楽過ぎる恋愛「オサム」
その音が初めて紡いだ言葉だと。
そう伝えられたぼくがどれだけ動揺して、どれだけ嬉しくなって、どれだけ愛おしくなったか。きっと奴は知っていて、知りながら涙を流すぼくの頰に手を伸ばした。
片方の手は義手になり、片方の目は義眼。腹の一部は未だ治療中で、運動は厳禁だ。
そんな状態の奴が触れた手はとても温かくて、確かに脈を打っていて。
「空閑…!」
ああ、やっと。
手にぼくの涙が伝うけれど、決して離さない手にぼくも手を添える。奴もまた嬉しそうに微笑み、ぼくの指を撫でた。
ああ。こんなにも厚く、こんなにも大きい手に触れられる日が来るなんて。
撫でる指の優しさに自然目を閉じる。少し暗くなったと思えば唇に触れるものがあった。
「……」
目の前には悪戯が成功した様な顔で笑う奴がいる。ぼくは様式美として眉を寄せ、ほんの少し奴の手を抓った。
ああ、本当に大きくなったな。触れる度改めてそう思う。前はぼくの手で簡単に包み込めたのに、今では逆だ。
手だけではない。顔も、腕も、足も、全部がぼくより大きくなった。
顔立ちも年相応の大人びたそれに変わって。
「…、……」
変わって。
そこまで考え、ぼくの思考は一時的に止まる。ぼくの持ってきた林檎を美味しそうに頬張る奴は気付いていない。ぼくの衝撃も、戸惑いも。
ぼくより熱い体温。
ぼくより大きな体。
ぼくより厚い皮膚。
ぼくより長い手足。
ぼくより大人びた顔。
成長するとはそういうことだと知っている。あれだけ小さかった千佳も、今はぼくの肩くらいまで背が伸びた。顔立ちだって可愛らしさより綺麗さを感じる様になった。
そう。そうだ。当然だ。
生身の体を取り戻したのだから、それ相応になるのは自然の摂理だ。
だが。
眼鏡越しに映る奴の姿に心臓の動きがおかしくなる。
知っていた筈なのに。予想だってしたのに。何故こんな、今更になって。
ぼくは咄嗟に口を押さえた。押さえないと叫び出しそうだった。
お前、そんなに男らしかったのか!?
そんな、酷く失礼なことを。
「オサムー!」
最近漸く聞き慣れた少し低い声。
修の肩はそれに飛び上がり、鼓動が速くなる。ブリキの様に首を動かせばそこには予想した声の主がいた。
修は取り敢えず口端を上げる。ここで逃げ出すのはさすがに失礼だと、動きそうになった足を叱咤する。
「空閑、…えっと…ランク戦か?」
修の目の前で遊真は止まる。遊真は生身の感覚と合わせたいと、トリオン体にも義眼義手の設定を施していた。そのため今となれば見慣れた姿、の筈。
しかし修は遊真と目を合わせず、眼鏡の奥で別方向を見た。自身もトリオン体なので然程体温は上がらない。けれど顔が熱く感じるのは、果たして錯覚だろうか。
「うん。オサムは後輩指導?」
後ろにいる子供達に遊真が手を振る。突然現れた美青年にC級である彼らはどよめいた。中には遊真のことを知る子もいたのだろう。憧れの眼差しで遊真を見上げている。
「あ…ああ、…うん…」
「そうか、そうか。君達、うちの隊長からしっかり学ぶ様に」
曖昧に答えた修へ遊真は頷き、子供達にも声を掛ける。隊長という言葉に驚いたのか、全員が修を見上げた。
「えっ、三雲さん、この人の隊長なんですか!?」
「く、空閑さんですよね!?あの攻撃者上位の!!何で言ってくれなかったんですか!」
「というか、俺達三雲さんについて何も聞いてないんですけど」
「そうですよ、三雲さん。いい機会だし教えてください!」
眉を寄せ口々に不満を漏らす。三雲は子供達へ体を向け苦笑した。遊真が視界から消えたことで全身の緊張がほんの僅かだが緩まる。
「今は部隊紹介じゃなくて施設案内の時間だから」
「でも三雲さん、玉狛所属ってだけで他のこと何も言ってくれないし」
「自己紹介、短過ぎるよなー」
「そ、そうかな…」
嵐山隊を参考にしたのだが、と頰をかく。確かに元々知名度のある彼らと自分では、必要な情報量も異なるのかもしれない。
咳払いを一つして、修は口を開いた。
「えー…じゃあ改めて。
ぼくは玉狛支部所属の三雲修。玉狛第二の隊長をしている。ポジションは射撃手。
こっちがうちのエース、空閑遊真。ポジションは攻撃手。みんな知っての通り、攻撃手ランク5位のボーダーでもトップクラスに入るスコーピオの使い手だ。よくランク戦してるから攻撃手目指す子は戦術の参考にするといい。運が良ければ対戦だって出来るかもしれないし、そうじゃなくても観戦を」
「三雲さん、三雲さん。空閑さんの紹介してどうするんですか」
「えっ」
子供達が呆れ顔で言う。
修は目を瞬いて彼らを見返した。後ろから吹き出す音が聞こえる。
「…オサム。任務中に惚気ちゃダメだろ」
再び固い動作で振り返れば、わざとらしいまでに大袈裟に笑む遊真がいた。修を見る目は声音以上に愉快だと物語っている。
その言葉と表情に修の頭は一瞬真っ白になった。次いで、喉と目の奥が熱くなる。
「お、……っ、まえは!!ランク戦するんだろ!!早く行け!!!」
空間に響き渡る程の声が口から出る。子供達が驚きに息を呑むのがわかった。しかし遊真は益々楽しそうに修を見下ろし、笑う。
「悪いことしてる隊長を注意しただけじゃん」
「うるさい!!のろっ、のっ……そんなつもりで言ってない!!」
「ふーん。じゃあ無意識?へぇー」
「その顔やめろ!ニヤニヤするな!!さっさと行け!!」
口にすればするほど声は震え体は熱くなる。修に反して遊真は飄々とした体を崩さない。子供達に軽く手を挙げると、修の前髪をかき上げた。
「了解、隊長」
露わになった額に柔らかい物が触れる。前髪を抑えていた手が離れ、額を覆った。
感じた物、見た物は全て嘘だったのではないかと思ってしまいそうになる。
だが爪の先まで上る熱がそれを否定する。
修は一度歯を食い縛ると、肺の全てを出し切る様に息を吐き出した。
「…空閑!!!!!!!!!!!!」
その間に距離を空けていた当人は修の叫びに遠くから笑う。
行き場を失くした怒りと込み上げる羞恥。感情にトリオン体も生身も関係無いのだろう。襲う激情に従い、修はしゃがみ込み膝に顔を埋めた。
子供達のことすら、暫し意識から外して。
「ただいま戻りました…」
精神的疲労。この一言に尽きる。
勝手に口から漏れる溜息に修は肩を落とした。
あの後はもう散々…と言う程ではないが、だからこそ辛かった。
気遣う視線と余所余所しい態度。始終その調子で、次の担当である木虎に何をやらかしたのかという目で睨まれた。
折角ボーダーを志してくれた子供達だというのに、今回のことがきっかけで辞めたりボーダーに悪い印象を持ったりしたら。
「お、オサム。お帰り」
「……………」
それもこれも誰のせいかと言えばこいつのせいだ。
居間から顔を出した遊真を修は睨む。…睨もうとして、その顔を直視出来ず視線を逸らした。無言で自室のある階段へ向かう。
料理当番である小南が台所から遊真を問い詰める声が聞こえるも、扉を閉めると聞こえなくなった。
扉に背中を預け、眼鏡を外す。
「……〜〜〜〜〜〜……、…!」
昼間した様に顔を膝に埋め、声を殺して叫んだ。自分のしたことがフラッシュバックし始め、頭を殴って止めたくなる。
違う。
違うのだ。
遊真は悪くない。悪いのは、以前の様に振る舞えなくなってしまった自分だ。
子供の様に叫び、人前で冷たい言葉を浴びせてしまった。自己嫌悪で目眩がする。
あれほど遊真の体を取り戻したいと願っていたのに、いざ戻ってみたらこれとは。隊長が、恋人が聞いて呆れる。何て様だ。
「……でも…だって……」
自分で自分を擁護する。情けない行動だとわかっていながら、せずにはいられない。
思わなかったのだ。
遊真が体を取り戻したら、あんなに男らしく。
遊真が体を取り戻したら、あれ程格好良くなるなんて。
想像しただけで顔が熱くなる。緊張して手に汗が滲む。
惚れた弱みも勿論あるだろうが、それを抜いても立派に成長し過ぎだろうと怒りたくなった。同じ空間にいるだけで喉が詰まって上手く喋れなくなる。自分の意思に反して突き放す様な言葉を口走ってしまう。
初恋ですらそんなこと無かったのに、何でこんな。
また思い出し、髪をぐしゃぐしゃとかいた。後で謝らなくてはと思うも、いざ目の前にしたらろくに目も合わせられず素通りするだろう未来が見える。迅では無いが間違い無く。
「……………」
こんなことをいつまでもしていたら、あの遊真といえど愛想を尽かし去っていく。
そう思った瞬間腹の底が重く、煩わしく胸が騒めいた。
何て独りよがり。何て勝手なことを。
死ぬ訳でも無いのだから早く動けと冷静な自分が怒鳴る。でもどうせ上手く言えないと、気弱な自分がそれを引き留める。
トリオン体の感情部分削ってもらおうか。
最終手段に冷静な自分と気弱な自分が両手を挙げる。
逃げることに関してはよく動く足が扉の外へと向かった。
「オサム。ご飯だって」
扉を閉めた。
何故いる、と叫び掛けた口を手で押さえる。声を留めた自分を褒め千切りたい。
なおも扉の向こうから聞こえる声に、拳を握り締めて応える。
「…ありがとう。今、行くから。先に行っててくれ」
いつもの様に。以前の様に。
声音も言葉も記憶に近い。言えた、と安堵に息を吐く。
「今行くなら一緒に行こうよ」
吐いた息を飲み込んだ。
そうだけどそうじゃない。違う。先に行って欲しいんだ。待たなくていいから。
しかしこれを言ったら、修が遊真を拒否している様に聞こえてしまう。実質そうではあるのだがそう思って欲しくはない。
「……わ、かった……」
震える手で扉を開ける。
先見た時と同じ様に立っている遊真は、修の動揺など知らず、ほら、と階下を指す。なるべく遊真を見ない様に、階段へ視線を落とした。隣を歩く遊真の足音が修より若干大きい。それにすら顔が熱くなる。
「……あ、あの、空閑」
「ん?」
「昼間、の……こと、なんだけど」
謝らなくては。謝らなくては。
急いて言葉が掠れてしまう。舌が上手く音を作らない。
遊真は天井を見上げ思案すると、ああ、と人差し指を立てた。
「オサムがC級に惚気てたやつか!」
「のろけてないっていってるだろばか!!!!!!!!」
もつれた舌は何処へ消えたのか。
簡単に滑り出た言葉を訂正せず、遊真を残し居間へ下りる。
狭い支部だ。修の声はよく聞こえただろう。小南や栞、ヒュースに陽太郎が待っていた様に修に視線を送った。幼馴染である千佳と師匠である烏丸がいないだけマシだと思えばいいのか。否、幼い陽太郎の前で自分は何をしているのだ。
遅れてきた自己嫌悪と羞恥でぐるぐると頭が回る。陽太郎が修の肩を優しく叩いた。
「よなかにおおごえはおすすめしないぞ」
「………すまない」
陽太郎の方が余程大人だった。
遊真は唇を尖らせ何も無かった様に修の隣に座る。小南が呆れ顔で肩を竦めた。
「もうあんた達、二人で出ていきなさいよ。毎日毎日痴話喧嘩されたら堪ったもんじゃない」
「まあまあ、小南」
半分冗談、半分本気だろうその言葉に遊真が修を肘で突いた。目だけでそちらを見る。遊真は昼間見た笑みを浮かべると、全く潜められていない声で修の耳に囁いた。
「する?同棲」
「ご、!っちそうさま!!でした!!!」
「修くん落ち着いて、まだいただきますもしてないよ」
「いい加減にしないと本気で追い出すから」
無理やり立ち上がったせいで茶碗が揺れる。慌てて抑えてくれた陽太郎に申し訳無さが募った。本当に自分は、何をしているのだろう。
「……あの、宇佐美先輩」
「何かな?」
結局逃げに徹してしまうのか。かつて空閑に言った言葉は何だったのか。
重くなる心をそのままに、栞に続ける。
「後で相談したいことがあるのですが…」
「オッケー。何かな?新しい戦術?それなら遊真くんも」
「いえ!空閑は!いなくて大丈夫です!!」
思った以上に全力で言ってしまった。
居間から音が消える。隣から感じる視線に冷や汗が流れた。
「…お、修くんもたまには秘密兵器とか作りたい感じかな!?いいね!眼鏡からアステロイド出しちゃう!?」
「は、はい!良いですね、それ!!」
「何それそんなの出来るの!?」
「……本気でやったら俺はチームを抜ける」
「ゆるせ、ヒュース。男はいくつになってもビームにあこがれるものだ」
栞の取り成しに場が音を吹き返す。
しかし隣のじっとりした視線は逸らされず、修は溢れる汗を補う様に何杯もお茶を呷ることになった。
「それで、修くん。相談っていうのは…遊真くん絡み?」
「………はい」
あの状況では誰でもそう思う。小南はわからないけれど。
頷いた修に栞は腕を組んだ。
「何かあった?喧嘩…は、毎日してるね……でも、小南の言ってた通り軽いものだと思ってたんだけど」
「……その…とても、恥ずかしいことなのですが……」
「うん」
机に置かれたカップ。
そこから漏れる湯気は白く、吹き消す様に修は息を吐いた。
「…空閑が体を取り戻してから、ぼく…ずっと、なんというか…一緒にいると、緊張して…空閑が近くにいると頭が真っ白になって…まともに喋れなくて…それで、空閑に冷たいことや突き放す様なことを言ってしまって…」
「そうだったんだ」
「今日も、本部で空閑に怒鳴ってしまったんです。空閑は以前と変わらず接してくれてるのに…」
「…………」
栞は黙ったまま聞いている。
修もまた、言葉を止めず話し続けた。
「そこで相談なんですが…トリオン体って、感情に関してもある程度制限出来るんですよね?」
「………え、あ、うん。出来るよ?技術向上に向かないって、今では誰もやってないけど…」
組んでいた腕を解き栞は答える。
唾を飲み込み、修は言った。
「ぼくの…空閑への感情も、出来ますか」
栞が椅子に凭れ掛かる。額に手を当て小さく呟き、次いでゆっくりと姿勢を正した。
擦れた眼鏡を持ち上げる。
「…それは、遊真くんを傷付けないため?」
「それもありますが……ぼくが、嫌なんです。思ってもないことを言って、後悔して、自分が嫌いになって……それに、その……」
「うん」
「……このままだと、ぼくは空閑に…愛想を尽かされてしまうから。…そう…思って」
自分の言葉に更に自分が嫌いになった。
トリオン体は街を守るため、あるいは遊真の様に生死に関わる事柄のために使われるべき貴重な技術だ。努力すれば叶えられることの、しかも一個人の感情のためだけに使われていいものじゃない。
恋愛ごとというのはこれほど思考を狂わせるのか。傾国やら何やらとはよく言ったもの。眉間の皺を解し、栞に眉を下げる。
「……すみません。出来る出来ないの前に、していいことじゃありませんよね。今の話は忘れてください」
「……修くん」
「ちょっと弱音を吐きたかったんです。…ありがとうございました、宇佐美先輩」
立ち上がって頭を下げる。
部屋から出ようと踵を返した修の手を、栞は掴んだ。
「修くん。それ、遊真くんに話した?」
「…え、い、いえ…顔を見たらまた、酷いことを言ってしまいそうで……」
「じゃあ、手紙でもメールでも電話でもいいから。遊真くんにちゃんと伝えた方がいい。ううん、伝えるべきだと思う」
伝える。遊真に?自分の独りよがりを?
それこそ愛想を尽かされてしまうのではないか。
返事が出来ない修に栞は手の力を強める。
「修くんが酷いことしてるって思ってるなら尚更、遊真くんに伝えないと。遊真くんのこと嫌いなんじゃない、好きだけど上手く出来ないんだって。
生身に戻ったからって…明日も会える保証は、何処にも無いんだよ」
栞の手が離れる。
力が込められたとはいっても女性の力だ。修の腕を傷付けることは無い。
けれど、触れられた部分からゆっくりと刺された様に苦しくなる。
明日。
トリオン体でも、生身でも、そうだ。
何処にだって保証は無い。修が一番知っていたのに。
「…ありがとうございます」
「修くん、」
「直接は…その…無理かもしれませんが…何とか伝えてみます。……呆れられるかもしれませんけど」
寄せられていた眉が緩まる。
栞が親指を立て、笑った。
「その時は眼鏡アステロイド、本当に作って流行らせようぜ!」
「そ、それはちょっと…」
「えええええ」
修は十回目の見直しに目を擦った。
たかが友達の、隊員の、恋人に送るメール。だというのに何故こんなに自分は見直しているのだろう。
女々しいとはこのことを言うのか。世の女性の方が余程しっかりしている。
自分の母ならこんなことで悩まないのだろうと思いつつ、カコカコとボタンを押して文字を修正する。最初は長過ぎたと全て消し、次に短過ぎると全て消し、感情的過ぎると文字を削り、機械的過ぎると文脈を変え。
漸くこれでいいか、という文章が出来たのは夜中の十一時過ぎ。作り始めたのは八時からなので、優に三時間を超えていた。
これでは送ったとして見られるのは明日だろう。明日の朝から気不味い雰囲気になるのか。
送る前から陰鬱で、やはり止めようかと削除に指が伸びる。
しかしその度栞の言葉を思い出し、留まった。送らず最悪な後悔をするくらいなら、送って存分に後悔した方がいい。
「……よし……」
わかりやすく、読みやすく、機械的過ぎでもなく感情的過ぎでもない。誤字脱字、勘違いさせてしまう様な言葉は削除した。宛先も件名も問題無い。
あとは送るだけ。
送信ボタンを押す指が震える。何故自分はかつて、遊真にあれだけ直接的なことが言えたのだろう。遊真があれだけ近くにいて平気だったのだろう。今は文章を送ることすら、緊張でどうにかなりそうだというのに。
「………どうにでもなれ…!」
送るにしては最悪の掛け声。
それと共にボタンを押した。携帯は何の不調も無く、数秒送信画面が表示されただけで完了の二文字を映し出す。
たったの二文字にどっと不安が込み上げてきた。間違いはなかったか。あの書き方は良くなかったのでは。やはり直接伝えるべきだった。
取り消せないかと設定を弄るも、既に送信済みフォルダにメールは記録されている。
修は部屋の中で放心した。携帯をベッドに放り、自身も乗り上げる。冬に靴下も履かないでうろうろと文章を打ち込み続けていた。手足が冷え切っているとそれでも気付かず、布団に手を付いて初めて気付くとは。どれだけ夢中だったのかと自嘲する。
送受信を押すが、当然遊真からの返信は無い。
送った後に後悔し、そのくせ結果は知りたいだなんて本当に我儘だ。
冷えている体に毛布を掛けなければ風邪を引く。明日は学校があるのだから早く寝なければ遅刻する。
そのどちらにも指が動かない。ただ冷たい溜息だけが体を揺らした。
「………はい」
それを急かす様に扉が叩かれる。帰ってきた林藤だろう。修の部屋に光が漏れているのを見、心配した彼が様子を見に来ることは度々あった。
返事をして扉を開ける。
しかし見知ったスーツはそこになく、見慣れたパジャマが視界を埋める。
修の視界を遮る様に突き付けられたのは眩しい画面で、そこには先送った文章が煌々と廊下を照らしていた。
「…これ、本当?」
声変わりした。それでもいつもより低い。
上から降る遊真の声に、修は肩を跳ね上げた。冷えが身体中に回ったのか、歯が上手く噛み合わない。
「…起きて、たのか」
「こんなメール送られて、寝れる訳ないでしょ」
修の手を掴む。
栞とは違い大きく重いその手は、酷く熱くてしゃくり上げそうだった。
「え、何でこんなに冷えてるの…何で暖房付けてないの!?」
「…あ、道理で」
いくら歩き回ったとはいえ、ここまで冷える訳だ。
遊真が舌打ちをして修の手を引く。連れられた遊真の自室はしっかりと暖房が入っていて、生身になって暫く体温調節が下手だった頃では考えられない変化に場違いにも安堵した。
「人には暖房入れろ冷房使えってうるさいくせに、何で自分のことになるとこう雑かなあ、オサムは!ほら、これ着て!」
「う、うん…」
遊真の着ていた上着を被せられ、暖房の温度も上げられる。
手の震えがじわりじわりと治る中、遊真は改めて修を睨め付けた。修は咄嗟に視線を逸らす。
「…話戻すけど」
「………」
「トリオン体弄って感情を云々って所、本当?」
「…………いや、さすがにぼくも私的に使っちゃいけないことは」
「しようとはしたんだ」
「…………」
「今日栞ちゃんにした相談もこのこと?」
「…………」
「だからおれ抜きでって?」
「…………」
遊真が深々とため息を吐く。修は飛び跳ねそうになる体を押さえ付けた。
遊真の反応は当然だと、そう言い聞かせる。寧ろこんな内容を送られまだここまで優しくしてくれる彼は凄い。
言い聞かせるも、重く苦い物が口に広がる。ため息を吐いたそこから何を出すのか、見たくなくて、聞きたくなくて、冷めた耳が聴覚を失いやしないかと恐ろしいことを願った。
「……あー、うん…おれが悪かった…オサムが自分のことに関してとことん鈍いの忘れてた……」
だからこそ、遊真の言葉に目を見開く。
逸らしていた視線を顔ごと上げ、久し振りに遊真の顔を真っ直ぐ見据えた。
「何言ってるんだ!ぼくが、…その…変に意識、して…空閑に酷いことを……」
見据えた先から言葉尻が小さくなる。
同じ部屋。誰もいない。遊真の服。直ぐ目の前に、遊真が。
今日何度目か。熱くなった顔が思考をあやふやにする。本当に熱でもあるのではと思うほど上手く言葉を吐き出せず、結局最後まで言い切れず口を噤んだ。
ここが。ここが駄目な所なんだ。わかっているものの体が言うことを聞かない。
向けられる遊真の目に映る自分の情けない顔をとても見ていられなくて、耐え切れず目を伏せた。
「……オサム」
「…何だ」
遊真を見ず、声だけ返す。それを咎める様に顔を持ち上げられた。
遊真の手が触れている。
「……、」
触れている場所が溶けるのでは。
そう思うより先に、顔に影が出来た。少し香る匂いは自分と同じ物で、同じ物で体を洗っているのだから当然かと一人納得する。
一度離れた後、眼鏡が引き抜かれる。
僅かにぼやけた視界の中、それでもはっきりと赤い目が自分を見ているのがわかった。
床に置かれた眼鏡が小さく音を立て、倒れる。
「オサムはおれに眼鏡を取られたから、抵抗出来なかった」
「………」
「それでいいよ。おれのこと、幾らでも言い訳に使っていい」
再び影が覆う。
閉じたいのに、逸らしたいのに。きっと触れられた先から顔が燃えているんだ。
そんな有り得ないことを信じてしまいそうなほど、顔が熱い。感じる息が熱い。
「だから、お願いだから、オサムはそのままでいて。
おれのこともおれの想いも、捨てないで」
遊真が初めて視線を逸らす。唇を尖らせ、気不味そうに呟いた。
「そもそも……オサムの反応が面白くて、……わざとやってた所あるし……」
暖房の風が二人の間を通り抜ける。渇いた生暖かいそれは皮膚を撫で、部屋へと広がっていく。
修は唇を引き結んだ。
取られた眼鏡を手探りに探し当て耳に掛けると、立ち上がる。遊真を見ることなく体を反転させた。
「帰る」
「だからおれが悪かったって言ってるじゃん!ごめん、ごめんってば!オサム!!」
その体を遊真が慌てて止める。腕を掴む手に赤くなる顔が腹立たしい。
修はその手を払い除け、るのは元より触るのも無理だったため、上下左右に振り回した。
「うるさい!ぼくがどれだけ悩んだと思ってるんだ!」
「ごめん、オサム」
「付き合う時も言ったけど、ぼくはこういうの経験無いんだ!お前と違っていっぱいいっぱいなんだよ!」
「…ほら!そういうこと言うから揶揄いたくなるの!」
「何がほら、だ!意味がわからない!」
言い訳に自分を使えと言ったり。かと思えば修が悪い様なことを言ったり。
遊真に腕を掴まれている。それだけで体に汗が伝うのを、遊真はきっと理解していないのだ。今こうやって声を上げるのに、どれだけ喉が引き攣っているのかも。
「明日…明日、話そう…」
手の動きを止める。掠れた声で言い、膜の張った目を擦った。見なくともわかる程顔が赤い。触れれば予想を軽く超えた熱がそこにあって、こんな蛸の様な顔見られたくないと扉へ向けた。
掴む手が離れる。それだけで解れた緊張は、しかし後ろに引かれより強くなった。腹に回される手も首に掛かる息も、全てが修の思考を狂わせる。耳を擽る遊真の髪が上げかけた悲鳴を吸い込んだ。拭った筈の涙がまた溜まり始める。
「……その状態でまた明日とか……勘弁してよ、本当……」
遊真の声に体が震える。宥めるためか、手が修の腹を優しく叩いた。
「顔真っ赤とか、汗凄いとか、体震えてるとか、泣きそうとか、声カスカスとか、……こっちはさあ、今のオサムだって、揶揄いたくて揶揄いたくて堪らないのに」
手が腰へと動く。僅かに空いていた隙間すら埋められていく。
「帰せる訳無いじゃん。本当、これだからオサムは…」
生温い。
首に触れた違和感。しかし覚えのある感覚に体が固まった。小さな音が皮膚越しに聞こえてくる。
「…く、空閑…っい…いきなり、何…」
肌を撫で続ける。それの正体が遊真の唇だと気付き、修は困惑と共に名前を呼んだ。
何故今。脈絡の無い。理由がわからない。そんな雰囲気では無かったのに。
遊真が更に修を引き寄せる。強くなる匂いと体温に、自分が息をしているかもわからなくなった。
「鈍いオサムには、これくらいしないとわからないだろうなって」
「だから、な…っ」
溜まっていた涙がこぼれ落ちる。先よりもずっと重く、熱い物が耳を伝った。
「、は…っ…」
鼓膜を揺らす水音が腰に響く。瞬きの度涙が頰を伝う。高い声が自分のそれだと、とても信じられなかった。遊真の舌が繰り返し触れる。触れたところから消えてしまいたくて、唇を噛んだ。
同じ男の、同い年の力。抜け出そうと手を掴み、けれど揺れさえしない。抑え切れなかった震えが声となって漏れ出てくる。
「っん…、」
「…あ、噛むの駄目。開けて」
ほら、と言い、遊真が修の口に指を伸ばす。爪を立て柔く縁をなぞる指に、目の前がチカチカと光った。唇の力が勝手に抜ける。
しかし遊真の指は離れることなく、修の唇を弄ぶ。
「良い子」
「…ひ、…」
耳に注がれる遊真の声。それだけで喉の奥から息がこぼれた。褒める様に唇を指が叩く。
「真っ赤」
「ぁ、…っ…や、…め…」
「林檎みたい」
言葉通り遊真が修の耳を噛む。
熱く柔らかい感覚に慣れ始めていた体は、皮膚が潰れる冷たさに大きく揺れた。
心臓が潰れる。頭が熱い。
修は遊真の手にほんの少し爪を立てた。
「……も…む、り……や…!」
手が一瞬震える。
匂いが薄くなり、次いで背中を覆っていた体温が離れた。名残惜しそうに指が唇を撫でる。
「…残念だけど嘘じゃないみたいだな」
修の体から遊真の全てが消える。
空気を思い出した様に肺が広がり、茹った脳が動き始めた。抜けそうな腰を意識して保たせ、足を動かす。
とてもではないが、振り返る余裕は無い。
一刻も早く此処から、遊真から離れろと体が叫んだ。未だに浮かぶ涙が先の行為を思い出させ顔を熱くする。震える唇を噛むことすら出来なくて、伝う汗に細く息を吐いた。息を吐けば自分の情けない声が耳に蘇り、羞恥に気が狂いそうになる。
自分はどうしてしまったのだろう。扉の取っ手へ手を伸ばす。
遊真が体を取り戻す前。その時だって、今の様なことはした。その先だって経験した。緊張はしたし胸は苦しくなったけれど、でも今の様に酷い物では無かったのに。
掴んだ金属の冷たさに張っていた肩を緩める。
押し込もうとしたその温度を、別の手が奪った。
「やっぱり駄目」
視界が反転する。
不思議な感覚に目を瞬けば、背中に固い物が触れた。
「……く、が」
見上げないと見えない筈の電灯が目の前にある。足裏に床を感じない。電灯を遊真の顔が隠す。逆光で見えにくい表情は、何を考えているかわからなかった。
重力に従い下がった修の手を取って、その甲に口付ける。火傷だってもっと優しいだろう。そう思うほど手に熱が篭る。
振り払って逃げ出したい。心情に従わず震えるだけの体に意識を浸す。
そんな修が見えている様に、遊真は目を細めた。
「おれのこと嫌いになりかけたら言って。…今度は絶対やめるから」
修の手をそのまま床に縫い止める。
近付く体。近付く匂い。歪む視界でもわかる赤。
渇いて引き攣って、ろくに動かない喉が枯枝よりも弱い息を吐く。
「ず、……る、い………」
口端が上がるのを見て、その後。
修の記憶は朧げにしか残らなかった。
「オサ、」
「ああああそういえば菊地原先輩カメレオンについて聞きたいんですけど!!!!」
声を遮り、背を向ける。
つい先ほど別れを済ませたばかりの相手は、挙動不審な修を不快を全面に押し出して睨んだ。
「うっざ…巻き込まないでくれる?」
「いえ本当本当にお聞きしたくてあっ!喉渇いてませんか!?」
「ジュース二本」
「三本でも四本でも!!」
背を押して去っていく。
その後ろ姿を見送りながら頭をかく遊真に、緑川は肩を竦めた。
「あーあ。遊真先輩が揶揄い過ぎるから」
「いやいや、あれはオサムが悪いだろ」
唇を尖らせ眉を寄せる。
遊真の反論に緑川は天井を見上げ、まあね、と頷いた。
「確かに今の三雲先輩、『揶揄ってください』って言ってる様なもんだけど」
「本当、可愛いよなあ。後でキスしてこよ」
「…人のいない所でしてね」
しかし、緑川は不思議だった。緑川だけではない。恐らくボーダーの、二人の関係を知っていた者達は全員不思議に思っている。
修を思ってか…ほぼ間違い無くそうだろうけれど…頰を緩める遊真に首を傾げた。
「遊真先輩、元に戻って確かに大人っぽくなったけどさ。性格が変わった訳でも態度が変わった訳でも無いじゃん?
三雲先輩、どうしてあんな調子なんだろうね」
一番不思議に思っているのは当の遊真の筈だ。ただ誰よりも早く修の変化に順応し修を揶揄い始めたのも遊真。
恋人同士の二人。緑川達が知らないだけで何かしらのやり取りがあったのかもしれない。
遊真は特に大した反応も見せず、緑川に言った。
「おれのこと好きになったんだろ。多分」
唐突な言葉に目を剥く。急に何だと遊真を見据えた。
「…三雲先輩が、今までは遊真先輩のこと本気で好きじゃなかったってこと?」
「そうじゃなくてさ。理性的に好きって言うか…えーっと……」
こちらの言葉を覚え暫く経つ。
それでも完全に慣れてはいないのか、目を左右に揺らした。
「これまでは、ミクモオサムとしてクガユウマが好きだったんだよ」
「そりゃそうでしょ」
「でも今はそれだけじゃなくて…動物としておれが好き、みたいな?」
遊真の言いたいことが上手く理解出来ない。
動物として?
寧ろややこしくなったと、緑川は頭を振った。
「動物って……三雲先輩が動物?どういうこと?」
「おれもオサムもしゅんも、人間っていう動物だろ」
時折遊真は、近界では薄い考えをはっきりと述べる。それにぎくりとした緑川に気付かず、口を動かした。
「これまではどれだけ好きでも、それは『オサム』っていう理性的な部分でしかなかった。オサムの経験とか、価値観とか、おれとの思い出とか、そういうので好きになってたんだ」
修は此処にいない。
しかし遊真は目の前にいる様に、酷く嬉しそうに微笑んだ。
「今はそんなの関係無い。本能的に、動物的にオサムはおれが好きなんだ。
例えばオサムの記憶が無くなったとしても、オサム自身のこともおれのことも忘れたとしても、オサムはおれを好きになる」
緑川は僅かに足を退く。
この男が修に並々ならぬ愛情を注いでいることは知っていた。周知の事実でもあったし、自他共に認めるところでもあった。
けれど改めて、否、生身の体という物を手に入れた彼を、甘く見ていたのかもしれない。
歯を見せて笑う表情は快活そのもので、光すら僅かに見える。
その明るさでもって、遊真は言う。
「ただ大切にして愛してればいいだけなんて…本当、楽過ぎて笑えるな」
きっと心から、本当の言葉を。