ひとひら散りゆく「ふふ、痛い?賢者様。」
オーエンの軽やかな問い掛けに、返す声はなかった。代わりに、静寂に響くのは浅い呼吸だけ。窓がないため外の景色は分からないけれど、此処に連れて来られるまでに見た降り積もる雪は、きっと晶の声すら閉じ込めてしまうだろう。
北の国の、とある小さな隠れ家にて。
晶は自由の効かない身体を横たえて、オーエンを見上げていた。色彩の異なる瞳は、晶の一挙手一投足を逃さぬかのように観察している。人形めいた美貌は常と変わらぬ表情なのに、それを取り巻く環境が異質だ。ベッドとテーブルと、椅子が一つずつ。無機質な壁はやや燻んでいて、頼りなさそうな灯りが揺らめいている。暖炉もあるが、オーエンがそれに火を付ける様子はない。背中から伝わる冷気にふるりと身を震わせると、部屋にまた哄笑が響いた。
「可哀想な、賢者様。言っておくけど、誰か来るなんて思うだけ無駄だよ。」
オズならばその限りではないかもしれないが、ここに連れてこられるまでの経緯を振り返ると、体感的に今は夜の可能性が高い。だからなのか、一層寒さは増していき、容赦なく晶の体温を奪っていく。
客観的に見れば、オーエンが晶を虐めているような場面にしか思えないだろう。しかし当の晶本人は、全くと言って良いほど緊張感も不安も、恐怖すらもなかった。
あるのは、ただ一つだけ。
(オーエンを……傷つけてしまった……)
深い後悔と哀しみに、申し訳なさ。それらが心中を満たしていくのを感じながら、晶はゆっくりと息を吐いた。
♢
それはなんて事のない、いつもの日常だった。
「はーい、二人一組に分かれて異変調査でーす!」
「我とスノウ、賢者ちゃんの中から好きな人選んでね!」
「え、えーと…。」
突如指名された晶は、驚いたように双子を見返した。対する北の魔法使い達は、心底嫌そうな表情を隠す事なく、反抗心を露わにする。
「冗談じゃねぇ、一人の方がマシだ。」
「最悪。何でわざわざ二人になる必要があるの。」
「もうこの辺一帯消し飛ばせば良くないですか?」
近くの森にて、魔物の存在らしき痕跡があったため、下調べも含めて調査をお願いしたいという村からの依頼だった。この世界に来た直後はどう行動すれば良いのか分からず、慌てふためいていたのも懐かしい。数をこなしてきた今、自由に行動する北の魔法使い達をいかにその気にさせて行動してもらうかを、晶は経験を重ねて対処できるようになってきていた。
「一人ではすぐに逃げるじゃろう。」
「我らも本当は我らだけでペアになりたいところを、泣く泣く分かれて行動する決断をしたんじゃ。」
「ほれ、早く選ばんと我らが選ぶぞ。」
「早いもの勝ちでーす!」
ここでブラッドリー、オーエン、ミスラは押し黙った。双子とペアには絶対になりたくないが、ここで抵抗しても面倒だ。力で捩じ伏せるのも出来なくはないが、魔物討伐を控えている今―あくまで可能性だが―魔力は温存しておきたい。
ならば、どうするか。
「お前は俺様とだよなぁ、賢者?」
ブラッドリーは晶の肩に手を回す。
「は?賢者様は俺と行きたいに決まってます。」
当然のように、ミスラは晶の右手を掴む。
「優しい賢者様は、僕と行くよね?」
晶の左手を、驚くくらいそっと優しく掲げたオーエン。
三者三様の勧誘に、晶は「ひぇ……」と情けない声を上げざるを得なかった。
「きゃー!賢者ちゃん大人気!」
「我ら出番なくない?」
その後晶を取り合った三人を双子が(力尽くで)説得して、ミスラとスノウ、ブラッドリーとホワイト、オーエンと晶の三組が出来上がった。もともと奉仕活動の意味合いも兼ねている事から、ブラッドリーは双子のどちらかが見ると決めていたらしい。ならばミスラとオーエンをどう割り振るか、その最終決定権は晶に握られたのだが。
「……。」
銀灰の空を横目に、晶は前で箒を操るオーエンをそっと覗った。時折横殴りするほどの強風が襲いかかるも、結界か何かで守っているのか、その進行を妨げる事はない。
「……なに。こっち見ないでよ。」
顔を向かずしても晶がオーエンを見ていたのが分かったのか、苛立ったような声が投げかけられた。
あれ、オーエンが俺を選んだのに……と思わなくもないが、そう指摘すると彼の機嫌を損ねる事はわかっていたので、口にする事はない。
天邪鬼で、好意よりも悪意を好み、近寄ると消えてしまう。賢者の書の、彼に関するページだけは今だに増えていない。彼自身が、過去を拒んでいるようにも感じる。無理して聞くような真似はしないが、彼の事を少しでも知る機会があればいいなと期待して、晶は今日オーエンを選んだ。
そう考え込んでいくうちに、緩やかに高度が下がり出す。特有の浮遊感を出す事なく、滑らかに下界へ降る様は流石熟練の技と言うべきか。やがてふわりと新雪の上に箒を止めると、オーエンは降りる事なく周囲を見渡した。ただの人間である晶には、普通の森にしか見えない。風が吹き抜ける度に針葉樹の葉が騒めくも、降り積もった雪に全て飲み込まれていく。
「オーエン?どうかしましたか?」
「……動物がいない。生き物の気配がしない。」
極寒の北の国とは言え、寒い中でも活動する生き物はいる。冬眠でもしているのでは、と思うかも知れないが、動物と話せるオーエンがそう言うのならば、本当にいないのだろう。
思えば確かにこのあたりは、静かだ。
まるで、獲物が罠にかかるのを待っているかのように。
「グオオオオオッ‼︎」
突如後方から、地響きのような振動と共に唸り声が襲いかかって来た。真っ白な銀世界には不釣り合いな、赤黒い毛に覆われたその生き物は、勢いよく雪の中から飛び出しすと、鋭い牙を突き立てようとする。熊とも猪とも言えるようなその魔物の登場に、オーエンは動揺する事なく躱した。魔物は勢い余ってその奥にあった木に衝突するも、すぐに立て直す。
「へぇ、雪もぐらが厄災の影響で魔物化したみたいだね。」
「え⁉︎あれもぐらなんですか?モグラ要素皆無じゃないですか?」
「お前の目は節穴なの?雪の中に上手く隠れて飛び出してきただろ。」
「も、モグラ要素ってそれなんですね…。」
今は上空に避難しているためか、雪モグラがこちらまで手を出してくる様子はない。けれど虎視眈々と狙っている素振りはあり、オーエン達を逃す気はなさそうだった。
「この辺りの生き物は、既にこいつに食べられちゃったか逃げたみたいだから、餌を探しに村まで来るのも時間の問題だろうね。」
淡々と、それでいてどこか面白そうな含み笑いを溢すオーエンに、晶は慌てたように訴えた。
「そうなる前に、何とかしないと…!」
「どうして?そうなったら、きっと絶望と混乱と恐怖でいっぱいになる。ぐちゃぐちゃの血みどろと肉塊にまみれた所に、止めを刺した方がやり甲斐があるよ。」
まるで晶を試すかのような物言いだ。賢者として模範的な回答をすれば、つまらないと切り捨てられる。かと言って下手に取り繕ったところで、偽善者と詰られるかもしれない。彼の矜持と、晶の願いは相反するもの。秤にかけて、慎重に選ぶ必要がある。
オーエンを見つめる晶との間で、いつの間にか、小さな淡雪がひとひら舞った。銀灰色から曇天へと変わり、世界をまた白く染め始める。
降り始めた雪の中で、晶は視線を逸らす事なくオーエンに告げた。
「スノウとホワイトが言っていたでしょう、オーエン。」
「……は?」
「『早い者勝ち』ですよ。ここで仕留めなければ、ブラッドリーやミスラはオーエンがしくじったと思うでしょう。それでも良いんですか?」
彼を相手に、倫理や道徳を説くつもりはない。村のため、人の為を理由に説得した所で、動かない。
何故なら彼は、北の魔法使いだから。
力こそが全てで、誰よりも孤高な存在。
ならばそれらしく、その誇りと矜持を守るために、すべき事を指し示す。
それが、晶の役目だ。
「……お前、本当に生意気。」
「わわ、ちょっ…!」
「邪魔だからそこにいなよ。動いたら殺す。」
晶を手頃な高さの樹上に下ろすと、オーエンはくるりと身を翻した。真白のコートが風で靡くと、あっという間に雪景色に溶けていく。それでも雪モグラは視線をオーエンから離さずに、再び突進した。
魔物の討伐なのに、まるで演舞でも観ているかのような感覚だった。軽やかに躱したかと思えば、振り返りざまに強烈な一撃を叩き込む。鋭い鉤爪がオーエンを切り裂いたと見せかけて、次の瞬間にはその巨躯から鮮やかな血飛沫が吹き出した。雪原を染めゆく緋は、徐々にその量を増していく。
そしてついに、よろよろと雪モグラがバランスを崩した。その隙を逃すはずもなく、皮肉たっぷりにオーエンは嗤う。
「これで終わり。じゃあね。」
哀れな魔物の最期の断末魔を期待して、雪上に降り立っ彼は冷酷にそう告げた。だが不意に、雪モグラがその動きを止める。
じっとその様を見ていた晶は、何故か違和感を抱いた。最期の足掻きにしては、やけに物分かりが良い気がする。そうして周囲に目を凝らすと―晶は飛び出した。
「オーエン!」
勢いよく彼を突き飛ばした、その刹那。
左肩から背中にかけて、もう一頭の雪モグラの鉤爪が晶を襲った。経験した事のない痛みに、思わず意識が遠のきそうになる。霞む視界の中で、何とか瞼を開けると、オーエンに抱き抱えられているのに気付いた。あの一瞬で、すぐに体勢を立て直したらしい。それまで汚れひとつなかった彼の外套が―徐々に晶の血で紅く染まっていくのを見て。
(謝ん、なきゃ……)
だがそこで、晶の意識は途絶えてしまった。
♢
そして目が覚めて――冒頭に至る。
痛みはまだあるが、背中の傷は何故か無かった。しかし左肩の怪我はそのままで、腕を動かそうとすると新たな血が傷口から溢れていく。もう少し肉を抉られたような気もするが、もしかしたら治癒魔法を掛けてくれたのかもしれない。どうしてこんなに中途半端な状態で放置しているのかは、分からないが。
傍らの椅子に足を組んで座るオーエンの身は、綺麗だった。晶の血で汚してしまったから、それだけは気になっていたのだ。
だから晶は、か細い声で謝った。
「オー…エン。ごめ…なさ……い。」
晶の謝罪を、オーエンは黙って見つめた。あまりにも小さな声で呟かれるそれは、宙に溶けてしまいそうで聞こえているのか不安になる。けれど何とか絞り出して、伝えたかった。傷つけてしまった彼を、繋ぎ止めたくて。
「お前のそれは、何に対する謝罪?」
「勝手な……事を、したから……。コート…汚して、すみま…せん。」
晶は弱い人間だ。ただの凡人で、無力だ。きっとあの時飛び出したのだって、結果的にオーエンに迷惑を掛けている今、余計な事だったのかもしれない。
でもあのまま、動かないままではいられなかった。オーエンの傷つく姿を見たくなかったから。最も、今目の前にあるその姿を見て、結局傷つけてしまったのだと悟るけれど。
「お前の助けなんて、いらなかった。」
苛立ちを隠さずに、彼は言った。そうですね、と続けたかったけれど、言葉は口の中で音にならなかった。
「無様に隅で隠れていれば良かったのに。」
彼の指先が、晶の肩の傷に触れた。傷口に沿って緩やかになぞると、徐にぐいっと力を込める。途端に増した痛みに耐えようと唇を噛もうとするが、それよりも早くもう片方の彼の手が、晶の舌を掴んだ。
「んッ…⁉︎」
「言ったでしょう、賢者様。『動いたら殺す』って。」
蜂蜜を溶かした金の瞳と、鮮血を思わせるような緋の瞳。二つが晶を見据えて、罪人を弾劾するかの如く罰を与えようとしていた。
彼は晶に覆い被さると、弱々しく動く晶をベッドに縫い付ける。晶の舌を掴んでいた手はそのまま首元まで下がり、柔肌を爪が突き立てた。
普通なら叫び声の一つでも上げるところだが、晶はただ浅く息を吐いただけだった。いっそ恐怖で青ざめてくれればと期待するも、そんな繊細な人間ならばオーエンを庇うようなことはしないと被りを振る。けれどやはり罰を甘んじて受けるその姿は面白くなく、血の気を失った白い首筋に今度は歯を突き立てた。ゆっくりとそれを柔肌に食い込ませると、舌先に晶の血が広がっていく。
さすがにそれは痛かったのか、じんわりと晶の目元に生理的な涙が滲んだ。
「オー……エン、もう…許し……」
「ふふ、駄目だよ、賢者様。身の程知らずのお前に、じっくりと教えてあげる。」
どうして、治癒魔法が中途半端な状態だったのか。今にして晶は悟る。
オーエンの言いつけを破り、彼の矜持を守れなかったこと。その重みを、徹底的に晶の身体に刻んでいくためだ。
傷のなかった肌に、紅い華がひとひら散った。