結婚しよう「なあ、おい」
志那虎が声をかけてきたので、河井はスマートフォンに触れる手を止めた。
「何ですか?」
河井は台所で二葉から送信されてきた新しいレシピをチェックしているところだった。
ソファに座った志那虎は、新聞を膝に置いたまま神妙な顔つきで言った。
「オレたち、結婚しねえか?」
「はあ?!」
河井はぽかんとして、そのまま数秒動かなかった。
「結婚って…今、僕たちとっくに結婚してるようなもんじゃないですか?」
カミングアウト後、東京某区の河井のマンションで2人が同棲を始めてから10数年経っていた。
京都の志那虎陰流本家は伊織に任せてきた。
伊織には妻のオリビエがおり、孫娘が3人もいる。
「志那虎陰流の後継は金髪碧眼の女だ。そんな時代なのだな」
京都はもう自分の居場所ではないと感じたのだろう。
かといって隠居の身には甘んじる事もできなかったらしい。志那虎は東京で小さな分派の道場を開いた。
そこで孫たちと同じ世代の者たちを教える事に生き甲斐を感じていたようである。
河井はピアニスト兼指揮者となっていた。都内の音大の客員教授も務めており、国内外のコンサートと合わせて多忙を極めた。
音大時代からのアパートでは当然手狭になったので、2人の収入も鑑みて10数年前に転居したのが3LDKの現在の住まいである。
家事は分担制としたのだが、在宅時間が長い分志那虎が担う確率が多かった。
幼い頃から「躾」と称して道場の掃除などをさせられてきた彼には、難しい事ではなかった。
但し料理の腕は、学生時代から1人暮らしが長い河井の方が長けていた。在宅時の料理はほぼ彼の役割となった。
二葉から時折スマートフォンに送られてくるレシピで、志那虎家の味もだいぶ身についたようである。
「いやパートナーシップとか言っても、これは結婚じゃないだろう。オレはお前と、本当の結婚がしたいんだ」
志那虎のあまりに真剣な眼差しに、河井は戸惑った。
「本当のって、でもどうやって?」
志那虎が前のめりに顔を寄せる。
「ドイツに行くんだ。あそこなら同性婚ができる。
それにお前、ベルリンフィルの指揮者の指名、来てたんだろ?」
「…知ってたんですか」
河井は小さなため息をついた。
「お前だってドイツ、本当は行きたいだろう?」
河井は向かいのソファに腰を下ろすと、少し大袈裟に『やれやれ』というポーズをした。
「でも、あなたはどうするんですか?道場は?剣道はどうしていくんですか?」
「東京の道場は、後継者がいくらでもいる。オレはオレでドイツに道場を作るんだ。」
「ええっ?!」
あまりに唐突な発言に、河井は目を見開く。
志那虎は更に語気を強くした。
「いいか、よく聞け。これは先方から来た話なんだ。数は少ないがドイツも日本の剣道はあるぞ。
ドイツ次世代の連中にも剣道を志すヤツが少なからずいる」
さらに彼のスマートフォンを開いて、画面を見せようとした。
「具体的な話まで出ているんだ。場所はだな…
ええと、これはどうやるんだ?」
「ああ、もう…」
志那虎は基本的にITに疎く、河井に頼る事が多かった。
河井はといえば譜面さえデジタル機器で持ち歩ける状態である。
「ベルリンのこの場所、知ってますよ」
マップを確認した河井が説明しようとした途端、着信音が鳴る。
「万梨亜ちゃん」
河井が呟くと志那虎が『神技』でスマートフォンを奪い取った。
「万梨亜か?!どうした?皆元気にしてるか?」
画像が送られてきたらしい。
「ずいぶん可愛くなったじゃないか。恵摩も沙羅も大きくなったなぁ。
…そうか、もうそんな技ができるのか。大したもんだ、さすがオレの孫だな」
先ほどまでの緊張感はどこへやら、志那虎の表情が一気に緩み崩れ出した。
河井は肩を落として一緒に笑うしかなかった。
孫たちとの通話が一通り済んだ後、河井が吹き出しながら言った。
「…本当に、お父様そっくりになりましたね。
伊織君にはあんなに厳しかった癖に、お孫さんたちには激アマなところとか…」
「う、うるさいな。お前も孫を持てばわかるぞ」
志那虎がはにかんだ様に横を向いてスマートフォンを置いた。
「持たなくてもお孫さんたちの可愛さ位わかりますよ。
それにその顔立ちも…」
白髪混じりとなった横顔を見ながら河井が呟く。
「髭を蓄えた時は瓜二つでしたね」
「ああもう、だから髭はもう止めようと思った。だからお前も止めろ」
河井も指揮者としての威厳を示したいからか、口髭を生やす時がある。
概ね志那虎には不評だった。
「はいはい」
河井は仕方なさそうに曖昧に答えた。
そんな河井の髪にも白髪が混じるようになっていた。
「肝心の本題に戻るぞ。」
志那虎が再びテーブル越しに顔を寄せてきた。
「オレはベルリンのあの場所で道場を開く。住まいはその上のフロアだ。
そしてお前はベルリンフィルの指揮者になる。どうだ」
河井はその言葉を噛みしめ直して無言になった。
「結婚しよう、河井」
「わかりました」
気が付いた時にはそう答えていた。
2人はどちらともなく立ち上がり、ハグをした。
「あなたがこんな大胆な決断をするとは思わなかったな。
アラカンにして海外移住、同性婚とは…」
肩を抱きしめながら、笑い声と共に河井が言った。
そして少し間を置いて囁いた。
「日本に未練は無いのですか?お孫さんたちは?」
「それは無いと言えば噓になるが…
今はアレさえあれば、世界中どこにいても繋がれるじゃないか」
彼の目線は卓上のスマートフォンだ。
「それもそうですね。
僕も今教えている学生たちには寂しい思いをさせてしまうけれど…
web上で講義もできる時代ですし時々は帰って来れますからね」
河井もいろいろと頭を巡らせた。
長岡に残してきた貴子、響。——響もピアニストとして各地を巡る身となり、この家に訪れる事もあったが。
しかし、答えは決まった。
ベルリンの道場開設にはスコルピオン、ヘルガを始めとして子世代まで、多くのドイツメンバーが尽力してくれた。彼らもまたそれを必要としていたからである。
渡独の日程はとんとん拍子に進んでいった。
道場兼新居が完成し、移住手続きも一通り済んだ。
近くに公園もあり、小学校も隣接する。こじんまりとしているが快適な場所だ。
国籍取得はドイツ暮らしが長かった河井が先にできそうだが、志那虎は未だ先になる模様だ。スコルピオンが「技能を持っている外国人」として便宜を図ってくれる、とは言っていたが。
ともあれ入籍は先延ばしになってしまった。
近隣には1890年に建設されたという荘厳な教会があった。
それを2人で見上げ、先ずここで挙式をしてしまおうという事で意見が一致した。
そして挙式当日。
2人は白いタキシード姿で入場した。
志那虎はオールバック気味のリーゼントに整え、いよいよ父親の面影に近くなっていた。
河井は髪に白いものが混じりながらも、美しさは残していた。
ともに面持ちはやや緊張気味ではあった。
式には2人の親族は勿論、日本Jr.の親子世代、そして地元ドイツメンバーたちなどの多くが訪れた。
竜児は三条加奈子と結婚。三条財閥の援助を受けながら大村ジムのトレーナー、蔵六死後はオーナーを務めていた。
2人の間に高嶺竜童は生まれた。彼は当初は父親同様ボクサーを目指したが、蔵六亡き後は医大に進学。大村医院の医師となっている。
石松は母親や弟夫妻、妹夫妻らと共に香取漁業合資会社を設立。
漁業や加工品卸などを営み、小さいながらも一国一城の主となった。
独身だが数多くの甥っ子や姪っ子に囲まれ、全く孤独ではないようだ。
剣崎は剣崎グループのCEOに就任。
主要な仕事は幹部に任せ、本人は愛妻・菊と共に海外の別荘などで悠々自適に過ごす事が多くなった。重要な指示はPCやスマートフォンで済ませられる時代である。
2人の間には麟童が生まれたが折り合いが悪く絶縁。
麟童は三条一菜(加奈子の兄の子)と結婚、2男1女を設けている。
親夫妻は密かに孫たちの様子も含め、伺っているようではある。
影道一族では嵐が渾身によって著しい成長を遂げ、無事総帥の座に就く事ができた。
殉もようやく隠居の身に落ち着いていた。彼もまた、年齢を重ねるにつれ人間が丸くなったらしい。
「親子らしい会話」というものが、2人の間で交わされるようになったのだ。
歳月は確実に人々を変えていた。
牧師が開式を宣言した。
巨大なパイプオルガンが、ウォルトンの戴冠式行進曲「王冠」を奏でる。
定番の「結婚行進曲」も良いのだが、こちらの方が僕たちの新しい門出に相応しい、という河井の意見で決めたものだ。
列席者が立ち上がり見守る中、2人は神妙な面持ちで、同時に祭壇に向かった。
牧師がドイツ語で、「誓いの言葉」を読み上げる。
“Ja”
と2人は答え、指輪を交換。
そして誓いのキスをした。
署名をして牧師が閉会を告げる。
2人は腕を組み、こぼれんばかりの笑顔でバージンロードを歩いた。
式の後はブーケトスならぬ男性向けのブロッコリートスが行われ、志那虎は石松に、河井は響に、それぞれ投げつけた。
「あ~あ、お前らここまでやるとはな」
ブロッコリーを片手に呆れたような笑顔で石松が答える。
「お前も身、固めたらどうだ」
「このトシでかい?冗談はよせやい、ダンナ。
オレはな、今のままで十分だぜ」
石松は鼻の下をこすり上げながら、得意そうなポーズをとってみせた。
「叔父さん…」
響は少し戸惑ったようである。
「まずはおめでとうございます。でもこれは…」
「響、すまない。僕ができなかった事を君に託せたら、という身勝手な願いだ。
姉さんの為に…」
河井は眉をひそめて言った。
「……」
「君が僕に似ていて、ピアノに全霊をかけているのは知っているよ。
でももしそんな機会が訪れたら…と願わずにはいられないんだ。
僕の我儘だな」
「ううん、気にかけてくれてありがとう、叔父さん」
傍らに佇んでいた貴子が涙ぐみながら「おめでとう、武士」と抱き着いてきた。
「ありがとう、姉さん」
こんな風に姉と抱き合ったのは何年ぶりだろう。
しみじみと思わずにいられない抱擁だった。
二葉も伊織もただただ涙、涙である。
「兄さん…」
「父上…」
声を合わせて「おめでとうございます!」と言った後、号泣する始末だった。
オリビエの方がすっかり嫁として落ち着いた様子で、「お義父様、この度は誠におめでとうございます」と堪能な日本語とともにお辞儀をした。
そして金髪の孫たちも「おじい様おめでとう!」と笑顔で取り囲み始めたものだから、志那虎の顔は緩みっぱなしだった。
「河井さん、志那虎、おめでとう」
少し遅れて高嶺一家が声をかけてきた。
竜児は少し照れた様子で、「ホント、オレも正直びっくりしたよ。カミングアウトの時でも十分びっくりしたのに…」
と言葉を区切る。
後から竜童が「叔父さんたち、おめでとうございます。道場も見てきましたが凄いですよ、本当に」と続けた。
「やれやれ、おめえらにしちゃあ随分派手な事をやったじゃないか」
かなり遅れて剣崎夫妻が登場した。
「スーパースターは最後に登場しなくちゃな」
相変わらずの調子である。
横にいる菊もクスクス笑っていた。
少し距離を置いてだが麟童夫妻も現れた。
父親はシカトだが新郎新夫には明るい笑顔を見せ
「叔父貴ら!おめでとう!」
とそれぞれ手を取って祝ってくれた。
更に影道親子も姿を見せた。
一定の距離感はあったものの、すっかり親子らしい佇まいが見て取れた。
控えめではあったが、彼らなりの祝いの言葉をかけてくれた。
何だかんだと言いながらこの「血族」は旅費の関係で、剣崎のチャーター便に一緒に乗ってきたのに違いなかった。
祝賀パーティーはスコルピオンらの助力もあり、道場近隣のドイツ料理の老舗を貸切る事ができた。
店内は広々として、中世のものらしき甲冑も飾られている。
ジャグラーが手品を披露し、吟遊詩人がギター抱えて歌を歌う、まさにパーティーらしい演出だ。
振舞われるドイツ料理は見た事もないような豪勢なものばかり。
石松はガチョウの丸焼きやら狩猟用のようなナイフに、「さすが肉食の国だな」と感嘆の声を漏らした。
改めて新郎新夫の挨拶となった。
人前に立つ仕事柄、河井が闊達に話し出す。
「お集まりの皆様、ありがとうございます。お蔭様で僕たちも新たな門出を迎える事となりました。とりわけ現地の皆様には多大な御支援を賜り、こうして新居兼道場を構える事ができました」とスコルピオン、ヘルガとその親族らに目をやる。
そして顔を一同に向け「本当にありがとうございました」と頭を下げた。
拍手と歓声が沸き起こる。
河井が志那虎に視線を投げた。
彼は表情を変える事なく、
「ありがとよ」
の一言で終わった。
志那虎らしいといえばそれまでなのだが、呆気にとられるやら吹き出すやら反応は様々だった。
「いよっ、ご両人!」
石松の音頭で拍手やクラッカーが鳴り響き、陶器製のビールジョッキやモーゼルワインで祝杯が上げられた。
二人が少々照れた様子で着席すると、お祝いやら冷やかしの声がごったがえす。
やがて各々が結婚祝いを手渡した。
先ずは石松が自家製水産加工品を三箱。
「これから滅多に口にできない味だぜ!」
と得意げだ。
竜児と加奈子夫妻からは、東京の高級食材や漆器、菓子などが振る舞われた。
トレンディな菓子選びなどは竜童が一役かったらしい。
志那虎家も老舗の和菓子は勿論、漬物、柚子味噌、七味など京都ならではの品々が取り揃えられた。
河井家からは勿論コシヒカリ、日本酒、越後味噌、あんぽ(長野のおやきのようなもの。皮は米粉)などやはり地元色溢れるものばかりである。
影道一族からは温泉の湯の花、富士の樹海から採取したという薬草の数々が献上された。元総帥・影道殉が「これは古来から幕府に献上されたという霊薬でな、『肉蓯蓉』『黄耆』『人参』『五味子』と呼ばれる貴重なものだ」と説明した。勿論聞いた者は一同、『人参』以外ちんぷんかんぷんな表情をするばかりだった。
麟童夫妻からは一菜が見繕ったと思われる可愛らしい東京銘菓や、手作りの佃煮などが贈られた。
皆、『日本の味』が恋しくなる事を慮っての事のようだった。
そして満を持したかのように、剣崎が立ち上がる。
「そらよ」
と何かを放り投げてよこした。
思わず志那河が受け取ると、リボンのかかった車のキーである。
「これは…フォルクスワーゲン?」
覗き込んだ河井が呟く。
「特別仕様のセダンだ。せいぜい大事にしろよ」
事も無げにそう言うと、贈り主は腰かけた。
「ぼ、僕は左ハンドル慣れてないんですけど」
慌てて河井が返すが、
「んなもん3日もあれば慣れるぜ」
とぶっきらぼうな答えが返ってきた。
一方志那虎は免許は持っているが二輪しか乗っていない。(実は学生の頃から密かに二輪も趣味にしていた。)
「それに駐車場も…」
と言いかけるとヘルガが
「ドイツは車社会。すぐに何とかなりますよ」
とアドバイスした。
「…とにかく…ありがとう剣崎君」
途方もないプレゼントに戸惑いながらも、2人は礼を言った。
祝賀会は大盛況のうちに終わった。
膨大な花束と贈り物の山にため息をつきながら、2人はようやく新居に落ち着いた。
正装を脱ぎシャワーを浴びた河井が、人心地つこうと寝室に戻ると、一足先に浴衣に着替えた志那虎がベッドに腰かけていた。
「こういうの、新婚初夜っていうんですかねぇ?」
河井が含み笑いをしながら言った。
「今更初夜も何もあるか。何十年の付き合いだと思って…」
そう言いかけた志那虎が
「だが『結婚式』を上げてからは『初夜』か?」
と真顔で見つめて来た。
河井は思わず吹き出しながら、
「そうですね」
と答えた。
「そういう気分になるのも悪くねえな」
志那虎が表情を変えずに唇を重ねてくる。
河井は笑顔のままそれに応えた。
それを繰り返しながら二人はゆっくりと身体を横たえていった。
そして数か月が過ぎた。
道場の運営は順調で、スコルピオンらの配下の者達から地元の若者、子供達まで多くの生徒が集まった。
「Shinatora Kageryu Dojo」という看板の下、志那虎は「シナトラセンセイ」と呼ばれ生徒達に慕われていた。
彼のドイツ語はまだ片言だったが、ヘルガの部下で日本語に長けた生徒が通訳を務めてくれ、生徒達とのコミュニケーションも潤滑に進んでいった。
しかし道場の運営はまだ志那虎一人では難しく、コンサルタントを頼む事になった。
河井はといえばベルリンフィル専任の指揮者として、オーケストラのメンバーとのミーティングが欠かせない。
合間を縫ってピアニストとして海外コンサートに出かける。
以前の教え子達へのweb講義をする事もあり、在日時以上に多忙を極めた。
広い新居の家事は、ヘルパーを頼む事が多くなった。
件の「新車」は近隣に良い駐車場を見つける事ができた。
道場の真ん前に置く事もできたが、高級車とあってはそうもいかない。
河井は仕事の合間を縫って、地道に左ハンドルに慣れていった。
そんなある日。2人に貴重な休暇が訪れた。
ここぞとばかりに長距離ドライブに出かける事に決めた。
目的地は思い出の場所、ライプツィヒである。
——ライプツィヒ。
それは遠距離恋愛中の2人が初めて「長期休暇」を過ごした場所。
河井の留学時代、志那虎が伊織の夏季合宿を理由に訪れたのである。
まだ秘められた間柄の彼らが、初めて人目を気にせず自由を満喫した、思い出深い場所だった。
「もうこんな日は二度と来ないと、お前は言ったな」
「ええ、そうでしたね」
志那虎の問いに、ハンドルを握ったまま河井が応える。
「でも来ちまったぜ」
「そうですね。本当に夢のようです。奇跡のようです」
河井はしみじみと呟き、微笑んだ。
志那虎は腕を組み、フロントガラスの向こうに目をやる。
「綺麗な空だな」
「本当に。あの日のままですね」
ナビを確かめながら河井が言った。
「さあ、もう街が見えてきましたよ」
思い出の道は、2人の未来への道へと変わろうとしていた。
【一応 完】
(後で追加修正するかも)