五七ワンライ「彼シャツ」言うなれば泥そのものだった。疲れきった身体の、最も重い部分である頭を、思わずと窓ガラスにつけて支えを求めるほどには。
流れゆく街並みを瞼越しに透ける、明かりの横移動で感じつつ。処理を鈍くする思考回路で考えるのは、帰宅後の行動。
叶う事なら、このまま眠ってしまいたい。その本能的欲求を諌めるのは、少なからず七海のなかに存在する潔癖の性分。疲れの染みた身体をマットレスに埋めるのは大歓迎。されども外で被ってきた汚れを落とさず清潔なベッドへ寝転ぶことを、僅かぎりぎり、一縷と残った理性が首を横に振って嫌がっている。
それどころではないのに。まったく面倒なことだけれど、やはりシャワーを浴びないとベッドに寝転がる気になれない。それに、商売道具にほど近いスーツをハンガーにかけ、ブラッシングする工程も七海には待っている。一度シャワーに入ったら、髪を乾かすのだって丁寧に行いたいし。
まったく辟易しながら、自宅前に着いた送りの車から出て。なんとか左右の脚を引きずるようにして上階へ向かう。エレベーター内では一目が無いのを良いことに壁に凭れ。――チン、と鳴る到着のベルで、ハッと意識を覚醒させられる。
これは、理性がどうのとか。スーツが、髪が、汚れが、と言っている場合で無いかもしれない。
玄関扉を開けて靴を脱ぐなり、まずは靴下をその場で脱いでしまった。これはもはや本能的な仕草で。次にはジャケットを脱いで腕にかけ、それをずるずると落とす格好でベルトに手をかける。バックルを弛めてもスラックスが落ちない事に些かの苛立ちと、なぜ、と問いが産まれ。自身の背中には未だ物騒なモノが背負われていた事、それとスラックスとが繋がれていたことに気が付く。
何もかもに嫌気がさしたのはこの時だ。
すべてのしがらみをその場で、どさどさと振り解く。理性だって、そのなかには含まれていた。
寝室の扉に手をかける頃には、すっかりシャツと下着のぞんざいな姿。
――どうせ、ここは自分の家。どう過ごそうが、とやかく言うのは自分だけ。
許せ、と明日の己に詫びを入れ、三日前に整えて出て行ったっきりのベッドに倒れ込む。巨躯が降りかかることで埃が舞っただろうが気にしない。
泥と化していた身体はすぐにもシーツの波間にゆるくほどけ、意識は手放された。
七海の帰宅から、三十分もしない内に、主を迎え入れ終えたはずの玄関は、またもがちゃりと開いて。
「なぁなぁみぃ……いる~?」
やってきたのは、彼の長年の付き合いである先輩で。数年前からは、恋人という関係性が付随された相手、五条悟そのひと。
長年の付き合いによるものか、彼らは最近になって似ているところが出始め。本日でいえば、泥のように疲れきっているところが本当にそっくりだった。
靴を脱ぎ揃え、上り框に重怠い脚をかけ。そこに紺色の、あきらかに脱ぎ散らかされた靴下がワンセット、歩きざまに脱いだことを知らせる格好で左右を置いてけぼりであるのを見とめて五条は溜息を吐く。
「相ッ当、疲れてんね、こりゃ」
頭のなかの七海は、アナタだってよっぽど、と言った。それに頷き歩を進めると、今度はグレーのジャケットが、鳥の巣と見紛う様子で丸まって落ちてあり。すこし視線を上げた向こうには、男の獲物である鉈型の呪具と、それを背負う為のホルスターがとぐろを巻き。極めつけに、スラックスがずろりと伸びきって行き倒れている。
ありゃりゃ、と悲鳴に似た、憐憫の文句が漏れたのは言うまでもない。
とりあえずと彼が大事にしているジャケットとスラックスの亡骸だけでも丁寧に拾いあげ、寝室のドアをあける。真っ暗な室内には、深い寝息が響いていた。それを邪魔せぬよう――今ならたとえ隣で宴会が繰り広げられたとて熟睡を決め込む疲労困憊ぶりだとて――そうっとクローゼットを開き。スラックスとジャケットだけは、皺とほこりを手の平で軽く取り除いて、かけ置いてやる。
七海がやるのであれば、この後に消臭やらブラッシングやらと、それはもう丁寧に対応しているのを見たことがあるも。なにせ五条とて、そのおおきな身の半分は既に寝入っているレベルの疲労具合。ハンガーにかけてやっただけでもマシだろうと、勝手知ったる不遜さで七海のベッドに座り込む。
主である七海はうつ伏せに寝転び。シーツに埋もれた高い鼻先が見ているだけで苦しそうだった。掛布団を羽織るのさえ忘れて。いや、それすら億劫と倒れたのだろうことがうかがえる。
「オマエも、お疲れ様」
こめかみにキスをやると案の定、それでいて珍しく、ベッドの中に居るのに彼からは外の香りがする。それは草木の擦れた自然由来の香りであって心を落ち着かせられるが、潔癖気味の彼が、ベッドに寝入っていてその匂いをさせているのはまったく驚きであった。
うう、と呻きを上げて七海が寝姿を変えたのはその時だ。
もぞもぞと寝返りを打って俯せから仰向けに。ボタンをとくことを諦めたのだ。三個ほどボタンの開いたシャツに覆われる胸、その奥の肺が、ことさら大きく収縮し。眠りの深さを知らしめる。
「あ~あ……シャツもシワだらけじゃん」
気に入りなのだろう深い青をしたシャツには、ものの見事に皺が着いていて。思わず眉を顰めた。眺めた七海の眉間にも皺があって、シャツ一枚で寝苦しくなっているらしいことがわかる。
仕方がないと、五条は七海の残りのシャツボタンを外し、どうにかこうにか脱がせてやった。さすがに冷房も暖房もない秋口の部屋で裸同然では寒いか。しかし掛布団はすっかり足の下。どこまでも世話の焼ける男へは、己が着ていたものを脱いでかけ。シャツよりはいくらか柔らかい素材であるから、掛布団がわりにはこちらの方が合うはずと。もはやどういう理屈かもあいまいな五条も、疲れきっているわけだ。
このときはそれが最適解と、自身もスラックスまで脱ぎ裸同然になって、隣に突っ伏し。そして、気絶する勢いで寝入ったのだった。
――ピンポーン
「……んん、ぁぃ……、よ」
――ピンポーン
「わ……ぁかった、って」
――ピン、ポーン
「っはいはいはい!」
三度目のインターフォンで五条はがばりと起き上がった。その頭はいまだ呆然としており、それは見目からしても未だ眠りのなかに片足を突っ込んでいるのがわかる、白髪は爆発状態だ。頭を掻き毟り整えながら、とにかくインターフォンの元まで駆け足で行く。
勝手知ったる我が家同然とまで入り浸った七海の部屋。インターフォンでの応答も手慣れたものだ。
「ごめん、待たせて」
『お届けもの、冷蔵品です』
「はいはい。上までどうぞ、よろしく」
エントランスを開錠し、それから五条は急ぎ寝室に戻った。配達員が男であったのは不幸中の幸いだが、流石に下着姿で対応するわけにもゆくまい。とにかく下か上かどちらかだけでも着ねば、あきらかに不審者だ。
「七海ぃ、これ、離して~」
しかし五条の運もここで尽きる。
昨晩七海の身体にかけてやった上着も、脱ぎ散らかしたスラックスも。どちらもが七海の身体に絡まっているのだ。
――こいつの寝相どうなってんだよ。そもそも起きねぇし!
まったくと文句を吐きながら辺りを見渡し、やっとのことで唯一ベッドの下に放り投げたことで七海の絡みつきから難を逃れた、彼の青シャツを取り上げる。無いよりは良い。そう己に言いきかせて袖を通した。
かくして五条は冷蔵の届け物を人間の尊厳をやや失うだけの犠牲で受け取り、慣れた手つきで『七海』と伝票に署名して配達員を追い払った。
「あ、え、これ、有名どこのお菓子詰め合わせじゃん。なにこれぇ~。こんなん七海食べるのかな」
冷蔵庫にしまいがてら拝見した箱には、抽象化されたケーキのロゴが描かれている。じろじろと更に観察を続けて、伝票に菓子詰め合わせと書いてあるのが見えて心臓は高鳴った。
誰のため。己で食すため。はたまたこのあと来客や、彼がどこかへ手土産持参で訪れるのかは知らないが。たとえ自分の物で無かろうと、目の前に美味しい甘味がある事実がそこはかとなく嬉しい。
「ななみ、おっきろ~!」
時刻は正午を過ぎている。菓子の気配にるんるんと気分を高鳴らさせつつ、寝室に戻った。
昨日は日付が変わってすぐの頃にやって来て、寝ている七海を発見している。そろそろ起きてくれても良いだろうと飛び上がり、寝入る身体へ向けてダイブする腹積もりであったのが。ごろん、と七海が、あと少しのところで体勢を変えるものだから、五条はマットレスに顔面から激突する羽目となった。
痛い、と鼻先をさすって恨みがましく視線を向けると、くつくつと震える背中が見える。
「起きてんなら言えよな。てか、抱きしめるまではいわないけど、せめて受け止めてくれたらよくない?」
「アナタほど大きいのを抱き留めたら、私は潰れます。重傷です。あばらが折れるかも」
「はぁ~? こぉんな胸でっかいくせに、あばら折れるとか嘘だね」
いかにもオーダーメイドだろうシャツは、五条が着てみて胸部の布はあり余っていた。五条とて鍛え抜かれた肉体を持っているが、戦闘スタイルの違いによって体格にも差異が産まれる。シャツの肩幅がほとんど合っている分、胸部の緩さが目立つ差異を、第二ボタンから下をかろうじて留めただけの襟ぐりを指先で拡げて見せることで強調してやる。
七海はそれに、釘付けとなってからむっと怒った顔をしてみせる。そんな表情も愛らしいことこの上なかった。
「ちょっと、なんでアナタが私のシャツを着ているんです」
「そりゃ、七海がインターフォンで起きないからだし、僕の服を後生大事に抱っこしてくれてるからだろ」
不機嫌な色をした顔を、まずは腕で跨ぎ、脚でも跨ぎ、完全に覆い被さる姿勢で腕のなかに閉じ込めてしまう。昼日中の陽射しから、五条の身体で遮られた顔立ちは、不思議そうに傾き、自身の腕の中を見遣る。
「そぉんなに僕の匂いが好きだったのかな、七海くん」
けらりと軽い笑いを上げて指し示すのは、起きていてもぎゅっと二本の腕のみならず逞しい身体全体に絡みついている五条の服。それの意味が分かってやっと、七海は頬をほんのりと赤らめた。
「なんです、これ」
「僕の服でしょ。掛布団代わりにかけてはやったけど、まさかぎゅっとしてくれるなんて五条さん照れちゃうナ♡」
嫌なのか、照れているのか。多分後者だろうと半ば願いに似た心地でがばりと抱き着いてみる。心臓の音をそこで確認。とくとくとうすら速い鼓動に、満足の息が漏れる。
「僕の服に包まれて寝るのは気持ち良かったんだろうね」
さらにからかいを続けると、ごすん、とかるい手刀が五条の額を襲う。
「あんまりふざけていると、アナタのためのクッキー、全部食べきってしまいますよ」
「……クッキーって」
「アナタが受け取ってくれたでしょう」
「あれ、僕のなの?」
「来ることは分かっていたので。アナタも疲れているでしょうから、」
当然のことだと言いきる口調へ、溢れた喜びを行動に示して伝えることとした。おおきな身体を抱きしめる力を強くするのだ。
「七海、大好き」
「はいはい私もですよ。ですからはやくそのシャツを脱いで。シワになります」
それからシャワーを浴びて、疲労によって強張った身体を安らげたら。あたたかいお茶と甘いクッキーでゆるやかな午後を過ごそうと。
おとぎ話を語るような男の夢見る未来が愛おしい。まぁ、すこしばかり足りない刺激は、夜に発散するとして。いまは軽く、甘さはこれから取り入れる口を、シャープな頬に押し付けるだけで、恋人らしい接触は控えた。あまりここで盛り上がりすぎると、楽しい午後のひと時が濡れた夜に地続きとなる恐れがあって。それは七海の機嫌を少なからず降下させてしまう。それはいけない。せっかく頑張って仕事をこなしてくれたのだ。労わってやりたい。
「ま、はやく起きてよ。お茶して、ごろごろ寝転んで、夕飯は食べに行くのも良いし、僕が作ったって良いし」
「そうですね、では、はい。はやく退けて。それから、脱いで」
「ん? やだ、なにするの。七海くんってば大胆♡」
「そういうの良いですから。あ、こら、逃げないで!」
ぴょんとベッドから飛び降りた五条は、シャツの青を翻し、一足先にシャワーを浴びようと浴室へ一目散。追ってきた七海の手首をとって引き込み、招き、二人で風呂場へ身を押しこめ。
楽しい午後が遅まきながら始まっていくことを、泡だらけになって歓迎することとした。