明日世界が終わるなら大いなる厄災と呼ばれる月が襲来すると、世界が滅亡の危機に瀕するらしい。らしいというのは、まだ実際にそうなっていないから、あくまで可能性の話だ。最も、滅亡していたならば、今この世界は存在しないのだが。
賢者として召喚された晶は、21人の魔法使いを束ねて、厄災を追い返す役目を持つ。
(あの綺麗な月が襲ってきたら、本当はどうなるんだろう)
平和な日本で生まれ育った晶にとって月は美しく、風情さえ感じる。
夜空に浮かぶそれをぼんやりと眺めていると、コトンと目の前にマグカップが置かれた。
「そんなに眺めて楽しいか?賢者さん。」
「あ、ネロ。お疲れ様です。」
温かなホットミルクが差し出され、晶はありがたく受け取る。書類仕事を片付けていたら遅めの夕食となってしまったが、ネロはきちんと取って置いてくれた。
食休みも兼ねてぼんやりしていたら、ネロの方も片付けが終わったらしい。
「お疲れ様。で、何考えてたの?」
こうして時折、食堂の片隅でネロと語り合うのが、晶は好きだった。踏み込み過ぎず、深入りしない、この絶妙な距離感が、今では心地良い。だから、するりと心の内が溢れていく。
「…あの月が襲来したら、どうなるんだろうって考えてました。」
「どうなるって、滅亡するんじゃないのか。」
「スノウとホワイトからは、そう言われました。だから一層、世界が終わる日について、考えてしまって。」
「へぇ。」
元の世界でも、よく映画や小説で描かれていた。けれどそれは、恋愛や友情、憎悪や復讐多々あれど、あくまで空想に過ぎない。
本当に世界が終わる日を迎える事なんて、ないのだから。
「俺の世界では…いえ、少なくとも俺の国は、平和で豊かだったので、世界が終わる日というのがピンと来なくて。けど友達同士で、明日世界が終わるとしたら、何をする?って話で盛り上がったことがあります。」
「明日世界が終わるなら…ね。」
ネロは頬杖をついて、晶の話を静かに聞き入る。縁起でもない話題なのに否定せず、むしろ面白がっているようにも見えるかもしれない。
ホットミルクを一口含むと、束の間の静寂が訪れる。
「賢者さんは、なんて答えたんだ?」
じっと探るような黄金色の瞳が、晶を見つめる。幼い頃の記憶を辿るが、あの時自分はなんて答えただろうか。今となっては朧げとなってしまい、思い出せない。
「小さかったので、あまり思い出せません。あの頃は、家族と近くの友達だけが、俺の世界だったから。会えなくなるのが嫌だから、最後まで一緒にいたいとかそんな感じだったかな。」
「はは、あんたらしいよ。」
微かに溢れる笑いが、食堂に反響する。
「ネロは?」
「え?」
「ネロは、明日世界が終わるなら、どうしますか?」
ほんの意趣返しのつもりだった。いつも余裕で落ち着きのある彼の、ふと崩れてしまう姿が見れるかなという、淡い期待。
だが予想に反して、ネロは晶に問われると、すいっと視線を逸らした。
「……さぁな。案外、何もしねぇかも。」
「何も?」
「そう、何も。いつも通り、朝の仕込みをして、昼飯作って、酒のつまみを見繕う。最後だからこそ、特別な事なんてしねぇよ。」
彼の視線の先を辿ると、青白く浮かぶ月が在った。次に彼が、戦うべき相手。そしてこれから長い時間、見続けることになる存在。
まるで月に囚われたかのようにすら思えるその姿に、言い知れぬ不安が過ぎる。
「ネロ。」
晶は、彼の名前を呼んだ。こちらを見て欲しくて、彼に手を伸ばす。
「ん?」
そのまま頬に手を添えるが、ネロは嫌がらずに、顔を傾けた。晶の手の上から、自身の手を重ねて。
「あなたは月に選ばれた魔法使いじゃなくて、賢者である俺の魔法使いです。」
月に奪われたくないと、晶は言葉を重ねる。ネロは黙って聞いていた。
信用するなと、彼は言う。
境界線を誤ってはいけない。
これ以上踏み込んだら、戻れなくなる。
だが、それでも。
「…もし、明日世界が終わるなら。」
仮定の話を、また続ける。
今度は、ネロを真っ直ぐ見て。
「俺は、ネロの食事が食べたいです。」
この世界で出来た、当たり前の生活を過ごしたい。焼きたてのパンの香りで目覚め、温かなスープを楽しみ、美味しいご飯を皆で楽しむ。
「そして、ネロとまた、こうして二人で話したい。」
震えた声でそう告げると、ネロはほんの少しだけ目を見開く。曖昧だった境界線が、今この瞬間にも溶けてなくなってしまいそうだ。
距離を取られるだろうか。引かれるだろうか。
耐えきれずに、晶もまた視線を月へと向ける。
そして、頬に添えた手を離そうとしたところで。
「なんで離すの、賢者さん。」
ネロは面白そうに、晶の手を握り返す。
彼は水仕事もこなしているはずなのに、垢切れひとつない綺麗な手だ。けれど紛れもなく男の人の手で、今でも晶の手を簡単に覆ってしまう。
晶の心中を知ってか知らずか、優しくて繊細な、気遣い屋の彼は、もう月を見ない。
黄金色の瞳は、晶だけを見据える。
「それ、すげえ殺し文句だから。」
明日世界が終わるとしても、共に過ごしたいと思える日々を。