そこにあった世界A
淡い照明の中、静かに流れる音楽が耳に触れて、ふと目を覚ますとそこはいつものサバイバーのカウンターで、顔を少し上げると隣には趙の姿があった。
「おっ、起きたね。春日くん、もう限界なんじゃない? そろそろ帰る?」
そう自分に小さく笑いかけてくれるのが嬉しくて、春日は身を起こして趙に向き合った。カウンターの奥にマスターの姿はない。ふと見上げた時計はすでに深夜帯にさしかかろうとしているので、いつものように自分たちに鍵を預けて先に帰ったのだろうと思う。
「……なぁ、趙」
「ん?」
趙も少し酔っているのだろう、サングラスの奥の濡れた目が綺麗で、その目の奥を覗き込むように顔を近づける。
趙とは付き合い始めてから、もう何年にもなる。それでもこんな風に二人っきりで向き合い、顔を寄せると心の奥の方に灯るものがある。
その頰に触れ顔を近づけて、いつものようにキスをしようとしたら、何故か趙はひどく驚いたような顔をして、春日の肩を押して身を引いた。
「春日くん、どうしたの? そんなに酔っちゃった?」
趙がこんな風に春日のキスをかわすのは珍しい。滅多にないことに春日の方も驚いて、少し目を向けて店内を見渡した。でも、確認しても二人で飲み始めた時同様、店内には自分達だけで他には誰もいない。
「二人っきりだろ。ダメか?」
趙に唇で触れたいと思った気持ちが満たされず、口を尖らせて抗議するが、趙は何故か春日の正気を疑うような目をしてこちらを見ていた。
「ダメって……ちょっと春日くん、誰かと俺を間違えてない?」
「はぁ? 俺があんたを間違えるわけねぇだろ」
趙以外の誰と自分がキスをしたがると言うのだろうと思う。そんなことを言われるのはひどく心外だ。でも、趙は何故だが春日の行動が信じられないと言うように驚いた顔をしている。まるで春日が初めて趙にキスをしようとしたかのように……。
「そう言うのは、俺じゃなくてさっちゃんにしなよ」
「……なに言ってんだよ」
続いた趙の言葉に春日の方が驚く。なんだここで、紗栄子の名前が出てくるんだ、と頭の中で自分が趙の機嫌を損ねるようなことを何かしただろうかと考えがぐるぐると回る。
「怒ってんのか?」
ただ考えても思い当たる節はなく、仕方ないので直接的に聞いてみる。
「えっ? なんで?」
「……キスを拒否ったじゃねぇか」
「いやいや、なんで俺にキスすんの、おかしいでしょ」
「はぁ? おかしくなんてねぇだろ。いつもしてんじゃねぇか」
「いつも? 春日くん、どうしちゃったの? 寝ぼけてる?」
不審げだった趙の表情が段々と心配げに変わってくる。春日の正気を疑うような顔だ。春日としてはなんでそんな顔をされるのか分からない。
「寝ぼけちゃいねぇよ。趙こそなんだよ。なんか怒ってるだろ」
「別に怒ってないけど」
「じゃあ、なんでさっちゃんにしろなんて言うんだよ」
「なんでって……さっちゃんは君の好きな子だろ」
「はぁ?」
趙からの突拍子もない言葉に春日の頭の中がさらに混乱する。そんな春日の様子に趙が訝しみを深くした。
「えっ? 何? 俺、おかしなこと言ってる?」
「言ってんだろ! 俺がお前以外を好きになるわけないだろ。やめろよ、変なこと言うの」
春日の言葉に今度は趙が驚いたように固まって、何故か、ひどく動揺した様子で視線を彷徨かせた。
「えっ? 何? エープリルフール? そんな時期だっけ?」
軽口を叩いて誤魔化そうとしているがサングラスの奥の目が揺れてるのが分かる。伊達に長く一緒にいるわけじゃないと、春日はカウンターに置かれた趙の手をとった。
「趙。俺が今更、お前以外に目を向けるわけないだろ」
「……」
趙の瞳の動揺の色が濃くなる。どうしてこんなに趙が狼狽えているのか、春日にはよく分からない。
「趙?」
「……春日くん、どうしちゃったの?」
「別にどうもしねぇよ。お前こそ、変だぞ。なんかよぉ、俺と付き合ってること、忘れちまったみてぇな感じがする」
春日の言葉に今度こそ、趙が固まったのが握り込んだその手からも伝わってきた。
「……付き合ってるって、誰と誰が?」
そう聞く趙の声が動揺に掠れてて、春日の背に嫌な汗が流れた。
「誰って、俺とお前がだろ?」
恐る恐る聞くと、趙はとんでもないことを聞いたというように今度こそ目を見開いて春日のことを真っ直ぐに見つめた。
「……俺は春日くんと付き合ったことなんてないんだけど」