四月の嘘平常時、特別調査所の昼休憩は12時から13時だ。食事はどこで食べても自由。外出する人もいれば、自宅から持ってきたパンや弁当を食べる人もいる。特調所の特性上、気安くデリバリーは頼めないため、外に食べに行く人が多い。タイミングがあえば職員同士連れ立って出かけることもある。食事をとる必要がない霊体の汪徴と桑賛は年中留守番だ。
「外に行く人~?」
壁時計は12時になるとチャイムで知らせてくれる。耳に心地良いそれを聞いて所長の趙雲瀾は横になっていた長椅子から身を起こし、事務所にいる人間に向かって呼びかけた。
「今日はどこの店に行くんだ?」
趙雲瀾の反対側に座っていた大慶が背伸びをしながら聞く。
「決めてない。外出て目についた店に入ればいいだろ」
「はい。俺は麺がいい!」
林静が手を上げて言ったが所長は聞こえていないかのように入口へと歩いて行った。4月に入る数日前からコートが不要の暖かい日が続いている。所員たちはスマートフォンだけを持った身軽さだ。
「……」
楚恕之も食事は外食派の一人だ。彼がみなより少し遅れて席を立ったのをパソコン画面の端で確認し、郭長城は急いで彼を追いかけた。
「楚哥、そ、外で食べるんですか?」
気が急いて舌がもつれた。楚は何故そんなことを訊くのかと言いたげな顔で頷いた。
「おまえは?また弁当か」
長城は叔父と叔母の家に同居している。叔母は甥に甘く、自分が仕事場に弁当を持って行く日は二人分用意してくれる。叔母が忙しい日は長城が代わりに作っている。そのため、毎日ではないが、昼休憩は持ってきた弁当を自分の席で食べることが多い。林静たちは24才にもなって家族に作ってもらった弁当を職場に持ってくる長城を「愛されてるね」と揶揄うが、楚は特に何も言わず、たまにテイクアウトの弁当を買って戻ってきて新人に付き合ってくれることもあった。
「はい。今日はサンドイッチを作ってきて、その、作りすぎたから楚哥も一緒に食べてくれませんか?あ、サンドイッチは僕が作りました。だから切り口とかキレイじゃないけど、ちゃんと食べられます!デザートに苺もあります。叔母さんが昨日買ってきてくれたものですごく甘くて、」
一息でまくしたてる青年を楚は無表情で眺めていたが、長城が言い終わって口を閉じると「食べる」と短く返答した。
「じゃあ僕お茶を淹れてきます!あと冷蔵庫に入れている苺も取ってきます!」
長城は机の一番下の引き出しに入れていたランチボックスを長机の上に置くと給湯室へとダッシュした。走ったのは楚が気を変えるのを心配してというより、照れ隠しだ。楚とランチを向かい合って食べたことはあっても、彼に長城が作ったものを食べてもらうのはこれが初めてとなる。サンドイッチのメインはチキンサンドだ。鶏もも肉を焼いて豆板醤ベースのタレをからませたものをトマト・レタスと一緒に食パンに挟んでいる。他にエッグサンドとジャムサンドの3種類を用意した。手作りですと胸を張って言うには気恥ずかしさがあるが、それでも長城が食材を揃えて作った事実に変わりはなく、口にした楚がどんな反応を見せるのか想像しただけですでに胸がいっぱいになった。
「僕は食べられないかもしれない…」
頭の中が”最悪な事態”の想像で埋め尽くされそうになり、長城は首を横に大きく振ってそれらを吹き飛ばした。電気ケトルに水を入れてセットし、ティーポットとマグカップを食器棚から出して茶葉の缶を探す。
「あら、小郭。今日はお弁当の日?」
突然背後から声を掛けられ、長城は飛び上がった。茶葉の缶を手に持っていたら床に中身をぶちまけていただろう。
「そんなにびっくりする?まだまだ修行が足りないわね」
給湯室の入口で祝紅が口を開けて笑っていた。手には桜色のストールがある。外に向かう途中で長城の姿に目を止めたのだろう。蛇族の秘書は身のこなしが軽く、足音を立てずに歩く。普通の人間で人より注意力が散漫な長城が彼女の動きを事前に察知するのは難しい。
「ちょっと考え事をしていて…」
「カップがふたつ?ああ老楚の分ね」
祝紅は長城の言い訳を途中で遮り、カウンター上のマグカップを見て意味ありげに眉を上げた。
「そ、そうです。サンドイッチを作りすぎて、楚哥に食べるのを手伝ってほしいってお願いして、」
長城がしどろもどろに話し出すと、祝紅はいいからと片手を振って押し止めた。
「老楚が職場恋愛するタイプだとは思わなかったけれど、仕事に支障が出なければ私は何も言わないわ。言える立場でもないし。あ、仕事中にいちゃつくのは禁止よ」
「職場恋愛僕たちはそんなんじゃないです!」
誤解されたままにしていると楚に迷惑が掛かる。長城が慌てて否定すると、祝紅は呆れた顔になって目を細めた。
「まだ付き合ってなかったの?小郭から言わないと進展しないわよ」
「進展しなくていいです!」
電気ケトルが勢い良く蒸気を吹き出し、水が沸騰したことを知らせてくれたが、長城は茶を淹れられる精神状態ではなく、やり場のない手を胸の前で握っておどおどと祝紅を見た。
「老楚が好きなんでしょ?」
「……ぼ、僕が好きなだけで……楚哥は僕を弟のように思って可愛がってくれているんです。告白なんかしたら、嫌な気持ちにさせてしまうかも……」
祝紅の揺るがない視線を向けられて問い詰められると長城はまさに蛇に睨まれた蛙の状態で、逃げることもできず、正直に答えるしかなかった。
「でも小郭は老楚を兄と思ってないからサンドイッチ作ってきたり、お茶淹れたりしてるんじゃないの」
「それは…楚哥がしないことで、僕はするのに抵抗がないからやってるだけで」
「気に入られたいっていう思いがあるんでしょ。別に恥ずかしがらなくても普通の感情よ。ただ、振り向いてほしいなら相手に自分の気持ちをわからせてないと意味ないから」
祝紅は力強く言い切ると所在なく立ち尽くしていた長城の肩を軽く押して壁に追いやり、キャビネットの扉を開けてお茶の缶を取り出した。
「言って気まずくなるのは困ります。その後に何もなかった顔でまた一緒に仕事できないですよ。嫌われるぐらい黙っていて今の関係でいたいんです」
「あのね、臆病なのも大概にしなさいよ。まず告白しなきゃ始まらないって言ってるでしょ。今日は4月1日だし、もし気持ちを伝えて老楚の反応が良くなかったら、エイプリルフールの嘘だって笑い話にしたらどう?」
口ではきついことを言いながらも祝紅のお茶を淹れる手付きは丁寧で、ゆっくりと湯を注がれたカップからは芳しい茶の香りが広がった。
「エ、エイプリルフール?仕事場でそんな冗談を言って許してもらえます?」
自分にはなかった発想だ。長城が驚いて聞き返すと、祝紅は深いため息を吐いて首を横に振った。
「知らないわよ。臆病なうさぎちゃんが告白して振られたとしても、その場で取り消してこれまでの関係を維持できる案を考えてあげただけ。言うも言わないも小郭が決めなさい」
「はい!……あの、ありがとうございました」
長城が礼を言うと、祝紅はお茶が冷めちゃうわよと言って立ち去った。
「遅かったな」
長城がトレーにマグカップ2つと苺を入れたタッパーを持ってワークスペースに戻ると楚は手を頭の後ろで組み、長机の上に両足を載せてくつろいでいた。彼の長い足からは少し離れた場所にランチボックスが広げられている。
汪徴と桑賛の姿は見当たらなかった。きっと図書室に移動したのだろう。
「すみません。給湯室で紅さんとお話していて遅くなりました」
内容は聞かないで!長城の心の声が聞こえたかのように、楚はふうんと聞き流した。
「えっとこれが苺で、サンドイッチはチキンと卵とジャムです。どれでも食べられそうなものを食べて下さい」
マグカップを一つ楚の前に置き、苺はサンドイッチが入ったボックスの横に並べ、長城は楚が座っている椅子の隣に腰を下ろした。ふたりの他に誰もいないが、ソファーに座り向かい合って食べるのは落ち着かない気がしたためだ。
「出されたものは何でも食べる」
楚はそう言ってチキンサンドに手を伸ばした。
「不味かったら無理しないで下さいね」
長城は意識して唇の両端を上げ、カップを口に運んだ。お茶から立ち上る湯気が鼻先をくすぐる。カップで顔半分を隠して楚がサンドイッチを咀嚼する瞬間を待った。
食パンを4分割したサンドイッチを楚はふた口で食べた。
「うまい」
楚は長城の目を見て言った。彼の瞳がいつもより輝いているのを見て本心から言っているとわかり、長城は嬉しくなった。
「好きなだけ食べて下さい」
「おまえも食べろ」
「はい」
緊張から解放され、長城もサンドイッチに手を伸ばした。2つ食べ終わる頃には普段の調子を取り戻し、お喋りが唇からこぼれた。
楚は長城とふたりの時は聞き役に徹していてたまに相槌を打ってくれる。彼が進んで自分の話をすることは滅多にない。長城の話は仕事についてや通勤途中に出会った人たちの話し、昨日の夜に見たテレビの内容、養父母のことなどで面白味はないはずだが、楚はつまらない話は止めろと遮ったり馬鹿にしたりせず、ただ聞いている。彼の頭に長城の話がどれほど残っているのかは知らない。楚は右から左に聞き流しているだけかもしれない。それでも長城にとって、彼がここにいてくれるだけで良かった。
日常の何でもない話ができる大学時代の友人は、長城が就職できず、卒業後家に引きこもっている間に縁が切れてしまった。長城は人付き合いが苦手だが、人間は好きで、誰かとお喋りをするのも好きだ。しかしこれといった趣味や特技を持ち合わせていないため、他人の興味を引く話しをするのは難しく、最後まで付き合ってくれる人は貴重なのだった。
楚が長城のどうでもいい話をいつも聞いてくれるのは、弟だと思っているからだろうか。
最近、そんなことを考える。楚の忍耐強さは新人の教育係に期待されているものを越えている。友人の枠からも少々はみ出しているはずだ。
もし楚が兄だったとしたら。
想像してみようとしたが、できなかった。長城はひとりっ子で、兄弟がいるという感覚を知らない。子供の頃、祖母が亡くなった後に広い家でひとり留守番していると、兄弟がいたら良かったわねと叔母が声を掛けてくることがあったが、長城はその都度、平気だよと答えていた。子供を授からなかった叔父夫婦への気遣いが半分、本音が半分。長城は人間関係を築くのが上手くない。血が繋がった兄弟であっても別人格なのだから、彼らが長城を好きになって長城も彼らを好きになる可能性は未知数だ。不確かなものを望むほど長城は彼らの家で孤独を感じてはいなかった。
長城は兄弟がいてほしいと願ったことはなく、楚の弟になりたいと思ったことはない。彼が自分のそばにいてくれる理由が、一緒にいて心地が良いからであったなら……
「……城。長城!」
楚に目の前でパチンと指を鳴らされて長城は我に返った。
「どうした。急に黙り込んで」
「すみません、ちょっと考えが余所に飛んでしまって…あ、もう50分だ。片付けなきゃ!」
時計を確認すると昼休みは残り10分だった。長城は慌てて空になったランチボックスとタッパーを集め、マグカップを洗い場に持っていこうとしたが、寸でのところで楚に奪われた。
「俺が洗う」
「え、い、いいですよ、僕がします!」
長城が言っても楚は耳を貸さず、大きな歩幅で給湯室へと向かう。
「カップを洗うぐらいでは昼飯の礼にもならんだろうが」
楚の“洗う“は文字通り水で濯ぐだけで数十秒で終わった。長城はずぶ濡れになったカップをペーパータオルで拭きながら、お礼なんて楚哥は言わなくていいですと笑って返した。
「僕が勝手に作ってきたんだから。いつも助けてもらって、僕は楚哥に何回お礼を言っても足りな」
「俺の機嫌を取る必要はない」
楚は長城の言葉を途中で遮り、眉間に皺を寄せた。声に苛立ちが混じっているのを感じ取り、長城はマグカップをカウンターに置いて弁明した。
「ご機嫌取りじゃないです!楚哥に喜んでもらえたらと思って…楚哥の食事は麺類とか炭水化物に偏りすぎで果物とか野菜とかあまり食べないですよね。それで」
「俺を喜ばせてどうする」
長城が言えば言うほど、楚の眉間の皺は深まった。どう挽回すれば良いのか分からず、長城はパニックに陥り、下手に言い訳を重ねるよりはとサンドイッチを作ってきた本当の理由を口にした。
「僕を好きになってくれるかもしれないじゃないですか」
「……は?」
「仕事で楚哥にできないことはほとんどなくて、僕はまだ全然足手まといで、僕だけができることって何だろって考えて思いついたのが料理だったんです。楚哥は料理をしないって前に聞いた覚えがあって、それを僕ができたら、役に立つところがあるって思ってくれるかもって……」
「長城」
楚は優しい声を出し、右手を伸ばして長城の後頭部から首にかけてゆっくりと撫でた。最近、彼は長城に触れるのを躊躇わない。新人が捜査中に怖がったり動揺したりしているのを察知すると逆立った毛を落ち着かせるように大きな手で撫でてくれる。
「おまえはもう弟子というより弟みたいなもんだ。仕事中にヘマしなければいい。役に立つとか立たないとか余計なことを考えるな」
楚の口調は子供に言い聞かせるそれで、長城がいま一番聞きたくないものだった。
「僕は誰の弟でもない」
長城の口から飛び出した言葉を聞いて楚は手を止めた。
「弟としてではなく、郭長城を好きになってほしいんです。仕事中だけでなくて、仕事が終わったあとも一緒にいてほしい。楚哥が好きなんです」
沈黙が落ちた。首の後ろに置かれていた手はぎこちなく離れ、楚の顔は凍り付いたかのように動かない。その瞳に驚愕の色が浮かんだのは一瞬で、すぐに消えて何も感情を読めなくなった。嫌悪や怒りはないようだ。困惑しているというのが正解なのだろう。どう返せばいいのか分からないのか、長城の気持ちを受け止められずにいるのか。どちらにせよ、失敗した。楚は長城を弟としか見ていないし、この先もそれは変わらないということだ。
今すぐ家に帰ってひとりで泣きたかったが、たとえそうできたとしても明日またここに来て楚と顔を合わせ、仕事をするのだ。この気まずさを長引かせるわけにはいかない。
「……お、驚きました?じゃあ成功だ!いまのはエイプリルフールの」
長城は何度か唾をのみ込み、震えそうになる声で祝紅に教えられた言い訳でその場を乗り切ろうとした。
「嘘だっていうのか?」
楚の声は恐ろしく低く、目にはその視線で人を殺せそうなぐらい凶悪な光がぎらついていた。とても「その通り、冗談です~」と言える雰囲気ではなく、許してもらえるとも思えなかった。
終わった。
「うう嘘じゃないです。楚哥が聞かなかったことにしたいのなら、エイプリルフールのせいにしたら丸く収まるかなって」
長城がうなだれると、楚は喉の奥から唸り声に似た音を出した。
「俺は何も言っていない。ひとり決めするな」
「……どういう意味ですか?」
恐る恐る顔を上げる。楚は胸の前で両腕を組み、眉間に皺を刻んだまま長城を見下ろしていた。
「……」
無言の見つめ合いがしばらく続き、緊張に耐えられず長城が目を潤ませると、楚は大きなため息をついた。
「……分かった」
「な何が?」
「おまえの話がだ!」
突然大きな声を出されて長城はとっさに首を竦め、数秒後に彼が言おうとしていることが分かった。
「それじゃあこれから……?」
長城が期待に満ちた視線を向けると、楚はたじろいで天井に目を泳がせた。
「弟扱いはやめる」
「それだけ?」
「そこからだ。急に何もかも変えれるものか」
楚の目は相変わらず天井に向いていたが、耳の先が赤くなっているのに気付き、長城の胸に希望がふつふつと湧いてきた。
「待ちます。楚哥が僕を見てくれる日まで。僕はずっと楚哥を好きでいますから!」
長城が勢い込んで言うと、楚は天井から新人の顔に視線を戻し、小さく笑った。地星人の希少な笑顔を引き出すことができて長城は思わず感動した。
「楚哥、」
「ちょっとなにこんなとこで見つめ合ってるのよ。職場でいちゃいちゃするのは禁止って言ったでしょ!」
祝紅の声が響いてふたり同時に振り返ると、給湯室の入口には秘書だけでなく副所長と科学者も好奇心に満ちた顔で楚と長城の顔を交互に見ていた。
「俺らがメシ食いにいってる間おふたりさんは」
「その言い方やめて!」
「ああ小郭。俺たちの小郭が」
「なな何もしてませんよ!?」
長城が焦って口を開いたが、所長の大声にかき消された。
「おい、昼休みはもう終わりだ。仕事しろ!減給するぞ!」
「はーい!」
減給する、は趙雲瀾の口癖のようなものだが、本当に実行されてはかなわないので、所員たちは新人を揶揄うのをやめてそれぞれの席へと散っていった。
「……楚哥。仕事が終わったら」
続ける言葉に迷った長城の肩を楚は軽く叩き、席へと促した。
「一緒に帰るんだろ」
「はい!」
もしかすると楚も自分と過ごす時間を心地良いと思ってくれていたのかもしれない。長城は心が浮き立つのをおさえられなかった。
帰りは真っ直ぐ家に帰るのではなく、寄り道をしてふたりでいる時間を引き延ばそうとしても許してくれるだろうか。
長城は退勤後に思いを巡らしながら、少しでも早く帰るため仕事に勤しんだ。