——いいかい?
君と一緒に過ごす子はね、とても繊細なんだ。
だから、驚かせたり、叩いたりしてはいけないよ。ずっと仲良く暮らすこと。
わかった?
ぬいぐるみが自我を持つのは、おかしいことなんだって。だからおれは、右手にはじいさんに書いてもらったお手紙を、左手にはどらこうの右手を握って、生まれてからずっとお世話になっていたぬいぐるみ工房を出て行くことにしたんだ。
おれは言いつけ通り、どらこうを守り続けた。大きい音が出る道は歩かない。虫が飛んでいれば退治する。疲れたと言えば一緒に石に腰を下ろす。そこまで過保護にしてやったからか、泣き虫だと聞いていたあいつは、噂と違って一度も泣かなかった。
どれくらい歩いただろうか。おれたちは、ようやく『しんよこはま』にたどり着いた。じいさんが、困ったらここに行きなさいと言っていた場所だ。もらったメモに書いてある文字と、駅の看板に書いてある文字のかたちが同じだから間違いない。
おれは本が好きで、いつもじいさんに読み聞かせをしてもらっていたから、外の世界のことをよく知っている。あの真っ黒なのはでんこうけいじばん。文字が書いていないということは、終電はもう終わっているのだろう。動くぬいぐるみがいるとニンゲンはパニックになってしまうらしいので、この時間を狙ってやってきたのだ。
どらこうが疲れたと鼻をぴすぴす鳴らしていたけれど、朝になれば駅にはたくさんの人が集まってしまうはずだ。ひとまず人通りの少ない休めそうな場所を探したい。
おれはどらこうの手を握り直して、ゆっくりと歩き出した。
***
朝日に照らされて目が覚める。
あれからあてもなく歩いていたおれたちは、小さな公園へとたどり着いた。ここならそれほど人は通らないだろうと、身を寄せ合ってベンチの上で眠った。
ずっと曇りが続いていて薄暗かったけれど、今日は晴れのようだ。まだ眠たい眼をこすりながら、隣にいるはずのどらこうを振り返って、思わず声を上げた。
「ミッ!?」
——それからこれは、とても大切なことなんだけれど。
おれは、忘れていたのだ。じいさんに言われた、もうひとつの約束を。
——その子を太陽の光の下に連れて行ってはいけないよ。
どらこうを太陽の光の下に連れて行ったらどうなるのか、おれは知らない。おれの隣に不自然に現れたこの砂山はどらこうなのだろうか。それとも、どらこうはどこかへ行ってしまったのだろうか。いや、こいつがマントだけを置いてどこかへ行くなんて考えにくい。そもそも、ひとりで知らない街を歩けるほど強くないはずだ。おれが守らなきゃいけなかったのに。
「きゅう……きゅう……」
おれは砂をかき集めながら、必死にどらこうの名前を呼んだ。ろなるどくん、と呼び返してくれることを願って。けれど、彼の声は聞こえなかった。
「きゅーん……」
涙が止まらない。おれが、言いつけを守らなかったから。約束を忘れちゃったから。どらこうがいなくなっちゃった。どれだけ砂を掴んだって、肉球の隙間からさらさらと流れ落ちていく。どらこう。どらこう。
その時だった。おれと砂山に大きな影が重なった。影はしゃがみこんで、おれと同じ色の瞳をまんまるにして言った。
「ぬいぐるみ?」
「ヌー?」
二足歩行だ、と呟いた銀の毛並みのニンゲンは、丸い生き物と顔をあわせて首を傾げた。
「きゅう! きゅう!」
なあ、どらこうが。どらこうが変なんだ。さらさらして、もどんねえの。
おれが必死に訴えても、ニンゲンに言葉は届かない。ぼろぼろと涙を流していると、男は困ったような顔でおれを抱き上げた。ちがう。どらこうはきっとまだそこにいるんだ。離れ離れにしないで。
「キャンッ!」
「いてて、ごめん、嫌だったか? 退治終わりだからくせえかもなあ」
抵抗していると、プラスチックでできた爪がニンゲンの頬を掠って、少しだけ血が滲んでしまった。わずかに罪悪感を感じて腕を下げると、丸い生き物がベンチを指さして「ヌヌ、ヌンヌヌヌ?」と言った。
「……手紙か?」
ニンゲンはおれを抱いたまま、砂山に添えるように置いてあった手紙を拾い上げた。中身はわからないが、おれがずっと持ち歩いていたものだ。
彼は封筒から一枚の紙を取り出し、ゆっくりと読み上げた。
「おうちをさがしています。なまえは”ろなるど“と”どらるく“です……?」
「ヌ!?」
「なんで同じ名前……? いやそれより、お前がロナルドだとしたら、もしかしてその砂はドラルクか!?」
「!」
ニンゲンの言葉に、大きく頷く。
ニンゲンはすぐさま自らの帽子を脱いで、妙に手慣れた仕草でその中にどらるくの砂を詰め込んだ。
***
「ただいま! おい起きろドラ公」
「おかえりばかたれ。起きてるが出ていかんぞ。もう朝日出てる時間だろうが」
「ヌヌヌヌヌヌ、ヌヌヌ!」
「ジョンまで? もう、何? カーテンは閉めてるんだろうな」
お部屋の中心あたり、存在感のある棺桶がごとりと音を立てた。おれはニンゲンの腕の中、帽子の中を必死に覗き込み続ける。どらこうはまだ砂のままだった。
「はぁ、もう少し朝ふかししたら寝ようと思ってたの、に……」
「ミ……」
棺桶の中から現れたのは、じいさんと同じ耳の形をした、青白い顔の男だ。たしか、そう、キュウケツキ。
キュウケツキはこちらを見て僅かに目を見開いた後、小さく息をついた。
「こら若造、無責任に拾ってくるな。どうせ世話するのは私になるだろうが」
「今はこいつじゃなくて。こっちの砂、吸血鬼だよな? 朝日浴びて元に戻らねえみたいなんだ」
「見せて」
キュウケツキじゃないよ。こいつはぬいぐるみだ。
しゃがんだニンゲンが、体を起こしたキュウケツキに帽子を渡す。キュウケツキはふむ、と顎に手を当てると、ニンゲンの頬に手を伸ばした。
「ごめん、ロナルド君。ちょっと痛いかも」
「あ? ……いってェ!」
おれがさっきニンゲンにつけた傷、そこに滲んだ血を細い指が拭っていく。キュウケツキはその指を、そのままどらるくの砂の中へ埋めていった。
「……うん、反応はあるな。大丈夫そう」
おれには何もわからなかったが、キュウケツキはなにかを感じたらしい。引き抜いた指先をぺろりと舐めて、彼は「ちょっと塩分が多いか?」と呟いた。
「あとは私とジョンに任せてお風呂に入っておいで。君も、そのモフモフも。泥だらけじゃないか」
「こいつ、ロナルドって名前らしいぜ。砂の方はドラルク」
「変な話もあるものだね。早くきれいにしておいで、ロナルド君、モフロナ君」
「ほら、お湯かけるぞ〜」
「」
目を瞑って、重たいお湯の滝に耐える。どらるくのことが心配で心配でたまらないのに、おれは無理やりお風呂場に連れ行かれ、全身を泡でもこもこぷわぷわにされ、べしょべしょに濡らされた。今日は災難な日だ。
毛がまとわりつく感覚が不快で、ぶるぶると体を振れば、ニンゲンは「やめろって」と言いながら笑った。
「お湯、いや? ちょっとだけ湯船浸かれる?」
どちらかといえば嫌だったが、彼の頬についた傷を見て、おれは大人しくニンゲンの胸に抱かれ続けた。
「友達なら心配いらないぜ。あいつが大丈夫って言ったんだ。ドラ公はアホで雑魚な享楽主義者だけど、ああいう場面で適当なことは言わねえよ」
お湯の中は、不思議と居心地がよかった。向かい合うように膝に乗せられ、おれはそっとニンゲンの頬に触れる。
「ん、俺のことも心配してくれんの? ふは、ありがとな」
このニンゲンたちは、おれたちのことを助けようとしてくれている。だからおれも、もうこいつらを驚かせたり叩いたりしない。おれには何もできないから、こいつらを信じて待つしかない。どらこうは、きっとよくなる。
「……あいつ、俺の血舐めてたよな」
ニンゲンが小さく呟いて、口のあたりまでお湯の中に沈んだ。顔が赤い。お風呂でニンゲンの顔が赤くなるときは、のぼせているときだ。本に書いてあった。
なあ、はやく出よう。あんたのぼせてるんだよ。
「きゅう、きゅう」
「あ〜〜〜〜……」
一生懸命伝えようとしても、やっぱりニンゲンにおれの言葉は届かなかった。
「おかえり。お、ふふ、濡れると結構ボリューム落ちるね」
「ちっちゃいほうのどらるくは?」
「大丈夫。ほら、眠ってるだろ」
「ヌッヌヌヌ」
小さな声で言葉を交わすニンゲンたち。丸い生き物に手招きされ、おれを抱えたニンゲンが小さな丸いベッドに近づく。そこにはぴすぴすと寝息を立てる、いつものどらるくがいた。
「ミ〜〜……!」
「ほら、言ったろ? 体力も消耗してるだろうし、今は寝かせてやろうぜ。ドライヤーかけてやるから向こう行こうな」
手を伸ばして降りたがる俺を宥めて、ニンゲンはソファのほうへと回った。その後ろを、バスタオルを持ったキュウケツキが追いかける。
「バカ造、お前もだ。髪の毛乾かしてこなかっただろ」
「仕方ねーだろ、心配だったんだよ」
ニンゲンの頭に、雑にバスタオルが被せられる。おれにドライヤーの熱を当てるニンゲンは、そのままキュウケツキにわしわしと頭を拭かれていた。タオルのせいできっとおれからしか見えないけれど、お風呂場の時と同じくらい顔が赤い。やっぱりのぼせたんじゃないだろうか。
「きゅ〜……?」
「…………」
ニンゲンは何も言わず、どこか落ち着かない様子で俺の体を乾かした。
***
起きてすぐは調子が悪そうだったどらこうは、毎日血と牛乳をもらってみるみるうちに元気になった。おれも、いまはロナルドたちと同じご飯をお腹いっぱい食べさせてもらう日々を送っている。
おれはぬいぐるみだからご飯がなくても生きていけるんだけど、それはそれとして、おれは食べるのが大好きだった。いや、大好きだということに、ここに来てから気がついたのだ。
「もう眠たいか?」
キーボードを打っていたロナルドの手がおれの頭を撫でる。おれは本が好きだから、ロナルドがキーボードを叩いている姿を見たがって、よく事務所の方に着いていっていた。どらるくは多分、今頃ジョンと遊んでいるだろう。
瞼がとろんと溶けてしまうようだ。おれにはPCの中に刻まれていく文字が読めないけれど、それでもこの空間が好きだった。なんだかわからないけれど、懐かしい心地さえした。穏やかで静かなじかん。
うとうとと船を漕いでいると、ふいにおうちのほうの扉が開いた。マグカップとクッキーを持ったドラルクがこちらに話しかける。
「ソファで作業したら? 締切近いんだっけ」
「いや、まだ余裕あるぜ。そうしようかな」
ロナルドはおれとPCを抱えて立ち上がった。文章を保存したそのファイル名はやっぱり読めなかったけれど、でもどこか見覚えがあった、気がした。
最近は、ジョンの寝床を借りるのをやめて、毎晩ロナルドと一緒に眠っている。もちろんどらこうも一緒だ。少し寒くなってきたので、ニンゲンの高い体温が心地いい。
じゃあジョンは自分の寝床に戻ったのか、というと、そういうわけではない。寒いのはアルマジロも同じなようで、三匹寄り添って寝ることも増えている。
「……私だけ仲間はずれじゃない」
「あ?」
声が聞こえてふと目を覚ませば、口を尖らせたドラルクがソファの前でゲームの電源を落としたところだった。おれとどらこうとジョンは寝転んだロナルドのお腹の辺りで団子になっている。ロナルドはスマホから顔を上げて、少し悩んでから布団を捲った。
「……来たいなら、くれば」
そう、さいきんもうひとつ、気づいたことがある。
ロナルドの顔が赤いのは、どうやらのぼせているわけではないらしいということだ。ニンゲンって難しいや。おれたちはぬいぐるみだからわかんねえけど。な、どらるく。
寝返りを打ってどらこうとジョンのお腹に顔を埋めると、おれのとなりのソファが沈んだ。きっとドラルクが入ってきたのだろう。少しひんやりとした手がおれのあたまを撫でていく。この体温ならきっと、ロナルドの体を冷ましてやれるだろう。
***
「……みんな寝た?」
「……ん」
誰が暑苦しいゴリラの布団なんかに入るか、と、一蹴されるならそれでいいと思った。
まさか素直に潜り込んでくるなんて微塵も思っていなかったから、俺は行き場のない手をジョンたちの背中に置いて唾を飲み込んだ。腹のあたりにこいつらがいるから、寝返りもうてずにドラ公と向かい合ったままだ。
「……あのね」
囁くようなドラ公の声を掻き消すように、心臓がうるさく鳴り響く。こんなに近いと聞こえてしまいそうだ。
「この子達、自分のことをただのぬいぐるみだと思っているだろう」
「……うん」
「でも、ふたりとも吸血鬼なんだよね」
「ろなるども?」
「そう。正確にはツクモかな」
ドラ公は開きっぱなしにしていた棺桶の中に手を伸ばすと、数枚の紙を取り出した。
「実はどらるくのマントの裏にも手紙が差し込まれていてね。本人も気づいていないようだったから、黙ってたんだけど」
拝啓、やさしいひとへ。
私は吸血鬼です。ぬいぐるみを作るのが仕事でした。
仕事を辞めた後も、細々と趣味でぬいぐるみを作りながら、時々遊びに来る近所の子供達に本の読み聞かせをするのが私の幸せでした。子供達に喜んでもらうため、毎晩ぬいぐるみ相手に読み聞かせの練習をしていました。そしてある晩、一冊の冒険譚を読んでいるとき、ひとつのぬいぐるみに命が宿ったようなのです。
我が子同然に大切にしていたぬいぐるみが動き出したときは、驚きよりも喜びでいっぱいでした。言葉にできないほどです。私はその子に、今まさに読み聞かせていた冒険譚の勇敢な主人公と同じ名前をつけました。
またある日、ほとんど倉庫と化していた奥の部屋を整理していたところ、ぬいぐるみの材料の中に一体だけツクモ吸血鬼化しているぬいぐるみが紛れ込んでいました。かなり昔に作ったぬいぐるみです。太陽がいっとう苦手な子だったため、暗いこの部屋に逃げてきたのかもしれません。少しのことでも砂になってしまうほど繊細なその子を、私は部屋の中で大切に育てました。
私の使い魔にしてしまおうかとも思いました。しかし、私は老い先が長くはありません。私と一緒にこの子達の命が尽きるのは、耐えられません。
だから、誰かの元で幸せになれるよう、優しいあなたに出逢えるよう、私はふたりを信じて送り出すことにしました。事情を話せばきっと彼らは使い魔になると言って聞かなくなると思ったので、"君たちはぬいぐるみだよ"と言い聞かせ続けました。
どうか、どうかろなるどとどらるくが幸せになりますように。そして、愚かで自分勝手な老人の願いが届きますように。
「……大切にされてたんだな」
「どうかな。私は無責任だとも思ったけど」
「でも、あいつらは結果的にここに辿り着いたんだ。それが幸せなことなのかはわかんけえけどさ」
内緒話をするように顔を寄せて、小さくて愛しい生き物たちを起こさないように囁き合う。
「この人、不安だろうな。どうにか連絡取れねえかな」
「それこそ野暮じゃないかね。この子たちだって、ずっと前に折り合いをつけているように見えるぞ」
「そうかもしんねえけど。でもさ、新横浜ではぬいぐるみが動くなんてよくあることだろ。フィギュアが動いたりするし、家が喋ることだってあるんだし、へんなはソーセージだし」
「それはそう」
「きっと受け入れてくれる場所があるってロナ戦から感じてくれて、希望を見出してくれたんだろ。こいつらがこいつららしいまま生きていられる街だって、俺だって伝えてあげたい」
俺がそう言うと、ドラ公は少し考えたそぶりを見せたあと、ヌンスタの画面を開いた。
「……この同胞に届くかはわからんがね。たしかにまた似たようなことがあった時、新横浜を目指せる道標くらいにはなれるかもしれないな」
「道標?」
「そう。うちには吸血鬼も人間も使い魔も、目からビーム出すヤツもツクモ吸血鬼化したゲームやデメキン、喋るぬいぐるみだっているからな。新横浜の縮図と言っても過言ではないだろう」
「……どうする気だよ」
「明日事務所のみんなで写真を撮ろう。あとのことはまあ、私に任せたまえよ」
入力された新規IDが『ドラルクキャッスルマークII』だったこと、ドラルクが小さな声で「バズったらドラドラちゃんねるの宣伝をしよう」と呟いたことに嫌な予感を感じながらも、俺は腹のあたりにいるジョンたちのことを思い出して拳を下げた。
絶対に本人には言ってやらないが、こいつの『任せろ』という言葉には魔力がある。好きなようにやらせてやるか、と諦めて目を瞑れば、ドラルクは俺の傷が治ったばかりの頬を撫でて、「おやすみ」と呟いた。
眠れる気が、しなかった。
#はいけいじいさん
#おれたちはげんきです
#いつかあそびにきてね