「三毛縞様!」
投げかけられた使用人の声はもはや言葉というよりも悲鳴という方が近いだろう。三毛縞はただ、咄嗟に飛び出した自分の置かれた状況を判断するだけで精いっぱいだった。自らの手首に感じる鈍痛以上に、三毛縞を安心させたのは自分の上に倒れこんで腰を抜かす少女に、怪我がなかったということだった。
「三毛縞様!」「大変、い、医者を呼ばないと……」
パニックになる使用人たちも無理はなかった。三毛縞が咄嗟に飛び出したのは梯子から落ちる少女の下だ。落ちるとわかっている少女ならば、三毛縞は彼女を立ったまま抱きとめることができただろう。足を滑らせた彼女が思わず手を離した梯子から落ちていく瞬間、三毛縞はまるでスローモーションのようにさえ見えた。全身の筋肉が咄嗟に唸りを上げ、廊下を蹴って踏み出した一歩から全速力で駆け出し、腕を伸ばしとにかく、重力のまま彼女を床に叩き付けるわけにはいかないと脳よりも先に体が動いた。幸い、少女は滑り込んだ三毛縞に抱きかかえられるような形で受け止められ怪我はなかった。ただ周囲の動揺と悲鳴に漸く、自らの現状を理解し彼女は慌てて三毛縞から跳ね起きながらとうとう腰を抜かす羽目になる。
「何事だ」「誠様、三毛縞様が……」
屋敷中に響き渡った悲鳴に、飛んできた黒柳は倒れた梯子とへたりこむ二人に何があったのか理解した。そうこうしている間に黒柳家が世話になっている医者が到着し少女の無傷と、三毛縞の左手首捻挫という結果を残しこの事件は終息となった。
「だめに決まっているだろう」
「あと五日だぜ? 別に三日休めて直るってんなら今動かしたって問題ねえよ……」
「駄目だ」
三毛縞が医者から逃げようとする時と、同じ言葉を黒柳は自宅のキッチンで再び繰り返し三毛縞に告げた。全治三日、絶対安静を言い渡された三毛縞だったが彼が医者の言うことを素直に聞くはずがなかった。彼がまだ黒柳とこうして共に生活する前であれば三毛縞は医者の言うことなど次の瞬間には忘れていただろう。だが今は黒柳とともにある。三毛縞が手伝うはずだった大掃除も、子供たちを抱え上げることも、そして今、紅茶を淹れることも彼は〝駄目だ〟と咎める黒柳に、三毛縞はとうとう反論したというわけだ。別に骨が折れたわけじゃない。それなのに黒柳はまるで三毛縞を重病人のように扱う。その理由がわからなかった。お前は咄嗟に左腕を使うだろう、と睨みつけた黒柳は、三毛縞が両利きだと知っているようだった。ただ、彼にも譲れぬことくらいある。二十日間続けてきたのだから、残りの五日をこんな軽い怪我で台無しにしたくない。暫く駄目だ、やらせろの攻防が続いたが先に折れたのは珍しいことに黒柳だった。
「わかった。私がやる」
「はぁ?」
「私が淹れる、お前はそこで待っていろ。それでお前も折れろ」
そう言ってシャツを捲り上げると、黒柳は慣れた手つきで戸棚を開け、暫くその中を一瞥するとポットを一つ取り出した。ケトルに湯を沸かし、箱から二十日の茶葉を選び出す。
「お前、こういうことできるんだな」
「貴様にできて、私にできないことがあるとでも?」
「へいへい……」
ベルガモットだ、と茶葉に鼻を寄せる黒柳はどこか自慢げで、三毛縞は意表を突かれるとともにどこか心が満ちていくのを感じた。黒柳は丁寧に紅茶を淹れていく。ふわりと漂うハーブの心地よい香りが、二人の間には似合わないことに安心して、それからほんの少し〝惜しい〟と思った。それは三毛縞だけでなく、黒柳も。
「あ、俺が」
「馬鹿め、片腕で運ばせるとでも?」
「馬鹿って言ったなこの」
ああ、言ってやったが? 少しいたずらに笑った黒柳は、三毛縞を押し退けるようにティーセットの乗ったトレイを持ち上げる。黒柳がいつもより僅か、楽し気に微笑んでいたことは手持無沙汰に黒柳の後を追いかける三毛縞には終ぞ見えなかった。