聖歌で寝かしつけてくれる七海手足の付け根からじわじわと、身体の末端へかけて筋肉の弛緩していくのがわかる。湯船に浸かるだけで凝り固まった身体の至るところから、それこそ溶けてしまいそうな感覚に見舞われて、五条は思わず、声をだしては肩までを湯で包んだ。
「あー……くそっ」
いつまでも話の通じない上の連中を相手に、とことん言葉を尽くしてみても、なおも奴らは惚け。それがわざとであればいくらか良かった。実際には、本当に五条の言うことが想像の範疇外のようで、話はいつまでも堂々巡り。血管が二、三本は切れた頃になって言われたのは「そう怒るな。しかし、若いと血の気が多いから苛つくのも仕方がないか」などとの無自覚の煽り言葉。このまま空間ごと消し飛ばしてしまおうとは何度も頭のなかに浮かぶも、それこそ奴らの狙いどおりと理性で捩じ伏せた右手。それが湯のなかでじんじんと熱を持ち、やたらと強く握りしめていた拳が傷ついていたことを訴えていた。
ふつふつなどと生易しい音はとっくに過ぎた、ぐらぐらと芯から沸騰する昂りを身におさめ。腹の底からやって来る唸りに、ギラギラと白眼の発光する勢いで帰るのに選んだ先は、高専内にある自室よりも遥か遠く、都内にある高層階の自宅と違って閉め出される恐れすらあった部屋。
いまにも淹れたての紅茶が香ってきそうなリビングに続く、暖色のライトがカーテンを越して漏れるベランダであった。
厚手のカーテン向こうに居る人を想い、ノックをするのに窓ガラスへ手を持ち上げ。そのカーテンがそうっと開き、訝しげな顔をした七海が顔を覗かせたのは同時のこと。
相手も自分も、まるで予期していなかった会合に驚き、肩を震わせたことはお笑いだ。
疲れきって、気を昂らせていることを承知した七海は「つい先ほど、私も入ったばかりですから」と挨拶もそこそこに鍵を開け、暖かい部屋、熱い風呂へ誘ってくれたのだ。
「ったく、アイツら……いつまでも良い気になりやがって」
思い出して腹が煮えたぎる。
平生なら身綺麗にしたところでおさまる腹の虫がいつまでも暴れ狂っているのは、ひとえに自慢の可愛い生徒や後輩らを、捨て駒扱いする台詞が鼓膜にべったりこびりついているせいだ。
頭を振ろうと、湯につむじまで潜ろうと。伸びをしたって身体を揉みほぐしたってなんだって、苛つきは塵ほども緩和されず。
七海の嫌がることをして、寒空のもと部屋を追い出されては敵わないと、わかっていても髪をぐしょ濡れの状態で七海の待つベッドに赴く。それでもまだ五条の身には、湯による濡れよりも獰猛さが際どく身にまとわれてある。
「またびしょ濡れで来る……。アナタ、風邪をひいても知りませんよ?」
「いい」
仏頂面で言いきり扉を閉めてやった。追い出すなら追い出してみろと言わんばかりに。
「今夜はまた、えらくご機嫌ナナメですね。一体、どうしたんです?」
「疲れた」
「ただ疲れただけなら、アナタ、こんなことにはならないでしょう」
かろうじて下着とスウェットだけは身に付けた身を、おいで、とふかふかの掛け布団の上に呼ばれる。七海はベッドの上に座り、下半身を布団の中へ入れて暖を取っているため、五条は己に都合の良いよう彼の膝で盛り上がった部分に頭をのせて寝転んでやった。
「ベッドには、びしょ濡れで来ないでほしいと何度も言ったのに」
ムッと眉間にシワを寄せた男だが、手付きは優しくタオルを掬い、濡れた頭をわしわしと揉んで乾かしにかかる。
お小言はたったそれだけ。
単純な仕草であって、五条は、七海がどうしようもない自分を受け入れてくれることに涙が出そうになった。
生徒一人、後輩一人さえ、守ってやるのに精一杯な無様な己をこいつだけは受け止めてくれる。そんな想いに駆られて。疲労と怒りに逆立っていた毛並みを撫で付ける手にすがり付きたくなってしまう。
「眠れますか? なにか飲み物でも用意しましょうか」
前髪を、壊れ物を扱う慎重さで一本一本摘まんで避けてくれる七海の手を取った。
働き者の手。
分厚くて暖かく、少しカサついている指先に、親指の付け根なんかは皮膚の固くなっている手。
今日もこの手は、幾人もの弱者を救ってきた。
五条の相手した連中は彼を、出戻りの、術師の成り損ないと嘲笑するのに。
五条はこうした、並々ならぬ力を弱者を護るため奮闘する働き者たちをこそ護るのに、今日も四苦八苦しているのに。
七海は今日も、人知れず多くの人間を救っている。
「飲み物はいらない。そばに居て」
「アナタ本当に変です。いらないんですか? この間は三回もおかわりした、蜂蜜と生姜とメープルシロップ入りのホットミルク」
「嬉しいけど、いまは七海が隣に居てくれる方が、もっと嬉しいから」
せっかくの誘いだというのに、未だに心を尖らせている己を恥じ、掴んでいた七海の手で目元を覆う。
「仕方のない人ですね」
深いため息が裸の胸に吹きかけられた。それに些かの肌寒さを感じたのも束の間、七海は残っていた長い腕の片方を動かし、彼自身の肩口にかけられていた毛足の長いブランケットを今度、五条の身体のうえで広げてくれる。
ほのかに残されていた温もりは、真実、七海の生きている証。湯船の熱さですらほどけなかった緊張が、ふと緩みをみせる。
「電気、消しますよ」
「う、うん」
枕元のリモコン操作で辺りは薄暗くなる。月の明かり、スタンドライトのほのく明るい橙が、ぼんやりと視界の端にあるだけとなって。
「今夜だけの特別ですからね」
耳元で声がしたのは、七海が胸まで布団の中へ潜り、五条のとなりに寝転んだことによる。
膝枕が終わってしまったのは悲しい。
七海の顔が近寄ってくれたのは嬉しい。
暗がりだろうが五条の目が『視える』ことを、七海はわかっているが、これは、五条を本格的に寝かしつけるための暗がりだと察した。
「さ、目を閉じて」
促されるまま目を閉じる。うすく明るい色が瞼を越して見え、あとは暗闇。その暗闇を掻き分けた七海の手が胸元にのるのを体温で感じ。
とん……とん……とん……とん……
戦う男の手が器用にも、幼子の寝かしつけよろしくリズミカルな叩きをみせてくれた。五条の鼻から漏れる呼吸にあわせる手技が、抜群に眠気を誘う。吸うのと同時に手が持ち上がり、吐くタイミングで叩かれ、これは控えめに言って、最高の待遇だ。
「ななみ」
呼び掛けた唇を人差し指の先で封じられる。
――静かに。
自分が呼び掛けることで、胸を叩く手がなくなってしまうのならと五条は口を閉じた。それをみて納得したのか、胸への叩きが再開され。
七海こそが、静かに唇を開く。
「何年ぶりでしょうか。お恥ずかしいのですが」
かがやく、夜空の、星の光よ
歌だった。それはさえずりを思わす微かな音色。
うすい口唇の動きは極小で、付随して歌唱の声自体も小さく。五条は静謐な夜のなかで、なお耳を澄ませばならなかった。
まばたく数多の 遠い世界よ
そこにちいさな世界が現れたような。彼がもし領域を会得したなら、荘厳な教会めいた、石造りの牢を作り出すのではと夢想する。それだけ七海の声は、大いなる何者かへの祈りに満ちていた。
ふけゆく秋の夜 すみわたる空
のぞめば不思議な 星の世界よ
思い出したのは高専時代。己の髪色や目の色を差し置いて、金の髪と碧眼とをさんざからかったっけ。小さい頃なら、さぞや周囲に可愛さを褒め称えられたのだろうと詰れば、彼は「えぇそうですよ。アナタと比べてとても良い子供でした」と勝ち気に言い返し。「今だって可愛いもんな、ひょろくて弱っちいんだから」とは売り言葉に買い言葉。「そんな鉈振ってるより、讃美歌でも歌ってやった方が効くんじゃねぇの」なんて、クリスチャンらしい見目に口を開けば。彼はムッと口をひん曲げ怒っていた。
きっと、本当に、彼は熱心に讃美歌を唱えていたことがあったのだ。図星をさされた時の顔だったのだ。
きらめく光は 玉か黄金か
宇宙の広さを しみじみ思う
やさしい光に まばたく星座
のぞめば不思議な 星の世界よ
この最強の男が、ぬるま湯のような暖かさで擁護する、やさしさの繭に包まれている。
言い表すとしたらこうだろう。
風呂ではどう足掻いたとて落とせず、むしろめらめらと燃え滾った怒りが、みるみるうちに、ゆるると意識をともない沈下していく。
神聖なる言葉たちは気持ちが良い。まず眠れと、安らかな世界へ手を引いてくれる。
「あぁ、ダメですね。歌詞があやふやだ。どうぞ、忘れてください」
額に、ちゅう、と優しいふれあいを承る。
「おやすみなさい」
照れた彼はさっさとスタンドライトも手元で消して、ふたり並んでベッドのなかで夢に向かう。
「ありがとう」
言葉にできていたら良い。明日の朝にも、どうせ同じ言葉を言うだろう。
ふかいふかい、眠りの海のなか。顔を上げると宇宙の光が降り注ぐ。となりには満点の星空で一等輝く金の星。
「アナタは銀の星」
またキスをうけて五条は、自分がいったい全体、なにに怒りを覚えていたのかすっかり忘れてしまえた。