そこにあった世界3A
「じゃあ、春日くんの記憶では、俺たちが付き合ってて、一緒に暮らしていたってこと?」
「そうだよ」
「それも最近じゃなくて、ずっと前から?」
「だから、さっきからそう言ってんだろ。俺はここから引っ越してもう長いし、この家も久しぶりだ。まさか、またここに戻ってきちまうとはな」
ソファにぐったりと座り込み、背もたれに頭をもたげると懐かしい心持が戻ってくる。今思えば、ここに住んでいる時の自分は深く孤独を抱えていたのだなと思う。その孤独を埋めてくれたのが他でもない趙だったと今ならばはっきりと分かる。でも……。
「一体、どういうことなんだろうね。記憶喪失……とはまた違うみたいだし……」
「だからぁ、さっきから言ってんだろ。俺はお前が言っていることの方が信じられねぇよ」
先ほど、この家に帰るまでの間に趙に聞いた話はにわかには信じ難く、春日には受け入れにくいものだった。趙の話では、春日は趙とは付き合ってはおらず、相変わらずここで一人で暮らしていて、最近では紗栄子に惚れて結婚まで申し込んだと言うのだ。
「でもよぉ、俺はここの鍵はとうに手放しちまったのに、その鍵が以前の置き場所にそのまま置いてあったってことはよぉ。本当のことなのか? 何がどうなっちまってんだよ」
ここに住んでいる時、鍵はいつも外のベンチの下に隠してあった。その鍵を使って、仲間が時々、春日の不在の時に訪れることもあったりしたからだ。でも、趙と暮らし始めてからはその鍵はしっかりと家主の元に返したはずだ。その鍵が元の場所にあって、趙も春日と付き合っているという事実はないという。
まるで、俺だけ一人、おかしな世界に迷い込んじまったみてぇだ……。
両肘をついて頭を抱える。そんな春日を趙はまだ信じられないと言う顔で見ている。
「なんかさぁ、不思議だよね。ハワイの一件とか、俺たちの記憶が一致しているところもあって、その、いわゆる記憶喪失って状態でもなさそうだよね?」
「記憶はちゃんとしてるっつうの。俺にしてみれば、趙が言っていることの方が訳分かんねぇよ」
二人で暮らしていた家がない。一緒に暮らしていた恋人であったはずの趙が、今は春日の好意をまるで見たことのないようなもののように扱う。長い間かけて二人で築き上げてきた居場所が一気に瓦解したような気がして、ひどく寂しく、頼りない心地だった。
「……ホントに俺を揶揄ってるわけじゃねぇんだよな? ドッキリだったりとか……」
「さすがに冗談にしてはタチが悪すぎるでしょ」
冷めたように言って趙は、まだ春日の正気を疑っているのだろう……静かな目で春日を見ている。少し怒っているように見えるのは何故だろう? と春日が思っていると、目の奥の小さな怒りを隠すように趙は俯いてこめかみを揉んだ。
「さっき、飲んでる途中まではいつも通りの春日くんだったんだけどね。変な技にかかって遅れて作用が出てたりするのかなぁ。今日は帰宅途中に変なスジモンに攻撃されたとか?」
「されてねぇよ。……ん?」
スーツの内ポケットに入れていたスマホが振動して着信を知らせてきた。
「電話だ」
開くといつも通りの待ち受け画面に、難波からの着信が示されている。
「難波からだ。出ていいか?」
「どうぞ」
趙に断りをいれて、かかってきた電話に出る。電話の向こうからはいつも通りの難波の声が響いた。
『おぅ、一番。あのよぉ、この前の飲み会の件だけど、場所探してただろ? 知り合いのスナックが使えそうなんだけど、どうだ?』
「あー、飲み会かぁ」
覚えのない飲み会への提案に、どう答えたら良いかと考えあぐねていると趙が片眉を上げて手を伸ばしてきた。
「ちょっと待ってくれよ」
伸ばされた趙の手にスマホを渡す。
「もしもしぃ。ナンバ? 春日くん、今、すげぇ酔っ払っちゃってて前後不覚の状態。また明日、電話くれる? うん。そう。俺ぇ? 俺は大丈夫だよ。うん。じゃあ、またね」
通話を切って、趙が春日に向かって眉を上げて見せる。
「サンキュ」
「明日もそんな感じだったら、皆にも話さなきゃだけど、今はまだいいでしょ」
「だな」
趙が再び手を伸ばしてこちら側にスマホを返そうとしたが、その手が春日のスマホのロック画面を見て止まった。
「……この待ち受けって」
「えっ?」
趙がスマホを反転させて、画面をこちらに向けてくる。春日が最近、ロック画面に設定しているのはハワイで皆で撮った写真だ。
「ハワイで撮ったやつだろ」
「……俺がいるけど」
「そりゃあ、そうだろ」
実は以前はハワイで趙と二人で撮った写真をロック画面にしていたのだが、趙本人からさすがに恥ずかしいから止めてくれと言われて、今の写真に落ち着いたのだ。そのことも、目の前にいる趙は覚えていないのだろうなと寂しく感じながら、春日は返されたスマホを手元でいじった。
「なんだよ。嫌なのかよ。趙が二人っきりの写真じゃねぇならいいって言ってたんだぜ」
「いや、そうじゃなくて……」
「なんだよ」
「俺、ハワイになんて行ってない」
趙の言葉でしばし二人の時間が止まる。さすがの春日の背中にも嫌な汗が流れてきて、事態のおかしさがいよいよ身に迫ってきた。
「い、一緒に行ったんだよ。だって、写真が残ってるじゃねぇか」
「……他の写真もある?」
「あるよ」
春日がスマホを操作してアルバムアプリを開いていると、その画面を覗こうと趙が春日の座るソファの横に移ってきた。側にいるとふわりといつもの趙の香りがして、心細さも相待ってか、いつものように触れたくてたまらなくなる。
「こ、これとか」
ハワイで趙と二人で撮った写真などを示して見せる。趙は驚きを隠せない様子で、息を呑みながら春日が送っていく写真を見つめていた。
「……あのさ、もしかしてさ、俺と春日くんが一緒に暮らしてた部屋で撮った写真とかもあったりするの?」
「えっ? ああ」
最近は家で写真を撮ったりすることは少なくなったが同居したばかりの時にはよく撮っていた筈だとアルバムを遡っていく。遡る途中にも、横で画面を覗き込む趙が「ちょっとその写真見せて」と春日の手を止めて、何枚かの写真を見て言葉を失っていた。
「ほら、これだ。引っ越しの時に撮ったやつ」
二人で暮らす部屋に荷物を運び込んで、まだ片付かない部屋の中でそこに佇む趙をスマホに収めた写真。あの時の自分は趙と一緒に暮らせるということが嬉しくて、浮かれてて、引っ越しの途中だというのにスマホを片手に何枚も同じような写真を撮っては趙に浮かれ過ぎでしょ、と笑われていた。
「……春日くん、マジで言ってたんだね」
趙の春日に向けられる眼差しにようやく理解の色が見えて、春日は少し安堵する。
「だから、最初から言ってんだろ」
「……どういう事なんだろう」
考え込むように趙が口元に拳を当てて、目を伏せる。春日はついそんな趙の横顔に見入ってしまう。触れられないと思うと余計に触れたい。指に趙の肌の感触がよみがえる。すぐに触れて、それを確かめてみたい。
「春日くん」
「な、なんだ?」
「見過ぎ」
「わ、悪りぃ」
趙は感情が良く読めない顔をして、春日を見た。
「……春日くんは何で俺と付き合い始めたの?」
「へ?」
思い人に近距離から放たれる予想外の問いかけに狼狽える。
「ど、どうしてって……そりゃあ、お互いに好きだからだろ」
「いや、そう言うんじゃなくて、きっかけは? 春日くん、女の子好きだったでしょ?」
問われて、付き合う前のことを思い出す。確かに趙と付き合う前の自分は、男性である趙とこんな関係になるとは思わなかった気がする。じゃあ、何故、趙と付き合い始めたかと言えば……。
春日の頭にあの夜のことが浮かぶ。趙が自分の中でただの友人ではなくなったあの夜のことだ。趙と付き合い始めてからも、春日は度々、その夜のことを思い出すことがあった。その日の記憶は、春日にとっては未だに思い出してじっくりと眺めることをしたくなってしまう記憶だ。
「趙と俺が付き合い始めたのは……」