ヌーの日はおとずれた ちくたくちくたく。
いまヌンたちは、事務所の掛け時計の秒針を並んで見つめている。
すでに目の前には蝋燭の刺さったホールケーキが置かれていた。ゆらめく橙色の光だけが部屋をほのかに照らす中、漫画でしか見ないような三角形の帽子を被り、にっぴきはいまかいまかと体を震わせる。
ろなるどくんが小さな声で、120秒前のカウントダウンを始めた。気がはやいと文句を言っていたどらるくさまも、100秒くらいから一緒に数字を呟き始めていた。
ふたりの抑揚のない低い声はさながら読経のようである。これじゃあろなるどくんもどらるくさまのことを馬鹿にできないよ。これからお誕生日なんだけどな。
さん、に、いち。ぜろになる瞬間、二人はヌンの方を見てにっこりと笑った。
「「ジョン、お誕生日おめでとう!」」
「ヌヌヌヌ〜!」
ふう。蝋燭の火を吹き消せば、部屋の中は暗闇に包まれた。散々目の前で"待て"をくらったヌンがすぐさまフォークを持ち上げると、どらるくさまは「切り分けてあげるから待ってて」と苦笑した。
電気のスイッチをつけて、ろなるどくんとケーキを食べた。どらるくさまは「一気に食べたらお腹壊すぞ」と四つに切り分けてくれたけれど、ヌンとろなるどくんの耳には届かない。綺麗になった皿を見てどらるくさまは苦笑したけれど、怒ることはなかった。
「さてジョン。今日は君のリクエストをなんでも聞いてやろう」
「ヌッヌー!」
「ジョン! おれ、おれも……!」
「ヌ?」
どらるくさまのあとに続いたろなるどくんは、どこか申し訳なさそうな顔で一枚の紙をヌンに差し出した。そこにはサインペンで『なんでも言うことを聞く券』と書かれていた。
「……君、一週間悩んでそれかね? 母の日じゃないんだから」
「うるせー! ジョンに決めてもらうのが一番だと思ったんだよ!」
「素直に思いつかなかったって言いなさいよ」
なんでも。……なんでも?
ヌンは考えた。ヌンが一番甘やかしてもらえる願いはなんだろうか。ヌンが一番ふたりに可愛がってもらえる願いはなんだろうか。
そしてヌンは思いついたのだ。
「ヌーヌヌヌヌ、ヌンヌヌヌ、ヌッヌヌヌ!」
「へ!?」
——きょういちにち、ヌンのこと、だっこして!
ろなるどくんと、そしてどらるくさまへのヌンからのお願いです。
今日一日、ヌンのあんよを地面につけることは許しません。頭や肩に乗せるのもだめです。
だっこ。その手で、腕で、ヌンを抱っこするのです。
「ショット! スラミドロそっち行ったぞ!」
「ジョンを置け!!」
「できねえ! 誕生日だから!」
「おめでとう!!」
『ドラドラちゃん、クソゲーレビューの進捗はどうだ?』
「すみません。誕生日のアルマジロを抱っこするのに手が塞がっており……」
『なら仕方ねえな! おめでとう!』
プリンス・オブ・アルマジロ。
仕事中のろなるどくんや、仕事の電話をしているどらるくさまに撫でられる瞬間はまさに至高である。仕事とマジロ、マジロがだいじ。ヌンヌン。
「ほうらジョン。リクエストのフルーツがたくさん乗ったパンケーキだよ。ソフトクリームもつけたぞ。食事の時くらいひとりで座れるね?」
「ヌーヌ」
「ジョン……」
今日のヌンは無敵なのだ。大好きなご主人の諭すような声にも、首を横に振ることができるくらいには。
「とりあえずおいで、ジョン。はらぺこゴリラがご飯を食べられないだろう」
「ん」
ヌンの体は、大きくて逞しい腕から細い指へと渡された。どらるくさまの調理中、ろなるどくんがずっとヌンの抱っこ係だったのだ。
いただきます。はい、どうぞ。
いつものやりとりを聞いて、ヌンも「ヌヌヌヌヌヌ」と手を合わせる。そのポーズのままろなるどくんを上目に見て、小首を傾げた。
「ヌヌヌヌヌン、ヌーンヌヌ?」
「ジョン、君……」
もう一度言う。今日のヌンは無敵なのだ!
「はいジョン、あーんして♡」
「ヌーン♡」
「なんだこれ……」
どらるくさまの腕に抱かれながら、ヌンはろなるどくんに差し出された生クリームたっぷりのパンケーキを口一杯に頬張った。ふわふわしゅわしゅわとろとろ。どんなお店でも敵わない、ヌンが一番大好きなパンケーキの味。幸せの相乗効果だ。
「つぎは? いちご?」
「ちゃんと自分の分も食べなさいよ。ソフトクリーム溶けちゃうだろ」
「わーってるよ」
ニコニコとヌンの世話を焼いてくれるろなるどくんと、呆れながらも口元が緩んでいるどらるくさま。このまま時間が止まってしまえばいいのにと思うけれど、ちくたくちくたく、時計の針は無慈悲に進んでいく。
「さて、洗い物してくるから、ジョンはロナルド君に抱っこしてもらってね」
「ヌー!」
「あー、いいよ。俺が洗うから向こういってろ」
「そう? じゃ、お言葉に甘えて」
どらるくさまはヌンを抱えたままソファへと移動した。膝の上にヌンを乗せ、携帯ゲームを起動させる。
のんびりとしたBGMに、いっぱいのお腹、落ち着く匂い。
「ヌ〜……」
「ふふ、ジョン、眠たいんでしょ」
どらるくさまの指が、追い討ちのようにヌンの頭を優しく撫でていく。次第に落ちてくる瞼にあらがうことができないまま、ヌンは微睡に身を委ねた。
「ヌァッ!?」
いけない。すっかりきっちり眠ってしまっていたようだ。今は何時だろう。
いつのまにか電気は消されていて、それなのにカーテンの隙間からはうっすらと光が漏れ出ていた。ヌンは変わらずどらるくさまの膝の上。背もたれに体を預けて眠るご主人さまの隣には、同じように長いまつ毛を閉じた可愛い弟分がいる。
静かな秒針の音に恐る恐る顔を上げれば、短針は三のあたりをさしていた。
「ヌ……」
眠っている間にヌンの日は終わってしまったらしい。
ちょっと喉が渇いたな。牛乳が飲みたい。肉付きの悪い太ももの上から降りようともぞもぞ動いていると、それを阻止するように白い手袋がヌンの甲羅を撫でた。
「どこにいくんだい、王子様?」
「ヌーヌーヌ ヌヌヌ……」
「牛乳を? あれ、いま何時……おわっ!?」
「ヌー!」
時計を見ようとしたどらるくさまの視界をヌンのお腹で塞ぐ。まだバレていないなら、ヌンの日は終わっていない。
「……ジョン、何時?」
「……ヌーイヌヌ」
じゅういちじ。ヌンの見え見えの嘘に、どらるくさまは声をあげて笑った。隣に座っていたろなるどくんがびくりと体を揺らして目を覚ます。
「わかったよ。誕生日だもんね? ほら下男。さっさとジョンに牛乳を寄越さんか」
「ムカつくけどジョンのためだから殺すのは後にするぜ」
ろなるどくんがヌンを一撫でして立ち上がる。少しの罪悪感からヌンが引き止めようとすると、ろなるどくんは嬉しそうに「クソ砂と遊んでやってて」と笑った。
どらるくさまはヌンを抱き上げて鼻先を触れ合わせる。
「本当はなんだっていいんだよ。私たちも、いつだって君を甘やかす口実を探しているんだから」
「ドラ公が大事に取っておいてた高級牛乳あけるぞ」
「………………いいだろう」
ちくたくちくたく。時計の針の音に耳をふるわせれば、なんでもお見通しのどらるくさまは瞳を細めて優しい声で言った。
「時計の電池なんて、いつでも抜いてあげる。君の気が済むまで付き合ってあげようじゃないか!」
目の前に置かれた高級牛乳と、冷蔵庫から一緒に取り出したのであろうプリン。ろなるどくんはそこに無理やり昨日の残りの蝋燭を付き刺して、火をつけた。
「ヌヌヌヌヌヌ、ヌッヌヌヌ♡」
「ドラ公、ジョンが抱っこだってよ」
「なんかいくら再生しても筋肉痛が治らないんだけど」
「ヌッヌ!」
「抱っこだってよ」
「私が悪かったから!! ジョンさん!! いい子だから!!」