sweetmilk家入から連絡を受け、駆けつける以外の選択肢を持つ人間は果たしてこの世に存在しうるだろうか。ひとり、ふたりくらいまではパッと名前が浮かび、自分はというと後輩であることと日々どこかしらに受ける怪我の治療を頼んでいる手前、彼女から呼び出しがかかればいくら仕事が早く終わろうとも、郊外にある呪術高専まで急ぎ戻らざるを得なかった。
「家入さん、お待たせしました」
扉を開けると、電話越しに「大至急」とつけてまで呼びつけてきた先輩は、それはもう大変お寛ぎのご様子。いつもの革張りの椅子にゆうるり腰かけ、コーヒー片手に七海の到着を待っていた。加えてぷかぷかと紫煙をくゆらせる彼女の膝上には、なにやらまあるい白黒の毛玉がころりと転がっている。くしゃくしゃと指先であやされるそれに目を凝らすと、それは白地に黒の斑点を毛皮を持つ猫であることがわかった。
「もしかして、それが、その……?」
七海が声をかけると、丸まっていた毛玉がピクリと反応を示す。
柔軟と言えば聞こえはよろしい、まさに骨なしのなめらかさで向けられた猫の表情は虚を突かれたように、瞳はまん丸の、きょとんとしたもの。対する七海もきょとんと目を大きく開く。なにせ猫だと思っていた毛玉は、確かにひろく見積もれば猫に相当するが、まるで違う生き物であったから。
長い尾で舵を取ることで険しい岩肌を難なく駆けて飛び、おおきな手は軽やかな身のこなしを深い雪中でもものとする、雪山の猫、ユキヒョウだ。ふわふわふさふさ、豊かな毛並みの美しい彼はまだ子猫と呼べる大きさの可愛らしい見目だけれど。野生動物はすこし目を離した隙に驚くほど成長する。
そんな野生動物の、ぞっとするほど青く輝く瞳が、さらに丸くなって、
「゚ミィォーーーーゥ」
甲高い声音を上げることで明らかに七海を見て歓喜した。
家入の狭い膝上で器用に体勢を変えた子猫は、リノリウムの床へ、ひょいと着地。赤ん坊然としたちいさな頃より長い尾を、空中で弛ませることで瞬間の動きの余韻を残しつつ、野生動物の本領を発揮してみせる様は流石だ。状況を忘れて見惚れる七海の元へヒゲをピンと伸ばした興味津々のご様子であるユキヒョウが、いざ、おおきな一歩を踏み出して。
――ぽてん。
「……ぉ、ぉお」
「んッ、ふふ、ぶふ。すごいな、大きい一歩だな、五条」
大人ふたりぶんの声援を受けて気分を良くしたらしい。今度は反対の足をあげて、また一歩、大きく踏み出すユキヒョウ。
――ぽてん。
フスフスと自慢気な荒い息遣いをお供に、地に足をつけていく様は。そもそも足の上げ方からして思わず笑いを誘われるものだった。まっすぐに差し出すのならまだしも骨ではなく関節を失くしたように、足を曲げるというのがわからないのか右に左におおきく前足を大回りさせてから床へぽてりと着地させる様は微笑ましい。大仰に、印を押す、キーボードのエンターキーを押すようなその動き方は、七海の足をも動かすのに充分な効力を持っている。
「アナタって人は、なぜこんなことになったんですか」
たったの二歩で到着したユキヒョウの身体を、腰回りに手を差し込んでひょいと持ち上げて胸におさめると。可憐な青い瞳がきゅるんと潤み、こちらを見上げてくる。鋼の理性を持つ七海ですら視界が眩み、心臓をわしづかみにされる愛らしさ。くわ…とまだまだ小さな口をめいっぱい上下に広げて大あくびをされた暁には、胸の中に彼を閉じ込めてしまいたい気持ちにさせられた。
ぎゅううと力いっぱいに抱きしめ、世界中で自分だけが彼を見つめていたい、と。そんないきすぎた愛情が芽生えるだなんて驚きだ。
「良かったなあ五条。いつもつっけんどんなコイツも、動物の赤ちゃんだと思うとずいぶん優しくしてくれそうだ。精々、甘えておけよ」
家入の窘める声で我に返った。
肩を飛び跳ねさせて声の主を見るも、彼女の顔には辱めようとする意地悪な先輩面よりも強く、ユキヒョウが愛される様子に感激している色香が表れていた。
その理由を七海はなんとなく理解する。
彼女が先ほどから発しているよう、このユキヒョウの赤ちゃんは正真正銘、稀代の最強呪術師、五条悟その人が変身した姿であるためだ。失くしたものの多い男が純粋に慈しまれているとなると、同期からすると思うことがあるらしい。
とはいえいまの彼に五条悟としての自我はなく、ただただ五条の魂を持ったかわいいユキヒョウの赤ちゃんと捉えるのが正しい様子。いまも家入や七海の言葉、仕草なぞどこ吹く風と一生懸命に鳴き声を上げ、七海へじゃれつくのを楽しんでいる。
「ミィォ、ミィオ、ミョォオオ」
「この人はたとえ動物になってもお喋りなんですね」
「それがオマエにだけ、なんだよなあ。私にもそれなりに鳴きわめいていたがここまでやかましくはなかったよ」
「ミォオ、ゥプルン、ミョオンプ」
「わかりましたから、すこし黙って」
幼くとも真っ黒な鼻先に指をあて、静かに、と願ってみても甘えた声は響き渡る。いうことを聞こうともしないうえでウニャウニャと、必死にお喋りする姿は愛くるしいから厄介だ。普段なら、だれもが見上げる大男がやいのやいの騒いでいるから煩雑なイメージが強いというのに。こと動物の鳴き声、それも赤ん坊の甘え声となると、いっそ可愛らしく思えてしまうのはどんな魔法だろう。
「で、この人の世話を私に任せる、ということでよろしいですか」
「話が早くて助かるよ。べつにユキヒョウ自体は可愛らしいし、私の前では大人しいもんで、居てもらってもまったく構わないんだが……なかにはネコアレルギーの患者もいるからな」
「余計な仕事が増えるのは勘弁願いたいものですしね。良いですよ、その分の手間賃はあとでこの人からいただきます」
「お、いいねえ。ならついでに、私も良い酒もらおっと」
つづきは本文で❄️