current 俺が、ただの銃だった頃の記憶。
歌が聞こえた。その歌声はとても優しくて、穏やかで…。
俺はその歌が…その歌が聞こえる時のヴィヴィアンの纏う柔らかい空気が、嫌いじゃなかった。
ライク・ツーが貴銃士として召銃されてから、絶対高貴を求めてフランスへ飛びジョージと十手を迎え入れてからも腰が落ち着くことはなく、その後もイギリスやドイツに赴いたりとカサリステの一員として慌ただしい日々を送っていた。ようやく任務の間に士官学校で人としての振舞いとやらを学ぶ日常を穏やかに送れるようになった頃には、貴銃士の数も相当増えていた。
そうして、退屈ながらも鍛錬を重ねる日々を過ごしていたライク・ツーは、ふとあの歌の存在を思い出した。彼がまだただの銃だった頃、時折聞こえてきた歌。
あの歌をヴィヴィアンが死去してからは一度も耳にしていないことに気づいた。
「なぁ、十手のおっさん」
「なんだいライク・ツー君」
「あんた、構内で歌…聞いたことあるか。いや、授業じゃなくて、誰かがその辺で歌っているような感じの歌」
普段あまり他者をあてにしない彼だが、珍しく十手にそう訊ねてみた。人選理由についてはわかりきっているが、ジョージは話をややこしくさせる可能性が高いのとマークスに至っては言わずもがな。マスター以外のことには興味を持たないので知らないと返ってくるだろう。
十手は顎に手を当て「うーん」と思考を巡らせたが、結局首を横に振りライク・ツーの望む返答は得られなかった。
だが彼から、不定期でやってくる声楽専門の講師がいるらしいという情報を得た。不定期ということはライク・ツーが銃だった頃のことと考えれば可能性としては有り得なくはない。
ライク・ツーは密かにその講師がやってくる日を期待していた。普段は面倒でしかない特別授業も、その時ばかりは面倒に思わなかった。
その日。貴銃士たち相手に声楽を披露してみせた女性の歌声は、ライク・ツーの記憶に残る歌声ではなかった。軍の聖歌隊に所属しているという彼女の歌声は、音楽に精通していないライク・ツーにも理解できるほど美しかった。けれど、違う。どれほど高音域が出ていても、伸びやかに空気を震わせていても、求めていたものではなかった。
内心落胆していたライク・ツーは、自分自身のそう思う感情そのものに驚いていた。
(たかが歌くらいで…何を落胆してんだよ俺は)
たかが歌。そう思うのに、何故どうしてこんなにも惹かれるのか。UL85A2を憎んでいた彼女が、その時だけは自分を手にしていても穏やかでいてくれたからだろうか。
気が付けばライク・ツーは慰霊碑へと足を運んでいた。
石碑に刻まれたヴィヴィアン・リントンリッジの名を目でなぞりながら、銃であった頃の記憶を追想する。
「あの歌…やっぱ、お前が歌っていたのか…?」
銃の記憶は、持ち主の強い想いを感じ取れはするが、全てのことを詳細に記憶しているわけではない。持ち主が替わると共に消えたあの歌声。シンプルに考えれば彼女が歌っていたと推察するのが自然だ。
ライク・ツーが瞼を伏せると、吹き上げた風が木々を揺らし、木の葉をさらった。さわさわと木の葉の擦れる合間から、微かな歌が聞こえた。
弾かれたようにライク・ツーが目を瞬かせ、周囲を見渡す。目に映る範囲にそれらしき人の姿はないが、風に乗って確かに声が聞こえる。
「どこだ…?」
耳を澄ませると、先ほどよりもはっきりと聞き取れるその異国情緒の穏やかなメロディーは、ライク・ツーの脳裏に眠っていた記憶を糸を引くように手繰り寄せた。
ヴィヴィアンの膝に乗せられ聴いていた歌。その声に耳を傾ける彼女を包む、柔らかな空気。
ライク・ツーは一歩踏み出し、駆け出していた。一歩駆けるごとに、期待と焦燥が膨らみ、心を掻き乱す。
構内の外れに、大きな柘榴の木がある。風に揺れるその木陰に、その人はいた。
「…マスター」
見開かれた睫毛を微かに震わせて彼が呟いた声は、風がさらって彼女には届かない。
ライク・ツーからは背中しか見えないが、彼女は木陰に腰を下ろしのんびりと、晴れ渡った空に向けて歌っている。
――あぁ、同じだ。記憶に残るあの歌声。
とても優しくて、穏やかで…。
俺はその歌を聞いている時のヴィヴィアンの纏う柔らかい空気が、嫌いじゃなかったんだ。
気まぐれな風が導いてくれた答えは、ライク・ツーの掻き乱されていた胸の内にすとんと落ちてゆく。
さく、と草地を踏みしめて近づくと歌が止まる。
「あれ? ライク・ツー、どうしたの?」
気配に気が付いたマスターが振り返り、思わぬ来訪者にきょとんと目を丸くさせていた。どうしたと訊ねられてもその心の内を言葉にするのは彼自身にも難しい。
「歌…聞こえたから」
「え、聞こえてた? 人に聴かせるようものじゃないからこっそりここで歌っていたんだけどな」
マスターは照れ隠しのようにはにかんだ。
確かにここならば人も来なく、声も人通りのある場所までは届かない。
「でも…ヴィヴィアンには聞かせてただろ」
その場に佇んだまま、ゆるやかに吹く風に髪を靡かせてライク・ツーが静かにそう言うと、マスターは彼の口から紡がれた友の名前に、瞳を揺らせた。
「…うん」
少しだけ悲し気に視線を伏せて、それからいつも通りの笑みを口元に乗せる。
「そういえば、ヴィヴィアン…この曲好きだって言ってくれてたな」
そう言って柘榴の木を見上げたマスターの顔は、悲しみはなく懐かしさに思いを馳せるような、そんな穏やかな表情だった。
ライク・ツーはその表情を見て、彼女の中で友はもう悲しみの象徴だけではなくなったのだと、そう悟った。
「お母さんがよく歌ってくれていてね。メロディーも歌詞もうろ覚えだから自分で補ったりしてて、めちゃくちゃなんだけど…たまに、歌いたくなるんだ」
また恥ずかしそうに、小さく笑う。
ライク・ツーはマスターの隣まで歩いていくとそのままそこに腰を下ろした。隣のマスターに視線を向けないまま、遠くでゆったりと流れる雲を眺める。
「隣で聞いててもいいか」
「ええっ? なんだか恥ずかしいなぁ」
「俺も…その歌、好きだよ」
「へっ?」と上ずった声が隣から聞こえる。ちら、と視線を横に向ければ、頬を赤くしたマスターと視線が絡む。驚きと、嬉しさと、恥ずかしさと。色んな感情が入り混じったその人の瞳はライク・ツーの心をまた少しだけ掻き乱した。
「ちょっとびっくりしちゃった」
あはは、と照れ笑いをして。それからマスターは小さく咳払いを一つ。
揺れる木の葉のさざめきの中、彼女の歌声が流れ始める。
特別上手いわけではないのに、青空によく通るその澄んだ歌声は心地がよく耳に馴染む。
異国情緒の、どこか子守歌のようにも聞こえるそのメロディーはゆっくりと、ライク・ツーの記憶に色をつけていった。
“彼女”と並び、この木陰でこうしてこの歌に耳を傾けていた小さな記憶の一欠けら。
ライク・ツーは、目を瞑って気持ちよさそうに歌うマスターの横顔を見て、心が凪ぐのを感じた。
そして微かに口元を綻ばせると、ゆっくりと瞼を下ろしその歌声に耳を澄ませるのだった。
銃である俺には似合わないくらいに優しくて、穏やかで。
歌も、その歌声に優しく耳を傾けていたヴィヴィアンも、それを歌うマスターも。
俺は…全部、好きだ。