初めて猫になった日「あなた、良い加減にしてくださいよ。」
自室の扉を開けた晶を出迎えたのは、不機嫌を極限にまで突き詰めたミスラだった。彼は晶のベッドを我が物顔で寝そべりながらも、部屋の主人が帰ってきたからと言って退くこともしない。
ミスラの機嫌に周囲の空気も引き摺られたのか、帰ってきた晶がまず感じたのは寒さだった。この部屋だけ格段に寒さが増している。真っ当な人間なら、いや、この世界を生きる人ならば、不機嫌なミスラに近づくなど正気の沙汰ではない。世の真理とも言うべきそれは――幸か不幸か、晶には該当しなかった。
「すみません、どうしても急ぎの案件が重なってしまって…。待たせてしまって、申し訳ないです…。」
「本当です。北の国なら死んでますよ。ほら、手を握ってください。」
当然の如く差し出されたミスラの手は、残念ながら柔らかな温もりに触れる事はできなかった。
悲しそうな目で、晶はゆるりと被りを振る。
「ごめんなさい、ミスラ。明日までの仕事がまだいくつか残っているので、それが終わったらすぐに手を貸しますね。」
「は?」
強者であるミスラは、要求を断られることに慣れていなかった。従わなければ、力尽くで従わせてきたからだ。それの積み重ねにより、ミスラにとって、弱者は必然的に自分の言う事をきくと認識していた。
呆然とするミスラに構うことなく、晶は机に向かって書類仕事をし始める。
そんなものよりも、圧倒的に自分の方が優先されるべきなのに。そう思った時には既に、ミスラは立ち上がって晶を背後から抱え上げた。
「わわ、ミスラ、本当に駄目ですってば…!」
「うるさいです。俺があなたに従うんじゃなくて、あなたが俺に従うべきです。寝ますよ。」
魔法で部屋の明かりを消すと、途端に暗闇が二人を包んだ。最初は抵抗する晶だったが、そんな弱々しい力で歯向かってきたところで意味はない。それでももぞもぞ動かれると寝れそうになかったので、ミスラは黙らせるようにして晶を力強く抱き締めた。まるで拘束するかのようなそれに、抗うこともできるはずなく。
諦めた晶はとんとん、とミスラの背中をゆっくり叩いていく。
「…あなた、いつも仕事してますよね。」
「そうですね。なかなかミスラに手を貸すことができなくて、すみません。」
「謝罪は聞き飽きました。謝ったところで、あなたは俺を優先しないんでしょう。なら、俺にも考えがあります。」
「考え…?」
柔らかな布団とミスラの温もりに包まれて、隠れていた眠気が晶にも訪れる。先ほどまであった気力は、とうに霧散していた。欠伸をひとつ溢すと、傍らのミスラもうとうと微睡んでいるような気がした。
会話を続ける余力もなく、二人はそのまま眠りに落ちた。
♢
翌朝食堂に顔を出した晶を見て、朝食の準備をしていたネロは顔を引き攣らせた。
「おはようございます、ネロ。今日も美味しそうですね。」
「おは…よう、賢者さん。」
どうにか不自然にならないよう答えたネロだったが、あまりの衝撃的な光景に動揺を隠せなかった。かろうじて顔に出さないようにしただけでも、及第点と言いたい。
「あー、えっと、朝食はどうすればいいんだ…?」
「あ、今は寝ているので、また後でにして欲しいそうです。なので、先に俺だけ頂いちゃいますね。」
「…おー、そっか。分かった。」
そう返事をしたネロは我関せずとばかりに、一目散にキッチンへ逃げようとした。だが無情にも、次々に新たな声が追いかけてくる。
「うわ、何なの。気まぐれにも程があるだろ。賢者様に尻尾なんか振って、馬鹿みたい。」
「朝っぱらから、なんて物を見せんだよ。それミスラか?」
朝食の匂いにつられたオーエンとブラッドリーが、晶の抱えるものに気づいた。対する晶は、満面の笑みで二人を見返す。
「えへへ、俺がずっと仕事してるんだったら、こうすれば一日中一緒にいられる事に気づいたんです!」
大きな赤毛の猫が、くあ、と欠伸をした。ぱちりと開かれた翡翠の瞳は、つまらなさそうにオーエンとブラッドリーを見遣る。興味を失ったのか、猫は―ミスラは再び晶の首元へ顔を寄せた。
「あり得ないでしょ…どんな神経してんのさ…。」
「あのミスラと一日一緒にいたいなんて思うかよ…。」
二人のドン引きした姿に構うことなく、晶は愛しそうにミスラの喉元をくすぐった。