夜が明けるまでの愚かな恋3カーテンの隙間から朝陽が差し込み、晶の顔を照らしていく。眩しさにゆっくりと目を開くと、室内はまだ薄暗かった。体を動かそうとして、掛け布団から手を出すと、素肌が外気に晒される。
寒さに震え、動く事が躊躇われた。身体はまだ眠気を訴えており、今の時間なら二度寝をしても許されるだろう。しかし思い出したかのように現れた痛みと怠さが、晶を襲う。
「いっ…。」
腰の重怠さを無視して、床に散らばった服をかき集めた。そっとベッドの方へと振り返ると、枕に顔を埋めるようにして、フィガロが寝息を立てている。何となく彼は気配に聡いような印象があったのだが、晶が立てる物音にも身じろぐ様子すらない。これ幸いとばかりに、晶は夜明けと共にフィガロの部屋を立ち去った。
廊下はまだ暗く、冷え込んでいる。加えて倦怠感と疲労がピークに達しており、なんとか自室まで辿り着くと、晶はベッドに倒れ込むようにして二度寝した。最後の気力を振り絞って、目覚まし時計をセットしたのは誉めていいだろう。ジリリリとけたたましい音を立てて、起床を促すそれに叩き起こされた時、幾分か体は軽くなったような気がした。
「おはようございます、ネロ。」
「おう、おはよう。賢者さん。」
食堂へ顔を出すと、各々が悠々自適に朝食を楽しんでいる。不自然にならない程度に、テーブルを見渡す。そこでフィガロの白衣を見掛けなかったことに、ほっと息を吐いた。
「もう、フィガロ先生ったら、また寝坊してるんです!もう少しだけ寝かせてって言われましたけど、また起こしに行かないと。」
「そうだな。今日は依頼があるから、そろそろ起きてもらわないと。」
「じゃあ、私とミチルが、この後起こしに行きますね。レノさんはもう準備できてますか?」
「ああ。と言っても、そんなに準備する物はないんだが。」
「あ、賢者様、おはようございます!」
晶に気づいたミチルが、元気よく挨拶してくれる。手を振りかえしながらそれに応えると、晶はこれまた不自然にならない程度に、彼らとはほんの少しだけ遠い東の魔法使い達のテーブルに着いた。
なんとなく、そこにフィガロはいないとしても、距離を取りたかった。彼が、否、彼らが嫌いなわけではない。けれど、明るく朗らかな笑みを浮かべるミチル達に対して、自分が不誠実であるかのような後ろめたさを感じてしまう。
「ヒース、シノ、ファウスト、一緒に食べても良いですか?」
「あぁ、いいぜ。」
「もちろんです、賢者様。」
「…好きにすれば良い。」
その点、東の魔法使い達は、今の晶にぴったりだった。必要以上に踏み込まず、気遣いに長けている。この沈黙が、心地よい。
ふと、何やら視線を感じた。思わずそちらへ目を向けると、ファウストが眉を顰めている。
「ファウスト、どうかしましたか?」
「………いや。」
それきり、彼はガレッドを黙々と食べ進めた。視線の意味を問おうにも、それを話す気はないようだった。ヒースとシノは今日の討伐任務について、話し合っている。晶は怪訝に思いながらも、ヒースとシノの会話に時折相槌を打ちながら、朝食を楽しんだ。
♢
「…どうして、もっと早く来てくれなかったの?」
大丈夫、まだ耐えられる。
「あなたのせいよ!」
泣くな、自分のせいじゃないとしても。
「死んでよ!」
バシンッと乾いた音が響く。
叩かれた頬が熱い。この場に魔法使いの皆がいなくて良かったと、心から思う。優しい彼らはきっと、晶が叩かれたと知ると憤るだろう。
東の国での討伐任務に、晶達は来ていた。大いなる厄災の影響は大小様々であり、また魔法舎に来る依頼や任務も多岐にわたる。中には見間違いや悪戯も混じっており、その精査にも時間がとられるため、どんなに急いで事に当たったとしても、現地に着いた時にはさらなる被害が広がっていることもある。
今回が、そのケースだ。早く来てほしいと、助けを求めていた依頼人は、失った帰らぬ人を想い、その怒りと悲しみを晶にぶつける。
そんな時、晶は魔法使い達を遠ざけて、引き受けた。
「間に合わなくて、ごめんなさい。」
謝罪の言葉を口にしても、その場凌ぎにすらならない。晶に責任はないと正論を振りかざしたところで、逆上するだけだ。
だから淡々と、晶はその身に負の感情を受け続ける。
「…疲れた。」
あの後、周囲に危険が残っていないか見回りに出ていた東の魔法使い達と合流し、晶は魔法舎へ帰った。多少はマシかと思い、小川の冷たい水で叩かれた頬を冷やしてはみたものの、再会した時に彼らが浮かべた表情を見て、気休めに過ぎなかったと悟る。何かを言いかけたファウストを遮るようにして、晶は帰還を促したのだ。
じんじんと、また頬が痛みと熱を訴える。せめてキッチンに寄って、氷を持ってくれば良かった。だが怠さと疲れと、行き場のない感情が、思考を鈍らせる。
そして、目を瞑った晶だったが。
(…冷たい?)
何かが頬に当てられている。頬の熱が少しずつ引いていき、気持ちが良い。思わずそれに擦り寄るようにして、晶は目を開けた。
「やぁ、賢者様。」
「…フィガ、ロ?」
晶の頬に手を当てながら、フィガロがそばに立っていた。何故ここにいるのだろうか、と考えたところで、ふとファウストの顔が思い浮かぶ。
「ファウストが、君を診て欲しいって言ってきてさ。わざわざ俺に頼んでくるなんて、君って本当に好かれているね。」
自嘲でも嘲りでもなく、嫌味ですらない。ただ淡々と、事実だけをフィガロは告げる。
だが晶は、その姿に、どこか寂しさの面影を見たような気がした。
そう思ったのは、既に十分絆されているせいなのだろうか。
「……俺のせいだと、叩かれたんです。」
榛色の瞳が、晶を見透かすように細められた。
溜めて、溜めて、淵まで溜め続けた、怒りと悲しみとやるせ無さが、ついには溢れ出していく。
「……俺は、悪くないのに。」
そう溢した時には、目尻に浮かんだ涙が一筋、頬を伝った。
心が限界を訴えた、瞬間だった。
見慣れた白衣を掴み、晶はフィガロに身を預ける。仄かに香る薬品と、いくつかのハーブが混じり、フィガロの匂いに安心した。
フィガロはベッドの端に座り、身を寄せる晶が求めるままにされている。
もう、こんなにも、籠絡されていた。
「…そう、賢者様は悪くないよ。」
フィガロの冷たい手が、晶の頭を撫でていく。
その声音は、どうだったか。
心が擦り減り、ぼろぼろになった晶は、ただ目を閉じた。