夏の日のかたばみ それは、ある晴れたお昼のことでした。
ヌンは出会ってしまったのです。ちいさくてふわふわで可愛くて、どこまでも儚いいのちに。
ヌンの日課はお散歩です。夜はどらるくさまとふたりでお出かけすることが多いけれど、こうして一玉でのんびりお日様の下を歩くのも大好きです。ろなるどくんが隣にいたらあそこに見える小さなお店の今川焼きを買ってくれたのでしょうが、今日は我慢です。彼は今頃、パソコンの前で唸っているはずですから。
いいや、今日はむしろ、ヌンが頑張っているろなるどくんのためにおやつを買って帰ってあげるのもいいかもしれません。決してヌンが今川焼きの舌になってしまったからではありません。ろなるどくんを労ってあげるのです。どらるくさまが起きる前に。
メロンパンのポシェットを開き、お財布の中身を確認します。今川焼きをふたつ買えるくらいの小銭はありそうです。ヌンはルンルンになりながら、赤い屋根の可愛らしいお店へと向かいました。
「ヌヌヌ ヌヌヌイ!」
「おやマジロくん、おつかいかな? えらいねえ。三百円だよ」
ヌンが三枚の小銭を置くと、店員さんはニコニコしながら今川焼きをふたつ箱に詰めてくれました。焼きたてのいい匂いが漂ってきます。じゅるりとよだれをすすって、ヌンはそれをいつもの風呂敷に包みました。
「ヌヌヌヌーヌヌイヌヌ!」
「はい、ありがとう。またきてね!」
帰り道、ヌンの頭の中は背中に背負ったお菓子のことでいっぱいです。今すぐにでもかぶりつきたい衝動を抑え、見知った道を歩いていきます。せっかくなら、にこにこしたろなるどくんと一緒にお茶を飲みながら食べたいのです。
とはいえ、ヌンは今現在もご主人からダイエットを言い渡されている身。気持ち程度ではありますが、遠回りをして帰ろうかと寄った近所の公園で、その小さな生き物は声を上げたのです。
「チチチ……」
「ヌ?」
甲高い鳥の鳴き声。普段ならヌンの頭のずっと上から響くはずのそれが、なぜか同じ高さから聞こえてきました。草をかき分けて声の方に近づいてみると、そこには雀の雛が一匹、草に足を取られて動けなくなっていました。
これは大変です。ヌンはすぐに足に絡まる草を解き始めました。力加減を間違えれば折れてしまいそうなほど細い足。一本ずつ慎重に取り除いていきます。
最後の草を解き終えてなお、雀はそこに座り込んで力無く鳴き続けるだけでした。どこか怪我をしているのかもしれません。もしかしたら、お腹が空いているのかも。
「ヌ〜…………ヌ!」
ヌンは背中から漂う美味しい匂いにはっとして、今川焼きをひとつ取り出しました。生地の端っこの部分を小さく千切って、雀に差し出します。
「ヌーヌ」
「チ……」
雀は何度か首を傾げた後、今川焼きのカケラを小さな嘴で啄み始めました。自分より小さな生き物と触れ合うのは久しぶりで、思わず食い入るように見つめてしまいます。
おいしい? と尋ねても、相変わらずきょとんとこちらを見つめてくるだけ。それでもなんだかとても愛おしくて、ヌンはお土産にもう数欠片の今川焼きを置いて、事務所へと戻りました。きっとお腹がいっぱいになれば飛んでいくだろうと思ったのです。
***
「ヌヌイヌ〜!」
「おかえりジョン! 助けて! ロナル子にされちまうよ〜〜!!」
「ヌーヌー」
帰宅早々泣きついてきたろなるどくんを宥めながら、ヌンは背中から今川焼きの箱を取り出しました。彼がこうなっているのは想定済みです。丸いそれを、得意気にろなるどくんに差し出します。
「え!? 嘘だろジョン、これ俺に?」
「ヌン!」
「ジョン、おれ、うれじいよ……ゔっ……ここに一生飾る……」
「ヌァッ!?」
彼なら本当にやりかねません。ヌンは慌てて『ヌンと一緒に今食べよう』とろなるどくんを誘いながら、自分の分の今川焼きを取り出しました。
「あれ、ジョン、食べながら帰ってきたの?」
「ヌ?」
ろなるどくんがヌンの今川焼きを見て、目をまんまるにしました。なるほど、雀にあげて欠けてしまった部分が気になるようです。
——あのね、ろなるどくん。さっき、すずめの赤ちゃんが公園に落ちてたんだ。とっても可愛かったの。
さっきのお話を聞いてもらいたくて、ヌンは手をぱたぱたさせながらろなるどくんに言いました。それでね、と続けようとして、ろなるどくんが少し悲しそうな顔をしていることに気が付きます。
「ヌヌヌヌヌン?」
「あ、ううん。雀の雛か。可哀想だけど、ああいうのって拾ってやれないんだよな」
「ヌーヌヌ?」
「別の匂いがつくと、親鳥が世話をしなくなっちまうことがあるらしいぜ。もし巣から落ちたなら返してやりたいと思っちゃうけど…………ジョン?」
もしかしてヌンは、大変なことをしてしまったのではないでしょうか。ヌンが触ってしまったことで、あの子が親に見放されてしまったら。
「どうした?」
「……ヌンヌヌヌイ」
なんでもない、と、言うしかありませんでした。修羅場中のろなるどくんに余計な心配をかけたくなかったし、悪い子のマジロは自分の行いを隠したいと思ってしまったのです。
その日の夜は、あの雀のことが頭から離れませんでした。
今もあの雛はあの場所で、ひとりでか弱く鳴き続けているのでしょうか。お母さんに捨てられたことにも気づかないまま。
***
次の日、ヌンはろなるどくんが起きる前に事務所を出ました。行き先は徒歩数分の公園です。
ドキドキしながら草むらをかき分けます。そこにいなければきっと飛んで行ったか、それとも、ほかの動物に——
「チュン」
「……ヌー!」
雀は、昨日と同じ場所に座っていました。やはり足に力が入らないようで、こちらに近づこうと体を起こそうとしますが、立ち上がることができない様子です。
「……」
事務所に連れ帰ることも考えました。すでに育児放棄されているとするならば、今更ヌンが抱き上げたところで同じことです。けれど、もしかしたらこの子のお母さんはまだ子供を探して飛び回っているかもしれません。それに、こうなってしまったのはヌンの責任でもあります。事務所のみんなを巻き込むのは、違う気がしました。
「……ヌシ!」
「チチッ?」
ヌンは決めました。この子が元気になるまで。お母さんが迎えにくるまで。それまでは、ヌンが責任を持って育ててみせると。
***
それからヌンは、毎日あの公園に赴きました。
お昼と夜。時間がある時は夕方も。
雀はいつも同じ場所でヌンのことを待っていてくれました。
今日は雨が降っていました。ヌンはカッパを被り急いで外に出て、公園の中で一番大きな葉っぱを手に取りました。雀の傘にするためです。
「ヌヌヌヌイ?」
寒くないか問うたところで、雀は相変わらず首を傾げるだけです。でも、それでいいのです。
ヌンはこっそり台所から拝借した食パンの耳を千切り、雀の足元に置きました。嬉しそうに啄む雀を見ているとヌンまで嬉しくなります。いつもろなるどくんが美味しい食べ物をヌンに分けてくれる理由が、今なら少しわかる気がしました。
***
「ジョン、また外行くの? 俺も行っていい?」
「ヌヌ!」
「だめ〜?」
原稿を終えたろなるどくんは、ヌンの返事を聞いて再び机に突っ伏しました。今朝からずっとこれです。
いつもならおやつチャンスだと快諾するけれど、今はそうはいきません。ヌンにはあの子がいるからです。ろなるどくんは自分で歩けるしご飯も食べられるのだから、ヌンの助けはいらないはずです。
「ジョーン、君、また食パン齧った?」
居住スペースから聞こえるどらるくさまの声は聞かなかったふりをして、ヌンは今日も雀に会いに行きます。
この頃になると、もう雀はヌンの顔を覚えたようで、こちらを認めると餌をねだるように嘴をぱくぱくと開閉させるようになっていました。自分より小さな生き物に信頼を置かれるのは、なかなかたまりません。この子はヌンが自分に危害を加えないと知っているのです。
「ヌヒヒ」
「?」
どらるくさまもろなるどくんも知らない、ヌンだけの特別な時間。人間も吸血鬼も使い魔も、昼も夕方も夜もなにもかも、ここでは関係がないのです。
***
「おやジョン、今日はまた一段とどろんこだね」
どうしたの、と言いながら、どらるくさまは自分のエプロンが泥で汚れるのも厭わずにヌンを抱き上げます。けれど、これはヌンと雀の秘密です。たとえ大好きなご主人様にも、言えません。
今日は動けないあの子のために、得意の穴掘りで餌をとってあげました。雀は虫を食べるとテレビで見たからです。ヌンは虫が嫌いだけれど、あの子が喜ぶのなら頑張れます。今だけは、ヌンはあの子のお母さんなのです。
あの子はヌンが近寄ると、嬉しそうに鳴いてくれます。感情が少しずつわかるようになってきました。とても可愛くて、愛しくて。どらるくさまがヌンにするように、ヌンもあの子を撫でて抱きしめたいけれど、できません。雀に触ってはいけないという決めつけを、ヌンはあれからずっと守り続けています。けれど本当は、お母さんなんてもう見つかってほしくありませんでした。ヌンはどこまでも、悪い子のマジロなのでした。
「ヌヌヌヌヌヌヌ ヌヌンヌヌ!」
「川の近くで遊んだの? 危ないからほどほどにするんだよ」
悪い子のマジロ、なのですが。やっぱりこうしてどらるくさまに嘘をつく瞬間は、心がちくりと痛みました。
***
今日はろなるどくんのおしごとに、どらるくさまと一緒についていきました。
依頼の帰り道、いつもの公園を横切ります。こっそりこっそり、雀の様子を見ようと思いました。
どらるくさまとろなるどくんは口喧嘩をしています。今ならそっと——
パサパサッ
「ヌ!」
小さな羽音のあと、雀が二匹、空へと飛び立ちました。あの日出会った時よりも大きくなった、ヌンの子。いえ、ちがいます。隣で羽ばたく彼女の子です。分かりませんが、そうおもいました。お迎えがきたのです。
呆然と立ち尽くしながら空を見上げるヌンを見て、二人は口喧嘩をやめて顔を見合わせました。それから、ヌンと同じように、一緒に空を眺めてくれました。
いくら待っても、雀は戻ってきませんでした。
ヌンは最後まで、あの子の頭をなでることすらできませんでした。
「ヌ、ヌャ……」
堰を切ったように、ヌンの目から涙が溢れ出します。あの子はどんな体温をしていたのでしょうか。どんな重さだったのでしょうか。知りたいことはたくさんありました。それがヌンのエゴであることも、とっくにわかっていました。
「ジョン、おいで。どうしたの」
からっぽの草むらを見て、ジョンは声をあげて泣きました。大好きな主人の胸で、大好きな男の子に撫でられながら、大好きなあの子を想って、泣きました。名前くらいつけてあげればよかったと思いました。一度も呼んであげることができなかったからです。
わかっています。それすら、ヌンのエゴなのです。怪我をした雀が空に旅立ちハッピーエンド。それでいいはずなのに。
「……帰ったらふわふわのパンケーキを焼こうか。それから一緒に棺桶で寝よう、ジョン」
二人は暗い公園の中、ヌンが落ち着くまでずっと甲羅を撫でてくれました。
次の日、ジョンは再び公園に来ていました。体に染みついた日課のおかげで、無意識に足が向いてしまったのです。それでもどこか爽やかな気持ちで、ヌンはあの草むらへと辿り着きました。
そこには、小さな花が置かれていました。風が運んできたのか、はたまた子供のいたずらか、ヌンにはわかりません。
わからないから、ヌンはあの子にもらったことにしようと思います。帰ったら、どらるくさまに押し花にしてもらうこととしましょう。黄色くて可愛くて、どこにでも生えている野花。それでも、ヌンにとっては特別な一輪です。これが、これだけが。
「……ヌン!」
そうだ。決めました。あの子の名前は——
かたばみ:
別名すずめ草。花言葉は母の優しさ。