五七ワンライ「返歌」部屋の襖を開けると、大きな手で湯呑を覆い、大きな唇で茶の湯面を迎える五条と目が合った。ぐび、と大きく喉仏が上下する間に襖を後ろ手で閉め。ぷっは、と器の縁から外れた唇が何事か言う前に、七海はいそいそと持っていた荷物を片付ける。
「おかえり。どうだった? 旅館自慢のおっきいお風呂は。たしか……滝が見えるんだっけ?」
「綺麗でしたよ。アナタも来ればよかったのに、勿体ない」
「あのねぇ、金髪碧眼に筋肉ごりごりで、身長の高い男ひとりが入るのですらじろじろ見られるだろうに。僕まで行って更に注目されろっての? やだよ。そんなの」
はぁ…と深い溜息を吐く唇は、普段と逆だ。げえ、とあからさまに嫌な顔を、七海はフッと一息で笑うところまで、常とは逆だ。
大概、平時より視線は集めがちの背格好である故に、ある意味で、むけられる視線には鈍感である七海は、五条さんが珍しいな、と首を捻った。ともすれば。
「他の男から恋人が、良くも悪くもジロジロ見られるのはたまんない、って言ってるんだけど。僕の言いたいこと伝わってる?」
「いえ全く。なるほど、そういうことですか」
しゃあしゃあとした返しに五条が機嫌を斜めにさせるさなか、七海は彼の姿を越した奥に見る、外の景色に気を向けた。
開けた障子の先、山と山の隙間から湖面の煌めきが目に抜ける景色は。陽のとっぷり暮れた今、ただ安穏とした闇が広がるばかり。しかし、ただ暗く墨を落とした光景かと言えば。五条の瞳を覗いた時に見えるのと同様の、燦々と降り注ぐ星空がそこに。極めつけに、眩しい程の満月がぽっかり浮かんでいて、湖面の揺らぎやら山の木々の陰まではっきり見えて壮大だ。
それらを背景に五条が立ち上がり、続く隣の部屋に姿を消す。月見で一杯と洒落こみたかった七海に反し、下戸の彼はさっさと布団に寝転がる算段で。それには自分も必ず付き合わされることが決定づけられている。
なにせ、花より団子。
瞬く月より、熱中したい閨事。
山の木が一体となって影を揺する様から、名前を呼ばれて目を外す。予想通り五条は、二組敷かれた布団のひとつにあぐらをかいて座り込み、おいで、と大きな手を手前に何度かひらめかせ、こちらを鷹揚に呼びつけた。
「一杯呑むのも、待ってはいただけませんか……」
「待てないよ。一級と特級が日付を合せて休暇をとれる、なんて。伊地知が血反吐はいてまで駆けずり回ってくれたおかげだからね、時間は有効に使わなくちゃ」
彼にしてみれば、至極まっとうで殊勝な心がけである。ただし、そもこの休暇は、ここ最近の案件を無理言って前倒し、ふたりで捥ぎ取ったようなもの。伊地知の協力も基になっているとはいえ、自分たちの頑張りのおかげが一番だ。
伊地知には大変悪いが、彼をネタにして誘われるのは、自分の頑張りを過小評価されているようで少しムッとするものがあった。
「私だって、アナタとここに来るのを楽しみにして、常より力を入れたのですが」
思わず唇を尖らせて言った呟きに、聞き耳を立てていたのだろう五条が、数秒の間を置いて噴出した。
「ンッ、ふふ、ははッ! そぉだよねぇ。まずは七海が頑張らない事には、ここにふたりで来るなんて出来ないもんね」
「アナタも真面目に仕事をしてくれていたことは、充分に存じてますよ」
障子を閉め、布団の上で両手を広げて待つ男の元へ足を向けた。ここで景色を肴に愉しむ酒は、それこそ、明日の夜でも出来る事。折角のお呼びたてを無下にするのも嫌で、けれど男の思うまま嫌で、やれやれと言った風に頭を左右に振りながら。
「じゃあ、頑張った僕に御褒美ってことで今日はお願い。明日の夜は、僕がお酌でもなんでもして、ご褒美あげるよ」
「それはどうも」
男の両腕の合間にかけて腰をおろすと、宇宙の神秘を詰め込んだ瞳がじろじろと、無遠慮な視線を投げかけた。
「浴衣も、似合ってんね」
湿りをすこしばかり残した金の髪は、全体的に後ろへ撫で付け。祖父譲りの骨と筋肉の太さを主張させる、異国情緒の匂う身に纏うのは紺の紬。ふ…と別の意味で溜息を吐いた五条が、腰の高さを誇示する七海の帯紐に手を添える。
「もとが綺麗だと、スーツも和服も似合うんだね」
「その言葉。そっくりそのまま、お返ししますよ」
五条の触れてくる手に手を重ね、それを持ち上げて頬に。大浴場から見えた滝の姿は、細い落ち方ながら厳粛で、七海の心をそれはもう落ち着き払った厳かなものへ変化させていたのに。いまではすっかり男の熱に火照り、酔った気分である。
「アナタの方が、和服は着慣れているでしょう。私のは見よう見まねです」
「僕の方が慣れてるってのは、そうだろうね。ま、大して着ないケド……上手よ? 着せるのも、」
「脱がせるのも?」
にったり笑った口は、三日月の曲がり。ぞくりと背筋を痺れさせる顔がすぐ傍に迫り、咥内に湧いた唾液を飲み干そうとした折、高い鼻先が絡みついた。
「試してみる?」
「どうせ、明日の朝まで私は、裸に剥かれているのでしょうね。着せるときは、起こしてくださいよ?」
唇を重ねるのは七海の側から。柔らかな圧をかけ続け、ふと薄く開いた瞳で見つめあう。金と銀の睫毛の先がそれぞれ、相手の瞼をちらちらとくすぐりあって笑いが零れる。それで隙間の空いた唇から、どちらからともなく舌を覗かせた。
「明日の朝は、そのへんお散歩いこ。湖まで行っても良いし」
「では、歩ける体力の残るよう、優しくしてくださいね」
「オマエ……優しく、なんて強請る男かよ」
確かに、体力にはそれなりの自信があった。
自分だから、最強を自他ともに認める男、五条の寵愛を一身に受けてなお、隣に平然と立っていられるのだから。
これはなにも、自意識過剰の感情では無く。五条も、その他ふたりの関係性を知る者はみな、七海こそが凄い、と頷いてくれ続けたことで身についた感情であった。
「では思う存分どうぞ。受けて立ちますから」
「そうこなくっちゃ」
浴衣の併せ目から覗く鎖骨に、まずはじりじりと、節だつ中指が入り込んだ。それだけで肌は灼かれるように熱くなった。五条の方こそ興奮しているのがわかる、指の腹からでも容易に伝わってくる体温と昂り。ならば自分は口づけに集中しようと更に、顔へ角度をつけて男の舌を咥内に呼び込んだ。じゅっと音の出るほど吸えば、素肌に探りを入れていたのとは別の手が、腰を留め置く帯を外しにかかった。気を引き締めていた締りが弛むと同時に、は、と零れる吐息。舌のざらつきを重ねてちいさく前後させると、五条の鼻腔からも同じだけ熱いものが漏れだして嬉しい。
「あし、たの朝……は、」
「うん? もう……僕の名前か、好きって言ってくれる声しか、五条さんはききたくないよ?」
ちゅるんと抜け出した舌が、むう、と唇を突き出して文句を。なにも、この場を逃れたくて話を変えたいのではないのだ。七海は眉を垂れ下げ、五条の前髪を梳いて頬笑んだ。
「好きですよ、五条さん」
「僕も好きだよ、七海」
音の出るキスで上機嫌を露わにされ、なんとも心くすぐられてしまう。あんまりこちらを甘やかさないでとばかり、七海からは彼の下唇に噛みつき。それで、明日の朝についての願いを連ねる。
「アナタの体で、着物を着せる練習をさせてください」
「いいよ」
でもなんで?
とまで訊きたそうであった口を、口で塞いで鼻頭を擦りつけ合う。
「私ばかり、脱がせられ着せられてでは悔しい、ですから」
「じゃあまずは、脱がせるところから始めよっか」
「えぇ」
自分がされたよう、五条の腰を締める帯を弛め。分厚い皮膚の手で撫でた五条の身体は、しとりと潤んでなにより厳かな水気を孕む。これからその湿りを呼び水として、誘われる場所は布団の上と言うより、もっと高い頂きなのだろう。
受けた手つきに倣って返す。どこまでついて行けるだろうかと、己の気力を振り絞りながら、七海はそっと男に向けて倒れ込んだ。