あさ 飲み過ぎで記憶を失くしたことは数多く、今更驚くことでもなかったが、今朝のそれは今までのものとはわけが違っていた。
朝、目覚めた自分の脇で横に寝ていたのは、心からの信頼を寄せている仲間で、そんな関係になるなんて夢にも思っていなかった相手だ。そんな相手が全裸(自分も何も身につけていなかったので多分!)で布団を抱え込むように丸くなっている。昨夜は確か、仲間で飲んでいて最後はサバイバーに帰ってきたはずだった。いつもの調子なら、サバイバーでも飲み直したはずだがその後の記憶がない。
周囲を見渡せば、いつも寝泊まりしているサバイバーの二階ではなく、見知らぬホテルの一室で、これはどう考えても何かしでかした予感しかしない。酒の上での過ちは今までにだってなかったわけではない。けれど、相手が知り合いで、しかもとても信頼している仲間で、おまけに同性であることは初めてのことだった。
相手を起こさぬように春日は傍で眠る趙の寝顔を見つめた。記憶はないがホテルの全裸でベッドで寝ていたということは、そういうことなのだろうと思う。ということは、昨夜、自分は趙と……穏やかに眠る男と、様々なあれこれをしたということなのだろうか。今まで、同性相手に性的欲求を感じたことはなかったが、眠る趙の顔を見ていると腹の奥、静かに湧き上がってくるものがあった。それは明らかな欲求で、しかも深い親愛に根付いていると思えるものだった。
俺は趙が好きだったのか……。
趙の隣は居心地がいい。彼のことを得体が知れないなどと評する人間がいるのは知っているが、春日にとってみたら趙は懐に入れた人間にはとことん優しく、自分がどこまでも心の許せる相手だった。でも、最近、趙が他の仲間と楽しそうにしているのを見るとモヤッとしたり、彼の優しさが他の人間に向けられていると嫉妬のような気持ちが出てきたりしていた。
あれもそれも、全部、趙のことが好きだったからだったのか……。
改めて、自分のそんな気持ちを意識すると胸の中が湯で満たされたみたいにポカポカしてくるのが分かった。自分は趙が好きで、趙の方もこんな関係を許してくれるほどには自分のことを好いてくれている。そう思うと、腹の底がソワソワとしてきて、信じ難いぐらい幸せだと感じることが出来た。
静かに顔を趙に近づけて、その顔をまじまじと眺める。思ったよりまつ毛が長い。あどけない寝顔が可愛い。いつも笑みの形に軽く横に引かれている唇も、今は緩んで少し開いている。
この唇とキスをしたりもしたのだろうか……。
触れて、改めてその感触を確かめてみたい気もするが寝ている相手に了承もなしにそんなことをするのは流石にはばかられる。趙が起きたら、改めてキスをしていいかどうか聞いてみようと思って堪える。後はどんなことをしたのだろうと考えると、昨夜の記憶をすっかり忘れ果ててしまっているこの頭が憎い。どうせならしっかり覚えておいて、繰り返し思い出して楽しみたかったのに……何故、何も覚えていないのか……。
せめて、髪に触れるぐらいは大丈夫だろうと指を伸ばして、普段は後ろに流して固められている髪に触れる。今は洗い立てで無造作に顔に流れる髪に触れる。自分のとは違う、艶やかでするするとした感触が気持ちいい。と、触られて目を覚ましたのか、趙の瞼がゆっくりと上がった。サングラスで隠れていない、少し茶色がかった瞳がこちらに向けられて、どきりとする。
「お、おう」
思わず、緊張してかける言葉を失い、変な調子での声掛けになる。趙は少し驚いたように春日を見た後、先ほどの春日同様に自分達の今いる場所を確認するかのように室内へと視線を投げた。そして、身を起こして、掛け布団を剥いで覗く。目を覚ました春日も全く同じことをしたので気持ちは分かる。予想通り、身を起こした趙も何も着ておらず、それにひどく驚いた様子だった。
「かすがくん……これ……何?」
ついぞにない、唖然とした様子で問われて、春日も動揺する。
「えっ、いや、お前も覚えてないのか?」
「……」
趙が顎に手を当てて、しばし記憶を辿るそぶりを見せる。
「……俺たち、最後はサバイバーでみんなで飲んでたよね?」
「そうだな」
「……いつ、こんなとこに来たの?」
「いや、俺も覚えてねぇよ。サバイバーまでは記憶があんだけどな……」
お互い全裸で、見知らぬホテルのベッドで……昨夜の記憶が二人ともないと来たら、どうしていいのか分からない。趙は思い付いたように起き上がって、ベッドの脇の蓋のないゴミ箱を覗いて戻ってきた。
「何もない……けど、なんかしたのかな、俺たち」
「さぁ……どうなんだろうな……」
ベッドの周りを見渡せば、バスローブが脱ぎ捨ててあり、衣類は壁側のハンガーにきちんとかけてあるのが分かった。どうやら衣服を脱いで、風呂に入るぐらいの理性は昨夜の自分達にはあったらしいことが分かる。が、それだけでそれ以降は何も分からない。
お互いに昨夜の記憶を失っている状態では、正解の導きようがない。春日としては、趙が覚えてくれているのではないかと思っていたので、今の状況はさらに予想外だった。趙は何やら思い悩んだ顔をして考え込んだのち、言いづらそうにこちらを見た。
「……おれが……俺が春日くんを誘ったんだよね?」
申し訳なさそうにそんな風に言われて、心外だという気持ちが出てくる。先程、趙への自分の気持ちを確かめたばかりだ。
「そこは俺だろ」
それだけは自信を持って言える。今まできちんと意識してはいなかったが心のどこかで、ずっと趙を求めていた。何かあったのだとすれば、自分が行動を起こしたのだろうと思う。なのに、趙は納得がいかないという顔をして春日を見た。
「何で春日くんが?」
「えっ? そ、そりゃあ、だって……」
改めて問われると口にしづらく恥ずかしい。趙もすっかり忘れてしまっているなら、改めて気持ちを告白して拒絶されてしまったら……とも考えてしまう。覚えていないぐらいということは、昨夜のことは酔った勢いだけでそんな気持ちは微塵もなかった、と言われる可能性もあるわけで、趙への気持ちに気がついてしまった今、そんな風に返されてしまったら立ち直れない自信があった。
そんな風にして気持ちを口にするのを躊躇っていると、趙が大きなため息をついた。
「何があったか分からないけど、ごめんね。お互い忘れてる訳だし、何があったにせよ、なかったことにして忘れよう」
趙が珍しく乱暴に頭を掻いて、大きく息を吐く。二人の間であったことを後悔するかのような趙の口ぶりにショックを受ける。
「な、何でだよっ」
思わず抗議の声をあげると驚いたように趙は春日の顔を見た。
「何でって……だって、気まずいだろ、仲間内でこんなの」
「気まずくなんかねぇよ」
言い切って、シーツの上に出ていた趙の手をぐっと掴む。趙がまた驚いたように固まって、掴まれた自分の手と春日の顔を交互に見た。
「……春日くん、もしかして、責任感じちゃってるの?」
「えっ?」
ボソリと言われてうまく聞き取れずに聞き返すと趙が片頬を上げて笑いながら顔を上げた。
「寝ちゃったから責任感じてるんでしょ? いいんだよ、そんなの感じなくて。だって、大体、俺は男だし、力づくでどうこうされる相手でもないんだしね」
だから、昨夜何があったって気にすることはない、と言外に含まれて、カッとなる。
「なんでそんなに無かったことにしてぇんだよっ。そりゃあ、酒の上の過ちかもしんねぇがそこに本当の気持ちがあったっていいだろっ」
春日の言葉に、趙が今度は春日の言葉の意味が分からないと言ったように目を細めた。
「本当の気持ちって……」
「俺は趙が好きだ! 昨夜のことはわからねぇが今だってすげぇキスしてぇし、それ以外のこともしてぇっ」
勢いで言ってしまってから後悔するが、言葉は取り戻せない。せめて嫌ってくれるな、と握った手に力を込める。
「だから、なかったことにしねぇでくれよ」
思いが伝わるようにと真っ直ぐ趙の目を見ると、趙はぐっと口を結んで顔を赤くした。
「……ほ、本気で言ってる?」
「こんなこと冗談で言わねぇよ」
「………」
趙が黙り込んで赤い顔を伏せる。脈がないという表情ではない気がするのだが、よく分からない。
「趙?」
顔が見たいと下から覗きこもうとすると、不意に伸びてきた指に顎を掴まれた。そのまま顔を寄せられたと思ったら、唇に柔らかく濡れた感触。それがキスだと気がついた時には、唇は離れ、こちらの反応を伺うような目をして、間近で趙が春日を見ていた。
「……いやじゃない?」
趙の言葉に彼もこちらの気持ちが分からず、不安で探っているのだと分かる。それだけ趙も自分を思ってくれているのだと気がつく。胸が熱くなって握った手を解いて、こちらからも趙の頬に手を伸ばした。
「だから、してぇって言ったろ」
顔を傾けて、ゆっくりと唇をつける。
「……っ」
趙の唇はぴくりと一瞬だけ揺れて、その後は春日のキスに応えてくれた。幾度となく角度を変えて、その感触を確かめるように口付けていくと胸が高鳴ってきて、本当に自分は趙が好きなのだと、そして、趙も同じ気持ちでいてくれるのだろうと実感が出来た。
永遠に思えるような、それで一瞬のようなキスを終えて、唇を離し、お互いの目の奥を覗き込む。
「色々と順番が違っちまったみたいだが……好きだぜ、趙」
「……うん」
頷いて伏せる顔が可愛い。もう一度、口付けたくなるが普段より口数の少ない趙にあまり一気に攻めると逃げられそうで怖い。ここは我慢だと身体を離した。今は、お互い全裸で、ベッドの上で、下着すら着けていない状況なことを改めて思い出す。こうなってくるとより昨夜のことを思い出せないことが悔やまれた。
「……着替えて帰るか」
「……そうだね」
ベッドを降り、赤い顔をしながら、お互いに背を向けて服を着る。と、何やら洋服が湿っぽい。ジャケットがじっとりと水を含んで中途半端に乾いた気配があった。
「あれ、これって……」
趙を振り返ると、趙も革のジャケットを手にこちらを振り返っていた。
「思い出した……思い出したよ、春日くん。昨日の夜……」
「そうだ、サバイバーで小火があって……」
「消防車が来て二階が水浸しで……」
「俺たち、ホテルに避難してきたんだったな」
昨夜は足立とサバイバーの二階で寝ていたら足立の寝タバコから小火が出て、駆けつけた消防車の消火活動により酔っ払い三人は水浸しになったのだった。その後、自宅に帰る足立と別れ、趙と春日は寝る場所を探してホテルに入った。風呂に入ったが、二人とも下着までびしょ濡れで、仕方なくバスローブのみでベッドに入ったはずだったが……。
「バスローブ……風呂上りは着てたよね?」
「暑くて脱いだな、これは」
きっと寝酒と称して、ホテルでさらに二人で酒を入れたのが良くなかった。二人とも前後不覚なほどになって寝てしまい、バスローブをちゃんと着て寝たかは定かでない。だから、今朝の状況かと改めて顧みて、春日と趙は顔を見合わせた。
「……何もなかったんだね」
「そうだな」
どうやら先ほどのキスが、自分たちがする初めてのキスだったと気が付いて、さらに顔を真っ赤にして、二人は逃げるようにしてホテルを後にするのだった。