ジェームズを曖昧な夢から醒めさせたのは、部屋を静かに満たすピアノのメロディだった。
時刻にして深夜の0時を回ったばかり。部屋まで届く音色は幽かだが、そのメロディはジェームズもよく知っているものだった。
クロード・ドビュッシーの〈月の光〉。ベルガマスク組曲の第3番にあたり、変ニ長調、8分の9拍子という中々に複雑な形をしているが、ベルガマスク組曲の中では最も易しい曲だ。ドビュッシーはヴェルレーヌの詩「月の光」を基に、想い人に贈るために作曲したと謂われる。
ああ、確かここは、一気に高音に上がって変ニ長調からホ長調に変わるところだ。En animantに誘われて、微睡みを誘うオルゴールのごとく高く美麗な旋律。この高みから、一気に音が堕ちていくフレーズが、ジェームズは一番好きだ。
部屋を出て、廊下を歩いて、階段を降りて。とてもこんな流麗な音楽が似合う洒落た家ではないのに、壁紙や床材、花の無い花瓶に窓硝子、全てがこの調べに歓喜しているような気がする。一歩一歩進むごとに大きくなる音楽は、でも儚い。
ああ美し過ぎて反吐が出る。楽譜を見れば見るほど混沌とした曲なのに、ひとたび奏でればそれが切ないくらいに虚無で形作られているのがわかる。美しいこと。それ以外をこの曲は持ち合わせない。それ以外を要らないとばかりに捨ててしまったのだ。全く賞賛に値する正しい選択だ。狂おしいほど空虚に作られたからこそ、弾き手はその空虚を埋めようと思い付く限りの感情を詰め込む。その感情を旋律は飲み込んで、秩序正しいものに変化させてしまう。そうして月の光はいっそうの美と華麗を得る。
この曲は空腹の魔獣同然だ。美しさで人を誘って、弾き手も聴き手さえも喰らい尽くす怪物にして悪魔だ。でもそれを責める人間なんて居ない。何故か? この曲は美しいからだ。それだけで何もかも人間は許してしまうのだ。この曲を弾き終えた時、全ての思いを注ぎ込み空っぽになった心がどろどろに溶けてしまったとして、それが良くないことだと考える人間なんて居やしない。それを本望だとすら感じる人間だって多いだろう。まるでこの曲の奴隷であるかのように。
これが〈月の光〉であることは、全てへの免罪符なのだ。
今この瞬間のジェームズも、その調べに誘われて音の源を求める者だった。さながらセイレーンの歌に惑う船乗りだ。
ある部屋のドアを開けると、音は一気に大きくなった。その頃にはもうラストに向かって左手が駆け上がっていくところだった。
其処はこの部屋の嘗ての主の書斎だ。今では机も書類棚も無くなっており、一台のアップライトピアノと楽譜とCDがしまわれた小さな本棚、長らく誰も触っていない幾つかの楽器や古いラジカセが置かれているだけだ。
窓から差す月明かりに照らされた黒いピアノの前に、誰かが座っている。年季の入ったそれは、舞台上の荘厳な楽器のように照明で照らされるより、陽や月影を浴びている方が似合う。……本当はピアノは日光を当ててはいけないのだが。
ラストのアルペジオを丁寧に丁寧に押し込んで、余韻の消え切らないうちに演奏者は声を掛ける。
「起こしちゃったか?」
「うん。でももっと早く起きれば良かった。ドレイヴンのピアノを最初から聴きたかったなあ。」
ジェームズがドレイヴンの座るピアノ椅子の隅にちょこんと腰を下ろすと、古い椅子は派手に軋んだ。ドレイヴンの父が亡くなってから禄な点検も掃除もしていないので、部屋の中の何もかもが酷い状態だ。
まだコンドラキ管理官が存命の時には、ドレイヴンが弾くピアノをよく聴いていた。時には管理官も弾いていた。彼がこのピアノで奏でるソナタは見事なものだった。
クレフ博士の影響なのか、ドレイヴンはどちらかといえば弦楽器の方が気に入っていたみたいだった。それでも、ジェームズが一つお願いすれば、恋人はピアノの前に座った。ドレイヴンは父親のものとよく似た、父よりやや細い指を持っていて、〈華麗なる大円舞曲〉や〈英雄ポロネーズ〉のような華やかな曲が好きだった。
だから、ここでこうして〈月の光〉を弾くドレイヴンを見たのは、少し意外だった。そもそも、ドレイヴンは父親の自殺以来、片付けたこの部屋に近付こうとすらしていなかったのに。
「ドビュッシーなんて珍しいね。ハニーはショパンが好きだったでしょう?」
「父さんが、俺が眠れない夜にいつも弾いてくれてたんだ。」
「博士が? あの人、同じ月の光ならベートーヴェンの〈月光ソナタ〉を弾きそうなのに。」
あらゆる苦難に遭いながら作曲を続けたベートーヴェンの生き様は、コンドラキの心に何かを残す曲を生み出したのかもしれない。ジェームズは彼の演奏は数えるくらいしか聴いたことが無いが、それは大抵ベートーヴェンの曲だった。ともすれば鍵盤の一つや二つを抉り取りそうなあの無骨な指先が、ピアニッシモもレガートも思いのままに連ねていくのが不思議だった。
「最初は俺もそう思ったさ。でも、暴れる音や俺の泣き声には怒鳴る隣人がピアノの音には何も言わないんだから、本当にすごい腕前だったんだろうよ。」
俺は父さん以外のピアノなんて殆ど聴いたことが無いから知らないけど、と付け加えた。
鍵盤を撫でながら、ドレイヴンはぽつりぽつりと呟く。ふと押してみたシ♭の音は、二人にもよくわかるほど歪んでいた。晩年、コンドラキがピアノを弾くことは殆ど無くなっていたし、ドレイヴンも父の前で弾くことを躊躇っていた。そして死後はいよいよ誰も触らなくなった。長い間調律されることの無かった黒い音の箱の中身は、きっとめちゃくちゃになっている。
「本当はそんなことも、早く忘れたいのかもしれない。こんな光の当たるところに置いてさ。埃も被らせて。これが壊れてしまえば、思い出も忘れられるのかもしれないなあって。」
「忘れたいの?」
「わからない。思い出すのは痛くて苦しいけど、忘れていくのも悲しい。何となく眠れなくて、父さんの真似をして弾いてみたんだ。」
でも、と言う声の震えに、ジェームズは気付かない振りをした。
「父さんのピアノじゃないと駄目なんだ。自分で弾く曲じゃ、何も感じない。何も安心できない。父さんの〈月の光〉は、俺にいつも『大丈夫』って云ってくれてるみたいで、優しくて。俺だけに弾いてくれてるんだって、俺、それがすごく嬉しくて……。」
「……うん。」
何だかこんなドレイヴンを見るのは、随分久し振りな気がする。父親の死を乗り越えて、もうすっかり大丈夫なのだとみんなが思っているだろうけれど、本当はそうじゃない。意地を張って気丈に振る舞っているだけだとジェームズただ一人が知っている。
恋人とその父の暮らしが、一般家庭、それこそ自分の家族のように幸せであったわけではないことはわかっている。でも、ジェームズは彼が父との日々を本気で止めたいと思ったことは一度も無いことだって知っていた。歪な親子の生活の中で、父は息子を愛し、息子も父を愛していた。そこだけで見れば二人は限りなく普通の親子でしかなかった。
普通の親子だから、その愛を忘れることがまだ出来ていなかった。ジェームズは家族を喪う痛みは知らない。だがその知らない痛みにドレイヴンが苦しんでいることは誰よりも知っていた。
「でも、何も『大丈夫』じゃなかった。あの人は結局、自分で自分を撃って死んだ。俺が一番恐れていたことを、俺が一番恐れていた方法で、現実にしたんだ。俺が眠れなかったのは、恐かったからなのに。父さんが居なくなることが恐くて仕方なかったからなのに。」
例えばここにコンドラキが生き返って現れたなら、そして息子を抱き締めて『大丈夫』と言ったなら、ドレイヴンのその痛みは消えるのだろうか。怖さは無くなるんだろうか。
ひょっとしてひょっとすると、あの生命科学の天才こと財団の問題児なら出来たかもしれないけれど、ジェームズにはそんな真似は逆立ちしたって出来ない。無論コンドラキになることだって出来ないし、そんなことを恋人が望んでいないことは十二分に理解している。
椅子の隅から左手を伸ばし、鍵盤真ん中のラ♭とファを打鍵する。やっぱり歪んで汚い音だ。生きていた頃のコンドラキが聴いたら罵倒しそうなくらい。
だけど、この短3度の和音を聴いて、ジェームズは何かを思い付いた。
「ハニー、ちょっとどいて。」
「え?」
半ば押し出すような形で、ジェームズはピアノ椅子を一人で占領すると、左手でラ♭とファを、そこから繫げて1オクターヴ上の同じ和音を右手で打鍵する。
鍵盤が歌い出すメロディに、ドレイヴンは目を見開く。
〈月の光〉はやっぱり、楽譜通りの音に囚われるよりも、好きなだけ音を伸ばし好きなだけ音を撥ねさせる方が良い。壮大な大空の月が何物にも囚われないのと同じように。
数多い変記号にも奇っ怪な拍子やリズムにも足を取られることなく、ジェームズの指先は滑らかに鍵盤上を駆ける。
序盤、左手は何度も移動しながら和音を弾くので、着地の音が大きくならないように、慎重に鳴らさなければいけない。〈月の光〉のメロディは、傷付いた硝子よりも儚い。序盤の盛り上がりである15小節目の高らかな和音ですら、記されているのはピアニッシモなのだ。
27小節目から、雰囲気が一気に変わる。始めはただただ銀の月光だけに著されていた世界に、そよ風に乗った月下美人の香りと、小川のせせらぎの音が混ざる。左右の手で流水のように奏でる音にも、メロディはすぐに飲み込まれてしまう。まるで手の掛かる子どもだ。こんなにも儚い旋律が他の曲に有ろうか。
「…………上手いな。」
「ずっと練習してたもの。」
そうだ、出来たことといえば練習することだけだった。ジェームズはこれまでの人生で、これほど美しい何かを生み出すことは叶わなかった。ジェームズがペンを取って五線紙を前にしたところで、書き上げられるのはきっと音楽とも形容できない何かでしかない。ドビュッシーはこれを28歳ほどで作り上げたというのだから驚きである。
もしジェームズが作曲の才に恵まれていたとしたら、ピアノ鍵盤の88の音も、ヴァイオリンの4オクターヴも、誰かの笑い声や泣き声も、窓を打つ雫や吹き抜ける風の音すらもすべて音楽に変えて、ドレイヴンへの愛の唄を作り出してみせただろうに。
残念ながらそんな才能には恵まれなかったジェームズは、先人の愛の奏でを借りることしかできない。ああ、ドビュッシーが〈月の光〉を作ってくれていて良かった。これが無ければ、僕は恋人に安息を与えることすら能わないのだから。
〈月の光〉の空虚を彩るのに、僕は彼への愛を用いよう。あたかもそれが最高の演奏であるかのように。
とびきり甘く、優しく弾いてあげなくちゃ。
これは愛しい恋人への、大切な子守唄なんだから。
どうか彼が、悪夢に魘されることの無いように。何ものにも怯えず眠れるように。
転調と共にメロディはどんどん高みに昇り詰めて、かと思えば転げ落ちて調も戻る。この辺りを弾いていると、ジェームズは段々誰が曲を演奏しているのかわからなくなってくる。ピアノが自分自身で歌っている音に合わせて、自分が指を動かしているだけのような不思議な感覚に襲われるのだ。それほどに演奏者を曲の世界に引き込んでしまうのが、〈月の光〉という曲だ。
一際低い旋律を勢いのままに奏でれば、先程までの香りとせせらぎはもはや思い出せないほど遠くにある。それに手を伸ばす間もなく、音楽は最初のメロディへと戻る。僅かな名残もやがて消えゆく、かと思えば再びそれは姿を現す。そこはもう曲の終盤で、夢の終わりだ。8音の最も美しいアルペジオに飾られて、月の光は消える。
最期の休符の存在も忘れて、ジェームズは鍵盤を押し込みペダルを踏み締めたまま、目を閉じて余韻に浸っていた。夢から醒めるのは難しい。それが美しい夢であればあるほどに。
窓から差す月の光を浴びながら、音に浸って夢に溺れて、恋人のことを想う。それはきっとこの世で一番幸せな一時だ。どこの誰が幸せを信じていなかったとて、僕の幸せはここにある。
ドレイヴン、きみは何も恐がることないよ。
きみが眠れない夜には何度だってこれを贈ってあげる。眠れるまできみの側にいてあげる。
きみの安心させるためなら、僕は僕と名の付くすべてをきみに差し出すことができるよ。
「………ど、どうかな、ドレイヴン。眠れそう?」
「……………。」
軋むペダルを離しながら、恋人に評価を尋ねる。多分酷いものだったろう。ピアノの音がどれもこれも宜しくない。
暫く固まっていたドレイヴンは、「うーん……」とちょっと困ったような顔をしていた。人差し指で頬を掻きながら、言いにくそうに話し出す。
「父さんの〈月の光〉は安心して眠れたけど、お前のじゃ眠れないよ。お前が月の世界に行ってしまいそうで余計に心配になる。」
「そう? じゃあ、何を弾けばきみは眠れるんだい?」
「別に、俺のために何かしようなんて考えなくて良いんだぞ? 俺はジェームズがいるだけで幸せなんだから。」
「ハニーは、僕のためにきみは何もしなくて良いなんて僕が言ったらどう思う?」
「……嫌だな、それは。すごく。」
「でしょ?」
こういう応酬において、ジェームズはいつもドレイヴンより一枚上手だ。
「おんなじドビュッシーなら、〈2つのアラベスク〉くらいしか弾けないや。うーん、ショパンの〈ノクターン〉ならどうかなぁ。」
「そんなに俺のためにピアノが弾きたいのか?」
「ピアノ、というより、きみに安心して眠ってほしいんだ。」
「じゃあ話は簡単だ。俺の腕の中でお前が眠ってくれれば良いよ。お前の寝顔を見ていれば、俺も安心して眠れる。それで、俺は聴きたい時にハニーに弾いてほしいって頼むよ。途中で眠るなんてもったいないことはしたくない。」
「じゃあ、いつでも弾けるようにきちんと調律しておかないとね。そして僕も、聴きたい曲をきみに頼もう。」
どうやらこのピアノは、まだまだここで恋人達の愛の唄を奏でなければいけないみたいだ。