二十四節気「春分」電子音は仕事の日も休みの日も変わらず同じ時間に奏でられる。七海はピリピリと可愛らしい音に誘われ、瞼を閉じた状態で腕を伸ばし、電子音を止めようと
「うん?」
身体が異様に重怠かった。ぬくぬくと暖かい布団のなかにおさまっていたいのは当たり前、それよりもっと物理的な意味で重さを感じ、動くのがとても億劫、といった感触。
なぜだろう。
不鮮明な頭でぼんやりと理由を考える。
そもそも昨日はどれだけ身体を動かしただろう。早い時間にベッドに入ったのだから、疲弊が残っている可能性は低いはず。一番の心当たりがなくなると、いつもと違った眠り方をしただろうかとも考え。とにもかくにも。カーテンの隙間から差し込む朝日を味方に自身を見下ろすと、掛け布団はみるからに膨らんでいるのが分かって納得した。
「アナタ来てたんですか」
身体を重く感じたのは、誰かが上に乗りあげ、さらには七海のそれより太い腕でぎゅうぎゅうと抱きしめてくれていたからだった。
まずは、その誰かさんを寝かせたままにしてやりたく、なんとか腕を引き抜きアラームの電子音を止める。その腕で掛け布団をそうっと開けると、なかには微笑ましい光景が広がっている。
「ん、フフ……まるで猫ですね。」
まあるい頭の形を表す、ふわりと白い長毛がゴージャスだった。
より一層煌びやか、ぴたりと伏せられた瞼を縁取る睫毛も白く、長く。
朝日が布団の中にまでたどり着くと、それらの白さはキラキラ、ちかちか、細かな輝きを弾けさせる。
それら起き抜けに見るにはあまりにも眩しい白さに加え、ツンと尖った鼻筋がううんと唸りをあげて胸に擦り付いてくると、動きの可愛らしさにも目が釘付けになった。美人は三日で飽きるというけれど、このカワイイ恋人、五条を前に見飽きるなぞとんでもない。一生をかけてでも見つめていられる彼の寝顔をじっと見つめること数十秒。気になることがあって、ふと我に返る。その後すぐはまばたきの多くなるのは、まばたきすら忘れて見入っていた反動である。
「そうそう、アナタ……約束は守ってくださったんですか」
起こすわけではなく、なんとなく、語りかけたい気分。それこそ、違う言語であるとわかっていても、ペットについつい話しかけてしまう、飼い主のそれと似ているだろう。
さて約束とは、この家に頻繁に通う同棲未満の恋人、五条が、毎度律儀にシャワーを浴びてからこの家に来ていたのを、やめるように言ったことだ。
仕事を終えたら七海の家で夕飯を一緒に、などとイエスのみを求め、目を爛々と輝かせて言うくせに。必ず高専や、道中どこかしらで、仕事の後の汗を流してからくる男である。清潔感を一番に大切に思う、初々しい付き合いは終えた。なんならくたびれきった、汗や土埃に汚れたところを癒してやりたいと考えるまで、愛の育まれているのに。いつだって男は完璧な状態、美しさを整えてこられ、それはなんだか愛する隙がないのと同じだった。
律儀なところは好きだ。されども、シャワーを浴びる少しの時間すら惜しいほど焦がれている。同じ屋根の下で過ごしてほしいとの思いが、日に日に強くなって。美しい男より、くたびれていても早くアナタに会いたいのだと、素直に告げた時の彼の顔はお笑いだった。頬を赤くさせ「僕もはやく会えるものなら会いたいよ。シャワーの時間だっていつも焦らされてたもん」と言ってくれた五条を思わず抱きしめたほど。
それなら話は早いと、それからは遠慮がちに、けれども約束通り、彼は七海の家でシャワーを浴びることで、二人きりの時間を長くさせた。
恐らく、昨夜は七海の寝入った後に五条はこの家にやってきた。
やってきて、こちらが寝ているのを見ると、起こさないようベッドへ潜り込んだのが容易に想像できる。
「失礼しますね」
変態じみた行動。なお、真相が気になって、ふわんと白く跳ねる五条の髪に鼻を埋め、二度、ふかく息を吸い込んだ。スゥ…。スゥ…。感じ取れるのは、こちらの頭から漂っているのと同じ清潔感あふるる香り。つまりは。
「ちゃんと、ここでシャワーを浴びてくださったんですね」
いつの時間に帰ってきたのかわからない男が、きちんと約束を果たしてくれたことの喜び。七海はその喜々と跳ねた心の赴くまま、白い髪を鼻先で撫でるよう顔を振った。うりうり。摺りつけた鼻が猫っ毛のせいでくすぐったい。ふわふわ。くしゃくしゃ。すりすり、なでなで、ふしゅふしゅ……
いつのまにか、寝てしまっていた。
五条の頭に鼻を押し付けるだけで気持ちよくなって、はっときづけば気持ちよく二度寝だ。
いけないいけない。慌てて壁の時計で時間を確認し、ひと安心。アラームで起きてから数分程度の二度寝で済んでいる。
「朝ごはんを用意してきます。どうぞ、ごゆっくり」
たったの数分だが変化があった。五条の抱き着きが緩まることで身体の重怠さが減っていたのだ。それを好機と五条の腕、もといベッドから抜け出して。まずは顔を洗って、昨夜のうちに洗濯カゴにいれていた自分の服、控えめに入れられた五条の着替えの両方を洗濯機に放ってボタンを押す。その間に朝ごはんを作ろうとリビングに出れば。テーブルの上にぽつねん。
短い枝、そこに咲いた花。それから一枚のメモが七海を出迎えてくれる。
「ちゃらんぽらんに見えて、こういうところは本当に律儀ですね」
案の定、メモには五条の言葉が並んでいた。うっとりする美しい筆跡と反比例して、語句はかろやかにぴょんぴょんと跳ねている印象を受けた。
おはよう
夜のうちに来たよ
洗濯もの、お世話になるから
七海と一緒に起きて僕がやる
だから起こして!ぜったい!
朝ごはん作るのもやるよ
なにがいいかな
材料もすこしだけど買ってきておいた
それと今日
五条の家のあれこれで挨拶しに行った家のご婦人が、剪定した梅の枝をくれたから持って帰ってきたよ
あとで、これみながら屋内で花見しよ
七海には酒も買ってあるからね
たぶん爆睡してるから
ほんとに起こしてね!
あぁ、こんなところでもおしゃべりなのは変わらない。煩いくらいの彼の言葉が、いっそ心地よくて。それから、五条悟が爆睡なんて、嬉しいこともあるじゃないかと。この家ではすっかり安心しきっているのがわかると嬉しくて。
いっそ彼が怒るところも見てみたく。面白い絵面になるそうなので、朝ごはん作りも洗濯も終えてから起こそうかなと、考えた七海の口角がきゅんと上がった。