が、この女傑好みに育つだろうか? ヴィクトルでさえも、名伯楽と言われたヤコフが今までの指導論から決別し、クラブ内に専用チームまで作って築き上げた。
    「合ってないよね、あそこはよくも悪くも『古い』んだよな」とヴィクトルは断じた。「ほらさ、ある程度歳いったオバサンってさ、なんかこう部屋をロココ調のミニヴェルサイユみたいにするじゃん、ロマンチックな。マイセンの陶器の人形並べちゃってさ」
     記者にはきかれたくない話だが、あいにくここはヴィクトルの部屋で、ボイスチャットはプライベートサーバだ。
    「猫足の椅子に毛足の長い猫膝に乗せて金のフチのカップで紅茶飲んでる?」
    「そうそう」と言ったところで、クリスの部屋で毛足の長い白い猫が凶悪な顔をしながら欠伸をしていた。いつも綺麗に片付けられた部屋は、それでも高級そうなソファが悲惨なことになっている。猫の飼い主はそれでも怒らないのがヴィクトルにとっては謎だ。
    「ヴィクトルだってたまにするじゃん、王道王子様系」
    「俺は似合うだろ、でもこの子はそういう柄じゃない、そのまんますぎるよ」
     確かにそうだけど自分でいうかね、とクリスは苦笑いだ。
    「こう、なんか、小さなポーチにフリルにレースにスパンコールついてるみたいな、はっきり言ってダサい」
     ひどい物言いだなぁ、とクリスはため息をついた。
    「まぁ言わんとしてることは解るけど、これもトラディショナルスタンダードだよ。日本でやるなら一番環境はいいだろうね、大学の併設というには羨ましいくらいの設備だもんね」
    「俺は、コーチかえた方がいいと思うね、彼」
    「例えば?」
    「……う〜ん、ヤコフ、とか?」
     クリスは肩を竦めた。
    「キミのとこ外国人選手受け入れないだろ、何いってんの」
    「まぁそうだけどさ……そうだ、今度さ、どっかの大会で一緒になったら食事の時でも連れておいでよ、彼」
     ヴィクトルの熱狂的なファンだと言うなら、きっと来てくれるだろう。ヤコフには悪癖だと言われ止めるように言われていたことだが、もうヴィクトルも子供ではない。他の選手との距離感ぐらい掴めている。
    「いやぁ…………たぶん無理、かな?」
    「え?」
    「たぶん、無理」なんか難しい子でさ、とクリスはため息をひとつついて「一応誘ってみるけど、一回断られたら諦めてよ」と不可解な返事をした。どうして? 俺のファンじゃなかったのか、とヴィクトルはもう一度「なんで?」とクリスに聞いてみたが
    「難しい子なんだよね」と彼は繰り返し言葉を濁すだけだった。


    (終盤部分)---------------------------------



     自国開催に華を持たせたヴィクトルとユーリの為に、ロシアの連盟は一際豪華なバンケットを用意した。
     ファイナルに出場した選手達はそれぞれに着飾り、あちこちで祝杯をあげる。これから熾烈を極めるワールドへの出場権争いの前に、最後の息抜きとばかり、皆、ハメを外して楽しんでいた。
     ヴィクトルの周辺には人が途切れることがなく、スケート関係者や地元の有力者、そしてスポンサーとの挨拶まわりに明け暮れた。いい加減同じ返事を繰り返しはじめた頃にヤコフから肘鉄をされる。
    「ちゃんと相手の話しを聞け!」
    「俺ばっかじゃなくてユーリにも相手させてよ、食事する暇もないよ」
    「あいつにまともな応対が出来ると思うか? まずお前が手本を見せろ」
    「甘いなぁヤコフは」
    「お前が同じ年の頃にはお前の代わりに先輩がやってたことだ」
    「ハイハイ、もういいだろ? お腹すいたよ、俺」
     それでも縋ってくる人混みをかき分けて、ヴィクトルはクリス達選手の固まる一群を探した。銅メダルのカナダ人選手はパートナーと寄り添いながら何か声をかけてきたが、出来るだけ笑顔で頷いて通りすぎた。
    「あはははは、あれはちょっとマズイかもしれない」
     女子選手が集まる中心がちょっとした輪になっている、その一角にクリスがいた。
    「何、どうした?」
    「ヴィクトル、ようやく解放されたんだ?」
    「飲まず食わずだよ、まったく」
     後輩の女子選手がシャンパンと料理の乗った皿を渡してくれる。「お疲れ様、お肉、もうそれ最後よ」と悲しいことを言われてしょげていると、輪の中心がドッと沸いた。
    「この……! 受けて立ってやるよ! 負けてもまた便所で泣くんじゃねぇぞ!」
     アスリートたるもの紳士淑女たれ、と学ぶための社交の場でストリートキッズレベルのタンカを切るのは、次世代の勇者だ。そしてその不良勇者を煽り立てているのは、真っ赤な顔でネクタイをかなぐり捨て「かかってこいやぁ!」と雄たけびをあげてる勝生だった。
    「えっ! 何? 何やってんのこれ?」
    「キミんとこの子猫ちゃんに勇利がね『ユーリは二人もいらないから来年改名しろ』って絡んでんの」
    「はぁ 勝生が?」
    「ブレイクダンス対決で、負けた方が改名らしいわよ、ウケんですけど!」
     もうすでに動画のスタンバイをしたミラが、携帯を掲げて大笑いしてる。
     ラグジュアリーなバンケットフロアは若者中心に輪をつくり即席のダンス会場になった。
    「ファーストムーブはどっち!」
    「いけ! ユーリ!」
    「どっちもユーリじゃん、ややこしいな」
     先に飛び出してきたのは勇利の方で、のっけからウィンドミルの大技を決めてロシアのユーリを煽る。負けじと応戦するユーリだが、いかんせん線の細さに迫力が負けている。次々とブレイキンの大技を決める日本の勇利にたじたじで、途中からは周りでじゃれついて飛び跳ねている子猫のようになっていた。
     ラストムーブにも至らないうちに勝敗は明らかで、いつの間にか飛び出してきていたヴィクトルにジャッジが任された。
    「えっと、えーーーーっと、圧倒的に勝者! ユウリ・カツキ!」
     クソがーーーーーー! とスタミナ切れを起こしたユーリが床に寝転がって叫んでいる。
     勝生はまったく息の乱れもなく、ガッツポーズをしたままシャンパンをラッパ飲みしていた。腕を取られているのがヴィクトルだと気づいているのかいないのか、目が座り歓声に応えていた。フロアは大いに沸き、最下位の選手のとんだエキシビションに誰もが手を打ち鳴らした。
    「じゃあ次は俺だね、勇利」
     まったく顔色を変えないクリスが指し示したのは、何故かフロアの中心にあるポールだ。二人とも物も言わずに脱ぎ始め、女子選手達が黄色い悲鳴をあげる。それを聞きつけた日本の連盟スタッフが勝生を止めようとしたのを、何故か泥酔したチェレスティーノコーチが邪魔をしていた。
    「勝て! ユウリ! ダンスはお前がナンバーワンだ!」
     たった一本のポールを奪い合うように、二人はポールダンスの技を次々と繰り出してゆく。
    「なんでそんなこと出来るの二人とも、受ける! レベル高すぎ!」
     最前列でかぶりつきになってるミラは腹を抱えながら動画を撮るのに夢中だ。
    「ヴィクトル、勝者は?」
    「いや、これ合体技ばっかりでわかんないよ、引き分け?」
     勝負がつかねぇじゃねぇかと、へばったユーリが叫ぶ。改名がかかっているから彼は必死だが、誰もがそんな賭けのことなど忘れていた。
    「じゃあラストムーブは先輩が仇とってあげなよ、ヴィクトル」
     パンツ一枚でいいこと言った顔のクリスが、大将はヴィクトルと高らかに宣言しフロアが今日一番に沸く。
     ハードに踊りながらまったく疲れを見せない勝生が「なんでもいいよぉ、得意なジャンルで」と不敵に言い放った。
    「へぇ……大きくでたね」
     輪の中心に一歩出たヴィクトルと、酔いどれの勝生が睨み合う中、流れた音楽はアルゼンチンタンゴだった。知る人ぞ知るヴィクトルの十八番に悲鳴に近い歓声が沸く。
    「負ける気がしないね!」
    「△□×…っk;wぇk:! ッシャーっ!」
    「何言ってのかわかんない!」
     騒ぎを聞きつけたヤコフの雷が落ちるまで、ヴィクトルは抱き合い、勝生と踊り続けた。


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    INFO・α×αの地獄のオメガバースです。
    ・幻太郎と自我の強い厄介モブ女ががっつり絡みますので、幻モブ♀が苦手な方はご注意ください。(幻からの恋愛感情はありません)
    ・全年齢レベルですが性行為を匂わせる描写が多々あります。
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    Strive Against the Fate(無配サンプル) 脈絡なくはじまった関係は、終わりもまた前触れなく訪れるのだろう。瞼をひらけば高く陽が昇っているように、睦み合う夜は知らず過ぎ去っていくのかもしれない。すこし日に焼けた厚い胸がしずかに上下するのを見つめるたび、そんなことを考える。
     ずいぶん無茶をさせられたせいか下肢には痺れるような怠さが残っていて、半分起こした身体をふたたび布団に沈めた。もう半日ほど何も食べておらず空腹はとっくに限界を迎えている。けれど、このやわらかなぬくもりから這い出る気には到底なれず、肩まで布団をかけなおした。隣を見遣ればいかにも幸せそうな寝顔が目に入る。
     夜が更けるまでじっとりと熱く肌を重ねて、幾度も絶頂を迎えて、最後に俺のなかで果てたあと、帝統は溶け落ちるようにこてんと眠ってしまった。ピロートークに興じる間もなく寝息が聞こえて、つい笑ってしまったっけ。真っ暗な夜においていかれたような寂しさと、尽き果てるほど夢中で求められた充足感のなかで眠りに落ちたあの心地よさ。身体の芯まで沁み入るような満ち足りた時間に、いつまでも浸っていたくなるのは贅沢だろうか。
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    ak1r6

    MENU▶︎web再録加筆修正+書き下ろし約40頁 (夭折した速水ヒ□の幽霊が、神浜コージの息子13歳のもとに現れる話)
    ▶︎B6/66頁/600円 予定
    ▶︎再録は 下記3つ
    酔うたびいつもするはなし(pixiv)/鱈のヴァプール(ポイピク)/せめてこの4分間は(ポイピク)
    【禁プリ17】コウヒロ新刊サンプル「鱈のヴァプール」書き下ろし掌編「ヤングアダルト」部分サンプルです。(夭折した速水ヒロの幽霊が、神浜コージの息子13歳のもとに現れる話)
    ※推敲中のため文章は変更になる可能性があります

     トイレのドアを開けると、速水ヒロがまっぷたつになっていた。45階のマンションの廊下には、何物にも遮られなかった九月の日差しが、リビングを通してまっすぐに降り注いでいる。その廊下に立った青年の後ろ姿の上半身と下半身が、ちょうどヘソのあたりで、50cmほど横にずれていたのだ。不思議と血は出ていないし、断面も見えない。雑誌のグラビアから「速水ヒロ」の全身を切り抜いて、ウェストのあたりで2つに切り、少し横にずらしてスクラップブックに貼りつけたら、ちょうどこんな感じになるだろう。下半身は奥を向いたまま、上半身だけがぐるりと回転してこちらを振り返り、さわやかに微笑む。
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