付き合ってないけど、キスするふたり昼になり、天気がいいから外でご飯を食べようと言う灰原に誘われて、七海はひんやりとした空気の流れる木陰に腰を下ろしていた。ともすると、向こうから人が歩いてくるのが見える。黒い服というだけでは学生か補助監督かの区別もあいまいだが、その人には目を瞠るほど美しい白銀の頭と。遠目から見てもわかる、長い手足と高い上背というバランスの取れた肢体があって。灰原と共に、その人が五条であることに気付く。
思わず、その動きを見つめてしまう。一挙手一投足を、仔細に観察してしまう。
そうして強い視線を投げていたせいで、とうの本人もこちらに気付いた。近づいてきてやっと、彼が手づかみでチョコレートケーキを持ち、それを頬張りながら歩いているのが分かる。名家出身であろうに、行儀の悪さがにじみ出ている。
「よぉ、灰原、七海」
「おつかれさまです、五条先輩!」
「お疲れ様です」
とりあえずと頭を下げた。身なりや歩き方には気品が整っていて、やはり、仕草は悪い。実家に帰れば、落ち着いた、次期当主としての姿になるのだろうか。ぼんやり考え見つめていると、五条は七海の切れ長の視線に、眉をしかめた。
「ったく。七海は相変わらず、シケたツラしてんなぁ。糖分足りてねぇんじゃねぇの?」
「そういうあなたは、随分とひょうきんなお顔立ちで。糖分過多なのでは?」
「あ“あ”ん“? ひょうきんってどういうことだ。世界一の美形に向かって」
「なんです? え、いま、世界一の? 美形? とか聞こえましたけれど? 内面の美しさが備わってこそ、世界一なのでは? 貴方の場合だと、世界最下位になってしまいますが」
顔を合わせるなり一触即発の雰囲気に、いつものことだと慣れた様子で、ニコニコしながら灰原が場を諫めていると。五条のやってきた方角から、どす黒いオーラを背負った硝子と、楽しそうにルンルンしている夏油がやってくるのが見えた。
「あ、家入先輩と、夏油先輩だ。こーんにーちは~!」
高らかに挨拶する灰原と、彼の声に併せて腰を折る七海。そして五条はと言えば、途端「ヤベッ」という顔をして。次には何かをひらめいたらしく、にっこりしながらケーキを最後の一口と頬張ってから、七海の顎をがっしり掴んだ。
「ちょっと! いきなりなんですッむ、ぅっンン“~!!」
ベロの侵入してくるキスが始まり、なんのことやらと混乱しては、真っ赤になる七海。灰原は相変わらずにこにことして時を止めているので使い物にならず。なんとか自分なりに抵抗をと、胸を叩いたり、ぐっと頬を押しのけようとするが力は強く。まったく止まらない五条。
「ンんッ! ぅ、ぐ、ンッ」
酸欠になる。と肩をタップして訴え、やっと口が離れた。
七海は大きく肩で息をして、上機嫌な男をギロリと睨む。
「あんまり嫌がるなよ。俺が下手みたいじゃん」
抵抗するのに五条の服を握っていた手を取られ、にぎにぎと何度か握られる。この人がなにをしたかったのか本気で読めず、七海は困惑する頭で、とりあえずひっぱたこうと手を振りあげた。
「ふざけるのも、大概に……ッ!」
「で、どう? 美味かっただろ? 硝子が楽しみにとっといたチョコケーキ」
「は?」
その手は軽々取られ、べ、と出された舌の赤さに釘付けになる。
たしかにいまのキスは五条が食べていたケーキの、チョコの甘さが美味しくはあったけれど。
それで、誰の、ケーキという話をしていたのかと。言葉を理解して青ざめる。
「ごじょ~ォ!!おまえだろ、私のケーキ食ったの!!!」
いい度胸だな、と叫ぶ硝子の怒りっぷりを五条越しにみて、やられた、と頭が痛くなってくる。追従してくる夏油は、物見遊山といった雰囲気で、この修羅場を五条がどう潜り抜けるかの見物に来たらしい。
「同罪だ。オマエも。だって味わったもんな」
「え、ちょ、は?」
しなくてよいはずの言いわけをするのに、五条へ向かって口を開くのと。腹の底からの発声が常で、どこまでも声の届く灰原がニコニコしながら
「七海も美味しいって言ってました!」
と言うのは同時だった。
「は、はいばら……?」
突然の裏切りに打ちひしがれる暇など無い。鬼の形相の硝子に、七海までが追いかけられる羽目になる。
「待てコラ~!!!」
「逃げんぞ、七海。ほら、おせぇって!」
伸びてきた手に手首を掴まれ、駆けだすことになったせいで膝にのせていたパンが零れ落ちる。咄嗟に振り向くと、愛しの昼食は、和洋の垣根を越えて、同じくメシを愛する男灰原が、きちんと受け止めてくれていた。
大丈夫、七海の可愛いパンは、僕が守るよ。
親指を立てる灰原に、別の意味の感謝も込めて、口の動きだけで『ありがとう』と告げた。
こういう状況でないと、好きな人へ素直になれる術がわからず。にこりともできない七海はいま、好きな人と手を繋いだ逃避行へ駆けだせる。それもこれも、ある意味での助け船を出してくれた灰原がいたおかげだ。五条が前ばかり見ているのをいいことに、七海は赤らんだ目尻を隠そうともせず、引かれるまま着いて行った。
――数年後。
高専内のロビーが、にわかにルネサンス通りに居を構える洒落たカフェと見紛う光景と相成ったのは、陶器の皿にのったチョコケーキを優雅に頬張り、金のハンドルに手をかけ紅茶を嗜む七海の姿があったからだ。
「なぁに食べてんの! 五条さんにもちょ~だい」
ソファに腰かけ、すらりと伸びた背に嵌る、七海の太い首に。するんと猫のようななめらな所作でまわる長い腕。七海はうすうす勘づいていた男の到来に、知らず溜息をふかく吐き出し。その溜息を吐いた口、鼻先、目元、顔全体でもって、くるっと五条を振り返る。
「お疲れ様です、五条さん。では口を開けて」
「え、うん、はい」
ぽっと開いた幅広の口に、七海の慎ましやかな薄い唇が寄る。
まさかキスなんてされないよね。
そう高をくくっている五条の鼻を明かしたくて。いつだってこちらを振り回してくる男を、今日くらい、ギャフンと言わせてやりたくて。五条の鼻筋に沿って己の鼻先を彼の頬へかけて埋め、ぷっちゅ、と可愛らしい音をたててふっくらした唇に噛みつく。
口を開けてと指示したのは、舌を入れるためだった。あまくほろ苦い、大人が虜になる芳醇なチョコの味。自分まで蕩けるような甘さと香りに、うっとりと瞼を閉じて舌を差し込む。
やがて行き当たった五条の舌へ、チョコをまとった舌をぬっくぬっくと満遍なく塗り付け。そっと瞼をあげると、五条はあのアイマスクを下からぐっと持ち上げ、七海を凝視しているところであった。
「……ッン、ふ、」
まさか驚きにだろうか、開け放たれた口蓋からちゅるんと抜け出す舌で、迎え入れてくれた唇を舐めてやる。すこしチョコがついて汚れてしまったが、それくらい自分で舐めたらいいと、七海は前に向き直った。
「美味しいでしょう。随分と人気の店の、ビターチョコケーキらしいですからね」
「うまい、ケド、あの、七海さん? 建人くん?」
「ほら、最後です。美味しかったのなら、ちゃんと食べきってください」
一口ぶん残っていたケーキをフォークにのせ、五条にむけて、自らもあ~んと口を開き向けると。彼はおろおろと汗を飛ばしながらも、大きく口を開けてケーキをぱくりと食した。となれば、あとは簡単だ。もぐもぐ頬を膨らませて動かす彼に、空の皿を手渡して。待ち人来たりと、やってくる足音に耳を澄ませる。
「なんだ。七海の分は、五条が食べちまったのか?」
「そうなんです。全部、たべられてしまいました。せっかく家入さんから頂いた、美味しいケーキでしたのに」
やってきたのは家入だ。五条が来たことを見越し、かのビターチョコケーキを持って来てくれている。
「それは可哀そうに。ほら、じゃあ、五条の分、七海が食べればおあいこだろ」
「お気遣いありがとうございます」
唖然とする五条を置き去りに、まんまと新しいケーキを貰った七海は、甘いものが得意でなくとも病みつきになるコクと香り華やかなケーキをおおきく一口。がぶり。と食した。
「えぇ~!!!!ちょっと! なにそれ!!! 七海ィ~、コラ~~!!!!」
途端、高専内全域に響くほどの大声が上がる。
「七海、うそついてるよ。硝子、被害者、僕!! 僕が食べたのは、一口だけ!」
「七海?」
「また五条さんの我儘が始まりましたね」
ツンとした態度に、五条はぷるぷると震え。硝子はどちらの話を信じているのやら、むしろ、こうなる方が面白いと踏んでだろう。日頃の行いの差だな、と七海を擁護してくれた。それでもまだ憤慨する、チョコで汚れたままの唇に、七海は指先をあてて、シィー…と黙らせる。
「たまには遠慮くらい、したらどうです?」
「おま、は……図ったな!」
「何のことでしょう。さて、家入さん、改めて、ご馳走になります」
「おう」
ケーキの皿を片手に、だっ、と一目散に七海は廊下を駆けだした。一拍遅れて、五条もそのあとに続こうとちかくのローテーブルへ空の皿を置き。
「五条、オマエもはやく素直になれよ。オマエらはほんと、学生の頃から変わらんな」
「だって、こうやって僕に接してくれるの。もう、硝子と七海だけだから」
「私にとアイツにじゃ、随分と態度に差があるみたいだが? いくらなんでもキスはしないだろ」
それはほら、その。
ごにょごにょと言いつくろう、青春をこじらせた大きな背中を、硝子はありったけの力でぶっ叩いた。
「煩い、早く行け。いい加減にしろ」
かましてこい。と顎をしゃくった硝子に対し、ことさら嬉しそうに笑った五条がようやっと、七海の後を追って走り出した。