見ればわかる「おはよう」
まだ瞼が半分以上落ちたまま、顎に手を当て、親指の腹で顎先を擦りながら遼がリビングダイニングへ入ってきた。
「お…よぅ」
声を掛けたキッチンに立つ僕の元までふらふらとやってきて、首を傾けて顳顬へ唇を寄せる。ふふ。寝起きでうまく身体が動かないんだね。おはようって言えてないよ。
遼は昨晩遅くまで作業していて、ベッドへ入ってきたのは明け方近かったんじゃないかな。まだ眠いだろうに、出勤する僕に合わせて起きてきた。
口へのキスは、顔を洗ってうがいをしてから。遼はマテの仔犬…いや、大型犬か…のような目で僕の顔を覗き込んで、それから僕の手元を見た。卵を割り入れたばかりで指先が汚れているから、口元の涎跡を拭ってあげられない、ごめんね?
「伸、今日休み?」
僕の顔をじっと見つめて訊かれた言葉に、卵の殻を片付けながら首を傾げた。それからふるふると横に振って遼を見上げた。今日は木曜日。会社勤めの僕には週末まで休みはない。
「休まないの?」
遼は、僕の頭の天辺から爪先まで検分するように視線を往復させ、眉根を寄せた。
あれ、もしかして。
遼は所謂自由業だ。時に寝食を忘れるほど没頭してしまう遼が心配で一緒に住み始めて、しばらく経つ。僕は、遼の仕事が一山終えると有給を取って、一緒に過ごす時間を持つようにしてて。激務で疲れた遼を心身共にケアしてあげる時間を楽しんでいるんだけど、もしかして昨日の作業で終わったのかな? まだ掛りそうだと思っていたから有給は取ってない。それで、拗ねているんだろうか。
僕は、ちょっと顔を赤らめた。
可愛いけど、僕だって読み違える事位あるよ。今日明日の有給取得は流石に急過ぎて職場に迷惑を掛けてしまうな。
「ちょっと難しいかな」
残念だけど後2日週末まで待ってて、という気持ちを込めて、手を洗いタオルで拭いて遼の頬へ手を伸ばした。
「…だいじょうぶか?」
涎跡を拭おうとした僕の手を取ると、頬とその大きな手の平で挟んだ。それから、僕の額にコツンと、自分の額を合わせて覗き込んだ。
「?………うん?」
瞬きをする僕の目に映る遼の蒼い瞳は、ゆらゆらと残り火のように揺れている。どうしたんだろう。何か心配事があるんだろうか。怖い夢を見たとか? 僕は、遼の不安を取り除きたくて、心を込めて言った。
「だいじょうぶだよ」
遼は、鼻から小さく息を吐き、ぎゅ、と額を強く押し当ててきた。鼻先が触れ合う。
「わかった」
名残惜しそうに額と手を離して、踵を返して洗面所へ向かった。
あれ、もしかしてすごく甘えたい気分だったのかな? 遼が可愛い? どうしよ、休み、取れるか調整してみようか。
◇◇◇ ◆◆◆ ◇◇◇
洗顔とうがいを済ませた遼は戻ってくると、僕の背後にぴったりとくっつき、僕が出し巻き卵を作る様子を観察していた。巻きすに包んでキッチンへ置くと、待ち兼ねたように僕を背後から抱き締めた。
「良い匂い」
「卵焼き、作ったからね」
つむじにちょん、と唇の感触。次は顳顬。頬に降りると同時に右腕が上がって、左頬に添えられて、親指がふにふにと僕の下唇を撫でる。遼の手に促されるまま横を向いて顎をあげれば、唇が重なる。啄むように何度も重なって、僕は少し、体重を背後に掛けた。遼の肩に頭を乗せて、されるがまま。
どうしたの、遼、今日はずいぶん甘えただね? こんな風に君が触れてくるのは…えーと、朝からは珍しいから、とても名残惜しいけど。そう思っていると、遼のお腹がくぅ、と鳴った。ちょうど良かった。
顔を見合わせて、互いに、小さく笑いを零した。
「食べようか」
「ああ」
一緒に皿を並べて、いただきますを言って。他愛のない会話をして。自分の分と、遼の分とお弁当を詰めて。僕は遼に玄関で見送られて仕事へ向かった。遼は、仕事を一山終えたのかと思ったけど、そうではなかったみたい。ほんとにちょっと甘えたかっただけ? 出掛けに遼は、僕をじっと見詰めて、何かあったらすぐ連絡して、と念を押した。僕はそれに頷いて、いってきますと言って、そっと唇を重ねた。遼は照れたように笑って、いってらっしゃい、気を付けてと送り出してくれた。
遼はよく僕に、自分と一緒に暮らすことで僕に負担を掛け過ぎていないか心配を口にするけれど、そんな懸念は針の先で突いたほどもない。逆に、僕は遼と暮らすことで遣り甲斐と充足と、幸福と……愛情をもらって満ち足りている。君の力になれることは、僕の幸福なんだって、ちゃんと本気で受け取ってよね。
そんな風に思っていた僕は、ずいぶんと自惚れていたらしい。
昼休憩の少し前くらいからだろうか。オフィスについた頃から少し身体が重いな、とは思っていて。お弁当のおかずがなかなか喉を通らなかった。喉は少し痛いかな、という気はしたけど、おにぎり一つと卵焼きを一つ腹に入れて、溜息を吐いていると、同僚に食べないのか訊かれた。作り過ぎたと答えると、もらっていいかと訊かれて差し出した。オフィスの休憩室で、昼休みの残り時間いっぱい休んで、午後からの仕事に取り掛かったけれど、具合は悪くなる一方だった。
よっぽど青い顔をしていたんだろう。早退を申し出ると、上司は慌てた顔ですぐに帰りなさいと言った。
あぁ、病院はどこも午前の診察が終わっている。午後の診察時間までは身体が持たないな、と思って駅へ向かおうとしたけれど、途中で倒れたらもっと大事で、もっと多くの人に迷惑を掛けてしまう。
僕は、情けない気持でスマホを取りだして、履歴を開いた。一番上に目当ての連絡先。
「…りょお」
開口一番の僕の情けない声に、遼は優しく、すまん、やっぱり体調悪かったんだな、と言った。
僕は、君が甘えてるのだと思っていたのに、君は、僕の体調が悪そうだと思って心配してくれていたんだね。自分の不甲斐なさに涙が零れそうになるけど、ぐっと堪える。
『車で迎えに行く。医務室で待っていてくれ』
念のため、医務室の直通の連絡先をメッセージアプリで送って、大人しく医務室へ向かった。
お姫様抱っこをしようとする遼の申し出を、横になって少し体調のよくなった僕は全力で断り、遼の車に乗り込んだ。寝て休めば病院へは行かなくても大丈夫そうだ。
「どうして僕の体調が悪いって、わかったの」
帰宅して、着替えて布団に潜り込んだ僕を見て、安心したように息を吐いた遼に、とうとう訊いた。
「ん? そんなの、見ればわかるだろ?」
事も無げに言う遼に、僕は憮然とする。
僕だけの特殊能力だと思ってたのに。僕は健康優良児で、体調をあまり崩したことがないせいか、自分の不調に気付きにくいところがある。遼は、それを良く知っているんだ。
僕の恋人は、近頃益々スパダリ進化していて、僕の十八番を奪われてばかりだ。不器用で鈍感で、自分の事以上に人の事ばかり一生懸命なのに、人の気持ちの機微には疎くて見当違いばかりしていた手の掛かる年下の恋人が、眩しくて仕方ない。
僕は今、自分でも気づかなかった体調不良を把握されていて自分が情けなくて、鳴門の渦の中心で泡に包まれて眠っていたい気分なんだよ。そんなに嬉しそうに、甲斐甲斐しく世話を焼かないでくれないか。
朝、まだ熱が下がっていなかった僕は会社に病欠の連絡を入れた。遼は卵とじうどんを作ってくれた。遼が熱を出した時、僕がよく作るメニューの内の一つだ。
「伸、うまいか?」
こくんと頷いて、平らげた。薄味で、熱で弱った身体に優しい。だるさは残るけど、食欲はある。早めに休んだから、回復の調子は良い。
遼は、食べ終わった僕から食器を受け取ると、薬を渡した。それから、一人で大丈夫だと言うのに、寝室までついてきて、ぽんぽんと、胸のあたりを布団の上から軽く叩く。子供じゃないんですけど。
「早く良くなって。いっぱいキスしたい」
布団から目元だけ出してちょっと睨むと、にやりと笑う男くさい笑顔。
昔からベタ惚れだけどね?! これ以上惚れさせてどうする気?!