ヌンは、ろなるどくんのお兄ちゃん。
では、あるけれど、も!
「ジョンちょっとお兄ちゃんしてて!」
「……ヌ〜」
最近の不満。それは、どらるくさままでヌンのことをお兄ちゃん扱いしようとすること。
ヌンはどらるくさまのクラバットをしゃぶりながら、こちらに向けてチラチラと脳みそを見せつけてくるサイコータム君に妬ましい視線を向けた。いつもヌンの頭を撫でてくれるどらるくさまの長い指は、今は彼の背中に伸びている。
今日はふくまさんが迎えにくるまで、サイコータムくんを預からなくてはいけないらしい。目を離すたびに自爆やらロシアンルーレットやらを始める彼に、どらるくさまもろなるどくんも手を焼いている。
ヌンはお兄ちゃん。でも、どらるくさまの前ではいつまでも唯一のかわいいヌンでいたいし、ろなるどくんが別の子のお兄ちゃんになってしまうのも、なんか、ほら、ちがうとおもう。
ぐヌヌ。天然困らせたがりのサイコータムくんは、二人の視線を独り占めしたままくるりと顔だけをヌンに向けた。
「転生するなら無機物派?」
「ヌ!!」
中途半端に心覗くのやめてよ。ヌンは来世もどらるくさまのアルマジロになるの!
とはいえ、今のヌンはジェラシーの化身。先ほどまで口に含んでいたクラバットも、もう一度しゃぶるのを躊躇するほどにべしゃべしゃだ。
ヌンは理不尽だという自覚のある怒りを鎮めるため、どらるくさまの腕から飛び降りて寝床へと転がった。
お城にいたころは、ヌンだけのどらるくさまだった。どれだけ甘えても邪魔をされることなどなかったし、何をしていてもヌンを優先して構ってくれた。
ここに来た初めのころもそうだ。ろなるどくんは誰よりもヌンを甘やかしてくれた。ヌンがこうして拗ねるだけで、たくさんお菓子をくれて、たくさん遊んでくれた。それなのに。
『お兄ちゃんしてて!』
ヌンが本当に赤ちゃんならよかったの?
どらるくさまは、ヌンがテニスボールくらいの大きさになったら、また一番に愛してくれる?
——子アルマジロ時代に戻りたいな。
「そうか。わかった」
「ヌ!?」
気づけば外は薄暗く、サイコータムくんもオータムに帰ったようだった。ソファではろなるどくんが眠っていて、棺桶からはどらるくさまの静かな寝息が聞こえて、目の前にはどらるくさまのお母さまがいる。
「お前はドラルクの血を与えられたんだ。大丈夫、任せてほしい」
驚いて目を丸くしている間に、ヌンのおでこにしなやかな指が置かれた。ヌンはそこで、再び意識を失った。
***
「えっ、ジョン!? え、えっ!?」
「ニュ……?」
ろなるどくんの大きな声で目が覚める。重たい瞼を開くと、ヌンの視界にはキラキラの水色が広がっていた。ろなるどくんだ。
「ニュニュニュ〜……」
……あれ? 朝の挨拶がしたいのに、うまく言葉が出てこない。そもそも、ヌンのベッドはこんなに広かっただろうか。
「ニュニュニュニュニュン……?」
「ジョン? ジョンだよな? え!? ちっちゃい! かわいい! ……じゃなくて、変な吸血鬼にやられたのか!? 体大丈夫!?」
ちっちゃい?
ヌンは慌てて自分の体を見下ろした。サッカーボールを蹴ることなどとてもできない足。スプーンを掴むことすら難しそうな手。変な夢だったと流しそうになっていた、昨日の紅い目が頭をよぎる。
——絶対どらるくさまのお母さまだ!
「ニュニュニュニュニュン、ニュンニュ、ニュニュー……」
「うん? まだ喋れない? 俺のことわかる?」
ろなるどくん、ヌンね、昨日……。そう言いかけても、ろなるどくんはへにゃりと顔を綻ばせたままヌンの頭を撫でるだけ。口ではヌンを心配してくれているけれど、どうも表情と一致していない。
どうやらヌンの言葉はろなるどくんに通じていないらしい。どうしようかと頭を悩ませるヌンを、ろなるどくんは記憶がないと解釈したようだ。
「どうしよう、ドラ公いつ起きるかな。ジョン、大丈夫。怖くないよ。俺はあの、ロナルドっていって、退治人で、ええと、ほら、ジョンの……ジョンの……」
ろなるどくんは言葉を探している。ねえ、ろなるどくんにとってヌンはなに? おともだち? 同居人のペット? 一緒に住んでるアルマジロ?
ろなるどくんは頬を掻きながら、眉を下げて笑った。
「——家族だよ」
「っつーわけで、ジョンが子供に戻っちまったみてえなんだ。昨日は吸血鬼にも会ってねーし、原因がわかんなくてよ……」
「サイコータムくんに嫉妬して赤ちゃん返りか、ジョン?」
「ニュニュン?」
「おや、言葉もわからないか」
「ドラ公でも聞き取れないってことは、本当に記憶まで戻っちまってるんだろうな」
どらるくさまはヌンを両手で包み込みながら小首を傾げた。ヌンはわざと意味のない鳴き声をあげて、主人のてのひらに頭を擦り付ける。こうなったらこの状況とふたりにとことん甘えてしまおう。ヌンが赤ちゃんの間くらい、世界で一番アルマジロになってしまおう。
「ふむ、私と出会ったころくらいまで戻ってしまったのかな。仕方がない、VRCに連れていくか」
「ニュ!?」
VRC? そんなのいやだ。下手すればすぐに元に戻ってしまうし、そうでなくともお母さまの仕業だとバレればどらるくさまは怒りながら交渉しに行ってしまうだろう。
ヌンは手足をジタバタさせて抵抗した。いつものどらるくさまならこれだけで砂になってしまうが、さすがに今のヌンをおさえるのは容易らしい。
「ニュー! ニュー!」
「ほら、いくぞジョン」
まずい、このままだと検査される! 注射も打たれちゃうかも! 白い手袋に埋もれながら声を上げていると、ろなるどくんが「なあ」とどらるくさまに声をかけた。
「嫌がってるじゃん。とりあえずうちで様子見てやってもいいんじゃねえ?」
「気のせいだろう。こちらの言葉は理解していないはずだし」
「じゃあ腹減ってんのかも。なあジョン、お腹すいてない? おーなーか」
ろなるどくんがヌンのお腹をつつきながらゆっくりと繰り返す。ヌンはVRCに行きたくない一心で、甘えた鳴き声を出しながらろなるどくんの指にしがみついた。
「ほらかわいい! な?」
「な? じゃないわ。……仕方ない、アップルパイでも焼いてやるか。小さいころ大好きだったからね」
「ニュ〜!」
アップルパイ。ヌンが初めて覚えたお菓子の名前。もちろん今でも大好きだ。
「……ニュッ」
「?」
ああそうだ、喜んだらだめなんだった。アップルパイのこと知らないふりしなきゃ。
誤魔化すために鼻歌を歌ったヌンを見て、ふたりは笑った。
どらるくさまとヌンが来てから買い替えたキッチンのオーブン。部屋中に広がる幸せのあまあい香り。
アップルパイ、まだかな。もうちょっとかな。ワクワクと胸を躍らせていると、事務所の方からカタンと音が聞こえた。ろなるどくんがヌンを胸に抱えたまま扉を開けば、床から覗く橙色のアホ毛がぴょこんと跳ねる。
「なんだかいい匂いがするな!」
「今日はアップルパイだってよ」
「ヒナイチくんの分もあるから出ておいで」
台所から聞こえるどらるくさまの声に、ひないちくんが体を乗り出す。と、ヌンを見て「ちん!?」と驚いた声を上げた。
「かわいい! ジョンのきょうだいか!? 小さいな!」
「ジョンだよ。朝起きたら小さくなってたんだ。ジョン、ヒナイチのことわかるか?」
「ニュ〜……?」
ろなるどくんは、ひないちくんが伸ばした手の中にヌンをそっとおさめた。おっかなびっくり頭を撫でてくれるひないちくんに、ヌンはわざとらしく首を傾げてみせる。今のヌンにとって、ひないちくんは知らないおねえさんだ。
「とてつもなく可愛いが心配だな。吸血鬼の仕業か? VRCには?」
「ジョンが嫌がるんだよ。それに正直、家から出すのも怖いんだよな。今のジョン小さいし、俺たちのことわかんないみてえだし、はぐれたり攫われたりしたら大変だろ」
「そうだな。一度半田を呼んでみるか。もし吸血鬼の仕業なら気配が残っているかも」
「ギルドのほうにもそれらしい吸血鬼の情報がないか聞いてみるぜ」
なんだか大ごとになってきた。ヌンは一八〇歳の大人マジロだから、本当ははぐれたって一人で帰って来れるんだけど。この調子じゃ、日課のお散歩にも出してもらえなさそうだ。
ちょっと面倒な設定にしちゃったかも。ヌンが小さく唸っていると、ギルドに連絡をしていたろなるどくんが、送話口をおさえながら奥のどらるくさまに声をかけた。
「ギルドのみんながちっちゃいジョン見たいって。ドラ公、アップルパイ追加で焼いとけ」
「りんご追加で買ってきてから言えバカ」
なるほど、エンタメに昇華されマジロ。新横浜では見た目が変わることなど日常茶飯事である。吸血鬼よりも赤ちゃんマジロに興味を持ったみんなが遊びに来てくれるらしい。
可愛がられるのは小さい生き物の宿命である。おもてなしされることが、ヌンにできるおもてなし。
「仕方ねえな。ちょっと材料追加で買ってくるから、ジョンと留守番頼めるか?」
「ちん! 任された!」
ヌンはひないちくんの手のひらの中から、誰にも見えないようにろなるどくんに手を振った。
「かわいいなあ、ジョン。ほら、ショットさんからのお土産だぞ」
「中華まんたべれるか?」
「ねえ〜、次抱っこしたいわぁ」
「グールにアルマジロを胴上げさせてやる〜!」
「こら、やめなさい」
「あ、ロナルドさん! なんかくださいよ!」
「なんかハロウィンみたいになってきてる……」
どらるくさまに言われた通りりんごを大量に抱えて帰宅したろなるどくんは、こちらを見て呆然と立ち尽くしていた。事務所の盛り上がりを見て、どんどん関係ない人たちまで集まってきている。ヌンはたくさんの大人に囲まれ、これでもかと甘やかされながら、やっぱり子マジロはお得がいっぱいだなあとしみじみ噛み締めていた。
結局はんだくんの鼻を持ってしても特に進展はなかったらしい。お母さまは気配を消すのが得意みたいだ。正直ヌンにとっては都合がいいことこの上ない。
「ドラ公、最初のアップルパイ焼けたか? 事務所側に机並べてお茶出すわ」
「そうだな、うさぎ小屋はうさぎ小屋でも事務所のほうがマシだろう」
「一言多いんだよてめえはよ」
何人かが手伝うぞ、と立ち上がってろなるどくんの後を追う。ヌンもついていきたかったけれど、今のヌンじゃテーブルクロスの一枚も持てやしない。紅茶のおさとうを出すのだって、本当はヌンのおしごとなのに。
「悪いけど、ジョンのこと頼むな。知らない場所で怖いかもしれないから」
どこか寂しそうに笑うろなるどくんに、胸のあたりがぎゅっとなった。
事務所の中に、いただきますの声がひびく。
みんなで食べるアップルパイはおいしい。ヌンが小さい時も、こうやって大人のアルマジロに守られて生きてきた。今だってこうして、たくさんの温もりに包まれて生きている。
「ほら、これはジョンの分」
「ニュン!」
小さな体になると、アップルパイも大きく見える。口の端にジャムをつけた子供みたいなろなるどくんにニュニュ、と声をかけると、垂れた眦をさらに下げて、優しくおいでと声をかけられた。
「食べれるか? ほら、あーん」
ろなるどくんは小さく切り取ったアップルパイをフォークに刺して、ヌンの前に差し出した。口いっぱいの幸せを噛み締めながら、ろなるどくんもついてるよ、と手を伸ばそうとする。けれど、ヌンの言葉は通じないし、短い腕は空を切るばかり。もっと食べたいのかな、と解釈したろなるどくんは、嬉しそうに二口目をフォークに刺した。
「おいしいな。好きなだけ食べような。今日くらいクソ砂にはカロリーがどうとか言わせないからさ」
そっか、今のヌンはおにいちゃんじゃないから、ろなるどくんのお世話が焼けないんだ。ひないちくんがろなるどくんの頬のジャムを拭ってあげる姿を見て、少しだけ寂しくなる。
「ジョンのアップルパイこんだけ? 食い足りないだろ。こっちのもあげる。ほら」
それはろなるどくんの分じゃない。ヌンはお腹がいっぱいのふりをして、首を横に振った。
***
みんなが帰ったリビングの中、聞こえるのはろなるどくんのシャワーの音だけ。たくさん食べて、たくさん遊んで、たくさん可愛がられて。お腹も心も満たされた。
「ジョン」
ようやく二人きりになれた空間で、どらるくさまが優しくヌンを呼ぶ。どらるくさま、いつもより穏やかな表情なのはヌンが小さいから? やっぱり子供の方が可愛いのかな。お母さまに頼んだら、このままにしてもらえないかな。
「ニュニュ〜」
不安な気持ちを隠しながら、どらるくさまの足元に近寄る。優しく掬い上げられ、目線の高さまで抱っこされたかと思えば、どらるくさまは途端に意地悪な顔をして笑った。
「さて、気は済んだかい? あまえんぼうマジロくん」
「ニュ!?」
「気づかないわけがないだろう。私は君の主人だぞ。一八〇年、君を一番そばで見てきたんだ」
「ニュニュニュニュニュニュ……」
「ほうら、喋れる」
ろなるどくんには伝わらなかったけれど、どらるくさまには今のヌンの言葉も通じるようだ。そうだった、だってどらるくさまは出会った時からヌンの言葉を理解してくれようとしていた。
どらるくさまはヌンを抱きしめて、そっと甲羅を撫でてくれた。
「寂しい思いをさせてごめんね。ジョンはどんな姿でも完璧だよ。みんなジョンのことが大好きなんだ。それだけさ」
——家族だよ。
はにかんだろなるどくんを思い出す。ああ、もしかしたら、ヌンたちはとっくに。
「今までもこれからも、君のことを一番に愛しているよ」
***
「おはよう、マルスケ」
「ニュ〜……ニュッ!?」
夜明けのちょっと前。昨日と同じ時間に、そのひとは再びやってきた。
まるで催眠がかけられたかのように、どらるくさまもろなるどくんも目を覚まさない。低く心地のよい声が、寝起きのヌンの鼓膜をささやかに揺さぶる。
どらるくさまのお母さまは、ヌンのおでこに人差し指を置いて、柔らかく微笑んだ。
「ああ、やはり術のかかりが甘かったか。本当なら記憶まで戻してやれるんだが、ドラルクから変身能力まで与ったわけではないものな。もう少し強い術をかけてやるから、少し我慢していてくれ」
「ニュ! ニュニュニュ!」
「どうした?」
お母さま。あのね。ヌン、やっとわかったんだ。赤ちゃんに戻ったら確かに楽しいことがたくさんあったけど、やっぱりこれまでのヌンがいなくなっちゃうのは、ちがうんだ。
ヌンは生まれたてのアルマジロじゃない。どらるくさまと、ろなるどくんと、それからこの事務所メンバーの“かぞく”の、新横浜でたくさんの思い出を作った一八〇歳のアルマジロだから。ほんとうはまだ怖いけど、それでも、ヌンはヌンでいたいと思ったから。
「ニュニュニュ ニュニュニュニュニュニューニュ」
もとにもどしてほしいの。
「いいのか?」
「ニュン」
「……わかった」
今までも、これからも。
きっとこれからもヌンは、些細なことでやきもちを焼いてしまうけれど。
「さあ、目を閉じて」
——信じてるからね、どらるくさま。
***
次の日、ヌンの体はすっかり元に戻っていた。
わずかに高くなった視界。自分でお願いしたのに、やっぱりちょっと勿体なかったかな、なんて考えが頭をよぎって、首をぶんぶんと振る。ヌンはもう、赤ちゃんではいられない。
手足を確認していると、隣のソファベッドで眠っていたろなるどくんが目を覚ました。大人マジロのヌンを見て、慌ててこちらに手を伸ばす。
「よかった、戻ったんだな! 変なところとかない? 大丈夫?」
よかった。よかったのかな。ヌンの選択は間違っていなかったのかな。
「……ヌヌヌヌヌンヌ、ヌンヌヌヌヌヌヌッヌ、ヌヌヌイ?」
ろなるどくんは、ヌンがもとにもどってうれしい?
恐る恐る尋ねてみる。もうヌンは大人になってしまったのに。あのころには、戻れないのに。赤ちゃんのヌンを見て喜んでくれているろなるどくんやみんなを見て、嬉しいのにどこか不安だったんだ。
「当たり前だろ。俺のこと忘れちゃってたの、ちょっと寂しかったんだぜ」
昨日見ていた世界が大きかったからか、今日のろなるどくんはいつもより小さく見える。甘えるように腹毛に鼻を埋めるろなるどくんを真似て、ヌンも彼のふわふわの髪の毛に頭を擦り寄せた。
「ヌヌンヌ、ヌヌヌヌヌン」
「んーん。よかった」
しばらくして、どらるくさまが棺桶から出てきた。全てお見通しのご主人様は、ヌンの顎下をくすぐりながらわざとらしく言った。
「おや、ジョン。元に戻ったんだね。いくつになったんだい?」
「ヌーッ!」
「おお、こわいこわい。ふふ、どれ、今日はパンケーキにしようか」
どらるくさまはヌンがごまかした時と同じ鼻歌を歌いながらエプロンを結んだ。ろなるどくんは飛び跳ねながら机の準備をして、ヌンはみんなの紅茶に入れるお砂糖を用意しに戸棚の元へと走った。
どらるくさま。ろなるどくん、お母さま。
やっぱりヌンは、この生活がだいすきです。
「ヌヌヌヌヌン、ヌイヌヌヌ!」
「え、シロップついてた? ありがとう、ジョン!」
「ジョンもだぞ。まったく、五歳がふたりいると大変だな」
おわり