百剣 一 久方ぶりに、上天庭では中秋の宴が催されることになった。玉のように白く、大きな月が仙京の空に煌々と輝いている。
最後の宴から、集う顔触れも変わり、あまりにもさまざまなことが変わった。しかしその苦い思いも広い天界では誰もが一様に感じているわけではないらしい。華やかな酒宴には嬉々とした声がそこかしこで上がっている。そしてあの悪趣味な余興も再び行われている。雷鳴が轟くなか酒杯を回し、音が止まったときにそれを手にしていた神官の、民間の伝承話が舞台上で上映される、あの。
ついに酒杯は、風信のもとにやってきた。風信は隣をちらりと見て、一瞬躊躇する。風信の隣に座っているのは、珍しく仙京に顔を出した謝憐だ。風信が躊躇していたわずかな時間のうちに、謝憐はにこりと笑って自ら酒杯を受け取った。
しかし謝憐の運の悪さはまだ健在らしい。
彼の手の中に酒杯があるうちに、雷鳴は止んだ。その向こうに座っていた慕情は、にやりと唇が歪むのを止められないでいる。
「殿下……」
「はは、また引き当てた」
謝憐はあっけらかんと笑って酒杯を呷った。確かに最後の中秋の宴でも、彼は酒杯を手にしていた。神官たちはただ盛り上がって野次だか歓声だかわからない声を上げ、やがて幕が上がろうとする舞台に視線が集まる。
舞台の上は、あまりに不吉な空気が漂っていた。
神台の上に立つ、裾の汚れた白い衣の青年。顔を覆っていたのだろう白綾が首許に垂れている。そしてその足許に、薄汚れた人々が詰め寄っていた。
『太子殿下に聞いてみるといいでしょう。殿下は方法を知っている』
その声は耳触りのよい声なのに、ひどく不快だった。そして先程まで姿は見えなかったとはずだというのに、神台の上の彼――謝憐の後ろに同じような白い衣に悲喜面のその人がぴたりと寄り添っていた。
『そうだ、彼が知っていると言っているのを聞いたことがあるぞ!』
詰め寄る誰かがそう叫んだ。ざわざわと喧騒が波及する。
「……もしかして人面疫の話か?」
神官の誰かがそう言った。
舞台の上の謝憐は、『どうしようもない……無駄です!』と叫ぶ。舞台の上のざわめきは、風信の心の中と同じだった。そうだ、謝憐は確かにあの時人面疫に関わるなにかを掴んだようだった。それからなんだかんだでうやむやになり、風信もすっかり忘れていた。嫌な予感しかしないのに、舞台を止めるために声を上げることも功徳をばら撒くこともできなかった。慕情も同じだろう。風信は謝憐のほうを向くことができず、慕情の様子を窺い見ることもできないが。
謝憐に寄り添う悲喜面のもの――白無相は穏やかに語る。
『どんな人たちが人面疫にかからないか知っていますか?……それは兵士たちです。なぜ兵士たちなのか? それは、兵士たちはあるひとつのことをしているからです……普通の人にはできないようなことを。だからこそ人は人面疫に悩まされた。……それは、なんですか?』
謝憐が殴りかかろうとするのを、白無相はひらりと躱す。
『殺人だ!』
謝憐はそう叫んだ。
ざわざわと入り乱れる人の声は、舞台の上からなのか観客からなのかわからない。
『あなたたちは、誰を殺せばいいのかわからないのでは?』
暖かい声がそう言った。
次の瞬間には、細い刀身の剣が深々と舞台の上の謝憐に突き刺さっていた。
『彼は神だ。そう、不死身だ』
そう続けるなり、白無相は剣を引き抜き群衆に放り投げたのだ。
『これで助かるのか?』
『でも……そんな……』
そこにはまだ狼狽があった。しかし一人が前に出て、謝憐を指差して声を上げた。
『この人は強盗をしたことがある!』
その一声で、群衆の空気は一変した。
『そんな……あんなに信仰を捧げてきたのに! 強盗だって? あなたは俺たちになにをもたらした⁉︎ 疫病か⁉︎』
『あなたは……あなたは、私たちに償うべきです、償いたいですよね?』
その声はわずかに嬉々とした響きを帯びていた。全うな理由を得た、とばかりに。
「もう」
そう声を上げたのは慕情だった。その言葉の続きは、舞台を手前で見ていた神官たちの声に掻き消される。
「もういいんじゃないか? やめだやめだ! 次にいこう!」
その言葉は不思議な舞台の上には届かない。
『たす……』
舞台の上の謝憐の声も、届かない。剣を手にした群衆が、次から次へ、彼に剣を突き立て、引き抜き、また刺した。次から次へ、次から次へと。
風信は目を逸らす直前に、白無相の手の中で暴れ狂う鬼火を見つけた。いつからそこにあったのか、いまは舞台の上の彼の代わりに悲痛な叫び声を上げるように、暴れている。風信は逸らしそびれてまた舞台に目を奪われた。
やがて鬼火が弾けるように飛び出す。その時にはもう、神台の上の謝憐はどす黒い血に塗れてくたりと横たわる、なにか、になり変わっていた。
「……三郎?」
突然に謝憐がそう呟く。
それとほぼ同時に、舞台の上では一瞬にして神台の下が火の海に覆われた。業火とともに高さの違う阿鼻叫喚が響き、そこでやっと幕が下りた。
辺りがしんと静まり返る。
いくつもの瞳が謝憐に向けられた。興味。驚き。それだけではない。
「はは、よくできた作り話だ」
謝憐がからりとそう笑うと、ああそうかと皆安堵して顔を逸らす。疑おうともしないのは、深入りしたいとは誰も思わないからだ。
誰もがいま見た凄惨な舞台を作り話で終わらせようとした。謝憐の両隣の、風信と慕情以外は。
風信は謝憐の笑顔を目に映しているはずなのに、まるで偶像でも見ているかのように信じられなかった。
いつのことだ、と古い記憶を掘り起こす。過ぎたことは忘れるようにしていても、蓋を開ければ鮮明に思い出せるような記憶。都合よく考えるならば、風信が謝憐の元を離れた後だと思いたい。
しかし、風信は思い出してしまった。まだ共に過ごしていた時、謝憐が突然姿を消した期間があった。戻ってきた時、謝憐は見慣れぬ剣を手にしていなかったか――ちょうどあんな、刀身の細くて長い。
そして、自分がなにをしたのかはっきり覚えている。離れてしばらくは、その手の感覚を思い出していた。彼を、殴ったはずだ。どこでなにをしていたんだと言って。
言葉にならない。言葉にできない。
「殿下……」
辛うじて風信がすぐに言えたのはそれだけだった。
「はは、気にしないで、何百年も前の作り話がどうであろうと、いまこうして私は元気なんだから」
謝憐はやはり笑っている。
「あなた……本気で言っているんですか?」
冷ややかに低く問うのは慕情だ。
「もちろん」
謝憐は慕情をふり向き、慕情はきびしい表情のままため息を吐いた。
風信は弾かれるように立ち上がった。握った拳が震える。
「これは……いつのことですか? あなたは……このあとどうしましたか? 俺はあなたになにをした?」
「……風信、だから」
再びふり向いた謝憐は眉を下げて優しく笑っている。それが余計に風信を煽り立てた。
「なんで言ってくれなかった! あなたはいつも……いまでさえ! まだ隠そうとするのか⁉︎」
風信のよく通る声は再び鳴り始めた雷の中でも響き渡り、いくつかの視線を集める。
謝憐の弁明も待たずに、風信は背を向けて歩き出した。
「……謝憐?」
慕情はその外套の揺れる後ろ姿と謝憐とを交互に見て問う。
「……慕情、風信を追ってくれ」
慕情はあからさまに納得のいかない様子で唇を尖らせた。
「自分で追えばいいのでは」
「私の顔を見るのは逆効果だろう……それに、私は行くところができた」
謝憐は言い出したら聞く耳を持つはずもない。はあ、と慕情はため息を吐いた。
「……私も。あなたがうやむやにはぐらかすのを認めたわけではありませんから」
そう言って慕情は立ち上がり、風信の歩いていった方向を追った。
慕情は飛昇門の前で風信に追いついた。
「……風信」
慕情の呼びかけに、風信は足を止めるがふり返りはしない。
「また逃げるのか。逃げてなんになる?」
その嘲りに、風信の握った拳がぴくりと動いた。
「頭を冷やしたいだけだ。……お前にはわからない」
「……よく言うよ。お前だってあの時も結局逃げたくせに。まだ自分のほうがましだと思ってるのか?」
風信はカッと頭に血が昇り理性が霞む感覚とともにふり向いた。その瞳は慕情を睨みつけているが、以前までならすぐに殴りかかっていただろう。いま、そうしないのは、慕情はその言葉で自分自身も非難しているのだともう理解しているからだ。
「そういう意味じゃない……クソッ、とにかくしばらくお前の顔は見たくない」
慕情はそう言って再び顔を逸らす風信をじっと見た。風信の反応を見るに、風信は慕情の知らないなにかを知っている。煮え切らない風信の態度も気に入らないが、慕情が離れた後になにかがあったというのも気に入らない。
「勝手にどうぞ。ところで結局のところ、お前は謝憐になにをしたんだ?」
慕情がそう言うと、風信は屹とふり向き再び慕情を睨んだ。それは一瞬のことで、風信は慕情に答えることなく飛び降りた。