「月が綺麗ですね」
そう囁く声に、思わず顔を上げた自分が馬鹿らしい。この声らしからぬ標準語じみた発音はどこかぎこち無ささえ感じられるのがゲンナリするのは、おそらくそういった言葉を普段から息をするように無駄撃ちするこの男の自業自得である。ただ――この男がぎこちなく標準語でそう囁いたことにより、かつ見上げた先に薄ぼんやりと輝く朧月に、その言葉が響きどおりの意味だけではないのだという明確な証明になってしまった。と、いうのも――正直にいってこの男に、朧月の美しさなど理解できるとは思えなかったからだ。
「曇ってるけど」
だから、あえてそう返事をした。この男が誤魔化すように言葉を撤回すれば、この恥ずかしい言葉は仕方ないから忘れてやろうと思ったのだ。この春休みが始まってから、気がつけばほとんどの時間をこの男と過ごしている気がする。段々と、友人らしい距離感に慣れてしまった。そのままどんどん絆されて、今、重く、熱く、むさ苦しい腕の中に収まっているこの距離感が果たして友情というラベリングを許されるのか、もうわからなくなってしまった。表面上の関係は、契約した以上この男が言うなら俺と中島は恋人だった。中島がそう思っているなら、という不安定な環境下で成り立つ関係性はこちらの感情をひどく乱す。だからなお、一層自分がはっきりと拒絶の意思を示せないことに、自分に腹が立って仕方ない。
「でも、こういうん、なんて言うの? 朧月? って風流やん?」
しらんけど、という言葉にまさか自分の予想がこういった形で裏切られるとは思うまい。まさかこのジャンクフードしか食い物だと思っていなさそうな感性の中島に、朧月の風情が理解できるとは。そう見上げた俺の目線の先で、どうだとしたり顔で笑う中島に驚いた自分まで馬鹿らしくなった。だからこいつが嫌いだ。
「朧月なんて言葉知ってたんだ」
「まあ、俺、こう見えて実は風流な人間なんで」
に、っと細くなる目に、真面目に取り合おうとした自分が馬鹿だったと蹲る。そうやってどこまで自分を丸めて小さく隠そうとしても、今はこの男の腕の中にどんどん閉じ込められるだけだ。それでも時折――背中に感じる毛布とは違う筋肉の暖かさだとか、布団に篭る感覚とは少し違う狭さに落ち着くと感じてしまう自分が信じられなかった。きっと、子供の頃ずっとクロゼットに篭っていた、あの感覚を思い出しているのかもしれない。暖かさはなかったが、家族のにおいのするコートがたくさんかかってあって、狭くて、暗い場所。小学校中学年まではずっとそこで過ごしていた。俺がこの世で一番好きな場所は今、この体では少し狭すぎて。中島は俺より小さいくせに、どんな魔法を使ったのかあのクロゼットと同じここちがする。ひとの匂いと、程よい狭さ。そこに落ち着く温度と重みが重なってしまえば――悔しいかな、今安寧の地を奪われた俺にはこの場所がどうしても手放し難かった。いがいと、繊細な呼吸をするせいか中島の吐息は、似た速度で打ち鳴る鼓動は、こちらの鬱々とした遮蔽状態を邪魔しない。むしろ俺の悪い癖を鎮静化するような、メトロノームにもにた速度でゆっくりと緊張をほぐしてくる。息を吸う、吐く速度が、心臓のはたらきが、中島とシンクロした時にはもう、こちらは完全なリラックス状態に変えられていて。
「――月はずっと綺麗だろ」
蹲った腕の中で、俺の言葉が閉じ込められる。それが中島に届こうが届くまいが、どうでもよかった。
「見た人が綺麗だと思えば、ボヤけてようが欠けてようが、姿が見えなくたって」
綺麗だという稀有な人間はどこかにいるのだろう。月は、万人に等しく与えられるものだ。だから美しいと称されるのだろう。俺が一生のうちに出会う人間はきっと、月が出会う人間の総数とは比べるまでもないあまりにも頼りのないものだ。奇跡、さえ超越した天文学的確立で存在する、俺の〝稀有〟は、きっと出会うことなく俺は死ぬだろう。そう、思っていたのだけれど。
「――そ、ういう、答えは、想定してなかったかも」
ふと、重なっていた心臓のリズムが一気に崩れ出した。ばく、ばく、と駆け足で打ち鳴る心臓の音にその持ち主を思わず振り返り――耳の、頬の、額の、想定にない赤さに言葉を奪われた。
「――ピュアかよ……」
「や、不意打ちやん……」
ぐえ、と急に押しつぶされ、そう小さくはない男が二人、かたいフローリングに崩れ落ちる。あれ、と思った時には、まるでのし掛かられるように中島が俺の上に覆いかぶさっていた。今まで――意趣返しに――誘うようなそぶりを見せてもこの男はそういった手つきで指一本触れてこなかったくせに、――とはいえ、抱きつくことを許したわけではないし――あの日そういう関係になったとしたら俺は迷いなくこの男に〝NO〟を突きつけられたはずだった。それが、こちらが少しづつ絆されるようになってからと言うものの、この男は時折、一線を越えんとするそぶりを見せるようになってきた。とはいえ未だその境界を超えてきたことはないのだが、問題は――こちらがその関門を低くしてもいいと誤認するようになってしまったこと、そしてその一線を越えてくれるなと願ってしまう自分だ。
重なった体の、意外な厚みや重みを初めて自覚した気がする。普段極力視界に入れないよう必死で遮断してきた情報が、一気に全身の肌から流れ込んでくる感覚。腕の太さ、手の大きさ、息の温度、心臓の速さ、肌の匂い、髪の硬さ。緩んだ筋肉が一気に緊張していくのがわかった。拒め、拒めと脳は警告を発しているのに、心が囁く〝従ってしまえ〟という言葉があっさりとその警告音をかき消していく。
「――っ、お、もい」
できる抵抗はこれだけだった。たった一言、腕で払い除けるわけでもない、睨むわけでも、怒鳴るわけでもない。ただ、ひとこと〝重い〟と伝えることだけ。
「あ、ごめんゴメン」
は、っと息を呑んだ音が鼓膜にこびりついて離れなかった。それは間違いなく――その瞬間にようやく、男が理性を取り戻した時の音で。す、っと軽くなる重圧、離れていく熱。それをもう少しだけと引き留めそうになる自分が嫌いだ。
「――あ、雲、切れた」
固い床に寝転がって見上げた月は、雲の切間から顔を出しその丸い姿をひっそりと、億人に見せつけている。憎たらしいほど、美しい金色。
「あ、ほんまや」
一人、起き上がって見上げる中島の角度では少し窓が足りないらしく、かがむように眺める後ろ姿に、飛び出そうとする言葉を飲み込んで。
「――綺麗だ」
かわりに溢れた短い言葉に、そやね、と笑って答えたやつの目に映るのは。